自我

苦しみたいのは自我ではなく無我

ここを勘違いしてはいけない

自我、思考は苦しみを生み出すためのメカニズムであってこのメカニズムを採用しているのは無我、ワンネス、大いなる一つです。自我が人間を苦しませたがっているのではありません、自我とはこの心身を自分のものとする思考であり、この思考も全存在、ワンネスから湧いてきているだけです。苦しみを作り出しそれを認識する全存在があるだけ。我々人間(本当はいない)はこのメカニズム上で苦しみを湧き出させる機能です。ですから最初から最後まで悪者はいません、苦しみを味わいたい全存在がそう仕組んだだけのことです。

このメカニズムから抜け出すのを決めるのも全存在、ワンネス、、、人間(本当はいない)に決めることはできない

どのタイミングでこの苦しみのメカニズムが抜け落ちるのか、これを決めれれる人はいません。人は苦しみを作り出すメカニズムの名称ですからそこに解除の決断はできないのです。ワンネスが自我を利用して苦しみ体験をしているだけ、これだけです。

夢を作り夢を見ているのも全存在ですから夢から覚めるのも全存在

夢を作り、夢を見ているのも全存在、当然夢から覚めるのも全存在です。我々人間はその中で苦しみの感情が湧き上がるための道具でしかありません。もちろんこの道具無くして苦しみを経験できないわけですからこの道具は価値があります。価値がないものもありませんが。いつこの夢を見ている全存在が夢から覚めるのかそこは興味が出るところです。人間は苦しむための道具ですからもしも今あなたが苦しんでいるならば役割を全うしている優秀な人間です。

物事に集中できない時は他の作業で集中に入る

集中とは自我を欠落させることでありその練習から入る

集中とは自我を欠落させる、思考を欠落させる行為です。何かしらのタスクにおいてこれに集中できない時は先ずは他の作業に集中することで集中、無心に入ることに馴染んでいきます。集中、無心、無我夢中に入るのはにはコツがありこれは思考を落とすことです、これが多くの人ができません。雑念が湧き続けて集中に入らしてくれない無心に入らせてくれないのです。その場合は集中しやすい行動からスタートします。集中を思い出すことからスタートするのです。

集中を思い出した人は何にでも集中に入れる

集中、無心とは癖付ですからとにかく何にからでも入る癖をつけたもの勝ちです。集中、無心=歓喜、安堵、平和ですからこれ以上に価値のあるものは世の中に存在しないのです。多くの人は何かを手に入れたら、何かを達成したら歓喜に至るろ思っています、これは間違いではなくその通りですがその歓喜は手に入れた瞬間の一瞬のみ、永続とは程遠くはかないものです。そうではなくその達成する道において集中、無心、無我に入り込んでしまえばそのままそこで歓喜に至るのです。

集中、無心、無我になれる=歓喜、平和、安堵になれる

この境地を腹の底から体感できた人にはもう対象は要らなくなります。高級品、家、車、バッグ、名誉、名声、お金、、これらの対象は人間を一瞬歓喜に導いてくれるものです。ですがそれは一瞬のこと、直ぐに次の獲物を探さなくてはなりません。ですがもしもそれを手に入れる道中でそのまま集中、無心、無我になったならば達成の必要が要らなくなるのです。

トラブルから悟りに入る

トラブルすらも無心に戻るキッカケにする

日常生活では多くの方はトラブルに巻き込まれます。そしてトラブルに巻き込まれる度に思考フルロットルモードに切り替わり悲鳴します。思考フルスロットルモードは自我モード、夢の中にどっぷり浸かり時間、空間次元に埋没します。ですがこれからはトラブルを利用して無心モードに切り替えていきます。トラブルがあることでルーティーンの行動に戻し無心に入っていくのです。トラブルすらもルーティン、無心、無我モードへの入り口にします。

トラブルがあった時には一度無心モードに入り安堵に戻す

トラブルがあるとそこから人は思考がグルグルになり、思考を止めることができなくなります。ですがここでもその負のスパイラルに入ることなく強制的に先ずはルーティンに戻ります。ルーティンは無心でできること、無我でできること、歓喜、安堵、平和への瞬間シフトです。そしてそこから思考を使いトラブルを解決していきます。

常に無我にあればトラブルを明晰な思考で処理できる

常にルーティン、無心、無我にあることができている人であれば思考を明晰にトラブル解決に向けることで一瞬でトラブルを解決できます。むしろトラブルが楽しいと思える程です。トラブルが楽しいと思えるほどにエネルギーで体が充実しているということです。そこまできていればトラブル即思考で解決ができます。そしてそのトラブル解決が時間を要する場合に関してはその行動をルーティンに入れ、無心に入り、無我に入り、そこから悟り、ワンネスに入っていきます。

思考モードの人の行動は予想がつかない、無心モードの人の行動は予想がつく

思考モード全開の人は常に反応を繰り返している

思考モード全開、自我モード全開の人の習慣は反応に次ぐ反応のみです。何かしらに反応をし続けているのが思考モード、自我モードです。毎日朝起きたら何をするかが全く決まっていません、その時その時に反応し続けているだけなのでやたらと忙しく見えます。そしてやたらと顔が疲れています。感情の起伏が激しくなり、思考の起伏も激しいという共通点があります。

無心モード全開の人は常に同じことをしている

無心モードの人の特徴は同じ所作、作業をくりかえしているという点です。無心モードに入ったらその行動を続けることが一番の歓喜、平和、安堵ですから自ら進んで他の行動に切り替えるなど基本しないのです。そして飽きたら違う行動をとり、そしてまた元に戻っていきます。外から見ていると3パターンぐらいの行動をひたすらに取り続けているように見えます。所作に入り込むことが重要であり1日にいかに多くの雑事をこなすかには興味が湧きません。

思考モード全開は夢に埋没している

無我モード、無心モードは現実にいないような印象がありこのモードは夢の中にいるかのように思えますが実は真逆です。無我無心モードこそがこの夢物語から一瞬抜けた状態なのです。夢物語にいないということはどこにいるのか?それは全存在、空、ワンネス、大いなる一つです。そして思考全開、自我全開の状態こそが夢物語どっぷりになるのです。いかに長い時間を自我による勘違いした状態から脱却できるかがこの夢物語を軽々と生きていけるかになります。

電気自転車が最もわかりやすい

最初だけ電動、途中から自走

昨今電動補助付きの自転車がメジャーになってきました。この電動自転車は自我と無我の切り替えを大変上手く比喩できるのでこれで説明したいと思います。自転車は最初の数分だけ電動補助が起こります。そして勢いがのっら自走に切り替わります。電動は初動や、坂道のみ、あとは自走です。本来人間の思考もこのように使えれる大変便利です。これから何をしようか?では始めよう。ここまでは思考モード、自我モード、、、そして集中できてきたらそのまま無我モードです。お茶を入れよう、ここまでは思考、自我モード、、、お茶を入れ始めたら無我モード、、、書道、茶道、剣道の基本です。

自我モードは疲れる、自走モード、無我モードは疲れない

自我モード全開は大変疲れます、思考がめぐれば巡るほど心身こそは自分自身という自我が発動され大いなる一つと分断された状態です。不足感、欠落感、孤独感が湧き出てくる状態です。そして無我モード、無心モード、無双モードは大いなる一つそのものの状態、この状態は全く疲れないのです。歓喜、平和、安堵の状態になっています。いかに自我の時間を減らし、いかに無我の状態を増やすかこれがコツです。

無我モードで自走していて雑念が湧いてきたら即切り替える

無我モードでの自走運転モードは全く疲れず歓喜、平和、安堵の中にいるわけですがそれでも人間の体を持っている以上どこかで飽きます、雑念が湧いてきます。そうなったら思考モード、自我モードに切り替えて次の所作、動き、作業に切り替えていきます。そして初動負荷を乗り越えたらまた無我モード、集中モード、無心モードに切り替えるのです。ほとんどの時間を無心、無我、無双モードになると歓喜、平和、安堵そのものが1日を占めるようになってきます。何かを渇望したり、何かに執着したり、何かに囚われる日々からここで初めて解放されるのです。

夢であることを最後まで信じたくない登場人物達(自我)

なぜこの話題には登場人物達は食いつかないのか?

この世が夢であって登場人物である我々は実は存在していないし独立した個人もいない、この手のお話をこの夢の中で他の登場人物に話をしてもあまり聞く耳を持とうとしません。ぜひその話を最後まで聞かせて欲しい、とはならないのが面白いところです。あらゆる宗教の教義であってもこの世は夢だと断じるのが少ないのはやはり夢物語上人気のない話題なのかもしれません。というよりも人格を持った人間であると勘違いする登場人物の存在自体を否定する内容が聞き入られるわけがないということです。

誰もこの話題をしないのならば自ら進んでこの闇を暴露するしかない

私(登場人物)もこれまでこれらの話題に触れてきたのですがどうしてもこの話題が腹落ちしませんでした。やっぱり自分の存在を絶対に否定したくないし今までの苦労は一体なんだったのか?そんな悲しい結末は冗談じゃないという気持ちが湧いてきて見たくないわけです。ですが心の奥底(全存在)ではどこかでホッとする感覚、これしかないよねという一種諦めがありました。サレンダーという言葉になるとは思いますがもうこれを受け入れるしかないという残念だけど安心という感覚です。個人がいない、この世は実は夢というこの大どんでん返し以外やはり落ち着く場所はないのです。

成長し、進化し続ける個人が赤ちゃんを見たときの敗北感はここだった

人間とは成長するのが素晴らしいこと、進化し続けるのが素晴らしい、神に向かって自身のバイブレーションを上げることが本望、アーユルベーダ的にエネルギー上昇が決めて、、、あらゆる自己向上に励んできた自分ですが赤ちゃんや子犬、無邪気な子供達を見る時になんともいえない虚無感を抱えていました。本当にこの歩みでいいのか?何かが違うのではないか。。。ですが今でははっきりとわかります、進化しようとするこの個人こそが苦しみの原因、進化しようと退化しようと個人であるという思い込みを持つ限りこの苦しみは解除されない、、これが夢だと諦めることなし安堵、歓喜、安心、平和が訪れないことを悟りました。

なぜ人は故郷に対し不思議な価値を感じるのか

この夢の登場人物は全員が故郷に帰りたい

この夢の登場人物は全員がある場所を求めています。それが故郷です。地方から都会に上京した人間がかつての実家に対し深い感情を抱くようにこの夢の登場人物は全員が故郷(全存在)を求めています。これが初期設定です。この故郷を求める感情が孤独感の正体です。この孤独感を常に他のもので埋めようとする動きがパートナー、親友、両親、子供などへの渇望です。結婚に興味がない、友人に興味がない、、子供に興味がない、、と他人に言えばこの夢物語で変人扱いされるのはこのためです。孤独を感じない人間はいない、それは勿論ですがその本質にはこの故郷(全存在)を求める動きがあります。

その故郷は今目の前にある

この夢の登場人物は全員が故郷(大いなる一つ)を求める旅を続けています。そしてその旅が困難を極めるのは大いなる一つはこの夢物語には落ちていないということです。夢から覚めた時に目の前にあります。そして夢から覚めるのは登場人物ではありません、夢を見ている全存在です。登場人物の中の主人公を通じてみるこの夢物語を意識する全存在が夢から覚めると全存在がそこにはあります。もしくは夢の主人公であるあなたが無心になって何かに取り組む時に思考が抜け落ち自我が解体しその瞬間無我になります、その時実はあなたは故郷にいるのです。なぜならばあなたがいないからです。あなたがこの夢物語にいない時そこには物語は存在できなくなります。あなたと物語はセットだからです。

故郷とは自分自身(全存在)であり故郷を離れているのも全存在が勘違いした存在

故郷とは自分自身のことです、故郷とはこの夢を見ている張本人、その人のことです。故郷(全存在)が勘違いをして個人として夢物語の中に登場しているのがこの夢物語であり帰る先とは自分自身なのです。そこにはやはり自分とは何を勘違いした登場人物が多数登場していてみんなで勘違いを続けています。とはいえあなたが主人公の物語には個人という確固たる存在は実はいるはずがなく(夢だから)個人に見える現象同士が関係を取り合っているだけです。

自我と自我のお喋りが無駄に思えたら

登場人物同士の会話に勿論意味はない

夢物語の中での醍醐味の一つが他の登場人物との交流があります。他愛もないお喋り、これは分離する前の全存在には不可能なことゆえに他人がいるという錯覚はこの夢物語を刺激的にしてくれる大きなファクターです。他愛もないお喋りすら分離経験上エンタメです。ですがこのエンタメもひとしき行えば途中で飽きてきてもおかしくありません。その時はもうこの遊びは卒業、次の遊びへのシフトが始まるはずです。

他人とのコミュニケーションはそれほど重要でもない

友人は多ければ多いほど素晴らしい、友達100人できるかな、、あれは幼稚園児の話であってその遊びがそのまま大人にまでなっても楽しいとは限りません。これは夢物語ですから友人をたくさん作ろうという思いが湧けばそれもそれ、友人をたくさん作りたいという思いが湧かなければそれもそれです。夢物語の中でどうやって自身から湧いてくる欲望を叶えていくかは登場人物によって全く変わってしまうのです。

コミュニケーションは自分がいることを腹落ちさせてくれる

この夢物語においてコミュニケーションは登場人物の存在を確固なモノにしてくれます。夢ですから本当は確立した登場人物は存在しません、だからこそ他人とのコミュニケーションはその不確実性を払拭してくれるように思えるのです。深いコミュニケーションと同時に湧き上がる安堵の感情は自我を安堵させるとともに、実は相手に向き合うということに無心になれたときに訪れる無我からくる安堵です。コミュニケーションも無心になって相手と向かい合えばそれはコミュニケーション道に入ることができます。そこでは虚しいおしゃべりではなく人間関係道があります。そこからでも無心、無我、真我に入れます。

何かしらの障害が立ちはだかった時そこから無心に入る

例えば筋トレを始めると

エクササイズを通じて、筋トレを通じて無心に入ろうとチャレンジしていきますと肘が痛くなった、首が痛くなった、肩が痛くなったなどの障害、ハードルが出現します。無心初心者アルアルです。多くの場合はじゃあ一旦休もう、痛みがなくなったらまた再開しようとなって無心エクササイズ終了になります。ですがこれは自我の策略です。無心になるエクササイズが簡単にできてしまったらあらゆる自我は簡単に見破られ消滅してしまいます。自我は辞めてもいいようなしかるべき障害を作り出ししっかりと辞めます。もしも肩が痛くなったなら肩の痛みが消えるストレッチにシフトします。そこに無心になって入り込んでいきます。走っていて足がつったならば足のストレッチに切り替えそこから無心に入っていきます。こうしてどんな障害、ハードルも無心への入り口、無我への入り口、真我への入り口に利用します。

デフォルトが無心になると思考は明晰になっていく

思考がなぜここまで人類を発展させたか、それは思考はサバイバルに大変有効だからです。この思考をただ手放すことが正しいことではありません。思考はナイフと一緒で使い方によっては非常に役に立ちます。多くの方はナイフ中毒になってしまって自身を切り刻んでいるのです、何かタスクをこなす度に思考をフル回転、ナイフを振りかざし自身をメタメタに切り裂いているわけです。もしも無心でいられることがデフォルトになっているならば思考は再び有効なナイフとして使うことができます。肩が痛くなった時にストレッチに切り替えるというには思考のアイデアです、ここは思考が大変役に立つのです。

そんな思考も実はただ起きている

本当はこれはただの夢です、ですからあらゆる思考はただ湧いて起きています。夢の主人公も夢の中ではあらゆる思考を巡らし必死にサバイバルしていますがそんな思考もただ起きているだけでその主人公が考えたアイデアではありません。夢の主人公はもちろんこのアイデアは自分のものだと言い張るでしょうがそんなわけがないのはあなたが毎晩見る夢で証明済です。高速な相手とのコミュニケーション、言葉の掛け合いも全てあなた自身が全部作り出しているはずです、夢の中では。これが今この現実と呼ばれる夢の中で繰り広げられています、その夢の製作者はこの現実を認識している存在です。

スポーツ観戦の本当の意味

スポーツに集中するプロフェッショナルは思考が抜け落ち無我になっている

ビールを飲んでスポーツ観戦、これは何十年も前から続く男性の娯楽NO1です。どの国でも何かしらのプロスポーツがあり国民が熱狂します。なぜほとんどの国でこのような現象が起きるのでしょうか。これは決して偶然ではありません。スポーツは基本勝負の世界ですからそこにが戦いがあります、自我は観戦中のスポーツ選手に自身を同一化して勝負を楽しみます。まるで自分が勝負をしているかのような錯覚を味わうことができます。見ている時の自分とは選手のことなのです。そしてその選手がプレイに集中することで無心になっていきますが同時に見ているあなた自身も無心になっていきます。つまり観ている間無心状態、無我状態、真我になっているのです。ここで重要なのは観ている選手自他が無心状態だということです、無心状態の選手に同調して自身の思考も抜け落としていきます。ゲームが続く間大人は全ての思考が解除され無我無心、歓喜、安堵が続きます。観ている人間も観られている人間選手もそこにはいません。無我が無我を見ている、真我が真我を見ている、神が神を見ているのです。

浅田真央はスケート中無我になっている

浅田真央はスケートをしている時、無心になっています。無我になっています。自身は浅田真央だという思考も抜け落ち自我が抜け落ちています。この状態は歓喜、安心、平和そのものです。TVを見ている人々はこの浅田真央を観ることでそこに神を見ているのです。そしてその演技に注目することから自身も無心になり無我になり、真我になります。日本中の国民が浅田真央を応援したのには意味があるのです。

無心になれることに最も価値がある

多くの観戦者はこう考えます、プロスポーツ選手は格好良くて羨ましいが選手生命は短いしそのあとが大変だと。。このように思考は感動を台無しにします。歓喜に泥を塗ります。観戦後すぐに現実という夢に引き戻すのです。本当はそうではなく無心になって人が所作、プレイに入り込む時、その瞬間が歓喜、感動、安堵なのだということを学ぶことです。人間はあらゆる条件が揃わないと歓喜、感動、安堵は手に入らないと思考します。ですが人間が手に入れる歓喜、感動、安堵は一瞬のおやつのことであり、、、本当は無心になって自身が歓喜、感動、安堵になってしまうことを学ぶことが大切です。夢は一瞬で醒めます。