スポーツ観戦の本当の意味

スポーツに集中するプロフェッショナルは思考が抜け落ち無我になっている

ビールを飲んでスポーツ観戦、これは何十年も前から続く男性の娯楽NO1です。どの国でも何かしらのプロスポーツがあり国民が熱狂します。なぜほとんどの国でこのような現象が起きるのでしょうか。これは決して偶然ではありません。スポーツは基本勝負の世界ですからそこにが戦いがあります、自我は観戦中のスポーツ選手に自身を同一化して勝負を楽しみます。まるで自分が勝負をしているかのような錯覚を味わうことができます。見ている時の自分とは選手のことなのです。そしてその選手がプレイに集中することで無心になっていきますが同時に見ているあなた自身も無心になっていきます。つまり観ている間無心状態、無我状態、真我になっているのです。ここで重要なのは観ている選手自他が無心状態だということです、無心状態の選手に同調して自身の思考も抜け落としていきます。ゲームが続く間大人は全ての思考が解除され無我無心、歓喜、安堵が続きます。観ている人間も観られている人間選手もそこにはいません。無我が無我を見ている、真我が真我を見ている、神が神を見ているのです。

浅田真央はスケート中無我になっている

浅田真央はスケートをしている時、無心になっています。無我になっています。自身は浅田真央だという思考も抜け落ち自我が抜け落ちています。この状態は歓喜、安心、平和そのものです。TVを見ている人々はこの浅田真央を観ることでそこに神を見ているのです。そしてその演技に注目することから自身も無心になり無我になり、真我になります。日本中の国民が浅田真央を応援したのには意味があるのです。

無心になれることに最も価値がある

多くの観戦者はこう考えます、プロスポーツ選手は格好良くて羨ましいが選手生命は短いしそのあとが大変だと。。このように思考は感動を台無しにします。歓喜に泥を塗ります。観戦後すぐに現実という夢に引き戻すのです。本当はそうではなく無心になって人が所作、プレイに入り込む時、その瞬間が歓喜、感動、安堵なのだということを学ぶことです。人間はあらゆる条件が揃わないと歓喜、感動、安堵は手に入らないと思考します。ですが人間が手に入れる歓喜、感動、安堵は一瞬のおやつのことであり、、、本当は無心になって自身が歓喜、感動、安堵になってしまうことを学ぶことが大切です。夢は一瞬で醒めます。

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