自我

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。

苦しみこそが自我を悟りに誘う

自我増大=苦悩増大

苦しい、悲しい、寂しい、、、これらの苦しみは自我こそが作り出しています。信じられないかもしれませんが自立するとは苦しみを増やす行為なのです。だからこそ自立に積極的になれる人はそうはいません、それは自立がそのまま自我の確立でありそれはそのまま苦しみの増大だからです。ということで自立は決して生易しいものではなくとんでもなくチャレンジフルなことなのです。

あの人は自立していて憧れる、、

自立、自我の確立は、、、決して甘いものではありません。世間は自立した人間を生活力があり分別があるぐらいの評価しかできないかもしれませんが全く違うのです。自我の確立とはそのままで不足感、欠乏感の確立なのです。自我の確立とは分離意識の完成でもありそれはそのまま居心地の悪さ、不足感、分離感、孤独感の完成でもあるのです。地獄の始まりでもあるのです。社長は孤独、、、と言われるのは社員とは状況が違う、、という簡単な話ではなく、、、自我の確立とは全体との完全分離でありそれこそが孤独感や不足感を生み出すのです。

確立した自我は悟りに誘われる

自我確立とは自立確立であり、、これは同時に全体からの完全分離を意味します。この完全分離は苦しさ、孤独感、不足感の確立でもあります。よって自我が確立した大人は苦しだとともに生きていくことになるのです。ですがここで問題があります、自立すればするほどに苦しくなるならば今後自身は何を目指したらいいか?という話です。この先にはさらなる苦しさが待っているならば人生に何も期待はできない、、こうなります。ということで自我が確立した大人は逆にこの自我とは何か?という探求に誘われることになるのです。

自我の完成無くして悟りなし

自我の完成は人間ゲームの山場

これは神のリーラです。神が作った遊びの場、神は神のままでは苦労も不幸も孤独も味わえない、、、だからこそこの世界を構築しました。そうなりますともしも自身の両親が超お金持ちで一切働く必要がない、友人も一人もいらない、結婚も何もする必要がない、、となった場合に苦労というものをしなくてもいい状況になります。これは神が望んだことなのでしょうか?完璧完全な神がわざわざこの超不自由極まりない世界を作ったにも関わらずその恩恵?に浸らない人間がいればどうなるか?自我が完成しないわけです。自我が完成しなければ居心地の悪さ、欠乏感、不足感などが湧いてこないということになります。

ちゃんとした大人になることの苦しさ

大人になるのは苦しいことです、大人になることは分別をわきまえるようになること、この分別とはつまり分離世界を完成させることになります。この「自分」は他人とは完全に異なる存在であるということを証明することになります。これは苦しいことです、分離感、不足感、欠乏感が湧いてくる状況を自ら作ることになるのです。ですがこれは同時にこの体の存続を絶対的なものにしていきます。何かに頼る、依存するというのはこの体の存続においてはリスクがあります。

自我が完成するからこそ、、、

自我が完成するからこそあらゆる目標を達成することができます。結婚、子育て、出世、名誉、地位、安定、、、あらゆるアイテムを所持することができます。そしてそれを達成したときに次の欲求が湧いてくるのです。結局のところその先に何があるのか?ということです。この自分とは結局なんなのか?という悟りに向かった衝動が自然と芽生えてきます。分離意識全開、自我全開は悪いことでは断じてありません、むしろそこからが本当のチャレンジであり楽しさでもあります。

「どうでもいい」これは自我崩壊の声

自我は不安に駆られてあの手この手を尽くす

自我は基本不安です、最も危ういもの思考、感情、そして体を自分とすることで常に不安定に生活をします。今日の体調、メンタル、、何もかもが不安定。だからこそ圧倒的な安定に常に憧れます、圧倒的収入、貯金、地位、職業、、、強いモノに対する憧れは自身の不安定さゆえです。ということで自我は小賢しくこららを集めようとするわけです。自我の本音に任せておけば基本どこまでも拝金主義、安定主義です。それを手に入れるためなら魂だって売ってやるの覚悟です。

自我同士の取り決めは細かい

会社へ入れば分かると思いますがルールが恐ろしく細かい、、、人間という自我と自我の集団の取り決めは細部に至ります。なぜならば自我にとって永遠、絶対は皆無、基本的に全部をルールで縛らないと不安でしょうがないのです。結果どこまで行っても細かいルール契約が続きます。ルールを守ることが仕事なのか?というぐらいにルール厳守が続くのです。自我はそれでいいかもしれません、ですがその奥にある本質、無我、大いなる一つは「どうでもいい」と感じています。

何をするにも約束、約束

アメリカのメジャーリーガーがチームと契約する時、百科事典並の書類の契約をまとめるようです。これには怪我について取り決め、肖像権、家族の不幸、成績不振のケース、次のチームに行った時の決め事、、、全ケースに対しての取り決めを行います、これが悪いと言いたいのではありません。これが自我同士の契約んです。どうでもいい、、と言いたくなるような山のような契約を約束しないと将来的に問題にあるということです。ですが実際にはここまで契約を結んでも問題は常に起こり続けます。これが自我同士のコミュニケーションです。

「どうでもいい」が頻繁に湧いてきたら、、、

全宇宙存在、大いなる存在はこの自我分裂ゲームを楽しむのは、、、全体では絶対に体験をするためこそです。とはいえあまりに下らない細かいルール、取り決めに1日を縛られ続けると不快感、欠乏感、居心地の悪さが泉のように湧いてきます、自我から。。。。それでも思考はこの感情をなんとか処理していきますが、、、ある時どうでも良くなります、もうどうでもいい、、、苦しさの爆発です、苦しさで自我が内部崩壊を起こします。

悟りという言葉こそが自我の策略

悟りは遠い世界にあるという作為的思い込み

自我にとって悟りとは自我の消滅です、こんなことが頻繁に起こってしまったら自我は壊滅状態に。自我は考えました自我の壊滅を「悟り」という言葉で表しこんなことは釈迦やキリスト以外達成できない代物という印象を与えようと。「悟り」などこんな胡散臭い世界は遠い先にあると思い込ませようと。自我のこの策略は完全成功し悟り、自己超越などという言葉をTVで聞くことなど先ずありません。自我は臆病ですからみんなが話をしないことなどに興味を持ちません、怖いからです。

この体、思考、感情を自分だと思い込む思い込みを思い込みだと見抜くだけ

ギャグのようなタイトルになってしまいましたが上の文は真実です。我々人間はこの体、思考、感情をひっくるめて三点セットで自分であると思い込むことに成功しました。自我の完全勝利、自我何千年間の勝利です。人類が生まれてきてこのかた自我はこの思い込みを完璧に人間に刷り込み勝利を収め続けてきました。大なる一つ、全存在、全宇宙の「自分」体験です。この自分体験はもちろん幻想ですが一度この幻想に取り込まれたら最後多くの方は死ぬまでこのトリックを見抜けなくなります。

ではこの確実に湧いてくる思考、感情は誰のモノだ?

誰のものでもないのです、、それがこの体の中で起こっただけです。ですがこれを自分のもの、自分だと思い込むことで次から次へと思考感情が湧き出してきます。鶏の卵が先か鶏が先か?理論のように、、、この思考、感情を自分であると思い込むことで、、次から次へと思考感情が湧き出してくる、、泉のようです。そしてこれは不思議なことにこれは自分ではないと気づくと自然と思考、感情の泉が少なくなるのです。そうですこの感情と思考は自分を維持するために湧いてきていたということです。

「程々の幸せでいい」という思考すら自我の策略

並程度の幸福さえあればいいの罠

自我、思考は平均程度の幸福な生活ができればそれでいいじゃないか、平均以上の年収があるんだからもうこれ以上は求めずに平均的な幸せを謳歌すればいい、、このように一見謙虚なアイデア、メッセージを自分自身に囁きます。ですがこれは自我の策略です、今の生活を続けていく限り自我の存続は安泰なのです。例えあらゆる不満、不平、批判が湧いてきても私は十分平均的な幸せを得ているという思考の呟きで全てを封印していきます。ですがこの囁きの本心は自我存続のみです。

無理やり封印するのではなく、、

無理やり封印すれば負の感情が体内に蓄積されていきます。本心、本音が消化されずにただ隠されていきます。思考でむりくり押し殺した感情は体内に確実に蓄積されエックハルトが言うペインボディー、負の感情蓄積体になっていくのです。この負の感情を無視するのではなく観察していきます、私はこういう感情を持っているんだな、、ここにしっかりと向き合うとともにそこに思考解決を入れないようにしていきます。感情観察に集中するのです。

退屈だ、、、が湧いてきたら

退屈だなーが湧いてきたらしっかりとその感情を観察します。そこで思考を使いごまかすのをしないのです。しっかりと湧いてくる負の感情を観察しそこに集中します。退屈だなーが湧いてきたという事実のみをしっかりと受け入れるのです。思考でこの感情をうやむやにしないのです。思考は直ぐにこの退屈だなーを打ち消そうとしますがそれをさせません。思考に主導権を握られれば自我が肥え太り益々負の感情が湧いてくるようになります。多くの方はこの無理くり消し去られた負の感情が着実に体内に蓄積されていきペインボディーが肥え太っていきます。負の感情の噴出を助長させていくのです。思考でごまかすのではなくしっかりと観察し、、、そこから無心無我に入っていきます。そして主導権を観察する存在、大いなる存在に戻していくのです。

主導権を大いなる存在に戻すと

負の感情が湧いてきた際に思考でごまかすのではなく、、しっかりと観察していきますと観察する存在に自然になれるようになります。観察する存在とは大いなる存在のことです。負の感情から逃げるのではなくそのままそれを受け入れていくことで無心無我に入っていきます。この状態は安堵そのものですから負の感情は自然と無くなりなおかつ思考のフル回転を防ぐことで自我の肥大化を防ぐことができます。さらにこの安堵の感覚を一度でも感じることができるようになると目標達成においてもこのゾーンに自然と入れるようになっていきます。無心無我に入って集中して全作業に当たれるようになるのです。

見た目が衰えた時の自我の反応

自我は自らの見た目を最重要視する

この人間を大いなる存在と切り離しこの心身であると考えるのが自我です。この自我は大いなる一つという大深淵な存在と分離していると考えています。これは外から見れば大いなる存在の上に乗った衣が、我こそは衣であると宣言しているのと同じです。人間とは本来大いなる存在の上に衣が乗って分離しているように見えている存在なのです。意味が全く違ってきます。ということで人間とは自身を衣と勘違いした生き物ですからこの衣の見栄えが良いか悪いかに命をかけるわけです。衣のためならば命を捨てる覚悟です、これが人間です。

それでもこの衣は年数で衰えていく

この衣の恐ろしいところは歳を重ねるに従い確実に衰えるということです、衰えない衣は存在しません。これが衣の宿命でしょう。もしも自身をこの衣のみの存在であると確信している人は年数を重ねるとは自分に価値がなくなっていくことであると捉えるようになっていくのです。だからこそ見た目の衰えは自身の価値の衰えであるという大惨事になるわけです。

本当は衣には価値がなく、その奥に価値がある

自身をこの衣であると捉える人間にとって衣の衰退は自身の衰退です。大女優が自身の衰えを痛感し自分にはもう価値がないと悲観するのは当たり前なのです。見た目に自身のアイデンティティーを強く感じてきていた人ほどにこの傾向は強くなります。実際にはこの衣に価値を見出せなくなった時に本当の価値(大いなる存在)が見えるようになります。見た目に自信が無くなった時にこそ大いなる存在という衣の奥の存在に興味を持てるのです。自我がどれほど衣に関心を寄せ衣の向上のみに行動している時もその奥には大いなる存在が確実にいました。いつこの本質に気付けるか?それが今です。

「自我=思考」は人を見た目で判断する

人を見た目で判断しレッテルを貼る

自我は人を見た目で判断します。見た目とはこの大いなる一つの衣です。種明かしをすればこの世は全部大いなる存在が描く絵画です。我々の見た目はこの大いなる存在の上に衣を乗せその衣を自分自身と勘違いしたモノです。見た目とは大いなる一つの衣なのですがこの衣を自分自身で在ると全員で勘違いしているのです。ですからこの衣がそうなっているかを衣同士は最重要視するわけです。どこまでこの衣を重要視しても所詮衣は衣ですから衣同士のコミュニケーションにはトラブルが絶えないわけです。

衣を見た目で判断し思考が解釈を加える

人を衣で判断しておいてこの判断から思考がさらに解釈を加えていく、ああいう見た目の人はこうこうに違いないと、、、これはどこまで行っても衣談義、、なんの価値もないのです。究極的にはその衣の奥に大いなる存在が潜んでいてその価値は衣の数十億倍の価値があるわけです、ですからこの衣談議は無意味、遊びの範疇をでないわけです。ですが今日も人間は大いなる存在の衣の優劣で花を咲かせます。TVを見れば生まれつき衣の見栄えが良い人にスタイリストがついてさらに見栄えを良くして出演しています。雑誌を見てもいかに衣をより良く見せるかが興味の9割です。

人間関係は衣関係

人間関係とは衣関係です。どこまで行っても人間は自分も人も衣として扱います。本当は大いなる存在が衣を着て関係を作っているわけですが、、、衣だけを見て関係を築こうとしているのが人間関係なのです。この関係はどこまで行ってもトラブルは絶えず争いも妬み嫉みも絶えないというのが結論です。そしてこの人間関係、衣関係にほとほと疲れ果て、絶望し、無意味さを感じた人間から無我、無心、衣の奥の大いなる存在に興味を持ち始めるというわけです。人間関係とは実は絶望するのが目的です、何という皮肉でしょう。

自我は「悟り」以外に興味を持たせ続ける

いつか〇〇になったら私は幸せになる、、、自我の常套文句

自我はいつでもこう言います。いつか〇〇になれたら幸せになれるよ、、いつか〇〇が達成したら楽しくなるよ、いつか〇〇を買うことができたら最高だよ、、こんな調子で延々とこの私に耳元で呟きます。私が今不幸なのは〇〇のせいなんだ、私が今満たされて居ないのは〇〇が達成できてないからだ、、、全部が全部この調子、いやこれ以外の手口を自我はできません。こうして我々は生まれてこの方ずっっとこのやり方で生きています。ラットレースのように。途中で「あれ、もしかして今回の問題が片付いても、、結局同じなのでは?」この疑問が湧くまでは延々とこの手口です。

いつか悟ったら「私」は幸せになる

悟りに興味を持ち始めた私は悟りの勉強をするようになります、悟りこそが自分を幸福にしてくれる、、、悟りだけは私を裏切るはずがない、、、そんな理由で悟り系の本を読むとビックリします。そこには「あなたは実は居ない」こう書かれているのです。これで99%の人は撃沈します、自分が居ない???なんのこっちゃです。悟りは意味不明、、、これは辞めとこう、、、、こうなるのです。自我は悟り以外には何にでも救いを求めますが「悟り」だけは意味不明、、これは頭に入りません。

そうではない「私の否定」こそが最後の真実

ですが本当に眼を開いて、、真実を眺めて見てください。。。成功者と呼ばれている人の自殺、幸福だと思っていた家族の遺産相続、、DV、夫婦喧嘩、、、世の中のトラブル、惨事は常に普通だった人々に起こっています。まともと思えるような人々が次の日は犯罪に巻き込まれ、巻き込んでいる、、、人間が生きていくことで本当に幸福になる方法などどこにも存在しないのです。。そこまで理解が進んだ時にもう一度悟り系にメッセージを読んでみます、、見事に真実をついています。幸せになろうとしていた「私」こそが幸せの邪魔をしていたということです。この「私」という絶対的大前提こそが勘違いだったというこのショッキング過ぎる事実がこの私を消滅し平和、至福、歓喜が押し寄せてきます。

自我が悟りに興味を持たない理由

悟りとは自我の消滅だから

自我は多くのことに興味を持ちます、スポーツ、レジャー、自己啓発、ファッション、エンタメ、旅行、、、なんでもです。ですがたった一つ、これだけには興味を持たないことがあります、それが「悟り」です。悟りだけは積極的に興味が持てない、、なぜならば悟りとは自我の消滅だからです。自我というのはこの思考、体を自分と捉えるメカニズムのことです。多くの方にとってはこの自我はメカニズムではなく真実であることになっています。ですからその自分が居なくなるなどというメッセージは意味不明、言語道断、完全拒否です。自分が実は嘘などというメッセージを積極的に受け取るなどあり得ないことなのです。なぜならば今もこうして自分が居るではないか?この確実完全にここに私は居るというこの感覚はなんなんだ?ということです。

「自分が居る」の自分は心身ではない

「居る」この感覚は間違いなく事実、真実です。ですが自分はという時のこの自分は錯覚です。自分はという時、、恐らく心身のことを言っているでしょうがこれは錯覚です。「今ここに居る」これは間違いない真実でありこの感覚は生まれる前、もしくは何ヶ月後で確実にあったはずです。ですがこの「自分」というのが付け足されたのはその後相当後になってからです。「自分」という存在が出来上がるには言語というものを覚える期間が必要だからです。この後付けされた「自分」これを実は錯覚、幻、後付けだという事実を突きつけるメッセージこそ悟りです。「在る、居る」この感覚を悟りは一切否定しません、ですが「私」「自分」というこの主語、、、この主語を心身で在るという約束、、これを完全否定するのです。

人間が考え出した「成功」も「幸福」も「平和」も絶対に人を至福にしない

私自身は結構真面目な人間で本屋に並んでいる成功哲学系の本はほぼほぼ制覇し、、「これが幸せだ」という賢者の意見を徹底的に模倣してしかも大体は達成してきました。だからこそはっきりと言えますが世の中で言われている「成功」「幸福」「平和」「安定」これらは人を至福には至らせません。あらゆる自称成功者、幸福者に会ってもきましたが「至福」には至っていなかったのです。あくまでも今現在世間的に成功者、幸福者になっているだけというのが印象です。そして自分自身も完全にこのパターンでした。自分が幸福になる、自分が成功する、自分が安定する、自分が愛される、、、これらは恐ろしい矛盾を抱えています。この「自分が実は居ない」という事実です。自分とは思い込みでありだからこそこの自分の同一化した大いなる存在は常に不安定、居心地の悪さ、脆さを感じているのです。この主語「自分」が永遠の至福を得ることは理論上不可能なのです。自分は本当は居ないのですから。