自我

こうなったらワクワクは思考の策略

大金持ちになったらワクワク

結果を期待してのワクワクは嘘のワクワクです。実際にそのような状況になるかは分かりませんし、そのような目的での行動では全体との調和が起こりません。例えば10億円を得れるからと10年間絶対にやりたくない仕事を我慢してやろうということになったとします。10年後のワクワクを期待するわけです。。。すると毎日が不調和な日々に襲われます、毎日毎瞬ごとに不調和が起こります。感情が湧き出し、思考が湧き出し、、自我が強化され全体との分離が進みます。恐ろしい不快感を感じながら10年間を過ごすようになります。

10年後のことを考えて何とか心を落ち着かす

10年後には10億円、これを考え続けることでなんとか精神状態を維持しようとしますがこれすらも思考です。思考が湧けば湧くほどに自我が強化されて全体との分離が進み全体との不調和が起きます。もしかしたら10億円を手に入れることができるかもしれませんが10年後には体は病み、人間関係は破綻し、家族も失いと、、、とんでもない状況が待っているかもです。

10億円手に入れたとて

10年間の忍耐の結果10億円を手に入れたとしましょう、、、、散財に散財をして豪華絢爛な生活をできたとしましょう。。。これで本当に心が晴れると思いますか???この豪華絢爛な生活は全部お金の力であって本人の力ではありません。どこまで行っても自信がつきません。これによって本当の人間関係が築けれることはありません。さらに、生活に飽きてきたときにそれを解消するにはまたお金が必要になります。そこでまたお金を使う生活をすればいくらお金があっても足りないのです。

最初からワクワクにいく

最初からワクワクすることをします。最初からワクワクすることを行います、見返り結果を一切期待することなく。これによって最初から全体との調和を味わうことができます、最初から平和、安堵の世界に入り込みます。自分が求めていたことがここだったという気づきが起こります。これさえしていれば最初から幸福だったんだという気づきが起こります。良い人生を送るって最初からできるのだという気づきです。結果を期待することで不調和が起き苦しかったという気づきが起こります。

個別体験を積むための機能=エゴ

エゴ、自我は悪者ではない、、

自我、エゴとは個別体験、小さな神体験を積むための機能です。この機能を機能以上に負荷をかけていくとネガティブな反応を起こすようになります。これが人生を苦しめる要員です。とはいえこのエゴ、自我を敵対視すれば人間としての生活ができなくなります。そうではなくこの自我を機能以上に働かせない、これが大切になります。エゴとの調和、自我との調和が整った時にエゴ、自我はまるで無いのでは?という状態になります。これが覚者と呼ばれる人の境地です。今までの自我、エゴとは決別できている状態です。

自我、エゴに余計なことをさせない

自我、エゴが悟りの世界では絶対的に敵対視されてしまうのはこの自我、エゴにあまりに多くの仕事をさせているからです。思考がフル回転、常に作戦を立てる、、全部が全部思考重視、これによってアンバランスを生み出しそのアンバランス分が苦しみを生み出します。人間はエゴ、自我に対し無自覚であるため、、思考フル回転に陥りやすく結果自らバランスを失います。思考する回転は自我全開になりアンバランス全開です。

自我拡大、エゴ拡大に無抵抗

多くの人間は自我拡大、エゴ拡大に無意識です。思考すればするほどに苦しみが生まれますがそこを自覚していません。そのため何か問題があるとすぐに思考をフル回転させ自ら首を締めるのです。そうではなく思考フル回転は自我フル回転であり、、、これこそが苦しみを生み出すことを自覚すべきです。そうすればバランスの取れた自我活動にシフトします。

全ては神の鏡であると考えてみる

神は自身の鏡を沢山設置して小さな神体験を回収する

我々は大きな神の波としても表現できますが鏡としても表現できます。神はあらゆる場所に自身の鏡姿を設置してその鏡姿に独自の体験を経験させました、神が神のままでは経験できないことを鏡を使って行ったということです。全員が神の一側面ということになります。そしてこの鏡姿は独自の体験を積むことができるからこそ多岐に渡る経験を積むことができるのです。

小さな神は神の無限の投影

神は神のままではあらゆる体験、思考、感情を体験することが出来ません。そのため神は自身の鏡を無限に設置することであらゆる姿の神を投影していきました。神の分身を無限に作ったのです。これによって神は神自身を体験するという多岐に渡る経験を享受しました。絶対、無、空には体験したいという意志すらありません、そこから投影された神、ALL THAT IS、全体には自身を知りたいという意志があります。この意志に従って小さな神が出現し今我々のような体を持ってそれを体験しているのです。ですから全感情、全思考、全体験は全て神が望むことです。

自我は画期的なシステム

自我とはこの体、思考、感情を自分とするシステム、メカニズム、プログラムです。覚者はこれを苦の根源と呼びます、勿論その通りです。ですがこれがあるから神は小さな神体験ができるのです。もしも我々に自我が形成されていなければ小さな神体験ができなくなります。神がこの現象界を作り出した意味がなくなってしまいます。自我を残念な存在として敵視するのではなく肯定し受け入れていくことで自我との楽しい共存を意識できます。

完全が不完全に見える世界

完全は不完全に完全に見せる

完全が完全な理由は我々にこの完全な世界を不完全に完全に見せることができるからです。しかもその不完全さは完璧なほどにその人の観念を映し出します。不完全さが完璧なのです。我々が思う完全とは自我にとって最も都合の良い完全ですが実は脳内の観念を完璧に映し出し人間に不完全で在ると完全に認識させます。つまり完全の意味がまるっきり違うということです。だから自分、自我は完璧を常に追い求めるという皮肉が起こるのです。

不完全であることが完璧に起きる完全さ

何が起きようとどんな悲惨な事件が起きようと、、、脳内の観念によって完璧に分離されているという意味においてこの宇宙は完璧です。完璧に脳内の観念が映し出されているからこそ「自分」は常に不足感を感じることができます。自分=不足感が完璧な方程式で形成されます。そういう意味では全くの例外がない完璧な世界です。それに対し自分が不平不満が起こりますがそれ自体が完璧な反応なのです。

不完全に見えることが完全であることに注目する

今目の前に見える世界の不完全さは完璧です。不完全だからこそ我々は今幻想の世界、分離の世界にいることを証明してくれます。今目の前の世界が完璧ならばもう分離幻想の世界には我々は存在せず解脱しています。自分というエネルギーが解消されています。幻想の世界に住む「自分」が居ないのです。今目の前の世界がどれほど居心地が良いか、違和感がないかは、、分離統合の世界で統合が進んでいる証拠です。世界に全体の気が充満してきているのです。

「我あり」の中に生まれたエゴ

エゴは後天的に生まれた

エゴは最初からあったわけではありません、「我あり」の中で人間という生命体が進化を重ね脳が発達することで「自分」が形成されました。この自分こそがエゴです、自我です。全体からこの体、思考、感情を切り離すエネルギー、言語、プログラムです。このプログラムはエネルギー、パワーですからこの存在を維持しようとします、強化しようとします。そして自動再生機能を持っています。このパワーが強い人を「自我」「エゴ」が強いと表現します。これは良い悪いではありません、これによってその人の自我人生の抑揚が決まります。自我が強ければ苦しみ、酸欠状態、居心地の悪さも大きくなりますからその解消に向けるパワーも大きくなります。

「自我」が弱ければ、、、

自我が弱いということは全体から切り離された力が弱いということですから不快感、欠落感、居心地の悪さも少なくなります。比較的穏やかな人生を歩むことができるでしょう、ですが不快感、不足感が少ないということでこの自我人生を永続させる可能性も高くなります。「全体」が「全体」に気づくきっかけがないからです。とはいえこれも良い悪いはありません。

「自我」が強ければ、、、

自我が強い人は苦しみが大きいのでその解消方法を間違えると苦しい時期が続きます。自我が強い人が自我が弱い人と同じような浮き沈みのない人生を歩もうとすれば居心地の悪さに襲われます。自我が強ければその分、目標を達成するなどの目先の成就、結果を追い求め、、それでは何も満たされないことを悟らなければただ絶望と共に居ることになってしまいます。

自己超越とは自我を完全に無視した境地

自我を無視し続けると自我が死ぬ

男性の多くが坂本龍馬に憧れるのは彼の行動が完全なる自己超越の境地だからです。自分という存在を完璧に忘れていないとあのような行動は取れません。だから男性は一度は坂本龍馬に憧れます。大きな目標、今の自分では絶対に成し遂げられないようなゴールに向かっていきますと「自分」を忘れます。「自分」を覚えていたら大きな目標など達成できるわけがないからです。自分が達成できないゴールに向かうから「自分」を忘れることができるのです。自己超越とはそのような行動のことです。

現在の「自分」の延長線上を目指さない

現在の自分が達成できる可能性があることを目指せば「自分」を忘れることなどできません、目標と自分が密接に繋がっているからです。そうではなく今の「自分」では絶対に達成できないような目標を設定します。すると自分の存在を完璧に忘れてしまいます、自分が消えてなくなります、自我が消えてなくなります。悟りが起こります。全体になってしまいます、全体の一部としてのこの行動が起き始めます。

私の今のゴールは「悟り」をスタンダードにすること

私の今のゴールは悟りを新し時代のスタンダードにすることです。今の私では絶対にできません、ですが今の私でなければ出来る可能性があります。そしてこのブログを書き続けています。今の私ではできない目標だからこそ自己超越に辿り着けます、自分の存在を完全に忘れることができます。自分の存在を忘れると自分が死にます、悟りが開きます、全体が現れます、この体は全体の一部として機能します。

最後はテクノロジーが人間を解脱させるのか??

テクノロジーの進化が解脱を生み出す

マトリックスという映画の大成功、ポケモンGOなどのリアリティーを取り入れたゲーム、バーチャルリアリティー、グーグルグラス、、、、あらゆるテクノロジーが人間というシステム、脳が作り出している世界に類似した世界を作り出します。テクノロジーが脳の機能をまるで模倣しているかのようなゲーム、ソフトが日々誕生していきます。悟りの学びをしてきた人間からするとこれってもう答えだよね、、という驚きです。

今までも人間を驚異的に変えたのは技術

考えてみれば産業革命が起こり人間の生活は圧倒的に変わりました、そして次が今起こっているIT革命、そこからのAI革命、、恐らく今回の技術革新は人間を悟らせる、解脱させるとこまでいくのではないか???そんな感覚を強烈に覚えます。バシャールが言うにはテクノロジー改革はハイアーマインドの物質化とのこと、、これも理解できます。オーバーソウル、集合意識との繋がりが強固になってくるとそこから情報が降りてきます。自我という思考の分断が緩めば全体との繋がりが強固になります。IT革命は人間としての生活を大きく変えていきますから自我の緩みを生み出す可能性があります。

悟り、ノンデュアリティがYahooニュースに載る時代が来るかも

YOUTUBEの視聴回数などを見ていても悟り、ノンデュアリティに関する動画の再生数はそれほど多くはありません。まだまだ世間のこの分野に対しての理解は少ないようです。これからどれほど技術が進みこれらの分野に対する関心が増えていくかが楽しみです。

視点が変わるだけ

PCとしてアプリ操作するかアプリとしてアプリを操作するか

我々はPC内のアプリとしてアプリを操作しているつもりになっている存在です。アプリがいきなりPC内で自由意志を持ち勝手に動き回りあらゆる体験をする(つもり)存在です。ですが実際にはアプリはアプリ単独で動けるわけがなくPCの機能に依存しているのは間違いありません、なぜならばアプリはPCの中のプログラム言語に過ぎないからです。アプリを紐解けば全部が全部プログマム言語でできています。そしてそのアプリに「私が全動作を行っている」という勘違い機能が付加されただけです。それが自分という意思を持ったアプリであり我々「人間」の真の姿です。

アプリは言語をインストールしていく

アプリはPC内で様々な経験をしていくわけですがその度に価値観が変わり、か情報も増えていきます。アプリ内のプログラム言語が増えかつ書き換わっていきます。これによりアプリから眺める全体(PC)の姿は確実に変化していきます。なぜならばアプリが見る世界とはプログラム言語で解釈された世界だからです。アプリとはプログラム言語のことでありそれが書き換わっているにも関わらず見える世界が同じということは絶対にありません。

自我=言語

つまり自我とはプログラム言語です。我々が覚える単語は全てプログラム言語なのです。そして我々が見ている世界はその言語、プログラム言語で形成された価値観(プログラムの集合)で眺められ解釈されています。真実を見ているつもりになっていますが実は全部が全部プログラム言語の解釈が加わっています。ポケモンGOというアプリがあります、、道を歩く際に スマホ越しに見ると、、、道の中にモンスターが出現します。実際は普通の道ですがそこにモンスターが登場します。これを我々はデフォルトでやっているのです。

アプリ独自からPCからのアプリへ

当たり前の話ですがPC内のアプリがPCの機能を使わずにアプリ単独で動けるわけがなくPCのOSから全ての機能でアプリは作動します。アプリを動かしているのはPCです。人間は悟りを開くと自身が実はPCだったという気づきが起こります。なぜならばアプリを起動させているのは事実としてPCだからです、何も不思議なことではありません。自分自身が独立分離した存在だという思い込みが(プログラム言語)そうさせていたことに気づきます。

最終的にはPCの中でアプリが起動していただけという気づき

アプリを動かしているのは機能的にはPCです。それは事実です。アプリはプログラム言語でしかなく機能のほとんどをPCに依存しています。人間も全く同じで人間独自で生きていると思い込まされています、本当はあらゆる機能を全体に依存しているのです。ですがその事実を気づかないようにプログラム言語が働いています。そして本当のことを言えばPCが自主的にアプリを起動させているのではなく操作するのが人間であるように、、、この人間を動かしているのは全体ですが(機能的には)全体が意思を持ってこの人間を操作しているのではなくただその動きが全体を通じて起こっているだけです。人間ー全体ー(操作する人)がいるわけではなく、、、、人間ー全体ー空という感じです。空からビッグバンが起こり、、その起こりを通じて人間はその中で起動しています。全てはビッグバンのごとく空からの爆発で起こっています。

空からの爆発=ビッグバン

ビッグバンとは宇宙の起源、爆発です。どこからこの爆発が起きたのか??空、THE ONE、絶対、無ということになります。ここからの爆発によってこの宇宙、色の世界、現象界、全体が起こりました、、、その延長線上で生命が生まれ、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれ、、、と進化は続いていきます。そしてその延長線上で人間は言語、記憶能力を身に付け、、人間が居る世界すらも作り出したのです。ポケモンGOの世界(現象界に独自の視点を加える)、人間GOの世界です。

思考の目的は気づかれずに同一化すること

いつの間にか考え込んでいる

思考は意識的に意識をジャックします。思考は意識をジャックすることで自我を存続させます。思考の動きに意識が意識的に観察すると思考は困ります。思考は無意識を狙って意識をジャックするのです。困ったことが起こった、、この隙を狙って思考は意識をジャックします。コロナで会社が大変だ、、この好きを狙って思考は意識をジャックします。思考のフル回転が続きます。友人から冷たい態度を取られた、、この瞬間を狙って思考は意識をジャックします。

意識は思考の手口を完全に把握する

意識は思考に対しどう対応すればいいのか???思考の手口を完璧に把握してしまうことです。思考は何かしらの事件を突いて必ず意識をジャックしようとしますから何があっても思考の動きに敏感になるべきです。思考の湧き出しを敏感に感じるようにします。万引き犯の動きに敏感になるコンビニの店長のように、、、思考の動き、無意識を突いた動きにしっかりと冷静に対応します。

思考の手口はいつも同じ

思考の手口はいつも同じです、、最初はさりげなく、、徐々に大胆に意識をジャックします。いつの間にか考えごとをしている、、そんな際には意識的にその敗北を認めてください、、思考にジャックされたなと、、そしてそこからは意識的に反復作業や、何かに熱中すること、五感を感じることに集中します。ラジオ体操など簡単な運動でもいいかもしれません。ほとんどの方は思考にジャックされてもそれを問題にもしないで常にジャックされ続けます。

自己実現とは自我の緩みの証拠

自分が好きなことで食べる

自分が好きなことで食べよう!YOUTUBEが世の中を席巻した時のキャッチフレーズです。この自分が好きなことで食べるというスローガンに多くの方は  ????になります。なぜならば自分が好きな事など考えてきていないからです。そのような感情は自我ベースで生きていると感知していないのです。だから好きな仕事と言われても意味不明なのです、そんな事感じたことがない。。。。自我ベースで生きてきて、、自我の目的をしっかりと遂行していきますとマズローの欲求五段階ではないですが欲求のレベルが上がっていきます。すると最終的に自我に対する俯瞰した視点が養われ次第に自分の好きを感じることができるようになります。それが自己実現のスタートです。

自我は生き残ることに必死

戦後の日本で好きなことで食べようなど意味不明な発想でした、、、生き残るには何をするか???これだけです。ですが時代が進み生き残るを着実にクリアーし、社会的評価を得た、、、すると次に何かを達成しようと試みる中で自分の好きなこと、、、という感覚を感じることができるようになります。この感覚は全体から湧いてくるわけですがこれを強烈に感じることができるようになります。そしてこれを達成することに思考を使えるようになっていくのです。

自己実現すら達成

自分の中から湧いてくる衝動を感じることができ、さらにそのために思考をフル回転できるようになるとその衝動すらも形に変えて生きていけるようになります。これが自己実現です。この境地を達成すると、、、自分とは何か???という疑問が湧いてきます、、これが自己超越、悟りへの入り口、誘いです。この段階では自我の最後の抵抗が起こります、湧いてくる衝動を叶えようとすると自分という存在に構っていられない、ですが自我は自己主張を繰り返します。こんなことをやったら恥ずかしい、こんなことをやったら周りに示しがつかない、、自我との最終決戦です。