悟り(非二元)解説

言葉の機能を正確に認識する

悟りとは

悟りとは実は「言葉の機能を正確に認識する」以上です。言葉という存在が「ここ」で何を起こしているのか正確に正確に理解すること、、それが悟りです。言葉がこの世界で何を起こしているのかを理解するには「そもそもこの世界とは何か」という視点が必要になります。その上で言葉が何を起こしているのかを理解します。

ここは空「絶対」の影です。絶対的存在、唯一無二の存在「空」の影が「ここ」です。「空」は絶対的存在ゆえ、、たった一つのエネルギーです。たった一つということはこのエネルギー以外の存在は存在しません。だから「空の影」である「ここ」も当然たった一つのエネルギーの影であり、、ゆえに分離は起こりえないのです。ですが同時にこのたった一つのエネルギーは「無限」でもあるので、、この影も無限の現れです。無限の現れということは「無限の思考」も含むことになり、、、、つまり「存在しない思考は存在しない」のです。

だから

「空」の影に分離は絶対に起こり得ないのですが「全思考」が影としては起こりえます。その「全思考」「無限の思考」の中に、、、、「世界は分離している」という思考も含まれるのです。この思考が「分離感」を作り出し(本当はただ起こる)これを解消しようとする思考のドミノが倒れていきます。この思考のドミノこそが全ては分離を前提としているため「分離感」を生み出し続ける結果になるのです。そしてそのことに「気づく」が起こるまでこれは続きます。

「気づく」とて

この事実に気づいたとて、、、このドミノが急に止まることはありません。最初のうちはそれに気づきながらもドミノは倒れていきます。ですが「気づき」の中でドミノが倒れていくことでこのドミノの勢いが減速していきます。ドミノの勢いが減速していきますと同時に「分離感」が薄れて行き、、より余裕を持ってこれに気づくことはできるようになります。結果的に「分離感」解消のための「思考」が減り続け、、夢が夢として認識され、、苦しみは減り続けていくのです。

「飲む」という言葉が起こった瞬間

分離の世界に

言葉とは、、「分離」を作り出すツールです。切り抜きです。「グラス」という言葉を使った瞬間「ここ」から「グラス」を切り抜きます。「飲む」という言葉を使った瞬間「ここ」から「飲む」を切り抜くのです。そしてこれらは「空」の影としては絶対に起こりえないので、、あくまで「思考」として起こるわけです。「分離」は影としては絶対に絶対に起こりえないので「思考」としてのみ現れます。

つまり

切り取られた瞬間「夢」が始まります。切り取る、分離は影としては絶対に絶対に起こりえないので、、全ては思考の中で起こるのです。それは影が作り出した夢です。そして夢が立ち現れた瞬間、そこには「居心地の悪さ」が同時に生まれるためそれを解消しようとする動き(思考)が生まれます。ここから不快解消のドミノが倒れて行きますが、、、まさかのそのドミノこそが「不快」を作るのです。

「切り取り」を自覚する

この人間社会で暮らす限りは「言葉」を使わないコミュニケーションは不可能です。ですが同時にこの言葉を使ったコミュニケーションは「切り抜き」を起こします。つまり言葉を使った瞬間「夢」に入り込んでしまうのです。だから人間社会とは夢社会です。では我々はこの社会に依存する以上は、、夢の苦しみを耐え抜かなければならないのか?????違います、、、夢の不快から抜け出す唯一の方法があるのです。それが「言葉の魔法を見抜く」ということです。言葉が起こす「切り抜き」を俯瞰する視座を手に入れるのです。

分離はありえないという認識の中で

分離はありえないという認識の中で言葉を使っても「グラス」という「個別の存在がある」という認識には絶対になりません。「グラス」という「ここ」から切り抜かれた存在は存在しないのですから。その時言葉は「指し示すラベル」に過ぎないことを自覚できます。我々人間業界では完全分離した「グラス」として名前を使っていますが、、これからは完全分離はあり得ないという認識の中で「グラス」という言葉を使うのです。

「ストーリー=思考」の自覚

私の人生

私の人生=思考の産物であるという自覚を持つ人は稀です。ですが実際にはそうで私の人生とは思考の産物です。私の人生が思考の産物なんて誰にも教わったことはないですよ!!!!!!そうです、、、だから誰も苦悩の解消方法を知らないのです。もう諦めないといけません、、、、私の人生には幸福など存在せず、苦悩しかないことを。

いやいや

私は細やかながらも幸福を味わって生きていますよ、、それはそれで満足しています。残念ながらそれは幸福ではなく、、比較による偽りの安堵です。あの人よりも、この人よりもマシな生活をしているという高揚感のようなものです。実際にはこのストーリーの中は常に常に居心地が悪く、、それゆえ人は他人との比較の中でなんとか納得しようとするのです。

本当は

本当の幸福とは、、、この人生が思考の産物であると見抜くことです。思考が作り出した概念こそが私の人生です。このことを本当に理解しますと孤独感、分離感、違和感という信念に基づく感情が湧きにくくなっていきす。私はこの世界で分離した個別の存在であるという信念こそが「孤独感」「分離感」を生むのであってそれが信念であることを見抜いて、、その感覚が明から様に起こることはないのです。

信じることで「感」が生まれる

苦しみ

孤独感、分離感、違和感、喪失感、、、、、これら人間の常習的な感覚は一体何が作り出したのか??????本当はこれらは存在しません、、、元々はこれらは存在しませんでした。ですがいつの間にかこの感覚が飛び出してきて常習化し常態化したのです。この感覚の製作者は誰ですか???????人間業界的には「私」となりますが、、「私」という分離した存在はこの現象界には現れることができません。現れることができない「私」がこの世界に現れ出る唯一の方法は「私が居る」という想いだけです。

ネッシーは存在しなくても居ると思うことは可能

仮面ライダーは実際には居なくても「居る」と思うことは可能です。宇宙人が居なくても「居る」と思うことは可能です。「私」は居なくても「居る」と思うことは可能なのです。この「私が居る」と信じることで「分離感」「孤独感」が生産されたのです。これならできるのです。では一体誰が『「私が居る」と信じる』のでしょうか?????それこそが影の動きとして起こったのです。空『不変の自己』の影である現象としてその動きが起こり「現象」として「孤独感」「分離感」が起こっています。

真実

真実、ノンデュアリティ、非二元のメッセージは「その信念」を崩壊させます。完膚無きまで崩壊させます。「思い込み」という遊びを崩壊させるのです。その時今までいつも感じてきた「孤独感」「分離感」「違和感」が現れてきません、、、思い込みが思い込みであったという気づきの後に生産された「感」が起こらないのです。この時気付くのです、、、「夢を見せられていた」と。

植物学者

公園

植物学者が公園を歩けば、、「一歩歩むたびに知っている植物が飛び出してきます」、、、、パンジー、チューリップ、シダ植物、苔植物、、シダ科の〇〇、、苔科の〇〇、、、、広葉樹の〇〇、、、、入ってくる情報量が全く違うのです。空の影(全現象)から記憶によって切り抜き(何科の〇〇植物)が始まり、、それが現れ出るのです。一般人が公園を歩くはるかに多い切り抜きが起こるのです、自動的に。ですがここは空の影ですから、、、、切り抜かれた「存在」は存在しません、、一切の分離が存在しない影、、それがここです。

街を歩けば

いまここで街を歩けば、、、記憶から起こる切り抜きが次々に起こります。「ナイキを着た女性」「パタゴニアを履くオッサン」「ビンテージジーンズを履く男性」「マクドナルド」「〇〇」自動に自動に記憶から切り抜きが起こるのです。完全分離のないこの世界に切り抜きが起こります。ですがここが空の影ですからどれほど切り抜かれようと、、、分離は起こりません。この切り抜きこそが分離感を作り人間を苦悩に陥れるのです。

じゃあ

記憶から勝手に「切り抜き」が起こるならば、、、もう我々は「切り抜き」からくる苦悩からは絶対に絶対に逃れられないですよね????????100パーセント自動でこの切り抜きは起こるのだから。大丈夫です、大丈夫なんです、、、、、我々はこの「切り抜き」を本気で「分離した何か」であると今まで信じてきたんです。疑いの中で信じてきたんです。だから苦しんできた。ところがこれは絶対に切り抜けない何かを強引に切り抜いてきたんだという新しい認識が生まれます。つまり切り抜きながらもそれは不可能であることを自覚するのです。つまり真実を100%自覚しながら切り抜くという認識に至るのです。

その時

分離感、違和感、孤独感、、、、が起こりません。なぜならば「感」とは100%その存在を信じることで起こるのですから。「切り抜き」を「切り抜かれた何か」という信念が崩れるのです。その時「分離感」が起こらない、、、「私」という存在からも分離感が起こらない、、、、もうその存在を独立した何かであると信じていないからです。完全な静寂の中で完全な安らぎの中で便宜上の「切り抜き」はそれでも続きますが、、そうなります。

影に時間はあるか????

ない

この世界は「空」「絶対」「不変の自己」の影です。なぜこの影があるのか?????「空」は全部ですから「空」の存在を知る存在を含むのです、、その存在が存在を知るためのツール、それが影(この世界)です。その影に時間はあるのでしょうか????影に時間はありますか?????ないです。影にそれをコントロールする「主体」は存在しますか????ないです。よって私もあなたも彼も「影」ではなく思考という影です。

音楽

音楽とは音が繋がっていく様です、、、時間がないにも関わらずなぜ音楽は起こりえるのか????時間があろうとなかろうと音の繋がり(音楽)は影の動きとして起こるのです。そして人間の脳はこの音の組み合わせを認識し、、、メロディーに変換するという影の動きが起こるのです。メロディー自体がそのままに影として現れ出るのではなく「思考」という影としてメロディーが起こるのです。

影以外は存在しない

この世界で起こる認識の全ては「影」です。「影」以外の認識がおこりえません。ですが影の内容においては「真実ではないことを指し示す内容」も現れでます、影として。なぜそのようなことが起こるのか?????それはこの影の主体『空、絶対』は全部だからです、「考えれる可能性の全て」が主体なのです。よってその主体の影であるここには「起こらないものはない」のです。「真実を指し示さない全ての思考」が影としてここには現れ出るのです。

構造上不可能

ノンデュアリティ

悟りとは科学です。科学的に不可能なことは不可能、、不可能にも関わらず「そう信じる」ことは起こりえる。この2種類の分類が全てです。「私は孤独な存在である」これは科学的に不可能です。だから「私は孤独な存在である」は思考、信念です。「私は昨日中華を選びました」これは科学的に不可能です、だからこれは信念、思考です。

私という存在は科学的に不可能、起こりえないのです。ですから「私」は思考、観念、信念の産物です。だから「私を主語にした全ての文章」は科学的に存在しえない、、、よって全部思考、観念、信念の産物です、つまり夢です。私は、、、、と行った瞬間に夢の中に入り込みます。それが悪いとか良いとかではなく科学的にそうだということです。

水と鉄を合わせると木になる

これは科学的に不可能なのです、、、上記は思考、観念、信念です。どんな思考が起こっても何も問題はありません。ですが科学的に起こりえるか起こりえないかを知らないと、、、「苦悩」が続きます。苦悩が続くことが「悪い」ということは全くなく、、、こうやって苦悩が続くのだ、、という科学の証明です。

後悔

影の動き

我々の影の動きです、、、「我々」というのも思考という影の動きです。影の動き以外はここでは何も起こりませんし、、全現象が影の動きです。どのような影の動きがあってもそこには「主体」は存在しません、、もしも主体を感じたとしても「主体を感じた」という影の動きが起こっただけです。実際には構造上「不可能なのです」。「主体も不可能」「分離も不可能」「孤独も不可能」です。構造上不可能な事実を感じたならば「そう感じた」という影の動きだけが起こったのです。

この事実

この事実の理解が起こった時に「後悔」という思考の動きが起こりにくくなります。構造上「主体」が存在しえないにも関わらず「後悔」って考えるのが不可能なのです。「雨が降った時」そのことに後悔するってできるでしょうか??????私は今雨が降ったことを後悔してます」って文章として成立しないのです。文章として成立しないことを理解しながらこの思考を維持することが難しいのです。

私の行動を反省しています

この文書は構造上成立しないのです。行動をコントロールできる誰かはこの世界には存在せず、、全ては影の動きです。そして影自体は影の動きをコントロールできません。つまりコントロールできるという思考が影の動きの中で起こるのです。思考も100パーセント影の動きです。

グラス

グラスが影ならばなぜ触って、動かせて、砕けて、、嗅げるんですか???????その感覚こそが影です。え??????そうなんです、、この影とは起こる現象全てで影です。「グラス」が示すのも影の一部であり、感触も影の一部であり、、動く絵面も影の一部です。。。。この影とは「つまり全部」なんです。「このグラスが影????」という分離を意味する思考が起こりますがその思考こそがまさに影です。

どんな思考が湧こうとも

どんな思考が湧こうとも、、影には分離は絶対にないし、独自に動く影もありません。影は完全に受動的であり、、影に独自性は存在しえないのです。もしも独自性、分離性あるのならばそれがあるという思考が受動的に湧いたのです。影は影であり、、それは物質ではありえず、、ましてや分離もありえず、、ましてや独自性もありえないのです。ですがそれら「全てがある」という勘違いの思考はどこまでも起こりえるのです。

窓の外を見れば

鳥が居ます、、、いま「それ」に鳥という言葉をあてはめ、、「それ」から鳥だけを切り取ったのです。これがまさに現象として起こるのです。影の上に「切り取る」という影が起こりました。これが全自動で起こっています。これが分離感という苦しみを生み出しますが、、そのことを止めることはできません。全ては影の動きとしてそれが起こるのですから。

ただし

そのことの理解(影の動き)が、、、次の動きを起こす可能性があります。全部が影であるという完全理解が、、分離の夢を覚めさせるという「影の動き」を起こすかもしれません。そして何が起こったっとしてもそのような影の動きがあっただけです。だから見かけ上の私たちは最初から救われていますしこれからも救われています。完全な影の動きの中で不幸を感じ苦しみを感じ、、完全な影の動きの中でそこに気づき、、解放が起こるのです、見かけ上。

分離の影????

これは空の影

これは影です、空の影です、、、影に分離は存在しえますか?????絶対に絶対にありませんよね。この体の影に分離があって各々が独自に動いたら天変地異です。つまり影に独自性などあるわけがなく要はそれは全て幻想です。影は動くから、、その動く部位を切り取って「名前」をつけたのがこの「現実」と呼ばれる世界ですが分離は絶対に絶対にないのです。

グラス

目の前の「これ」にはグラスという名前が付けられてはいますがですが同時にそのような「分離した存在」は絶対に絶対に存在しません。グラスという名前が示す存在は思考の中に存在します、つまり夢の中です。本当は完全にこれは影であり、、影に分離は起こりえないのです。だからグラスという存在は動こうと粉々に砕け散ろうとも、、全部影の現れです。影がそういう表現をしているだけです。その影は影ですからここからここまでの影とここからここまでの影という分離はあるわけがないのです。

一部の影は今もどこかに?????

あのカフェで出あった店員さん、今頃何やってんだろうか??????いないです、、影です、、影がその時その場所で現れ出る模様でしかありません。だから今ここに現れ出ていない影は存在しないのです。そして「その店員さん」という独自の影が単独活動をして今もどこかで「影」やってるってわけがない。「その店員さん」というのは影の一部につけた名称です。