自我

自我は絶対に至福を見つけることができない

完全は不完全に気付けるが

完全は不完全に気づけます、完璧は不完璧に気づけます、完成は非完成に気づくことができます、、ですがその逆は成り立ちません。駆け出しの画家がピカソの絵の完璧さには気づけないように、、自我(幻想)が真我(完全)に気づくことはないのです。つまり自我による真我の探究は不可能なのです。幻想による真実の発見は不可能なのです。個人が努力して真実に至るのは不可能なのです、発見できません、構造上。

幻想は常に気づかれる

幻想、現象、夢が常に気づかれ続けるのは、、本当の自分は完璧、完全、完成だからです。この中で幻想、現象、夢が起こればそのまま気づかれることになります。ですが幻想、現象、夢が、、本当の自分(完璧、完全、完成)に気づくことはありません。気づきのベクトルは常に本当の自分から現象に向かって、夢に向かって起きるのです。ですから自我が常に気づかれるのは本当の自分から自我に向かってなのです。この反対は無いのです。

空から色に気づきが起きる

自我は色です、私は色です、自分も色です、、、これらは空の存在から現れ、、そして気づかれ続けるのです、だから自我は存在しているという思考も湧き続けます。その自我が空に気づく絶対に気づくのは不可能です。自我は幻想ゆえに幻想が実在に気づくことはできません。実在が不在、幻想に気づくのです。つまり我々は真実、空を発見できません絶対に。ですが我々が気づかれ続けるのは本質が実在だからだ、、という結論は本質の存在を露わにします。本質がこの世界の嘘に気づくが起きやすくなります。

AIに仕事を奪われる????

これは夢です

これは夢です、、AIに仕事を奪われるのではないか?????このように恐怖に慄いていますと、、本当にこの夢はそうなっていきます。AIが人類を駆逐する現象、夢が訪れるでしょう。なぜか????これは夢ですからあなたの観念が投影され、、あなたの観念通りの夢が完成していくのです。AIは人類を豊かにする、、そのような思考を強く強く信じればその思考が観念化され現象化され夢化されストーリーになります。

人間は全く働かなくていい???

そのように強く強く信じればそれが観念化されそれが現象化し、、夢化し、、その夢を「私」は生きることになるのです。じゃあ思いっきり楽観的な観念を持った方が得ですよね!!!!その通りです、、思いっ切り思いっきり気楽な観念を持てばそんな夢を生きることができます「私」は。ですがですがどんなに気楽な人生を夢の中で生きても、、、、違和感、孤独感、不満足感が消えることもありません。なぜならばなぜならば、、この「私」はまだ夢の中にいるからです。「私」という幻想こそが不足感の根源なのです。

これって夢じゃね????

多くの経験をこの夢の中でし尽くしていきますと、、、、なんとなくですが、、この現実って本当か????という疑問が湧いてきます。「私」のストーリーに忙殺されていたのが徐々に徐々に「私」を俯瞰する感覚を所有していくことになるのです。「私」の欲望にあまり振り回されなくなっていくのです、「私」の欲望に振り回されて「私」を信用できなくなっていくのです。「私」ってそんなに重要なのか???「私」って超面倒臭いよね!!!です。

悟り本に興味が湧く

「私」に振り回され「私」によって忙殺され「私」に裏切られ続けてきたことで「私」を信じることができなくなり、、、もうこの「私」を幸福にするという発想に徐々に疲れてきます、無理ゲーじゃね??です。そこで悟りに興味が湧くのです、、そういえば悟りって欲がなくなった状態だっけ???そういえば悟ると至福に至れるって聞いたような、、、それまでギャグでしかなかった悟りという言葉に興味がでます。この段階にまで行きますと、、悟り本が染み渡るようになる、、この体に、、そして自我が徐々に溶け出していきます。

この体も実は実在ではない

この体が消えて無くなる時がある

星空が綺麗でそれを眺めている時、、、視界から完全にこの体が消えます、、、視線が星空で占領されている時自分の体は全く見えなくなるのです。その時に自分の体が存在しているという証拠がないのです。いやそんなことはない、、私の目で星空を見ているではないか?????残念!!その証拠がないんです、なぜならば視界には星空しかなく、、それを客観的に証明する方法がないんです。一緒にいた友人が証明してくれますよ!!!間違いなくあなたが星空を見ていたと、、、、残念、、、それは星空を見ていた瞬間ではなく、、その後の話です。

この体の中にあるはずの自我

この体が消えて無くなる時があるならばこの体の中の自我など実在するわけがないのです。例えば熟睡時、、この体は見えないし全く自覚できません、、この瞬間実は体は消えてないのです。そうなるとその中にあるはずの自我も当然消えてなくなります。自我はどこに消えてどこから復活するのでしょうか????自我もこの体も幻想だからこそ消えることも復活することもできるのです。

起きている間中に確実に存在するもの

この体は視界から消え去り、自我という存在も忘れている時がある、、、ですが確実に存在し続ける存在があります、、、、それが存在している、、、という感覚です。。この存在しているという感覚だけは、、絶対に絶対になくなることがありません。つまりこの存在している、、、という感覚だけが実在しておるのです、紛れもなく。この存在している、、という感覚だけが、、、本質であり、、本当の私です。この本当の私が、、時に「私」という思考に気づき、、時にこの体に気づくのです。

無我夢中の時に消える自分は実在しない

この体は常にあるが

この体は常にありますが、、、何かに無我夢中になる時、、自分の存在を忘れている時ってあります。あれ完全に無我夢中になっていた、、、自分ってそんな簡単に消せるんですか????という話です。もしも消せるならば、、自我は実在しないことになります。では自我はいったい何なのか????それは思考です。時に現れ時に無くなるのであれば思考でしかない。つまり自分なんていうものはやはり実在しないのです。

全思考はノーコントロール

そうだ!りんごを食べようと、、思考する時に、、、、その思考を自分が作り出したという自負はあるでしょうか????恐らく全くないはずです、、、なぜならばりんご食べよう!!!は勝手に湧いてきたに決まっているからです。例えば今日1日おいて思考する内容を最初に決めよう!はできないはず。今日は映画のことだけを考えよう!そう決めたとして、、数十秒後には、、お昼ごはんのことを考えるかもしれない、仕事のことを考えるかもしれない、、、つまり全くのノーコントロールなのです。

自分も思考でしかなく、、思考の内容はノーコントロール

これが真実です、、自分も思考、そして思考の内容は完全にノーコントロール、、、そして友人の中の自我も思考、そして友人の思考も勿論ノーコントロール、、、ノーコントロールな思考だけが行動だけが飛び交うのが人間社会です。そしてそれに気づきが起き続ける、、、それらの思考、行動に気づき続ける存在、、それを真我、気づきの意識と読んだりします。

思考分析を続けると、、、在るのは、、真我、気づきの意織

思考分析を継続していきますと、、、確実に存在するのは、、真我、気づきの意織だけです。ノーコントロールな思考、行動、あらゆる現象に気づき続ける存在、、この体の中に自我が実在しないとなると、、、それは真我、気づきの意識であると逆算されていきます。そうです私たち(思考)は真我、気づきの意識のことを「私」と呼んできたのでした。

あなた(海)なしには何も存在しえない

見える世界は全部あなた(海)が居てこそ

あなたが居ないでこの世界は何一つ成立しません、、なぜならば今見ている世界はあなたの存在があって出現し、認識されているからです。あなたはこの体だけの存在では全くなく、、、見える世界の全てに気づく存在です。目の前に大河が流れているならばその大河を今の姿にして出現させているのはあなたであり、大河に気づいているのもあなたです。あなた(海)なしに大河はその姿を認識してもらえないのです。この広大な大河が自分ありき???海とは大河どころではないのです。。。夜中に望遠鏡で宇宙の星々(波)を眺めてみてください、、これらはあなたが居て初めてその姿を姿たらしめているのです。

急に自分が大きくなった気がする??

そうです、、、あなたはとんでもなく大きな存在であなた以上に大きな存在は居ません。そして同時に目の前のこの人もあの人も、、、全員が海としての活動を今もしているにも関わらず波としてこじんまり生きています。その方が毎日田植えをして生活をしているにせよ、、、海として生きるか波として生きるかによって人生の満足度が全く異なるのです。勿論この体(波)は全体から見れば小さいのですが、、海全体の能力を保持したまま波として生きるのを自覚するのと、自覚しないのでは全く違った人生になります。

特別(波)を目指すのではなく

なぜ我々は常に特別(波)を目指すのでしょうか???今海の能力をフルに発揮しているにも関わらずこれ以上の能力(特別)をさらに手に入れようとするのは滑稽です。既に自分(波)は海であり万能なんだということを認めてしまった方が良いのです。ですが特別(波)であろうとする自我はそれを認めないでしょう、、なぜならば全員が海(万能)であることを認めることは自身の存在(万能を目指す)を否定することだからです。

全員が悟っている

波だけど全員同時に海

音が聞こえ、光が見え、料理を味わえ、触れば感じる、香りも嗅げる、、、、これ全部海でないとできないことです、、波の機能では不可能なのです、、、波が持っている機能では実はこれはできないのです。というよりも波には何の機能もないのです。つまりつまり全員が海の機能を所有し、、それを波の機能と「勘違いて」生きているのです。

海の機能を持ちながら、、波として萎縮して生きる

全員が海でしかできない能力をフルに発揮していながら、、波として萎縮して萎縮して生きています。自分(波)なんてしがない人間ですから。なんの取り柄もない人間(波)でござんす。生きていてもこの先何にも良いことないし。。です。本当は波なんていうちっぽけな存在ではなく、しかも海の機能を全発揮しておきながらメンタルだけは波として生きるというおかしなことをしているのです。

萎縮するのは終わり

見える現象(波)の全てに気づき続けてきた海でありながら、、自身を波として生きている、、この滑稽なコントをしているのが波物語です。ですがそのコントこそが無限(海)のアートでもあるのです。海(無限)は波活動を通じて無限の体験を積んでいるのです。波(自我)とは海の無限体験を積むための道具です。ただしこの体験は苦しみを伴うため全波が海を目指して生きていきます。どこかに桃源郷(海)があるのではないか???と。ところが今自身が海であることには気づきません。

お前(波)は既に悟っている(海)

既に悟っているんです?!

ノンデュアリティ、悟り本にたまに出てくる言葉、、あなたは既に悟っているんです。。。この言葉、、こんなこと言われて全く救われない、、、となります。既に悟っているならなぜ今苦しんですか???という話です。個人にとって自分にとって全く役に立たない言葉「あなたは既に悟っているんです」これってどういう意味なんでしょうか???

音が聞こえて、物が見えて、料理を味わえて、、、

友人との食事会、、友人の声が聞こえて、食事を味わえて、、友人の笑顔をみえて、、この当たり前の人間能力、、五感の働き、、これら全てを当たり前と個人は考えていますが、、これ全部、、海(悟った状態、解放)でしか出来ないことです。波(個人)にはこのような能力は存在しないのです、、、????波は海の上を漂うだけですから五感という能力は持ち合わせれないのです。いやいや、耳、鼻、目、口、舌、、、全部五感を司どる機関がありますけど?????違います、、これらは全部幻想です、実在しません。

実在しない耳、鼻、口、

この物理次元の物質は全て幻想です、あるように見えているだけです。実際には海(スクリーン)が現象(波の動き)全てを認識するのです。海が海の中で起こるあらゆる動きに察知し気づくのです。スクリーンがスクリーン上の画像に気づきスクリーンが気づいたことを個人が所有して自我が発達したのです。その全ては幻想です。だからケンシロウは相手にいうのです、、おはえは既に死んで(悟って)いる。全部知覚できているということはあなたは既に海、スクリーンですよと。

普通の日常

普通の日常がいかに奇跡なのか

朝起きたときに、、普通に太陽の光が燦々と輝きます。これって別に当たり前のこと、太陽があって地球があって、、、こう個人は思うわけです。ですが太陽が輝いているというこの映像、、この映像を作り出すためには、、何も輝いていない光が必要になります、その上に太陽の光が重なることでそれに気づくが起こるのです。この何も輝いていない光こそが私の本質です。

友人と会話ができること

会話をするためには音に気づかなくてはいけません、、この音に気づくということを可能にするには音の下に静寂がないといけないのです、、常に静寂が下にあるからこそ、、、音に気づき続けるということが起こるのです。静寂の存在なしに音に気づき続けることは不可能なのです。

自分が居るという誤解を作る

我々が自我を維持し続けるためには自分が居るという思考を保持し続ける必要があるのですがそのためには思考に気づき続ける必要があります。そのためには無思考という状態が元になければならないのです。これが我々の本質なのです。我々はいかなる時でも本質ではない時はなにのです、、本質が本質であり続けるからこそ、、この人間ドラマも成り立つのです。勿論この人間ドラマは苦しいわけです、、その苦しみに気付けるのは、、至福が根底にあり、、我々の本質が至福だからこそ気付けるのです。

雲の動き(犬と猿)の戦いの勝負に意味はあるのか?

全く無い

ある雲の形状が犬に似ているから犬と名付け、ある形状が猿に似ているから猿と名付けました。やがてその二つの雲の動きがぶつかりあい結果猿の形状が残り、犬の形状は消滅した。ドラマで言えば猿の勝利、犬の敗北です。すると猿の自我からは喜びの感情が湧き出る、犬の自我からは悲しみの感情が溢れる、この戦いに意味はあるのでしょうか??このドラマに意味はあるのでしょうか???真実ベースとしては全部嘘です。ですがストーリーとしてはあらゆる感情が起き上がりそれは事実です。その感情には一切嘘はないのです。

どっちが本当なのか???

真実をベースにすればただ雲の動きがあるだけ、、時間もない、、何もない、、です。ですがドラマで言えば犬猿の戦いがあり感情が揺れ動きます。ドラマとしては100%時間も空間も感情もあるのです。ですが本当は何も起きていないのです。解放とはまさにこのこと、、何も起きていなかった、、そして何も起きていなかったという思考すら起きない、、なぜならばそれが起きる自我が真実では存在していないから。ただ犬が消え、猿が消え、感情が起きないだけ。

それでも雲は動き続ける

それでも雲は動き続けます、勝ち残った猿の動きはそれからも続くのです。ですがこれまでのように犬に勝った、猫に勝った、ネズミに勝った、、という感情は起き得ない、、、真実ベースですから。ただ雲の動きを観察し雲の動きを感じるだけ。吾輩は猿である、吾輩は犬である、、はもうない。猿に見える雲の動き、犬に見える雲の動き、、、という気づきが続くだけです。これは面白いのか???これに感動はあるのか???今までのような感情は湧かないけれど至福が続きます。

世の中の感動ドラマって結局何なんだ?

ハッピードラマを目指す

世の中って七転八倒、右往左往、喜怒哀楽、様々なドラマを歩みそれに感動するストーリーが多いものです。ですがこれって結局悟りの観点からしたら意味ないんでは????となります。そうです意味はないんです。この世界は無限の表現の場所でしかなく、、これがいい、、これが悪いっていう特定の解釈は真実とは何も関係がないのです。真実には解釈はありません、真実とはたった一つのエネルギー。です。たった一つのエネルギーが変化するだけです、そこに意味を付けるのは自我ストーリーの話です。

プールに浮かぶボール群に名前を付けて遊ぶ

幼少期プールの上に多くのボールを投げて遊んだりしました、そのボールが集まって魚の形をしたり、犬の形をしたり、蛇の形をしたりして子供は喜びます、魚が居る、犬が居る、蛇が居る!!と子供は喜ぶわけです。ですがこれらの動物は数秒ごとに形を変えていきます、、、もしかしたら魚と犬がくっ付いて合わさって、、、これにドラマをつけるならば魚と犬が衝突して魚が消えちゃったとなります。ですが実際にはそもそも魚を犬も実在しないのです。

我々はこの現実世界でそれをやっている

我々はまさにこの現実世界でそれをやっています、ある特定の動きに対し犬、猫、魚、花、、、と名前を付けはしますが実はそれは実在ではなく、、ただ見える輪郭に名前をつけているだけなのです。そしてまさかの人間も同様です。つまり本当は何もかも実在ではないのです。輪郭に名前をつけてそれが動くからドラマが始まったように見ているだけです。だからこそ世界は私の思うようにはいかない、、となるのです。

苦しみからの解放

この世界の苦しみとは無いものをあると信じて、、そのドラマに入り込み、、思うようにいかないと嘆くことです。ないものをあると思い込むことで、苦しい、違和感を覚え悩んでいるのです。本当はこの世界には何もなく、、生命の動きだけがあるのです。それが理解できると、、、こう生きねばならぬ、これが我が人生、、とかどうでもよくなるのです。その時本当の解放が起きます。