自分

自分(縄張り)の必要性を無くしてしまう

悟りとは自分(縄張り意識)の必要性自体を無くしてしまうこと

自分が頑張ってこの体を保持してきた、自分が懸命にこの体をサバイブさせてきた、、自分がなんとかこの体を生き伸ばしてきた、、にも関わらず自分なんて本当は居ないんですよ、、、と突然言われて何を言っているか分かりません。いきなりお役御免ですよと言われても、、無理ゲーです。そうではなくなぜ自分が必要ないのかを説得していきます、、、元々全てが根源の現れであり思考も全て根源の現れです、自我悪者であるはずがなく全て根源(愛)でできています、ただこの自分が居るという思考が強く湧き出しますと苦しいもセットで湧いてしまうのです。そして全ての思考が実は根元から湧いているだけだった、自分が作り出していたのではなくただ湧いていただけだった、、この事実を知るだけで軽くなるのです。縄張り意識が和らぐわけです。縄張りを強く意識して「自分」がこの縄張りを守るのだという思考が湧きにくくなるのです。もうこれからは「自分」が頑張る必要がないという事実を理解するが起きればそれでいいのです。

自分の必要性を理解する方が早い

本当は居ないんです、本当は自分なんて存在していないんです、自分が居ないの大合唱はこれまでの脳の進化からすると急ブレーキになってしまいパニックになるだけです。そうではなく自分を肯定していく、自分を絶対肯定してく、、この作業が自分を緩めます。そうかこれまでの決断全てはただ根元から湧いてきていただけだったんだ、、これまでの思考も全て根元から湧いていただけだったんだ、、これが自分を緩めていきます、自分の必要性が崩れていくのです。

強烈な縄張り意識(自分)も愛せる

縄張りを強く意識している狼は悪者でしょうか、縄張りを強く意識しているライオンはエゴイストでしょうか、、彼らはただ自身を食べさせるために必死なだけです。狼、ライオンの縄張り意識は愛おしいものです。そしてその縄張り意識も根元からの現れですから愛でできています。この世で愛(根源)以外の現れはありません。そしてそこまで理解が進んでいき自分(縄張り意識)すらも愛せるようになった時に全てが根源だった(悟り)が腹落ちします。

自分が居なければ苦しむことはできない

なぜ野生動物は苦しむことができないのか???

野生動物は孤独感、悲壮感、怒り、苦しみを感じることができません、彼らはそれらの感情思考を感じる術がないのです。なぜか???自分という自我が芽生えていないからです、自分が居るという思考が湧いていないからです。これがないとなぜ喜怒哀楽が湧かないのか??それは攻撃されても罵られても個人というアイデアがなければ反応できないのです。何かを盗まれた時に自分のお金という思考がなければ怒ることができません。ただお金が無くなったでは怒りが湧きようがないのです。

人間の脳は進化し自分を作り上げた

人間の脳は進化し野生動物とは全く別次元の活動を始めました。それが思考活動です、この思考活動が自我を形成し自分の餌、自分の土地、自分の獲物、自分の寝床、自分の領地、自分の縄張りを強化していったのです。これは自己生存保存能力最大の強化になりました、、ところがこの自己は、、、他者からの侵略に対して過剰に反応します、、これが全苦しみの元です。自己保存能力強化と引き換えに苦しみを作り上げたのです。

この事実をただ認識する

この事実を認識しますと、、、怒り、むかつき、悲しみ、孤独が湧いてこなくなります。なぜならばこの感情、思考は自己強化戦略の副作用に過ぎないからです。本当は自分など存在しない、戦略上作り上げた方が良かっただけ、だからこそこの喜怒哀楽の感情に振り回される必要がないのです。戦略的に自己を作り上げ結果人間という種族はこの地球上で繁栄した、だがこの自己は他者からの侵略(攻撃、批判、中傷誹謗)に過剰に反応する、、結果人生が苦しくなるというメカニズムです。

「自分が居る」を湧き続けさせるには「対象」が必要になる

日本が戦争に巻き込まれれば日本が実在することを疑わなくなる

日本という国は実は実在しません、日本とはただの名前であって国境も実在せず法律上決めた文字情報です。ですが日本対中国などの戦争が起これば間違いなくその事実を多くの人は忘れ「日本はこれから大丈夫か???」と心配になるはずです。その時人の思考には「日本」がガッツリ存在するはずです。ですが日本という国は実在せず名前に過ぎないのが事実です。

人はトラブルをあえて起こすことで「自分」を確認する

人とのトラブルは確実に「自分が居る」を湧かせます。トラブルを起こすには「自分」と相手が確実に必要になるからです。トラブルを起こし続ける人はこれが起き続けていると思えばいいのです。トラブルがなければ「自分が居る」を維持できない、ゆえにトラブルが起き続けます。例えば目標がある人はトラブルが必要なくなります、なぜならば目標(対象)が「自分が居る」を湧かせ続けることができるからです。

金メダルを目指すのは最高の自分維持

金メダルを目指します、アスリートが話すこの言葉の奥には金メダルを目指す自分の存在を強固にできるというメリットがあります。金メダルを目指す『誰か』が必要になり、、、「自分が居る」が湧き上がるのです。金メダルを目指すあなたは居ませんよ、、、誰もが信じようとしないでしょう。ということで人はトラブルや、目標を設定することで「自分が居る」を湧かせ続けていきます。

全てを自分ごとにする癖

全ては自分に向かって起きている

事実ではこの自分という存在とは何も関係なく現象が起き続けるだけです。自分など何も関係なく現象が起き続けそしてこの自分の体を通じても様々な事象が起き続けます。これを止めることができる存在は居なくただ淡々と事象が起き続けるのです。本当にただこれだけです、風が吹き、太陽が周り、雨が降る、この体も動き、発言もし、思考もする、、これが延々と起き続けています。そこに自分が居るという思考が湧き起こると事象は自分に向かって起きているという思考もまた起きるのです。

今までも自分とは何も関係なく起き続けこれからも起き続ける

これまでの自分人生もこの自分とは何も関係なくあらゆる事件が起き続けました、そしてこれからも同じように起き続けます。その事象を自分に向かって起きていると捉えるが起きるのか、自分など存在せずただ起き続けると捉えるかによって人生の重みが変わってきます。自分に起きたが湧くのか、ただ起きたが湧くのかです。事象に名前というラベルが貼られているこを見抜くと自分というラベルも剥がれ落ちていきます。

自分以外のラベル剥がし

自分というラベルを剥がすのは難しいものです、ですが周囲のラベルを剥がすのは意外と簡単まずはそこからスタートしましょう。雲という決まった物質は存在せず空に薄く広がった白い模様を雲と呼んでいるだけ、川という決まった物質は存在せず陸の間を流れる水を川と呼んでいるだけ、海という特定の物質があるのではなく水が広がる彼方を海と呼んでいるだけ、、、名前が付けられた事象は実は区切りなどなく、、こちらの勝手で区切りらしきものを設け呼んでいるだけ、、この作業を延々と続けそこに自分を付け加えたのが我が人生。

ただ生命現象が広がっている

これまでもそしてこれからも私の目の前にはただ生命現象が広がっていきます。名前というラベルを剥がしてしまえばたった一つの根源が移ろっているだけです。そしてそこに自分という個別の生命体など居るはずがない、、自分というラベルを最後に剥がすと全てになります。色即是空、空即是色があるだけです。こんなことが分かって何になるのか?その疑問が湧くうちは分かっていないだけです。

「悟り」と「自分」の綱引きに勝つ

五感全開で悟り、自分への呼び戻しを見抜く

悟りを学んでいきますと徐々に思考の仕組み、自分の仕組みが分かってきて五感中心、事実中心、根源中心の生活にシフトしていきます。思考のサイクル、悩みのサイクルが理解できてきますと悩み続けるということが逆にできなくなります。なえならばその思考こそが苦しさを生み出していることが腹落ちできるからです。するといつも爽快、いつも軽快という覚醒状態になっていきます。ところがこの状態は周囲からの評価も高いのでここでこの評価は「自分」が得たという思考が再登場してきます。この流れで多くの人はまた思考に振り回されていきます。

悟りが開きかけた時思考が大量流入してくる

この自分ゲーム最大の山場は悟りが開きかけたその瞬間、思考が大量流出して「自分が居る」を維持しようとする場面です。映画マトリックスでもネオが覚醒する瞬間までエージェントスミスが大量投入されてきます。覚醒を阻もうとエージェントスミスが大抵抗を続けるのです。この大抵抗こそが思考の大量投入、「自分」は凄い、「自分」はもっと評価されるべき、「自分」はついに悟りを開くぞ、、、です。気を抜いている間に「自分が居る」という最強の思考が湧いてきます。

爽快な状態に周囲は評価で「自分」を思い出させようとする

自我が薄れ爽快な状態が湧いてきますと、、この体に向かって周囲は最大限の評価を送ってきます。あなたはなんて素敵な人なのだろう、あなたの近くに居たい、あなたからその方法を教えて欲しい、という連打を浴びせてくるのです。これによってこの体は再び自分を思い出し自分への評価に酔いしれるという思考に取り込まれていきます。自分は評価されるなーという一瞬の酔いが覚めますとまた苦しみの人生が続くのです。これが思考(エージェントスミス)の悟り阻止メソッドです。

エージェントスミスの手の内を掴む

エージェントスミスの目的は、、、「自分が居る」を維持することそれだけです。これが目的ですからそのためにあらゆる思考が湧いてきます、例えばあいつはお前の悪口を影で言っているのでは?友人Aはお前を騙そうとしているかもよ、周囲から評価されているお前はいつか叩き落とされるかもよ、、、と、、するとそれは困る、それは腹立たしい、それはムカつく、、、という思考が再び湧いてきて、、、自分が再浮上するのです。まさか湧いてくる思考がエージェントスミスだったとは、、、、これは見抜けない。ただこれもエージェントスミスの手の内が最初から分かっていればスルーできます、思考が湧いたらバッサバッサと切り倒せばいいのです。

夢を見ている自分の不在

何かに夢中になる時、自分はいない

本当に自分っていつも感じているのでしょうか?そんなことは全くありません、日常生活の多くは自分は不在しています。料理を作り時に本当に自分はいるだろうか???いないはずです。料理を作る自分っている意味がないんですよね。自分なんて必要ないんです、ほとんどの場面で。ですがあらゆる物事が起きた後に自分が突然現れて自分にとってこれって良かったのか?自分にとってこれは有りか???と突然出しゃばってきます、、そしてこの出しゃばりが苦しみを生み出すのです。

自分なんて実はほとんど居ない

自分というのが居るという大前提で多くの方は過ごしていますが、、、自分を常に意識してなんて物事を進めることは不可能です。むしろ思考が湧いてきた時に自分を思い出しているはずです。時間が腐る程余っている人ほどに自分は頻繁に出現するでしょう、そしてそれに自分は安心します。ですがその状況こそが苦しい時間だったりすることを本質は分かっています。だが自分を消え失せることも苦しい、、自分を永続させたい、でも苦しい。

自分なんて存在しなくても全部うまくいく

自分という存在を意識しなくても物事は全部うまくいきます、むしろ自分という存在を忘れている方が上手くいきます。ですがそれでは自分が納得しない、、自分は消えてなくなってしまします。なんとかしてこの自分が価値があることを証明したいのですがそこを主張すれば主張するほどに苦しくなります。でも自分を捨て去るなんて冗談じゃない、、これが人生のパラドックスです。でもはっきりといえば自分など消えて無くなれば全部うまくいきし楽で楽しいのです。この自分というアイデアは自分ゲームを味わうために誕生した概念でしかないのですから。

「我在り」として存在するか、その中の「自分」で居るか

ストーリーの中では自分が出しゃばる

この自分ストーリー、この人生劇場の中に居れば、、周囲はこの「自分」に話しかけてきます。そのため自分はその度に再起動し「自分」を強化します。この体の中の思考、感情を含めた「自分」がこのストーリーの中んではデフォルトですからそれは当然です。ですがこれによって「自分」という存在が錯覚から実在になるわけでは絶対にありません。あくまでこれは錯覚の世界を抜け出さないのです。「自分」という思考が強化されるだけです。

ではこのストーリーの世界から抜け出るには???

ストーリーの世界の中に居る限り「自分」を強化する要因が多くあります。この「自分」がデフォルトのストーリーが延々と続いていきます。ではどうやってこれが錯覚であることに気づくのか???自分というのがいかに錯覚であるかを理解していくことにあります。トリックとはネタバレしていないからトリックであってネタバレしてしまったらトリックはトリックとして成立しないのです。ひたすらにこのネタバレを理解していくほかありません。もしくは事実にのみ向き合っていくこと、事実に向き合い続けることで事実に馴染み、究極の事実が向こから出現します。究極の事実とは本来の自分、エネルギー、大いなる一つです。

自分のメカニズムを理解したら、、もう自分に集中できない

自分とは圧倒的な錯覚がより集まって絶対的なものになっています。錯覚の寄せ集めがこの自分ですからこの錯覚のカラクリを暴き続けていけばいずれはカラクリに引っかかることができなくなります。カラクリとは裏側を知らないから騙されるのであって知ってしまえばそれは不可能です。ということでこの錯覚の仕組みを理解していくことは重要です。

本当の自分は誰か?

本当の自分は自分ではない

私は実は本当の自分ではない、、この事実を知った時に真から楽になりました、、、この何十年間と付き合ってきたこの「自分」が自分ではないと知った時に懐かしさ安堵感が込み上げてきました。やっぱりそうだ、、、これがその時の素直な思いです。やっぱり、、、なぜかは分かりませんがこの個人が生きているという単純な世界ではないことは昔から感じていました。でも個人ではないとしたら一体何なのか???神です。

なぜこれほど生きにくい世の中なのか???

私自身は中学高校と比較的受験勉強を真面目にやってきました、何かしらも目標があった方が気分が楽だし、将来のために準備をしていた方が安心感があったからです。ですが将来に対する不安感は強く、普通に働いて生きていけるのかは常に疑問でした。なぜかは分かりませんが楽しく働いている社会人の姿が全く想像できなかったのです。

案の定

社会人になってみると案の定、恐ろしいほどのストレスを抱え込みました、なぜこれほどまでにストレスを抱えるかは分かりせんが普通じゃないストレスを抱えました。自由を奪われるストレス、将来が決められてしまうストレス、、檻に閉じ込められた感覚を覚えました。そして7年間の会社員生活を終えフリーランスの世界に入りました。すると本当に7年ぶりに呼吸ができている感覚を覚えました、食事を美味しく食べることができました、、生きている喜びが込み上げてきました。今思えば「自分」という檻の中に閉じ込められているだけでも苦しいのにさらに「会社」という檻の中に閉じ込められるストレスが苦しかったのだと思います。

檻から抜ける

会社という檻から抜けることができた「自分」は物理的自由、精神的自由を手に入れたわけですがそれも徐々に慣れていきました、するとこの「自分」という檻を抜け出したいという次の衝動が襲ってきました。会社という檻の次は自分という檻の脱出だ、、、この衝動は止まることがなく、、、今こうしてブログを制作しています。正直自分自身がどの程度「自分」という檻を抜けているのかよく分かりません。ですがこのブログを書きたいという衝動、これは凄まじいものがあります。もしかしたらこのブログを書き終える頃に「自分」という檻を完璧に抜けれるのか?そんな期待をしながら書いています。

各指は全行動、全思考を自分がやったと認識するメカニズム

各指が完全分離したわけではない

腕全体を神、全体、大いなる一つとした場合、指がこの人間、自分です。そもそもが指には何一つ決定権はなく腕の一部としての活動がありました。ですがある時に指に思考が湧き出し指を腕とは全く違う独自の存在とする認識が起きました。それが自我、自分です。自分は何かをする力があるのではなく、、起こった行動、思考を自分がやったと思い込むメカニズムです。そしてこの自分が見る世界は、、自分の価値観が反映され価値観に準じた世界に形成されます。

引き寄せの法則とは

個人、自我に何かを引き寄せる力は絶対にありません、なぜならば自分は幻想だからです。ただの思考です。思考に何か現象を引き起こす力はありません。思考もただの起こりだからです。ですが価値観はその人間が見る世界を価値観に準じたように見せることができます。本質を価値観に沿って切り刻むことができます、なぜならばその人間が見る世界だからです。価値観に準じた世界を作ることはできますからそれを引き寄せの法則と呼ぶこともできるかもしれません。

腕と完全分離した指はない

指はあくまで腕の中の一部であって完全分離した指などあろうはずがありません。指が完全分離してしまえば指の機能は消え失せます。人間もこれと同じで全体から完全分離した人間などあろうはずがなく、、それゆえ人間は完全分離しているという認識が強ければ強いほどに苦しむことになります。人間の姿形は指よりも分離しているように見える分その誤解は深刻を極めるのです。

各指は自分が一番特別だと思う

特別になろうとする指

腕全体である神から指だけが独自に意識を持ち、この指は自分だと勘違いしたのが人間です。これによって指は独自の経験を積むことになり我が人生が作り上げられていきます。ですがこれは大いなる勘違いの上に構築された虚構ですから覚者はこれに気づきこれを幻想、ストーリーと称すのです。この指こと人間は、、自身をこの全体、腕から完全分離したという思考が機能しているので、、、常に心細い状態になります。心細い思考を自らこしらえておいてその心細さの原因に気づかないこの指は、、、周囲から注目を集めてこの心細さを癒そうとします、これも全部思考の策略です。要は特別であろうとするわけです。

競い合うように特別になろうとする各指

各指はそういう理由から我こそは特別だ、我こそは周囲よりも優秀だと自己主張を重ねていきます。ですが実際にどれほど特別だと思ってもらっても本来は指自身ではないのでこの心細さが消える事は絶対にないのです。そこでもっと特別にならなくてはもっと特別にならなくてはと必死になっていくわけです。これが思考の罠から抜け出せなくメカニズムです。

各指が自身を指だと勘違いしているのは思考

腕全体(神)から指だけが分離独立していると勘違いしているのは思考です。この思考が湧く出てくることで指は独自の世界を作り上げていきます。指は腕全体の中を動き回りそれによって空間、時間が生まれました。本当はそんなモノは存在しません。なぜならば「独立した指」自体が錯覚だからです。指は腕の一部でしかなく指という名称すら本来はないのです。ですが本来は無いにも関わらず指があると勘違いが進んでしまったわけですからこれはもうしょうがないのです。この事実を受け入れていくことでこのトリックに気づく以外にありません。