自分

自分を支える様々な価値観

キノコは秋が狙い目

自分とは全体から自らを分かれさせた存在、分かれたつもりになっている存在のことです。「この自分は体の中に在る」という思考が延々と湧き続けることでこれを維持します。「この体に自分がいる」という思考は全体から湧いていますからやはりこの自分劇場を永続させているのは全体ということになります。この自分劇場が始まるとあらゆる経験を自分はするわけですがその度に自分は新しい価値観を身につけていきます。動物は朝方に狙うのが良い、寒い日はじっとしていた方が得、キノコは秋が狙い目、、、などです。こうして自分の生存戦略として様々な思考を取り入れていきます。自分を存続させるためのあらゆる思考が湧いてきてそれを自分は記憶していきます。

記憶された思考はやがて価値観になる

自分を生存させるための思考が記憶されていきますとやがてそれらは統合されて価値観になっていきます、思考の複合体ですね。この価値観は全て自分の生存戦略です。人種差別、宗教差別、国家差別、民族差別、、、などの強い価値観は全て自分を生存させるための思考の束です。この価値観の凄いところは実際にそのように見えてくるということです。〇〇人は性格が悪い、、、という強い価値観を持つと本当にそのように見えてくるということです。これも自分の生存戦略です。

全ての価値観は幻想

ということで価値観とは自分を生存させるための生存戦略であってこれは事実ではありません。そのような価値観を持った方が自分が生存しやすいだけです。その価値観を持つことによって(例えば人間はみんな嘘をつく)人生が苦しくなったとしてもそれは自分にとってはどうでもいいこと。自分はいかにこの自分を生き伸ばしていくかが重要になります。ですがこの価値観は思考の束ですから人生劇場を続けていくことで日々移り変わっていくという特徴があります。

江原さんもビックリ!自分の生存戦略

自分を存続させるためなら死後も操る

自分とは全体から自らを分けた状態のことです。この全体から分かれた自分はこの自分をどうしても存続したという衝動があります。なぜかと言えば全体から分かれた状態は実は不足感、不快感、喪失感の塊になるわけですがこれが自分の感情として起き上がる時にもっと食べたい、もっと安定したい、もっと有名になりたい、もっと人気者になりたい、もっと自分として認められたい、もっと自分を築き上げたいと、、、違う欲望に変換されます。これによって分離という状態を結果永続させることになっていくのです。これは何という皮肉、ブラックジョークです。ということでこの欲求を持たすべく自分は自身の永続を願うようになっていきます。ただしこの体は永続ではないためいずれ死が訪れます、これが自分の消滅になるはずでした。ところがこの自分の思考は諦めません、自分というのは死後も永続できるという思考を持つことに成功したのです。そもそもこの体の中に自分がいるというのも「思考」です。この思考にオプションを加えて死後も永続できるという思考に切り替えました。この思考が肉体の死も全体から湧いてくることで「自分」は次の体を確保します。

江原さんのように思考のエネルギーを見れる人がそれをみると、、、

霊能者と呼ばれる人々は感情や思考など一般人には視覚化できないエネルギーを視覚として見える人々だと思います。この思考「自分エネルギー」を視覚から読み解いて人に伝えているのだと。これには欠点があり死後も自分が永続できるというアイデアを持った自分は必ずこの思考を自分に取り込むようになります。結果輪廻転生が自動的に行われるようになります。この部分に関しては自身もまだ調査中でいずれしっかりと解明したいと思います。

釈迦は言った、良い輪廻転生をしようではなく「解脱しかない」

お釈迦様も全体の表現でしかないので人間という実在ではありません。ですがこの全体の表現(釈迦)は良い輪廻転生をしよう!とは言っていません、「人間が苦から解放されるには解脱しかない」です。この自分劇場を終わらせる以外に苦からの脱却はないと説いています、これは刹那的、逃避的意見に聞こえるかもしれませんが私は真実を突いた優しいメッセージだと思います。もっと頑張ろう、いずれ幸福になれる、夢を持とう、、、というのは自分が大好きなメッセージであり的を外しています。これをイエスキリストは原罪と称しました。

自分至上最高の出来事、自分発見

自分を発見することがこの自分劇場最大の祝福

進学、就職、結婚、出産、出世、、、、人生の中であらゆるおめでたい行事は多々ありますがその中で最も大きなお祝いとは何か?それは自分が自分の存在を発見することです。一般的に言われている自分という存在はこの体の中に主人公がいるという認識です。ですがこの設定での自分がいる限り、進学、就職、結婚などのあらゆるお祝い事を重ねても常に不足、不満が残ります。完璧な就職、結婚、出産、出世はこの自分人生には存在しません、必ず何かしらの不満が残りその解消に向けてまた走り出すようになります。自分人生においてこれを散々やってきた人はある時気づきます、これを続けても終わりは来ないと。ということでこれに気づいた自分はもう世の中の祝事に興味がなくなります。それよりもこの苦しみ、不満、不足が続く自分という存在は一体何なのか?ということです。

自分人生を諦める

どうやらこの自分という存在を前提にした人生には至福がこないことはいつやら分かってきます。というのも成功者の自殺、芸能人の自殺、幸福の絶頂に見える人の自殺を見ても辻褄が合わないことが多すぎるのです。ネタバレにはなりますが他者の死は自分とは関係はないのですがそれでもそう見えます。自分人生を生きてきて多くのハードルを超えてきても全く不足感が減ることがない、この事実だけを見てもどうも雲行きが怪しくなるのです。自分人生を一旦諦めて自分という存在に切り込んでみる、そんなアイデアがこのブログを書いている自分に何年か前から訪れました。自分人生はとりあえず横に置いて自分とは何なのか?という話です。

自分というものを調べてみたら文字に答えが書いてある

自分というものが入っているこの体は一旦何なのか?その疑問を追求すべくこの自分は鬼のような書籍を読み漁りその解明に乗り出しました。するとまさかのその答えは自分という漢字にしっかりと刻まれていました。自分とは「自らを分ける」と書きます。とんでもない意味です、自らを分けたものが自分、こんな意味の言葉で我々は自身を表現していたのです。分けるという言葉は分離をいみするわけですが一体何からの分離なのかという話です。答えは「全体」ということになります。我々は全体から分かれた存在である、だから不足感、孤独感、喪失感がどこまで行っても拭えないのです。もっと詳しく言えば我々は全体から分かれたつもりになっている存在ということです。分かれたつもり?そうです、初期設定が勘違いだということです。これで自分人生、人間人生において永遠の至福が来ないことがわかりました。

自分至上最悪の出来事、自殺について

最大のタブーに切り込む

全体から自らが分かれた状態、自分にとって最低最悪の事件が自殺です。自らの命を自らが断つということになります。自身にとっても周囲にとっても最悪な出来事であることは間違いありません。ですがこれを全体の視点に経ってみたらどうなるか?例えば自分の友人が自殺をしたとしましょう、その事実だけを自分が認識する時、友人は大いに苦しみ大いに悩みその決断をしたんだろう、、自分に何かできることはなかったか?自分がもっと優しくしていれば、、、こんな思いが間違いなく湧くでしょう。ですが真実をお伝えすればそれは全体が起こしたただの現象です。自分以外に起きたものは全て全体が起こしたゲーム上の現象です。無礼承知でお伝えすればスーパーマリオに出てくるクッパがゲームの中で死んでしまっただけということになります。クッパが苦しんだという事実はなくただゲーム上でそうなりました、終わり。勿論亡くなった友人の部屋を調べれば苦しみの日記や手紙が出てくるかもしれません、ですがそれも亡くなった後に全体がそれを起こしただけです。失礼承知で続けますがスーパーマリオのゲームにおいて自分はマリオだけ、それ以外は全部ゲーム上の出来事になり他のキャラの自由意志はそこにはありません。

自分は常に周囲の行動に振り回されるが

自分は両親の離婚、両親の死、友人の闘病、友人の投獄、、、、、に常に振り回されます。それがこの自分劇場のデフォルトです。ですが真実をお伝えすればそれらはスーパーマリオゲームでの脇役キャラでの出来事、そこに意味は何もありません。意味があるように確実に見えますが。この辺りはこの自分劇場最終段階のネタバレになってきます。映画の中の「七人の侍」ではもしかしたら次々に仲間が戦いの中で死んでいくかもしれません、ですがそれも映画の中での脇役がただ死んだだけ、、、そう見えるだけ。。。映画ですからそこに意味はないのです。自分は間違いなく居ます、この体の中に錯覚として。ですがこれは全体が自分錯覚を起こしているだけです。友人の死や両親の死を悲しむことはない、、、そんなことを言いたいわけではありません。全体という絶対に失われることがない存在が失うという経験をしたくて起こしたのがこの自分劇場だということです。

ネタバレが腹落ちすると死が怖くなくなる、、、

自分というものが全体から分かれたモノであるということ、実際には分かれることはできず分かれたという錯覚が起こっただけということ。このことが徐々に腹落ちできるようになってきますと死にたいする恐怖心がなくなってきます。これは全体最大のジョークであることが分かってきます。ジョークですがこの人生劇場に真剣に取り組んだ方がオチでしっかりとズッコケることができます。吉本新喜劇でもたまに真剣モードがないと笑いになりません。最初から最後までボケ倒しでは笑いは起きなくなります。一方このブログを書いている自分はこの自分劇場をまだ終わらせたいとは思っていません、ですから死にたくはない。ですがかつての死を恐れる感情はとうの昔に終わりました。特に死んだ後に対する恐怖、どこへ行くのだろう?という漠然とした不安は今はもうないと断言できます。自分というこの全体の錯覚、ジョークが終わり全体に戻るだけです。だからこそこのジョークが継続されるうちはこのジョークを最大限楽しもうと思います。

全体は自分に疲れた時だけ全体に戻る

全体は頻繁に全体に戻っている

自分で居ることは疲れます。自分とは自らを分けると書きますが、これは全体から自らを分けているのです。実際には分けることはできません、全体は一つのエネルギーですから。一つのエネルギーが全体を形成し、その中で諸行無常、様々な形態を表現しています。ということで自分とは全体から分かれているという錯覚(思考)が湧いている状態ということになります。実際に自分活動をしている最中は思考、感情が湧いてくると、、それはこの体、自分の感情であるという思考が同時に湧き、自分というプラットフォームを維持します。これはなかなか骨が折れる仕組みです。そして全体の中から自分として分離し続けている間、全体は狭苦しいこの状況を楽しんでいる一方苦しんでもいます。子供がTVゲームに夢中になっていても2時間ぐらいで力尽きる感覚を想像ください。ということで全体は自分で居ることに頻繁に疲れるためTV,映画、SNS、ネットフリックス、など没頭できること、無心にできることを使って全体に戻ります。その時だけは自分を辞めます。

全体はたまに全体に戻りながら自分を継続する

全体はたまに、もしくは頻繁に全体に戻ることで自分を継続していきます。何かしらの没頭できるアイテムを利用しながら自分を継続します。自分という存在はエキサイティングである一方で大変疲れるのです。とは言え全体はこの自分体験を愛しています、全体が全体のままでは絶対に経験できないことを自分が発見してくれるからです。だからこそ全体は常に自分を大切にしているのです。自分が地獄の苦しみを経験している時ですらも、自分体験を重宝するのです。

自分体験最大の喜びは自分が実は全体だったという気づき

自分体験とはエキサイティングだが疲れるという全体の経験です。この自分体験は喜怒哀楽、七転八倒、あらゆる感情を味わえる全体にとっての最高のエンターテーメントです。映画を5本連続で観ると疲れるようにこの人生ドラマ、自分劇場は楽しいが非常に疲れるわけです。ですがこの映画の最も面白い、最大のクライマックスとは何か?それは自分体験を行なっている全体が実は自分は居ないということに気づくことです。自分はなく全体だけがあったという大オチ、これです。だからこそこのブログは史上最低のネタバラシブログでもあります。勿論このようなブログに興味を持つ人間は既に準備ができているエンディング待ちの人々になります。

自分をやることに疲れた全体が取る行動

分離体験は最高で最低

自分とは自らを分けると書いて字のごとく全体からこの体を引き剥がす行為です。実際には一つのエネルギーしかありませんのでこの体を全体から分離させることは不可能です。とは言え今現在このブログを書いている「私」はこの体の中に居るではないか?こうなります。ですが私が居るというのは思考であってこの思考がこの体の中にあるという証明は絶対にできません。思考もエネルギーと捉えるならばそのエネルギーが体の中で発生したという証明はいまだにできていないはずです。感情も然りです。ではもしもこの体の中に思考も感情もエネルギーとして湧いていないならばどこに湧いているのか?ということです。

もしも体の中に思考も感情もないならば

もしもこの体の中に思考も感情もないならば、、この体の中には自分というものが存在しないことになります。この体の中に自分が居ないならばどこにいるのか?どこにも居ない、もしくは全部に居る、、ということになります。今もこのブログを書いていますが私は今だってこの体の中に居るように感じます。ですがこれが思い込みです。全体が私の体を借りてこのブログを書いているのです。そして出てくる感情、思考は全体が認識しています。書道家はなぜ毎日書を書くのか?花道家はなぜ毎日花を生けるのか?茶道家はなぜ毎日お茶を入れるのか?それは何かに没頭することでこれが自分であるという思考を湧かないようにして全体に戻っているのです。全体に戻ると歓喜、平和が湧いてきます。全体への一時帰還をしているのです。

全体への一時帰還で仕組みを理解する

人は何かに没頭すると全体へ一時帰還できます。この体の中に自分が居るという思考が湧いてこない時、自分はこの世にいません。全体だけがあります。この状態を何度も味わいたくて自分はTV,YOUTUBE,映画、ギャンブル、お酒、恋愛、SNSにハマっていきます。何かに没頭すると思考が湧いてこなくなることを知っている自分はこれを利用します。自分で居ることに疲れた時に自分はこれをやります。本当のことを言えばそれをやるのは自分をやることに疲れた全体です。

自分が弱いと洗脳を受けたライオンは草を食べ続けて死ぬ

草を腹いっぱいに食べても居心地が良くならない

自身が弱いという洗脳を受けたライオンはシマウマ、象、虫すらも怖いと思い生きていくようになります。仕方なく草をコッソリと食べ続ける生活、草を食べても美味しくはありませんがそこは仕方がない、、徐々に草の育成に成功し大量の草を食べることに成功します。そしてその草を乾燥し寝床を完備、さらに草を燃やして暖を取ることにも成功。草から栄養分を抽出してサプリを完成、栄養価の高い食生活を維持。草を使って虫の繁殖に成功し大成功ライオンに。ですがなぜか居心地の悪さ、胸糞の悪さ、不足感が解消できない。。言葉にできないこの焦燥感は何か?そうです。自身が弱いという洗脳からくる気持ち悪さです。記憶の遠い部分に強かった過去ののことが残っていてそれが得体の知れない居心地の悪さを生み出しているのです。

全体が洗脳を受け、体の中に自分(全体)が居るという錯覚に成功する

この人間ドラマ、自分ドラマは実はライオンの洗脳と全く同じです。大いなる存在、全体が言葉の洗脳を受けこの体の中に居るという錯覚を起こしました。目の前にあるこの体の中に全体があるのだと、、これによって全体は自分はこの体だと勘違いして生きるようになります。体の中に入ってみたら何と脳の記憶力がありかつての勘違い行動が全て記憶されています。これによって全体の勘違い人間ドラマが誕生しました。この体の中に自分(全体)が居るという大いなる勘違いは居心地の悪さ全開です。人間として有名企業に就職し、ハイスペック伴侶を得て、ハイスペック住宅に居住、子供をハイスペック私立学園に入学させても癒えないこの居心地の悪さ、、という流れです。

全体よ、この夢から目覚めよ!

人間のこの人生とは完璧な作り物です。なぜならばそもそもこの体の中に自分は存在せず、この体を主人公にしたこの人生も錯覚だからです。強いライオンが自身を弱いと勘違いするストーリーが偽物のように、全体がこの体の中に閉じ込められているというこの人生ストーリーもまた偽物です。本当はこの視界に広がる全てが自分です。この視界(全部)がこの体の中に主人が居ると勘違いする強烈なジョークがこの人生です。過去も未来も人間の記憶が作り出したモノであり、空間も人間がここを動くことで在るということになりました。本当は全体の中でこの体がシフトしているだけです。

全体はなぜ自分を作ったか?

自分とは分離錯覚ストーリー製作機

全体だけが実際にはありそれ以外は何も存在しません。全体は全体でありただそれだけです。全体はある時自分という独立した存在(錯覚)を作り出しました。思考というもので全体の中に独立した分離した存在があるということにしました、錯覚で。これによって全体は突然体の中に自分がいるというゲームをスタートしたのです。独立した個人が全体の中を暴れ回るゲームを作り出したのです。全体から分離した個人は常に喪失感を感じその喪失感をいかに埋めるかに右往左往します。この経験が全体にとって面白くて仕方ありません。

全体が突然自分ストーリーの舞台になる

全体から分離した自分にとってこの全体は分離ストーリーの舞台です。自分がそこあそこにいく時の舞台そのものです。自分という全体から分離した(錯覚)存在にとって全体は自分が暴れ回るステージです。全体は分離した自分が遊ぶための道具になります。ただし自分は同時に居心地の悪さを常に抱えます。なぜならば自分はあくまで錯覚で主体は全体のままだからです、全体が個人という極小の存在になるのは居心地が悪いわけです。この居心地の悪さの根本原因を分からず彷徨い続けるのが自分という錯覚存在です。

だが自分という錯覚にはあらゆる救済措置がある

TVもネットフリックスも、YOUTUVEもSNSも全部自分にとって楽しいのは没頭できるからです。没頭とは頭が没すると書きますがまさにここに信実が隠されています。頭とは思考や記憶のことであり自我が抜け落ちます。何かに没頭する時そこから自分がいなくなります、つまり全体に戻るということです。自分という錯覚が解かれ全体そのものになります。自分はこのような救済方法を無意識に知っていて多くの時間をゲームやギャンブル、パチンコや恋愛などに没頭します。

それが分かったところでどうするか?

自分というのは錯覚ですからこの錯覚が抜ければ終わります。上記の救済措置を理解したところででは今後の人生をどうしたらいいか?このように自分は考えますがこれこそが自分のトリック、錯覚を解く以外にこの自分から覚める方法はありません。なぜ自分は苦しいのか、なぜ自分は時々楽しいのか、なぜ何かを達成するときは一瞬歓喜なのか、、、これらが腹落ちしてくると自分の錯覚が緩んできます。

全体が自分を生み出した

自分は全体の最高傑作

全体が今ここにあります、全体だけがここに存在します。全体以外はここにはありません。そんな全体の中に自分という分離した(錯覚)存在が誕生しました。全体の中に独自の個性を持つ存在が錯覚ではありますが誕生したのです。これによりその自分は自分を生き伸ばすために思考を駆使していきます。ですが実際には全体しかなく自分はその中での錯覚でしかありません。この自分は全体の中を逞しくサバイブしていくことになります。

自分錯覚ゲームは全体の遊び

全体は全体しか存在できませんから全体以外を経験することはできません。それゆえ全体は全体の中に個別の分離した存在を無理やり作り出しその分離した(錯覚)存在に経験を積ませました。この経験は全体が全体としては経験できないものです。だからこそ全体は個別の自分を起こし積極的にその経験を引き起こすのです。全体創作個別自分ストーリーです。全体総指揮自分ストーリーの始まりです。この個人とは全体の遊びです。

自分は全体の遊びだが苦しい

自分とは全体から分離した(錯覚)存在です。この存在が成立することで自分ストーリーが始まります。自分が見る世界(全体を)はエキサイティングそのものです。なぜならば自分は喪失感の塊でありその喪失感をいかに埋めるか?全体に戻る方法を知らないこの自分は全体の中でヒト、モノをかき集めることで不足感を解消しようと躍起になるのです。

自分錯覚ゲームはどこまで行っても空腹

自分とは本当はいないからこそ空腹が止まらない

全体から無事分離できたと錯覚することができた自分は身の安全を確保するために思考をフル回転してこの自分を守ります。食事を確保し、安全を確保し、寝床を確保し、老後の保証を確保します。これに成功した自分はそれでも収まらない空腹感を埋めるためにブランド物を確保し、高級車を確保し、良妻を確保し、高級住宅を確保し他人からの羨望の獲得に成功します。それでも収まらない空腹感を次に何に向けるか?次は霊的地位向上です、来世のために徳を積む、前世のカルマを解消する、、と霊的浄化に乗り出すのです。それでも収まらない空腹をいかに解消するか?次は自己実現だ、、、となるわけです。ということでこの自分分離錯覚ゲームはいつまで行っても収まらないこの空腹を満たし続ける旅でもあるのです。

自分錯覚ゲームは楽しいが苦しい

全体がこの自分錯覚ゲームを作り出したわけですからこのゲームは偉大な発明です、全体の。この自分錯覚ゲームは本当はん分離した自分など居ないにも関わらず居るかのように味わえるというところが醍醐味です。そしてこの自分錯覚は自らが弱く小さく狭いからこそエキサイティングにこのゲームに参加できるのです。全体が全体のままでは体験できないエキサイティングな感覚こそ面白い。ですがここで大きな問題が、、それはこの自分錯覚ゲームはどこまで行っても不足感空腹感が癒えることはないということ。それは主語はあくまで全体であり全体にとってこの分離自分は狭すぎるのです。このゲームはエキサイティングですが常に焦燥感に掻き立てられるのです。もっと良い生活がないか、もっと便利な生活がないか、もっと高級な生活はないか。。。これが止まりません。

焦燥感を止めるには?

焦燥感を止めるためにはどうしたらいいか?どう考えてもこの錯覚から目覚める以外にありません。全体からの自分錯覚というこのメカニズム、このメカニズムから外れる他ありません。全体は全体である時至福以外の何もでもなく、この自分という錯覚は至福から外れます。全体から分離した自分などは本当はいないということを理解し全体が全体に戻る、これ以外に焦燥感を無くす方法はないのです。