各指は自分が一番正しいと言い張る

指も居ないし、自分もいない

なぜ各指は自分が一番正しいと議論するのでしょうか???腕全体(神)から指だけが独自の進化を遂げ「自分」という思い込みに完成した各指はそれぞれが一番正しいと意見を言い合います。我々が見ている世界には絶対的に正しい答えというのが間違いなく存在しその答えを出そうではないか!!こうなります。タケシのビートタックルでは何十年間もこれをやっていますね。ですがこれが答えです、、などという絶対の答えが出た試しがない、、、、そろそろこの事実に気づかなくてはなりません。

各指ごとに別々の世界がある

結論をお伝えすれば各指が生きている世界が全く違うということになります。全員が違う世界を生きているのです。実際には腕本体しかなく、、全く同じ世界なのですが、、、各指は自我が完成されることで各々の思考、価値観を形成するようになりその価値観というフィルターを通じて腕全体を眺めるようになるのです。これによって本来は腕でしかないこの世界が全くの分離した世界に格下げされてしまうのです。これが指こと人間が生きている独自の世界です。だからこそ我々は何十時間の議論を重ねても一つの答えに辿りつかないということになるのです。

議論も争いも無駄ではあるが、、

議論も争いもそういう意味では全くの無駄ということにはなります、ですがあえてそこに意味を無理くりつけるならば、、議論の末に答えが出ないという答えを見つけることに価値があるでしょう。結局正解なんてものはない、、これに気づくきっかけこそが議論や争い、紛争です。そういう意味では世界に無駄な争いはないのです。無駄な夫婦喧嘩も無駄な職場トラブルもないということ。この圧倒的な事実に気づくヒントになります。

各指は独自の解釈の中で独自の世界を生きる

各指は全く異なる世界を生きる

腕全体(神)の中で指を自身と認識した「自分」はあらゆる経験を積み重ねていくことで独自の価値観を形成するようになります。この価値観こそが腕全体の見方になります。腕は指の解釈によって全く違ったように映るようになります。ですから各指によって見える世界は全く違ってしまうのです。それが指の価値観です。価値観とは腕の分断方法です。腕を全く違う姿に切り刻んで独自の世界を作ります、ですが腕は腕ですから本質を見た指はびっくりするわけです。そしてその時に自分(指)は腕だったという気づきに至ります。

各指は全く異なる世界を生きている

人間というのはどこまで行っても分かり合えないのは各指は全くことなった経験を積みその「経験」を元に価値観を形成しその価値観で腕全体を見ますから全く違う世界を生きています、表面上。そうなるとコミュニケーションとは悲惨なもので最初から分かり合えないというのが分かっています。いつか分かり合える、、これはあり得ないということです。もしも分かり合えることがあるならば自身が腕だったという気づきの後でしょう、お互いに。

指として生きている期間は苦しい

指が独自の意識を持ち、全行動、全思考を自分のモノと捉えるようになります。これが自我です。この自我の状態で生きていくのはエキサイティングですが疲れます。もしもこの疲れを解消したいならばこのトリック、自我が思考、幻想であることを見抜く必要があります。しかもそれは真剣に見抜いて行かなくてはなりません。これが自分だという思考は強烈で、、7年間の歳月、何万回という呼称によってシステムナイズされています。これを打破するのは至難の技です。

静寂から全ては生まれる

静寂とは気づきの意識

神を腕全体と考えると人間とは指です、指が突然意識を持ち、同時の活動を始めました。本当は独自の活動などはできるはずがなくただ起きた指の動きを「自分」がやったという思考が完成しただけです。その指は腕全体の中を動き回ることで距離、空間、そして行き着くための時間が生まれました、ですがこれは完全な錯覚です。本来指は腕の一部であって独自の動きなど起きようが無いのです。そしてその腕の動き、そこからの指の動きこそが生まれる場所こそが静寂です。腕の動き全体に気づく存在がなければ動きはありません。動くためには動かない何かが必要なのです。それを静寂から生まれると覚者は呼びます。

指の目線は独特

指の動き、指の視点は独特でして、、、指は指の価値観で腕全体を眺めます。すると腕というたった一つの物体が完全に分離して見えるわけです。体毛の一つ一つ、毛穴、皮脂、筋肉の筋、関節の凹凸、、これらが全部完全に分離した存在に見えるという魔法がかかります。指はこれらを観察し独自の解釈を加えていきます。これが指に例えた人間の人生です。指が腕の中を移動するのに本当は距離がないのが当然で指は腕の一部だからです。指の錯覚物語だけがあるということです。そしてその指の動きを静寂が観察します、指の動きは静寂から生まれます、腕全体の動きも静寂から生まれます。

あらゆる経験を積んだ指は腕の中で違和感を感じ始める

指が意識を持ち全行動を自分がやっていると勘違いしていくわけですがこの勘違いは疲れます、なぜならば勘違いだからです。勘違いというのは辻褄が合わないのですあらゆる局面で。本当に俺は指なのか??指の幸福は本当にあるのか?この自分とは一体何者なのか??あらゆる疑問点が湧いてきます。覚者は自分なんていないとい言う、、ではこの自分という紛れもない感覚はなんだ??これらの問答が自身の中で起こり始めると自分が実は腕全体であったという気づきが起こり始めます。指の部位だけを指してこれが自分とする思考がそもそも無理があったのです。

「私は在る」は空からの反映

我々は空の影の世界を生きる

ゼロ、無、空、絶対、、、この究極の存在の影が色の世界です。色の世界は「私が在る」という絶対的な感覚があります。我々も人間活動をやっていますがその大前提にこの「私は在る」が確実にあります。この揺るぎない感覚こそがゼロ、無、空、絶対の影である色、神、大いなる一つの感覚です。その中にさらに人間が在るという感覚が芽生え我々は人間活動をしているのです。

指の動きが人間

腕全体を神としましょう、すると人間とは指の動きぐらいの感覚です。指が独自に意識を持ち「私は自分」という感覚を所有しました。これが自我です。思考です。本当は指の動きですから全くもって自由意志はありません、腕の先としてコントロールされているだけです、ですが指は「自分」で動かしていると錯覚を起こします。で絶対的な自由意識はどこから来ているのか???厳密に言えば自由意志はどこにもないでしょう。神すらも絶対の影ですから影に意志は作りようがないのです。究極的にはただ動き、思考が起こっているだけということになります。それが影の宿命です。

集団意識、オーバーソウル

人間が指だとしたら手のひら全体は何になるのか??これが集団意識、オーバーソウルと呼称されるような存在です、ですがここにも自由意志は存在しません、これも腕の一部でしかないからです。ただしこの手のひら全体の起こりは在るでしょう。日本人の特製、民族の特製、有色人種の特製、、、などです。

神、ビッグバン、大いなる一つ

宇宙が発生した際にビッグバンが弾けたということになりますがここに個別意識はあるでしょうか。。恐らくないはずです、、、ただ爆発があった、、、これが神の本質です、大いなる一つの本質です。これが絶対、空の影、反映です。ですから実はどこにも自由意志はない、、ただ空からの反映、、そしてそこからの起こりがある、ということになります。我々はそんな中で腕(神)の中の指としてそこに自覚をもって、錯覚を持って生きています。

指から腕を見ている

人間が見る世界は指に目がついて腕(全体)を見ている感覚です。指は思考に支配されていますからありのままを見ることができません、思考というフィルターを通じて腕(全体)を眺めます。そして指がこの腕の中を動き回ることで空間と時間が発生しました、これが時空間幻想です。本当は腕の動きがあるだけでありそこには時間も空間もありません。指に自我が芽生えたので指が動き回るために時間、空間が生まれました。指の動きとは何も関係なく、指の意志とは何も関係なく腕は動き続いけますから指にとって都合の良い世界(腕)など作られるはずがないのです。もしもあるならば指の存在、指の動きは実は腕の一部であったという気づき、諦めしかありません。そして指が思考というフィルターを通さずにこの腕を見ることで全体の一部に戻ります、これが悟りです。

幻想に触れると重くなり、真実に触れると軽くなる

真実は軽い

今が重い時、、、今苦しい時に多く方はどうしたらいいだろと考えます、考え続けます、、、するとどうでしょう、、どんどん重くなっていきます。これはなぜか??思考の世界に入り込んだからです、酸欠の世界に入り込んだからです、「非二元」欠の世界、「神」欠の世界に入り込んだからです。「大いなる一つ」欠の世界に入り込んだからです。真実欠の世界です。真我欠の世界です。ワンネス欠の世界です。さすがに理解できたでしょうか?笑そうです、、、思考の世界というのは、、、、楽な世界からガンガンに遠ざかる世界ということです。

五感に集中していく

今が苦しい、、、そうしたら真実が足りていないのです、こう考えます。真実が足りない??そうです、今が足りないのです。体に意識を向けるのです、運動したり、食事をしたり、友人とおしゃべりしたり、、、、五感の活動に専念します。体はいつでも今にありますから体に意識を向ければ真実が押し寄せてきます。幻想の世界がぶっ飛ぶのです。運動を習慣化する、全ての作業を無心になって取り込む、思考を放置する、、、とにかく思考と距離を置く生活に切り替えるのです。幻想、分離を徹底的に排除していくのです。

反復に集中する

多くの方は自身のタスク処理に思考を使ってしまいます。どうやったら効率良くできるか、どうしたら無駄なくやれるか???タスクに思考を入れてしまい苦しみます。そうではなく単純に反復反復で処理していきます。一切の思考を排して思考の介在を抜くのです。1日に何度も取り組んで反復でタスクを処理していきます。最後までやり切る、、思考はこんなことを言ってきますが無視です。ガン無視です。思考は思考を使わせようと必死です、そこを反復で処理していきます。公文式です。これで全ての作業を思考抜きで行えます、五感のみで行えます。無我、無心、非二元が押し寄せてきます。

神は人間に化け、モノに化け、自然物に化け、、、

覚者はこの事実に気づいた

悟った覚者が話す言葉には多くの共通点があります。その一つがこの世は幻想であるという言葉、、ですが同時に違う覚者はこうもいいます、これしかない、、、なんのこっちゃです。この世は幻想なのにこれしかない???意味不明です。幻想にも関わらずこれしかないならば何もない、、になります。事実はこうです、、我々人間がみている世界は神が何かに化けた世界なのです、自分に化け、友人に化け、机に化け、コーヒーに化け、お金に化け、、、、全て神の化身ということです。化身ですからそこには実態がなく全て幻想ということですね。ですがその化身であるいう事実を見破った時に、、、ここに神が居るということになります。これしかないです。

絶対絶命の時にこれを見破っている

バンジージャンプをやった人ならわかると思います、、、終わった後に恐ろしい安堵感、歓喜、平和が襲ってくることを、、あれは何か????意味不明ですね、、、なぜバンジー後に平和が襲ってくるのか???バンジー中に思考が完全に抜け落ち、五感全開になり、、、今に強烈にある状態に、、、、それこそが非二元、神、無我です。その残滓が残っているため平和、歓喜、安堵に浸れるのです。だから多くの方はあの感動を求めて何度もバンジージャンプをやりに行くのです。なぜ30メートルも落ちて平和に襲われるのか????意味不明ですよね、意味完璧なのです。

思考が抜けたら平和安堵ならば、、、思考を放置せよ

思考が抜けると、、、平和、安堵、歓喜に襲われるならば、、、思考を放置すればいい、、、思考こそが苦しみの世界、幻想の世界に意識を導く道具ですからそこに乗ってはいけません。何もバンジージャンプをやる必要はないのです。思考が湧いたらそのまま放置です。山に籠もって修行などしなくても日々思考の湧き出しに意識的になり放置すればいいのです。毎日をバンジー後のように生きることができます。そこが無心、無我、非二元の世界の入り口です。

思考って何??化けの世界を作る道具

神は神のままでは何も苦しむことができませんでした、神は神のままでは孤独も喪失感も孤独感も居心地の悪さも感じることができませんでした。そのため神は考えました、この神の中にゲームを作ろうと、ゲームならば孤独、喪失、絶望、不足を経験できると、、そしてその反対の快楽、面白さ、新鮮、友情、親しみも経験できる、、こんな素晴らしいゲームを作ろう、、、そのために思考を利用しました。人間の脳をさらに進化させてし思考を作り出し、、先ずは人間に「自分」というアイデアを授けました、、これによって自分がこの神の世界に誕生したのです。さらにこの延長線上であらゆる現象に名前をつけてそれを個別分離した存在に作り上げていきました。神の分裂現象です。これによって「自分」は神の中を歩いて歩んでいくという体験を積むことができるようになったのです。

簡単に終わってしまっては困る

せっかく作り出したゲームですから簡単に終わってしまっては困ります。そのため自分には次々に思考が湧いてくるように設定しこの自分を維持していく工夫がされています。何かを「自分」が経験したら思考が湧く、その思考に取り込まれるとさらに苦しくなりさらに思考が湧くのループです。「自分」というのは基本苦しい存在なのでその苦しみの解消を思考でやってもらうという無限地獄を作り出したのです。これで神が考え出した「自分」は生きて死ぬまであらゆる経験を積むことができます。放置しても勝手にあらゆる経験を積んでくれるのです。神の完全自動人間自分体験です。

このシステムはさすがにどこかで気づかれる

人間として最初にこのシステムに気づいたのがゴーダマシッダルータです、彼はインドのある地域の王様で贅沢三昧な生活をしていました、にも関わらずなぜこれほど満たされないのか???頭の良い彼はそこから悟りの世界に入っていきました、そしてそこで悟りを開いたのです。彼が気づいた事実とはまさに上記のこと、人間とは苦しみのメカニズムから抜けない限り苦しみが永続するというモノです。人生とは苦である、です。ヨーロッパ地方でこれに気づいたのがイエス・キリストです。彼は人間は原罪と称しました、この罪という言葉は勘違いを意味しています。

思考を放置するのは現実逃避ではない

思考こそが現実逃避

多くの方はここを勘違いします。思考こそが現実逃避なのです、現実とは思考以外の世界のことであり思考の世界こそが幻想の世界、虚の世界です。実の世界は思考が介在しない世界なのです。ですから苦しくなったら先ずは運動、、みたいな発想は本質を突いています。苦しくなったら人間は思考の世界に入っていきますがその世界こそが現実逃避です。虚の世界の住人になり結果苦しみの世界のドツボにはまります。

でも苦しくなるとさらに思考が湧いてくるのはなぜ????

ですが実際には苦しい時ほどに思考が湧いてきます、これが事実です。そのため多くの方はそのまま思考に取り込まれていきます。ここで何とか思考に取り込まれない、思考を放置する、、、この習慣をつけましょう。思考とは苦しみの世界を自ら作り出しその世界に意識を取り込む道具なのです。この事実を多くの方は知りません。思考することを善とまで勘違いしています。悲劇、喜劇です。

現実とは思考が全く介在しない世界

現実とは非二元です。現実とは神です。現実とは大いなる一つです。この世界が現実です、この現実に対して思考で持ってモノ??に名前をつけてモノ化し対象化し、顕現化し、、全部の現象を化させた世界こそが偽りの世界、人間が現実と呼んでいる世界です。この世界は思考によって化けた世界のことです。我々は言語によって化けた世界に生きています。この化けた世界こそが苦しみの世界なのです。にも関わらず何か苦しいことがあると考えてさらに化けの世界に入り込んでいきます。

目の前にピカソがあるか落書きがあるか

悟りとはこのこと

ピカソとは目の前の生命現象を生命現象のまま絵にしました。ゴッホも目の前の生命現象を英明現象のまま描きました。モーツアルトも神秘的な音色が頭の中を流れそれを楽譜にしました。いずれも目の前の生命現象に気付いていたかいないかの違いです。我々人間は生き抜くためあらゆるモノに名前をつけまくり、自身の中は思考フルスロットルにして、、生命現象を切り刻み尽くして見ています。ピカソの絵が落書きに成り下がるまで切り刻んで見ているのです。

切り刻み方が異常になると自死を考える

この切り刻み方が異常レベルになると人はうつ病になったり自死を考えるようになります。考えれば考えるほどにこの生命現象を切り刻むことになり世界は重く曇っていくのです。思考の恐ろしさを知らない極限状態です。人は苦しければ苦しいほどに思考の入り込みます、これによって世界はより重く曇っていくのです。その世界では何をやっても面白くない、、こんな人生を続けて何か意味があるのか?となります。

思考は放置する

思考の凄さは、、、ピカソの絵が落書きに見えてしまうとこまで生命現象を曇らせることができることです。これが思考です、これでも思考を信用しますか、これでも思考を使いますか、これでも思考と一緒に生きていきますか、、となります。思考とはこの全体、神、ワンネスを切り刻んで切り刻み体験をするための道具です。どこまで切り刻み体験をするか??そこは注意が必要です。

悟りすらない

今ここしかないから

悟りとは幻想の世界に入り込んでしまった個人もこの見える世界も全部幻想であったという全体の気づきです。そもそも幻想こそが全体の突然変異ですから悟りすらありません。いまここしかないのです。そこに幻想が起こっただけです、その起こった幻想が終わることを悟りと言います。幻想が主で全体が従ならば悟り後の世界があってもいですが我々は生まれる前から全体だけがあったので悟り前も悟り後もその中で起きただけです。

悟りがある、、、も思考の策略

この世界には悟りという境地があってそこにたどり着くととんでもない奇跡が起こる、ただしそれは何百年に一人しか成し遂げられないらしい。これが悟りに関する共通認識です。これによって自我は悠々自適に自身の存在を維持できます。誰も本気で悟りなど目指さないから。悟りなんていうものを目指すのは気が狂った人間だけになります。ですがまさかまさか思考が湧いていない時は非二元、悟りが既に目の前にあります。ですが目の前を景色を眺めた瞬間に過去に暗記したモノの名前が自動反応で湧いてきて悟りを切り刻みます。空、雲、風、花、小鳥、犬、木、、、これらの単語が悟りを切り刻むのです。概念、幻想の世界に引きずり込みます。

子供は切り刻まれていない

子供はなぜ大自然に触れて感動できるのか??それは大自然を大自然のまま見ることができるからです、人間は大自然を眺めた瞬間から木、林、森、太陽、風、声、川、落ち葉、キノコ、、、とこの宇宙生命をガツガツに切り刻んでいきます。これで生気を失った景色の出来上がりです。子供は切り刻まれていませんからそのまま生命現象が入ってきます。ピカソの絵がピカソの絵そのものの偉大さで入ってきます。

世界が全てピカソになる

悟とは簡単、世界が世界のままでピカソの絵のような偉大さに変わることです。小鳥の声がモーツアルトの楽曲のような神秘性を持ち、川の流れがダイアモンドの輝きを放ちます。大人になるとこのように全く感じることができないのは全てに名前をつけて偉大な生命現象を切り刻んだからです。つまり人間とは偉大な生命現象を目の前にして霞んだ景色を見ているということです。これを幻想と称します。ピカソの絵が目の前にあるにも関わらず落書きに見えているのです。