気づきの意識

色の世界を生きる自我

自我は色の世界でもがく

自我にとって世界とは色です、そうです現象の世界です、、、物が溢れる世界、、名前がついた物だけが登場する世界に生きます。自我には空の存在は理解できません、、なぜならば空を理解してしまったら自我の存在がただの現象であることになってしまうからです、それは断じて受け入れがたいことなのです。自我にとって自我は盤石な存在、決して失われてはいけない存在、唯一無二の存在なのです。

自我は色の世界に居るということは、、、

色の世界に自我が居るとなれば、、、自我は現象です、色も現象です、、、色の中に自我も現象として現れています、、この現象は移り変わる世界、諸行無常の世界ですから、、、自我も同じままではいられません、、常に変化変化が起き続けます、、この体も一瞬一瞬同じままではいられない、、、これがこの色の世界の絶対的ルールです。同じがない、、ただ今ここで現れ続けるのみです。この色の世界で絶対に変わらない存在が居ます、、それはこの色の世界に気づき続ける存在、、空です。気づきの意識です。

気づいている、だから自分が居る

気づいている、、だから自分は居ます、、、違います、、ただ気づいているのです、、、この気づきはこの体の中で起こっているのではないのです。この気づきがこの体に気づいているのです、、この気づき(空)がこの経験に気づいているのです。自分など居なくても、、気づきの意識は常に気づき続けています、、自我に気づいていない時も常に気づき続けています、気づきの意識(空)が。

何の制限もない世界から急に制限の中に閉じ込められた

この世の閉塞感とは??

おかしい、、小さい頃は全くの自由だったのに、、、いつの間にか不自由な檻の中に閉じ込められてしまった、、、なんかよく分からないけど、、、不自由な感じがいつもする、、、小さい頃よりもお金も得ているし、好きな服も、好きな靴も、好きな食べ物も食べているにも関わらずなぜ不自由感が溢れているのか???何かがおかしい、、、そうです、、我々はいつの間にか、、、不自由な檻の中に閉じ込められてしまったのです。

名前を覚えてこの私が食べれるようになったら、、

学校ではあらゆることを暗記させられますね、、、これはりんご、これは魚、、から始まり、、最終的には化学記号、二次方程式、英語、、世界中の国の名前、、、まで、、、これによって我々は、、この現象しかなかった世界に名前が付けられた現象の世界を重ね合わせました。これによってこの名前が付けられた「私」は食べていくことができる仕事が与えられて、、生きていくことが許されたのです。しっかりと名前を覚えればしっかりした仕事が与えられます。職場ではやはり仕事で使う名前を暗記させられ仕事を任されます。

食べれるようになったら、、、

食べれるようになったら、、、次はこの苦しみのメカニズムを覚えていきます、、、実は自分は元々はいなかった、、途中から名前が付けられただけ、、、実はあらゆる生命現象には名前はついていなかった、、便宜上つけられただけ、、、、実はこの私の自由意志はなかった、、、便宜上あるとされてきただけ、、、実はこの私のストーリーは錯覚である、、便宜上そうあることにしているだけ、、実は全ては気づきの意識の中で起こっているだけで、、それ以外何もないこと、、、実は気づきの意識は自由そのもので何も必要がないこと、、、と不自由な檻の中に閉じ込められていた何かは存在せず、、自由そのものしかないこと、、

全ては気づきの意識の中で起きている

気づきの意識の中以外では何も起きない

何かが起きた、、全部気づきの意識が気づいています、、、鳥が鳴いた、、、音を気づきの意識が気づき、、鳥という名前が気づきの意識から湧き上がりました、、それを私が見た、、という気づきが起こりました、、ただそれだけ、、、あらゆる生命現象に、、名前が湧き出すことで、、そこにドラマが起こります、、気づきの意識から、、生命現象も、、名前も気づきの意識から現れては消えていきます。

私が今歩いている

ただ揺れ動く生命現象が起きています、、そこに私という名前が気づきの意識から湧き上がり、、私が歩いているという思考が湧き上がり、、、花、、信号機、、カフェ、、と次々に名前が気づきの意識から湧き上がっていきます、、移り変わる生命現象に、、同時に名前が湧き上がるのです、、、これで私が歩き、、様々な物を見ているというドラマが起きるのです。

公園を歩くだけで

公園を歩くだけで、、、様々な生命現象が移り変わり、、、そこに名前が湧き上がる、、、すると猫、木、子供、老人、、昆虫が湧き上がってきます、、、最初に生命現象だけがあります、、次に「私」、、、猫、木、子供、老人、、、と名詞が付いた独立分別した存在が登場するのです、、、名前が全くついていない生命現象に、、、様々な名前がついた登場人物が登場します、、、

名前が付いたから登場した

名前が付いたから全部登場しました、、この私も、、猫も、子供も、、バッタも、蝶も、、木々も、、花も、、名前が付けられて初めて登場できます、、、気づきの意識が気づけるのです、、、そこに意識を向けることができるのです、、、名前が付いていないものには焦点が合いません、意識が集中できません、、この私が歩き、猫、バッタ、、蝶、、を見ているという錯覚を起こせるのは、、、気づきの意識が私にフォーカスし、猫にフォーカスし、蝶にフォーカスしたからです、、、気づきの意識の中に現れる移りゆく生命現象に対し順番に意識を向けているだけです。そういう意味では何も起きていない、歩いてもいない、、

敗北者から後悔を取り除くのは至難の技

後悔こそが自我延命システム

失敗者、敗者は深い後悔の念に苛まされます。あの時これをしなければ、、あの時にこの決断を私がしなければ、、あのアドバイスを聞いておけば良かった、、なぜあの人の真似をしなかったのだろう、、、エンドレスに後悔が起き上がります。全部これは自分の存在、そして自分の自由意志が有るという前提で起こっています、ですが実際には自分も自分の自由意志も存在しません、、、

後悔を使って自我は生き延びる

なぜ後悔をするのか???それはもっと良い方法があって次はそうしようという期待があるからです。それをしようとしているのは自我であり、、その期間自我は大安泰に入れるのです、、、次に期待を込め、、、次への改善に走るのは自我です、、、自我はどんな手を使ってもこの自我として至福を見つけたいのです。そんな自我に向かって、、「自分も自由意志も存在しない」というメッセージは畑違い、空気読まなさすぎなメッセージになります。

くよくよ後悔してるようですが、、、自分も自由意志もないですよー

大後悔は大茶番です、、、至福が大後悔するって意味不明ですよね、、、そうです、、至福(気づきの意識)が自我に意識することで苦しみが起こっているだけですから、、自我の失敗に大後悔するなど大茶番です、、、自我最大の失敗は、、自我にフォーカスが当てられているということです、気づきの意識から。ただこの事実に気づきの意識が気づくことです、、これで全ての苦しみは終わります。

成功者から自由意志を取り上げるのは至難の技

自由意思大好き人間

成功者は自由意思大好き人間です、、だってその人の自由意志を最大評価されるのが成功者だからです。最大評価されたのは誰ですか???自我、自分です。、ですから成功者は自分が大好き、、、その自分が自由意志を最大限発揮し成功を手に入れたという御大勘違いをしています。本当は自分も自由意志も一切ないにも関わらず、悲劇です。

成功中に悟るのは難しい

成功者の多くは無我に入るのが得意な人種でしょう、、なにかに集中しなければ結果を出すのは難しいからです。ですがその功績を自我は絶対に手放さない、、、私がこの功績を作り上げたと評価を受けたがります、、そして案の定その評価を受けた自我は悦に浸るのです。一時の安心を得ます、今後の安泰を期待します。ですから成功中の自我に「自由意志はない」「自分も居ない」というメッセージを放てばとんでもない過剰反応が起きるのです。

自己実現から自己超越へ

自己実現を達成した自我は己に酔いしれていますから、、最も危険な状態とも言えるでしょう、、酔いしれているのに苦しいのですからかなりの孤独を感じます、芸能人、スポーツ選手のスキャンダルの多くはこれが原因です。酔いしれながら苦しいのです、、、、そしてこの苦しみを取り除いてくれる最後のメッセージが「自分が居ない」「自由意志がない」です。自己実現を達成した自我の全ての功績を取り上げるこのメッセージが苦しみを終わらせます。これに気づきの意識が気づくと苦しみが消えます。自我に成り切った気づきの意識がこれに気づくと苦しみが消えます。

普通でいい、、も執着

普通の暮らしでいいんです、の罠

普通の暮らしでいいんです、、これも自我の執着です、、、自我の生存戦略です。普通が出る杭ではないから安全でいい、、が隠れています。普通が一番安全で長生きできるが隠れています。ですから普通の暮らしをしていても苦しいが湧いてきます、、、だから普通じゃない生活をしている人の失敗に異常に感情が芽生えます。芸能人、著名人のスキャンダルに異常に反応を起こします。

普通を目指す自我の生存戦略に気づく

普通を目指す自我の生存戦略に気づきの意識として気づきます、、しっかりとそこには戦略があることに気づくのです、気づきの意識として。その戦略を気づきの意識として気づきます普通への執着が緩みます、苦しみが減ります。自我の無意識の動きに気づきの意識として気づくと苦しみが減るのは、、、気づくのが気づきの意識(至福)だからです。

気づくのはいつだって気づきの意識

何かに気づくのは全部気づきの意識です、、、だからどんどん楽になる、、、友人が多いからって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、お金を持ったって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、名声を得ても幸せじゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、、自我の無意識な執着が溶けていきます、、気づきの意識が自分ではなく気づきの意識そのものに意識が向く時間が増えます。この自分に意識を向けても苦しいだけ、、この自分が何かを達成しても苦しいだけという気づきが気づきの意識から起こります。

自我の共存共演作戦

相手の自我を刺激し共存共栄を

自我は相手の自我を刺激し、、共存共栄を図ります。喧嘩を吹っかけて反応を期待します。反応が起これば占めたもの、相手との喧嘩に自我は実は大喜びします。結果は自我無しでは成り立たないからです。相手は私の体の中の自分を標的にしますから強烈に自分を意識することができるのです。体の中に自分が不在の状態で喧嘩を吹っかけてくることはありません。

相手の作戦に乗らない

喧嘩をふっかけてくる相手にはどう対応をすればいいのか???先ず相手の体を通じて喧嘩を吹っかけるが起きました、、ここ重要です、、そこに相手の自由意志は全く関わっていません、、その現象が起きたのです、、するとそこに関わるか否かにおいて感情が湧きてきません。そして究極を言ってしまえばそこに反応が起きるか否かも全体からただ起こります、、そこに自分の自由意志はないのです、、、この事実に気づくことです、、この事実に気づきの意識として気づくのです。

喧嘩のふっかけに乗っても全く後悔しない

喧嘩のふっかけに思わず乗ってしまった、、、相手に自由意志はないのに、、そこは分かっていたのに、、そうではないのです。。そこにこの体がどういう反応をするかも自由意志はないのです、、自由意志がない同士の反応が起きただけです。起きた結果に反省が起きるのは、、こちらに自由意志があると思い込んでいるからです。ここに気づきます、気づきの意識として。

損をすることを嫌う自我

損得の世界に生きる自我

30円でも安い店で買い物をする、、なぜか???自我は損をするのを極端に嫌います、、なぜか???思考は全てこの体を有益にするための僕だからです。この思考とこの体を同一視すれば、、、そのような行動になるのです。。他の人は得をして自分が損をするのが許せないのです。自我は比較の中で幸不幸を判断します、だからいつも得をしていたいのです。自分とはそういう存在なのです。

だからいつも苦しい

自分は常に苦しいのです、、その苦しみを比較の中で起こっていると勘違いします。他の人よりも安いアパートに居るから苦しい、他の人よりも給料が安いから苦しい、他の人よりも太っているから苦しい、、、、と全部が全部この調子です。ですが実際には自分で居ることが苦しみを生み出しています。

本当の苦しみの原因に気づく

気づきの意識がいつでもあり、その中に自分という存在が後天的に発達しました、この自分を気づきの意識が意識することで苦しみが生まれます、、このことに気づきの意識が気づくことです。自分には自由意志があり、自分には決断力があるという勘違いが後悔、反省、期待、緊張を生み出します。これが勘違いであることを気づくことです、気づきの意識が。自分が気づくのではありません、、自分など存在する前から確実に存在していた気づきの意識が今気づくのです、これで苦しみが今消えます。

今意識がある、、この意識が「自分」を意識することで苦しみが生まれる

自分という名詞を意識する気づきの意識

私を意識する気づきの意識、、自分を意識する気づきの意識、、〇〇○太を意識する気づきの意識、、、気づきの意識はたった一個しか意識を向けることができません、、、私に意識をすればそこにのみ意識が向きます、、、あらゆる経験は本当は気づきの意識がしていますが、、その経験の全てはこの私に意識が向いていきます。。。経験をしたことになった、、、私に意識が向くのです、、、

本当は経験しかないことに気づきの意識に気づかせる

目を閉じてコーヒーを飲めば分かります、、そこには飲む自分もコーヒーカップも存在せず、、、何かを何かが「感じる」しか存在しません、、何かは実はなく、、感じるしかないのです、、、どの辺り、、口になりますが、、それもないのです。口は名詞です、、、感じるは動詞です、、、感じるもない、、、経験しかないのです。。。経験も名詞、、経験という名前をついていない、、気づきがあるだけです。気づきの意識の気づきしかないのです。

これしか常にない

目を閉じて歩けば、、、足のアスファルトを踏み締める感覚だけがあります、、ですが足というのは名詞です、、アスファルトも名詞です、、ただ踏み締めるだけがあります、、、踏み締めるは動詞です、、ただこれがあります、、、、自分があらゆる物、人に囲まれてあらゆる経験を積んでいると思っていますが事実はこれしかありません、、気づきの意識がこれに気づいているだけです。気づきの意識がこれに気づくだけ、この世界に苦しみが湧きようがないのです。

上手くいくことでストーリー上の自分は勘違いする

自由意思万歳

ストーリー上私が上手くいくことは当然あります、、この時私は自身の自由意志に圧倒的な自信を持ちます、ストーリー上、、、私の自由意志に対しです。ですがなぜか苦しい、なぜか緊張感が走る、、、上手く行っているにも関わらず苦しいのです。上手くいけばいくほどに上手くいかせた「自分」に意識が向くわけです、自分に気づきの意識の意識が向くようになります、自分に焦点が合ってしまいます、、結果苦しみが湧き出します。

気づきの意識をどこに意識させるか

気づきの意識が気づきの意識そのものとして経験を意識しますと、、、至福に包まれます。気づきの意識が見かけ上の自分として経験を積むと、、苦しみが湧きます。。。自分の存在を忘れるぐらいに行為に意識が向くと至福が生まれます。幻想であるこの体の中の自分に意識が向けば行為に意識が向きませんから集中できません。何かに集中できるというのは自分を解脱してでこそです。気づきの意識そのものとして行為に意識が向くことを全集中、無我と呼びます。

苦しみのメカニズムを腹落ちさせる

後天的に発達した「自分」とは気づきの意識をこの名前に意識を向けさせるトレーニングの賜物です。何度も名前を呼ばれることで気づきの意識がここの意識します。するとこの自分としての視界が広がり、、そこには名前が付けられた独立分離した世界が広がります。花があり、コップがあり、PCがあり、TVがあります、、全部名前を覚えた物達です。ここに入ると苦しみが湧くのです。このメカニズムに気づく視点が湧いてきますともうここに取り込まれることができなくなります、、自分に取り込まれているに気づきの意識が気づくが起きるのです。

悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明

苦しいのはなぜか???それは苦しみのメカニズムに気づいていないからです、気づきの意識が。。。。悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明が起きることです、気づきの意識に。この自分が見て、触って、飲んで、歌っって、聞いて、味わっているという錯覚が起こることでこの苦しみが起こりました、、この事実をどこまで見破れるかです。気づきの意識がどこまでこのメカニズム解明に気づくかです。自分ではなく気づきの意識に気づきが起きるかですからどこまでいってもこの自分は無力なのです。