感情

他人を変えたいも、自分を変えたいも無駄に終わる

他の波を変えることも自身の波を変えることも無意味

海であることを忘れた波である自分自身を変えることもやはり忘れている他人(波)を変えることは無意味です。多くの自己啓発本では他人を変えるのは不可能だから自分を変えましょうと唱えます。ですがこの自分自身というものがそもそも勘違いの存在ですからそれをさらに変えるってほぼ無理ゲーです。自分自身が確実にあるという大前提で世の中では自分を変えようと唱えますが、その自分自身が本当はいないのですからこれは大問題です。

自分を変えるのではなく自分を理解することに専念する

海であることを忘れて波として生活し、おそらくほとんどの方は自身が海であったことを思い出さずに人生を終えます。その間理想の波になろうと四苦八苦しますがその努力はほぼ失敗に終わります。なぜならば勘違いした存在(波)を変えるって意味不明なのです。そして変える目的は何かと言えば幸福になることです、幸福になりたいという感情の大元は湧いてくる不足感を解消したいから。その解決方法が自分を変えるというわけです。

汝自身を知れ

世の中の全ての問題は全てここに帰結されます。「汝自身を知れ」自分自身(海)を勘違いすることから(波)この波物語はスタートしますがこの物語は勘違いからスタートしていますから苦がデフォルトなのです。ここを理解しないで自分(波)を変える、他人(波)を変えるに執着すれば苦しさは倍増していきます。相手に何かを要望したり、変化を提案すること自体は何も問題ありません、ですが変わらないことに悩むのは無駄に終わります。それは変わる=幸福とは何も関係ないからです。

心の状態を良くしようは無駄

思考や心をコントロールしようとする無意味さ

思考やマインドを鎮めて平和に過ごしたい、思考を今よりも正しいものにして充実な人生を歩みたい。マインドリセットして穏やかに過ごしたい。これらは自己啓発系のセミナーで教わるメソッドですがこれらは上手くいきません。心やマインドを正しく扱うなど基本できません。心やマインド、思考は湧いてくるものであってもこれをコントロールしようとすればたださらに思考が感情が忙しくなるだけです。我々人間が唯一できることがあるとすれば何かに集中することで無心に入るか、思考、感情を一切コントロールしようとしないと諦めてしまうことです。思考、マインドがうるさければその様子を放っておいて静まるのを待ちだけです。何か思考やマインドをコントロールできるものと勘違いすれば問題をややこしくするだけです。私は所作に入り込むことで思考を捨ててしまいます。それによって無我、無心に入り込み歓喜を味わいます。

感情を無視することもない、それをコントロールしようとしない

感情は湧いてくるものであってこれをコントロールするのは不可能ですし、それをコントロールしようとすればさらなる感情の渦に飲み込まれてしまいます。まず感情はコントロールできるものではないことを悟り、その上でその感情をそのまま感じます。今の自身の行動が対象に縛られているか、結果に貪っているかなど波としての対象との向き合い方が感情を通じて分かります。そうしたらその結果を踏まえてそのまま所作に入る、無心に入りたいという欲求が湧き起こってきます。もしくは自我のメカニズムを理解して全存在、海と人間の関係、波の関係を理解しようとする欲求が起こります。

思考や感情をコントロールしようとする=無限地獄に入る

海であることを忘れた波は、思考、感情が常に湧いてきます。それは不足感、欠乏感がなくなるまで続きます。波であると勘違いしている間は海であったこととの比較で欠乏感、不足感がただひたすらと湧いてきます。この欠乏感、不足感を思考、感情が違う欲求に変換したものが正体です。ですからこれを押さえつけるなど不可能、ただしこれに執着しても解決もしません。抑えてもいけない執着してもいけない、ただ淡々とこのメカニズムを理解し全存在へのシフト、海へのシフトを期待し行動します。

「対象を必要としない喜びを知る」波は今後期待や希望とは別次元で生きる

こうなったら幸福、こういう人生を生きれたら最高、、これは全て無知な波

対象を必要としている時点でそれは本当の幸福、至福、安心、歓喜を知らない人間、波です。対象を必要とするということは自身は欠落した人間で何かが自分を埋めてくれると信じている状態だからです。確かに人間は家も必要だし、お金も必要だし、仕事も必要です。ですから対象が全く必要ないといえば嘘になります。これはこの二元、波物語で生きている以上どうしても必要です。ですが自身の不足感、欠落感を対象が完璧に埋めてくれることは絶対にありません。なぜならばその不足感、欠落感こそは自分がこの心身だという思い込みが生み出しているからです。自分は海ではなくこの波であると勘違いした瞬間からこの欠落感が生まれそれを埋めるために海の代替品を貪っている姿を飢餓と呼びます。

対象を貪るように求めている間は苦しい

かつては何でも欲しがっていた個人、波もどこかでこれはどこまで行っても限度がないことを何となくに気づきます。かつて心から欲しかった物を手に入れても次の月にはすっかりとそれに魅力を感じなくなっているのです。あれだけ欲しがっていた心とはなぜここまで信用できないものなのか、です。心とは不足感、欠乏感、を何かしらの対象で埋めようとする感情です。根拠のない不足感を何かしらの対象、家や名誉、地位、異性などで埋め合わせしようとする働きです。このためこの根拠がわかっていない限り心はこの不足感を埋めることはできないのです。そして心はこの不足感の根拠を発見することはできません。心や思考を信用してはいけない理由は根拠のない欠乏感を何かしらの代替品で埋めようとする無謀な行為だからです。

大人になると貪ることはなくなるが、、、

大人の人間、波は貪ることがあまり成功しないことはある段階で悟ります。ですが結局なぜ貪っても不足感は満足させれないかは理解できません。思考にはこの原因を発見することはできません、なぜならばこの不足感を埋めてくれる存在、海はこの世界には形状としては存在しないからです。そこの解決を図ったのが書道、剣道、武道、茶道といった道教や座禅、瞑想などです。目に見える世界にそれを探すのではなく目に見えない世界にそれを探す行為こそこれらの行動です。大人になってこの世界、人間社会がやはり生きにくいのは結局のところ自分が抱えている不快感、孤独感、不足感の根本を発見できずにいるからです。

この世界が夢だとして、ではこの夢を見ているのは誰か

主人公は海であることを忘れた波、そしてこの波物語を見ているのは海

波物語は夢です、時間も、空間も本当はなく、、それは夢の中だけで存在しています。夢の中では時間も空間も自由自在、ただし夢の登場していない場所、登場人物は夢に登場していない間は存在しません。ですから主人公である「自分」も寝ている間や何に没頭している間、目をつぶっている間は姿をなくしています。海はこの夢を常に見ていますがそれは傍観者として高みから見ているのではありません。海は主人公(波)の五感+感情+思考を使ってこの夢を体験しています。

全ては幻想だが夢での体験は確実にある

夢ですから幻想です、ですがその夢の中で恐怖心、歓喜、安堵、幸福、、、湧いてくる感情は間違いなくあります。経験も確実にあるのです、夢として。夢ですがこの夢は海が投影したもの、海自身の投影を土台にしています。海が監督をし、海が海を使って舞台を作り、海が海自身を使って登場人物を登壇させ、海が海自身を使って(波)主人公を作る。海が変幻自在に変化してトータルでネットフリックス波物語を制作しています。

この夢から覚めるのは波ではない、海

マトリックスという映画では主人公のネオがこの夢から覚めるためにエージェントと戦い続けていきますが、、実際に眠っているのは海であり、、起きるのはやはり海です。主人公のネオ(波)ではありません。ただし波も海ですから正確には波を通じて海が目覚めるのです。ネオを通じてマトリックス映画全体が目覚めます。人間を通じて見えている世界全体が目覚めます。

夢から覚める

こんな緻密で巧妙な夢はない

生まれてから死ぬまで続くこの夢の完成度の高さはハリウッド映画やネットフリックスとは比較にならないものがあります。毎日気候が変わり、社会情勢も変わりつづけ、さらに自身の体も変化していきます。1日として同じ日はないようにこの夢は変化し続けます。毎日毎日変化していくこの夢に多くの方はこれが夢だという疑いなど一切持たずに生活し続けていくのです。99%以上の人は死ぬまでこれが夢だったということに気づきません。

もしかしたらこれが夢かもと一度でも疑問に持つと

ですがもしもこれが夢なのでは?と疑問に持つことができるようになると人生は大きな変化を起こします。夢だという可能性に日々気づいていくことになります。例えばこの物理次元と呼ばれる社会は有限の世界とも呼ばれますが、、、物があるという大前提で理論を構築していきますと、、日本の外には地球があり、地球の外には太陽系があり、太陽系の外には銀河系が、、銀河系の外には宇宙が、、宇宙の外には、、と延々と続く無限ループであることに気づきます。つまり人間が思っているようなこの物理次元は辻褄が合わないのです。ここだけとってもこの見えている世界は見えているようにはなっていないということがわかります。

触ればもちろんそこに人がいるが

この物理社会が夢だとして、、ですが当然人に触れればそこにしっかりと人はいます。触覚はこの夢のデフォルトです。匂いを嗅げば匂いがあります。嗅覚もデフォルトです。五感+思考+感情がデフォルトで設定されたこの夢を我々は実は生きています。映画マトリックスではないですが、、この夢を夢と見抜き夢から覚めるという決断をいつするか、、この夢の隣人は誰もそのタイミングを教えてくれません。

我ありは海のこと

全ての現象を認識しているのは全て海

波が波としてどのような経験を積み、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識しているのは海です。波は波として活動しますが波の動きを認識し観察する存在は海です。もちろん波の本質は海であり波は実はありませんからそれは当然ということになります。波が海の存在を忘れようが波が海であることは間違いなく結果全ての認識は海が行なっています。人間もこれと同じ、人間がどのような行動をし、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識し観察するのは全存在です。そもそも独立した人間は存在していませんからその認識は人間を包括した全存在が行なっています。

認識を全存在が行うがそれすらも人間は自我が行なったと勘違いし続ける

人間の全ての行為を認識し、観察するのは全存在です。ですがこのことを自我は絶対に認めません、それをしているのは自我であると錯覚します。全存在が行う認識が全て自我に奪い去られ自我の勘違いはまた継続されていきます。ですが本当は自我は錯覚ですから認識し観察できる自我はいません。全ては観察する海、全存在、気づきの存在がいます。究極をいえば自我の成分は全存在です。

波を自分と思い込むエネルギー(自我)は全存在(海)でできている

人間の体、思考を自分のものと思い込むエネルギー=自我は全存在が作り出したエネルギーです。ですから自我は全存在でできています。自我は錯覚だろうと全存在であることに間違いはありません。波は海の一部であり、さらに波を自分自身と思い込むエネルギーも海です。海以外の存在はいないのです。だからこそ波が崩壊した時にそこにあるのは海だけです。結局海しか存在しないのですからこの世は海が創作した海物語です。海と海物語の違いは海物語には不安や、恐れ、不足感という感情が存在します。これは海には存在しないものです。海物語には確実に存在します。ですから不安や恐れ、不足感も突き詰めれば海です。

既知(波物語)の中から未知(海)は発見できない

私たちが思考を使う時、それは波としての記憶からなる

なぜ思考で海を見つけることができないか、なぜマインドで全存在、ワンネスを発見することができなか、、それはその思考、マインドは海ではなく波として蓄積した記憶をベースに構築されるからです。そもそもが勘違いの初期設定の中で育まれた経験、記憶をベースに沸き起こった思考、マインドで真我を発見することはできません。自我は真我を発見できないのは自我そのものが勘違い、錯覚でありその存在が真我を発見できないのは当然です。既知の中から未知を発見できないとは自我が真我を発見できないと同意です。

心はなぜいつも間違えるのか

心が真我、真理、海、ワンネスを絶対に見つけることができないのは心とは波の記憶からなりその記憶は勘違いの集積だからです。勘違いの集積から生まれた感情、思考が真理を発見できるはずがありません。故に心は常に不安、不快、恐れ、不足に満ちそれゆえ常に新しい経験、安堵を探し続けることになりますが結果見つけることはできません。見つけようとするのは海で在ることを忘れた波であり分離した自我だからです。勘違いした存在(涙、自我)のままで真実を発見することはできないのです。故に人間は至福には至れないということになります。

思考はなぜいつも間違えるのか

思考は真理、真我、ワンネス、全存在を見つけることはできません。それは思考とは波であり、分離した自我であり、分離している勘違いしている人間の記憶をベースに沸き起こるからです。波物語、人間物語の中では真我は発見できません。真我とはこういうものだよ、ワンネスとはこういうものだよと聞いてもそれを思考は波物語人間物語の中で発見しようとしますがそこには真我はありません。真我とは夢から覚めた時に出現するものだからです。夢の外に存在するものを夢の中で探してもそこにはありません。

海であることを忘れた波は常に忙しい

何もしていないと思考がグルグルと周りだす

思考とは波特有のエネルギーです。感情も波特有のエネルギーです。波が波であり続けるためには自分は海ではなく波だと勘違いし続ける必要がありますからこの思考と感情が常に頭の中でグルグル回ることになります。感情も思考も何も湧いてこなかったら自身を波だと勘違いし続けることができません。そのため思考は延々と湧いてきて思考する、ゆえに我ありと思い続けるのです。

その状態が苦しくなってくると人は何かをしたくなる

この思考がグルグル回っている状態が苦しいため、人は友人とのお喋りや、TV番組に耽ったり、読書、漫画、スポーツ、旅行とあらゆる娯楽に逃げるのです。娯楽に興じている時はこの思考のグルグルから逃げることができるからです。自身を波であると勘違いしている以上不足感、欠乏感が常に襲ってきますからいかにこの不足感、欠乏感から逃げるか、目を背けるかが重要になるのです。ですが思考を使って逃げ続けていても不足感、欠乏感の恐れから本当意味で逃げ切ることはできません。

波の欠乏感、不足感と向き合うことで無心になる

何かに集中すること、無心になることで海を思い出すことができる人は海の安堵、安心、歓喜を知っている人です。そのような人は波の欠乏感、不足感と向き合う準備ができています。波の欠乏感、不足感とは何かを見つけるためにこれと向き合う、そこと向き合うことに無心になることで波のカラクリ、波の誤解、波の錯覚を見抜くことができます。そこから生まれる安心感、安堵、歓喜を発見できます。書道、剣道、柔道など所作に入り込むことで無我に入れるならば次は欠乏感、孤独感、不足感と向き合うというチャレンジが楽しくなります。

海であることを忘れた波は必ずいずれ海に戻る

波だと勘違いしようと何だろうと波の最終形態は海に戻るのみ

自身を広大な海ではなく極小の波だと勘違いすることからこの波物語はスタートするわけですが波の運命はすでに決まっていていずれは必ず海に戻ります。海に戻らない波はありません、なぜならば波とはいずれ消滅することが約束されているからです。太平洋のど真ん中で発生した波は何ヶ月もしないうちに必ず陸地にぶつかりそこで消滅します。この消滅を悟り、目覚め、覚醒と呼ぶのです。目が覚めるのは波ではなく勘違いしていた海が波が消滅することで我に帰るだけです。

どんなに苦しそうにしている人間がいても気にする必要はない

人生が最高にハッピーでいつまでも長生きしていたい、このような波として生きている人はいるでしょうしそれはそれで何の問題もありません。いずれは海に戻ります。一方で人生は悲惨で最悪でいち早くこの人生を終わりにしたいという波がいるかもしれません、ですがこれも全く問題ないのです。なぜならばそのような波はなるべき早く消滅し海に戻るだけだからです。最高にハッピーと宣っても、最悪にアンハッピーと宣う波も海の安心感、安堵感、歓喜に比べればどれも目糞鼻糞の世界、五十歩百歩の世界です。人間は所詮他人との比較でしか自分の幸福度を決めれないという稚拙な尺度しか持ち得ない生命体です。他人との比較で決め込んだ幸福度など海の幸福、安堵、平和とは次元が違うものです。つまり所詮は一時的な快楽でしかないのです。

真の幸福(海)は波の幸福度を超えたところにある

金メダリストや成功者のインタビューで結果を出せたときの喜びを聞きますが決して騙されてはいけません。波として何かを得てもそれは全て一時的な快楽、その快楽は一瞬で終わりを告げます。ですが何かを成し遂げたときにこみ上げてくるこの達成感と称される感情とは実は一瞬だけ海になったときの感覚なのです。だからこそ笑顔から安堵感や幸福感、至福が見えるのです。海を垣間見た人の表情を見せます。ところが自我(波)はすぐにその経験を自身の自我拡大に使ったりするから騙されてしまうのです。波が対象と一体になる瞬間だけ実は波が消え去り海に戻るわけですがこの海に戻った感覚こそが覚醒のヒント、海に戻るヒントです。

海であることを忘れた波は好奇心旺盛

波であることは素晴らしいアイデア

これまで自身を波だと勘違いすることの苦しみについて散々お伝えしてきましたが決してこれは悪いことばかりではありません。そもそも全存在である海が自身を勘違いすることがミスから起こるなどあるわけがないのです、これはこれで素晴らしい海の大冒険、好奇心から起こるミステリーなのです。ただそこには苦しみが伴います、それはこの初期設定上避けては通れないものです。自身がこの小さな波であると勘違いできれば出会う波、景色は最高にエキサイティングになります。自分以外に他の存在がいるなど海としては絶対に経験できないことだからです。自分じゃない存在(波)に出会う、自分じゃない存在(波)と会話する、、どれもが最高のエンタメ、海にとっては計り知れない感動があります。

波の大冒険は世界(海が形を変えたもの)は自分しか信じられないということからスタートする

生まれてきてからあなたは海ではなく波なのだという洗脳を受け続けることで海は次第に自身を波だと勘違いするようになっていきます。この洗脳の凄いところはそう信じれば信じるほどにこの世界が世知辛く、悲惨で、非常で、残酷で、信用できない世界に見えてくるということです。残虐無人、七転八倒、四面楚歌、、とにかく自分以外は信用できないと本気で思えてくるのです。これが波物語のスタート、オープニング、入り口です。海が海としては絶対に味わえない経験、感情、思考が滝のように湧いてきます。

子供(海)にとって大人(波)が怖いのは大人は洗脳されているから

子供は広大無辺な海として生きていますが大人は極小な波として生きています。子供にとって大人とは何か欠落してしまった存在、何か洗脳されてしまった存在、自分を見失っている存在そのものです。尊敬ではなく哀れみの対象ですらあります。ですが同時に最高にエキサイティングな存在(波)でもあります、海として体験できないことを毎日体験している存在(波)でもあるのです。ここで重要なのは本当は波という独立した存在は存在し得ないということです、波の範囲を明確に言い得ることは絶対にできません、ここからが波でここからが波以外など説明できないはずです、ですが自我(思考)はそこを曖昧にしながらも確実に存在するかのようにあらゆる説明をしていきます。だからこそ自我は常に不安でいっぱいなのです。この曖昧な盲点に気づかれてしまったら自身は即消去されてしまいます。