「対象を必要としない喜びを知る」波は今後期待や希望とは別次元で生きる

こうなったら幸福、こういう人生を生きれたら最高、、これは全て無知な波

対象を必要としている時点でそれは本当の幸福、至福、安心、歓喜を知らない人間、波です。対象を必要とするということは自身は欠落した人間で何かが自分を埋めてくれると信じている状態だからです。確かに人間は家も必要だし、お金も必要だし、仕事も必要です。ですから対象が全く必要ないといえば嘘になります。これはこの二元、波物語で生きている以上どうしても必要です。ですが自身の不足感、欠落感を対象が完璧に埋めてくれることは絶対にありません。なぜならばその不足感、欠落感こそは自分がこの心身だという思い込みが生み出しているからです。自分は海ではなくこの波であると勘違いした瞬間からこの欠落感が生まれそれを埋めるために海の代替品を貪っている姿を飢餓と呼びます。

対象を貪るように求めている間は苦しい

かつては何でも欲しがっていた個人、波もどこかでこれはどこまで行っても限度がないことを何となくに気づきます。かつて心から欲しかった物を手に入れても次の月にはすっかりとそれに魅力を感じなくなっているのです。あれだけ欲しがっていた心とはなぜここまで信用できないものなのか、です。心とは不足感、欠乏感、を何かしらの対象で埋めようとする感情です。根拠のない不足感を何かしらの対象、家や名誉、地位、異性などで埋め合わせしようとする働きです。このためこの根拠がわかっていない限り心はこの不足感を埋めることはできないのです。そして心はこの不足感の根拠を発見することはできません。心や思考を信用してはいけない理由は根拠のない欠乏感を何かしらの代替品で埋めようとする無謀な行為だからです。

大人になると貪ることはなくなるが、、、

大人の人間、波は貪ることがあまり成功しないことはある段階で悟ります。ですが結局なぜ貪っても不足感は満足させれないかは理解できません。思考にはこの原因を発見することはできません、なぜならばこの不足感を埋めてくれる存在、海はこの世界には形状としては存在しないからです。そこの解決を図ったのが書道、剣道、武道、茶道といった道教や座禅、瞑想などです。目に見える世界にそれを探すのではなく目に見えない世界にそれを探す行為こそこれらの行動です。大人になってこの世界、人間社会がやはり生きにくいのは結局のところ自分が抱えている不快感、孤独感、不足感の根本を発見できずにいるからです。

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