感情

体、思考、感情を私とする

私とは誰ですか???体、思考、感情です

「あなたって誰ですか????」「私はこの体であり、この思考であり、この感情のことです」これが今の西洋文明の一般的な答えでしょう。この回答、この回答をした時に我々は同時に憤りを感じています。ワクワクしないんです、平安が湧いてこないんです、歓喜が湧いてこないんです、目がドライになるんです。なぜですか????真実ではないからです。この思考に対し体(今)が反応してるんです。

私とは誰ですか???この全てです、経験を生み出す全てです。

私とは誰ですか???私とは今この瞬間に起こる経験の全てです。この体、この思考、この感情のことではなく、、この体、思考、感情を生み出す大元でありそれに気づく大元であり、「五感」と呼ばれるものが指す経験の全てを作り出す存在です。この回答を聞いた時にスッとしませんか???この思考に対し体が反応してるんです。

中学生ぐらいから

中学校に通う頃になると子供たちがどんより重くなっていきます、笑いが乾いてきます、会話が乾いてきます、なんとなく大人の冷めた感じに近づいてきます。目が死んでくるんです、目から輝きが無くなってくるんです。それがこの「体、思考、感情こそが自分」の落とし込みです。これを真剣に一生懸命に信じるようになるんです、、、それと同時に憤りを感じるようになります。なんか重い、、が起きるんです。

私とは本当は誰だ????という憤り

中学生ぐらいになると

中学生ぐらいになると、、、どうやら大人になると、、社会人にならないといけないようだ、、、どうやらどこかに勤めていかないといけないようだ、、とこの自分を社会にぶち込んで社会に順応させ生きていかなくてはならないことを悟ります。ですが同時にこの「自分」とやらが本当に自分なのか????という奥深くに憤りを感じています・両親から周囲の大人から「この体この思考が自分」と学びはしたが、、、なんかしっくりこないモヤモヤが残るのです。

憤る

このモヤモヤに対し正しく教えてくれそうな大人皆無であり、お坊さんはなにやら死生観について語ってそうではあるが近付き難い、、、新興宗教も近寄り難い、、とこのモヤモヤを抑えて生きていくことになるのです。このモヤモヤは憤りになり、、、、あらゆる感情にシフトしていきます。学生時代から暴力映画、暴力漫画、攻撃的な音楽などに興味を持つのは根本にこの憤りがあるのは間違いないでしょう。

従順にならざるをえない

とはいえ大人に順応していかんければどうやら生きていくのは難しそうだと、、、悟り、、憤りをなんとか誤魔化しながら生きていくことになります。ですがエックハルトトールのようにその感情はどんどん増えていき、増殖しコントロール不能な状態にまでなることもあるのです。それが鬱や体調不良、アレルギー症状、アルコール中毒、、、などなどでしょう。

私とはこの体、この思考ではない

表面上、社会でこの体この思考を生き伸ばせるようになったのならば、、、もう「この体この思考が自分」という思考を信じるということを辞めてしまっていいのです。本当の自分は誰だ???に真剣に向き合う時です。「この体、この思考が自分」ではないのならば「今在る」という感覚は一体何なんだ????となります。答えを言ってしまえばまさにその「今在る」という感覚こそが自分自身であり、、それがこの体、この思考に気づいているのです。そして周囲の現象の全てにこの「今在る」は気づき続けます。つまりはこの現象の全てに気づく存在こそが自分であり、、この現象の全ても自分です。「この体この思考が自分」は間違いであり、、全部含めて自分なのです。

感情とは思考の確認ツール

思考が体に反応し感情になる

人生を豊かにするために「この体この思考が自分」という思考を脱洗脳しないといけない理由はこの思考が一日中ある感情を生み出すのです、それが寂しいです。思考は体に反応して感情を作り出します。ですからこの大元の思考をどうにかしなければ何をやっても結局はさみしい、孤独が解消されないのです。この感情を味わわないように、、人間はあらゆり行動を起こしてこれを感じないようにするわけですが結局はこの感情の処理に人生を費やし続けることになります。

孤独、不足感、寂しい

思考が作り出す感情を感じたくないがために人はあらゆる行動を通じてこれを解消しようとします。お酒、ギャンブル、買い物、暴飲暴食、高級品、地位、名誉、、などなど、、、、埋めてくれるかもしれない何かに向かってさらに思考を巡らせ、行動を巡らせていきます。ですが思考と言っても「この体、この思考が自分」が主語ですからこれを前提にした思考は全て孤独感、分離感、虚無感を起こすという負のスパイラルに入ります。ですがそんなことは知るはずもなく、、思考活動をフルスロットルさせるのです。

苦しみを終わりにしよう

ネガティブな感情は思考が作り出す、、そして今ネガティブな感情が湧くならば今その思考を終わりにする必要があります。根本解決から逃げて、、逃げて逃げ続けてもエンドレスにこの感情は追いかけてきます。TVの中に仮面ライダーが居ないことを冷静に認識した小学生が二度と居るとは信じないように、、「この体、この思考が自分」という思考が間違いであることを理解すればいいのです。すると二度とその思考は湧いてきませんから二度と孤独感、分離感を味わう必要がなくなります。

マリオのプレイヤーはどこに居る

マリオではプレイヤーは画面の外に居るが、、

スーパマリオゲームにおいてプレイヤーはどこに居るか?TV画面の外にいます。TV画面の近くにファミコンがありそこからコントローラーが伸びそこに人が居る。この人間こそがプレイヤーです。ではこの人間ゲームでは人間をプレイするプレイヤーはどこに居るのか?この視界の外に居るのでしょうか?答えは外には居ないということになります。ではどこか?ここです。今ここに居ます。目の前に広がる、花、テーブル、机、窓、空間、これらを形成するたった一種類のエネルギーこそがプレイヤーです。つまり目の前の全部ということになります。これが神です。

だからこそ人間の中に湧く感情は全部、全体から湧いている

人間ゲームにおけるプレイヤーは今目の前に広がる全部です。この全部が人間を操り、経験させ、感情を湧き出させ、思考を湧き出させます。そしてそれらを自分の中で湧いているという思考も全体から湧いてきます。これによって人間の体(自分)はそれを全て所有するという体験が生まれます。視界に見えるこの全体がプレイヤーですからそこから感情が生まれるのも当然です、思考も生まれます、そしてそれをこの自分が所有するという思考が生まれます。これが人間ゲームのカラクリです。この体が自分であるという思考が固定化していくと、分離感、不足感、居心地の悪さがやはり全体から湧いてきてそれを解消したいという欲求がそこから湧いてきます、これも全体から湧いてきます。ここから人生ストーリ、大冒険が生まれるのです。

神は画面であり、OSであり、ゲーム本体であり、主人公(自分)でありプレイヤーでもある

この人間ゲームでは神がプレイヤーであり、OSであり、ゲーム本体であり、このゲームの主人公(自分)です。そしてその全てが今ここに在ります。それぞれがバラバラに分離してして存在などせずに今ここに全部があります。だから神とは全体、全存在なのです。全ての感情、思考はこの全体、神から生まれ、それを自分のモノとするのも人間扮する全体、神です。神の自作自演、制作総指揮、自分劇場のカラクリです。

ランナーズハイとは?

人間扮する神が、、マラソン中にランナーズハイという状態を経験したします。走っていて全く疲れない状態、気落ちよくもあり、恍惚感が湧く状態。これは人間が走り続けている過程でこれが自分であるという思考(全体からの)が湧かなくなることで自分という存在を忘れてしまった人間の状態です。つまり全体、神が走っている状態なのです、この状態はだからこそ歓喜、安堵、平和そのものなのです。歓喜、安堵、平和を感じるランナーが居ない状態です。

本を読んだだけでは究極の気づきは起きない

悟りの本を一冊読んだら全部分かってしまった、、、はない

本を一冊たまたま読んだぐらいで究極の気づきが起きないのは、、、そんなことが簡単に起きるならばこの人間ゲームを作った意味がないからです。書籍一冊で用が済むならば大自然も、世界中の事件も、世界中の人間も、多種多様な動物も全部必要ない、、、こうなります。なぜ自分を取り巻く環境には多様性があり、夜空が広がり、空には星まで見えるのか?気づきの意識がこの体を使ってあらゆる体験を積み、感情を湧き出し、思考を湧き出し、、独自の気づきを作りたいからです。たった一つの真実がありそれを知れば究極の気づきが起きるならばたった一人それを経験する人間がいれば済みます。なぜこれほどまでに多くの人間が存在するのか?それはそれだけの各種気づきを気づきの意識が求めるからに他なりません。

100人いれば100人のマリオ体験がある

100人がスーパーマリオをプレイしますと100人の全く異なったマリオ体験があります。100人の人間がいれば100人の全く異なった気づき体験があるのです、100種類の歴史、固定観念、気づきがあります。これを気づきの意識は気づきたい。気づきの意識は気づきの意識のままでは何も経験できない。気づきの意識がたった一個の気づき体験を欲するわけがないということです。

上手くいかないを経験しなければ上手くいくを経験できない

上手くいった経験をするためにはその前に上手くいかなかった経験が必要になります。これを生み出すために人間は無知無能で生まれました。全知全能の神、気づきの意識が無知無能の人間(自分)を誕生させることで上手くいかない経験、上手くいく経験を作り出していきます。下手を経験し上手いを経験します。最低を経験し最高を経験します。そしてそこにはあらゆる感情、思考が湧き出しそれを自分のモノにしていきます。自分とは気づきの意識から湧き出る感情、思考を全て自分のモノにしていく自分所有体験です。感情・思考・経験・自分所有体験記ということになります。その体験があまりにもオリジナリティー溢れるからこそそこからの気づきもオリジナルなのです。

友人からの裏切り、この時自分の中に何が?

自分の中で起こったことを精査する

例えば友人から裏切られたとしましょう。例えば彼氏を寝取られたと、、、この時自分の中からどのような感情が湧いてくるか、、、、前から怪しいと思っていた、彼氏を奪うとは本当にゲスな人だ、、幼少期に何か不幸があったのでは?これが一度では無いはず、、あの髪型も服装も全部男を誘惑するためのものだ、、逆に友人の彼氏を狙ってやろう、、、、まあこんな感じであらゆる思考、感情が湯水のように湧いてくるでしょう。この全てを自分は自分の体から湧いてきたと勘違いします。この思考、感情はこの体無くしては絶対に湧いてこない、だからこれらの思考、感情は私のモノだ。誰がこれを疑うことができるか?ということです。ですが実際は違います、これら全ては気づきの意識、全体から湧いてきています。それをあなたの体がキャッチしただけです。そしてさも自分がこの感情、思考は湧き出したのだと勘違いします。そしてそれを脳に記憶させます。

思考と感情をテーブルに出してください

もしも思考と感情が本当にあなたのモノならばそれを今すぐにこのテーブルの上に出してみてください。当然出ません、、、思考も感情もテーブルの上に載せれるような物質ではないからです。あえて言えばエネルギーです、そのエネルギーは体の中に物質として蓄積されるわけでもなくただ脳に記憶されます。このエネルギーを作り出したのは自分自身だというこの錯覚がこの人生劇場、自分劇場をエキサイティングなモノにします。ですが実際はこの思考、感情は気づきの意識、全体からただ湧いたのであってそれを自分が所有したと錯覚しただけです。

この自分ゲームをすると、、、

このメカニズムを理解することができても、、、これからも当然あらゆる感情、思考は湧いてきます。ですが一旦この事実を腹落ちすることができれば湧いてきた感情を自分のモノにするというコレがなくなります。この体(自分)と湧いてくる感情、思考を切り離すことができます。そしてこれからもこの体を使って活動すればまたあらゆる思考、感情が湧いてきます、ですがそれは自分のモノではありません。ただ気づきの思考、全体から湧いてきただけです。マリオのプレイ中に湧いてくるあらゆるプレイヤーの感情とマリオが一切関係ないように、実はこの体と湧いてくる思考、感情は何も関係がないのです。

全体験、全感情、全思考を自分のものにしていくマリオは固定観念が形成される

マリオの固定観念

マリオはゲームをスタートしてあらゆる敵キャラに出会います。ノコノコ、パタパタ、メット、ゲッソー、、、などなど、、、これらの敵と対戦していくことでマリオは独自の経験、湧いてくる感情、湧いてくる思考を自分のモノとして取り入れていきます。脳にある記憶機能でそれらを積み上げていくのです。ノコノコは軽い相手だかが階段で出会うと厄介、パタパタは上から降りてくる時が危険、ゲッソーさえいなければあの時クリアできたのに、、、とゲーム中の経験、感情、思考を全部まとめていきます。これが重なり合って一つの固定観念が形成されていきます。

人間の固定観念

人間の固定観念も全く同じ原理で形成されます。出会う人々によって様々な経験を積みそれを自分のモノにする、出会う人々によって経験がありそこからあらゆる感情が湧いてくる、そしてそれを自分のモノとする。出会う人々によってあらゆる思考が湧いてくる、そしてそれを自分のモノにする。経験、感情、思考の全てを自分のモノとする。これによって自身の固定観念、価値観が形成されます。この固定観念、価値観はそれゆえ人によって全く異なります。価値観が全く異なる人同士がコミュニケーションをするわけですから当然理解できない部分が発生します。

全く異なった固定観念によるトラブル

人間とは固定観念を所有する動物です。人間とは自身の経験、感情、思考を全て自分のモノとして蓄積していく動物です。それによって固定観念が形成されます。この固定観念はそれゆえ人によって全くことなるのです。この全く異なった固定観念を所有した者同士がコミュニケーションをとるわけですから常に分かり合えない部分が発生しそこがトラブルになります。世の中から人間関係のトラブルが決してなくならない理由とはここです。

固定観念自体が錯覚

話を最初に戻しますと、、、人間が独自に所有する経験、感情、思考、、、これらは実は人間のモノではありません。人間が何かしらの行動を起こすと経験、感情、思考が発生しますがこれらの全てはただ湧いてくるのであって決して人間のモノではないのです。マリオが動いた時の経験、湧いてくる思考、湧いてくる感情はプレイヤーから湧いたモノです。これをマリオが自分のモノと勘違います。人間も全く同じで動くと湧いてくる感情、思考は気づきの意識、全体、神から湧いたモノです。これを自分のモノとすることから錯覚が生まれ、固定観念が生まれるのです。固定観念とは大いなる勘違いから発生しています。固定観念の相違によるトラブルとは大いなる勘違い同士のトラブルでありだからこそ解決が難しいのです。

セミリタイアしたマリオは絶望する

マリオはセミリタイアを夢みるが、、その後絶望する

マリオは毎日の大冒険に疲れてきます、毎朝起きれば毎日クリボーやノコノコ、ブクブクとの戦いの日々、これからの人生これが毎日続くと思うとゾッとするわけです。そこでマリオはゲームクリアーを夢見てセミリタイアを本気で考えるようになるのです。セミリタイアすることが一番の目標になります。そして無事ゲームをクリアしてセミリタイアに成功すると、、、、あまりの退屈にびっくりします。。マリオがただ毎日ソファーで横になっている時、それを眺める人間はどう思うか?退屈至極です。この退屈至極が、、、湧いてきて、、、それをマリオが所有します。。びっくりする事件が起きます、長年の夢だったセミリタイアを達成した翌週には退屈が湧いてくるのです。。。。。マリオは自分の感情を疑います、、、どういうこっちゃと。

湧いてくる感情を自分のものとするからおかしくなる、、、

長年の夢だったセミリタイア、、、ところがそれを達成した翌週から退屈という恐ろしい感情が湧き続けます、、、これは本当に自分の感情なのか?あれだけ苦しかった戦いの日々が終わりようやく安全な毎日を送れるようになったのに、、、まさか翌週から退屈の感情に襲われる、、、この感情をマリオが自分の感情だと思えば大変なことになります、自分という存在が理解できない、、、ですが本当はこの退屈という感情はプレイヤーから湧いています。プレイヤーはマリオがソファーで寝ているのを一緒になって楽しむようにはなっていないのです。なぜならばプレイヤーはマリオがどれほどの傷を負いながら大冒険をしている最中も全くの無傷、無傷、、命の危機など皆無だからです。多くの体験を積んだマリオはこの感覚を本能的に知ります、どうやら自分は活動していないのが一番苦しいようだと。ですが本当は違います、マリオを経験してるプレイヤーが退屈なのです。

マリオは常に恐怖心が満ちている、だがそれを経験するプレイヤーは恐怖心ゼロ

マリオは常に恐怖心が満ちています、クリボーもブヨブヨも、クッパを当たれば傷つきます、痛いです、、ダメージを受けて死んでしまいます。ですがその経験を回収するプレイヤー、気づきの存在は安堵そのもの、、、、むしろ恐怖心を積極的に回収したいぐらいに余裕があります。ですからマリオは恐怖心を抱きながらも冒険を続けることになるのです、そしてその方が充実感が湧いてくるから厄介です。この充実感は勿論、プレイヤー、気づきの存在から湧いてきます。

神はこの人間活動の経験の全てを回収する

自分が経験している全ては神が回収する

この体を自分とするならば、、、この自分が経験する全ては神が回収します。マリオの経験の全てを人間が回収するようにマリオの全経験を人間が回収します。これは神と人間の関係も同じで人間が経験する全てを今神が回収します。喜怒哀楽、寒い暑い、怖い楽しい、最高、最悪、、全感情、全体験、全五感を神は回収します。外で鳥の声がする、、、声を回収するのは人間であり神です。神は鳥の声を人間の聴覚を通じて回収し、さらに声そのものから回収します。マリオをプレイするプレイヤーはスターの効果音をマリオの聴覚、スピーカー同時に回収します。

朝から晩まで頭の中で思考がぐるぐる、、

朝から晩まで考え事を自分がしている、、、、その全てを神が回収します。朝から晩まで苦しみ悩み、鬱積する感情の全てを神が回収します。もしも神が回収できない人間の経験があるならば、、神は神でなくなります。神は全経験を回収するから神なのです。全体なのです、ワンネスなのです。マリオがピーチ姫を救うために大冒険をすることができるのは記憶力があるからです、もしもマリオに記憶がなければ当初の目標であるピーチ姫を救うことを忘れます、すると冒険をしようという気持ちもなくなります。大冒険が破綻します。人間も記憶という機能があるゆえに今日起きると昨日の続きを行うことができます、だから人間は自分劇場、ドラマを生きることができるのです。この劇場経験、ドラマ経験こそが神が人間を誕生させた理由です。動物にはドラマがありません。

マリオの大冒険は動物ではできない

マリオが未知の世界に冒険をできるのはマリオの記憶力ゆえです。一般の動物は未知の世界に進むことを怖がりますし、冒険をしていたことなど寝ると忘れます。ところがマリオは記憶力がしっかりしているので冒険を辞めることをしません。この経験はマリオだけのものです。人間もこれと同じ、人間には記憶力があるために自分の存在、昨日までの経験の全てを覚えています、だからこそ今日また人生を続けることができるのです。これを神は大歓迎するのです。人間の未知への大冒険は神の大好物です。

全体にとってこの自分は退屈すぎる、、

マリオがもしも敵と戦わなかったら、、、

もしもマリオが敵と戦わなえないゲームに変更されてしまったら、、、大変退屈なゲームになります。マリオが通る道を全キャラが素通りにしていってしなえば退屈極まりないゲームになります。なぜか?マリオには戦うという機能しか用意されていないからです。マリオは歌を歌うことも、スポーツをすることも、ビジネスをすることも何もできません、ただジャンプして走るという機能しか用意されていないのです。これは人間も同じです、全知全能の神がこの無知無能の人間ゲームをしています。もしも人間が何もしなかったら退屈なのです、神が、気づきの意識が、全体が、、、です。人間は活動してくれて初めて気づきの意識は安心します。

活動して活動して活動して、、、もうこの退屈脱却ゲームに辟易したら、、、

神、気づきの意識、全体がこの人間活動をするのは、、、何もしなければ退屈極まりないからです。人は何もしないと退屈という感情が湧きますが、、あれは確実に気づきの意識から湧いています。そしてそれを人間は自分のものにする、、、「あー退屈だ、、、」となるのです。何もしないと退屈が湧いてきますが、、、気づきの意識は、、ただ人間が何もしていない状態、、、マリオが何もゲームに参加しない状態が、、、耐えられません。人間にとってマリオが戦うしか能がないように、、、神にとって人間とは活動するしか能がないのです。ということで人間は今日も活動します。ですがもしもこの活動地獄に辟易したら、、、ゲームのネタバレを探求するゾーンに興味がでてきます。自己実現からの自己超越です。

今日も私は自己超越活動をする

神は人間を作りましたが人間は神に比べ無知無能ゆえに何もしないでいると退屈になっていきます。そこで人間に活動をさせます、人間は食べたり飲んだり寝なくては生きていけないように設定されているのはそのためです、もしも人間が太陽光を吸収でき何も食べず、寝ず、飲まずに生きていけたならば何もしないでしょう。この状態は神にとって退屈極まりない状態なのです。このブログを書いている私は、毎日ブログを書くということをすることで活動しています。活動していると神が満足しているのが分かります。何もしていないと神は退屈になり退屈という感情が湧いてきます、それをこの私は感じ取り自分のものにすると、、退屈だなーという言葉が湧いてきます。