我ありは海のこと

全ての現象を認識しているのは全て海

波が波としてどのような経験を積み、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識しているのは海です。波は波として活動しますが波の動きを認識し観察する存在は海です。もちろん波の本質は海であり波は実はありませんからそれは当然ということになります。波が海の存在を忘れようが波が海であることは間違いなく結果全ての認識は海が行なっています。人間もこれと同じ、人間がどのような行動をし、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識し観察するのは全存在です。そもそも独立した人間は存在していませんからその認識は人間を包括した全存在が行なっています。

認識を全存在が行うがそれすらも人間は自我が行なったと勘違いし続ける

人間の全ての行為を認識し、観察するのは全存在です。ですがこのことを自我は絶対に認めません、それをしているのは自我であると錯覚します。全存在が行う認識が全て自我に奪い去られ自我の勘違いはまた継続されていきます。ですが本当は自我は錯覚ですから認識し観察できる自我はいません。全ては観察する海、全存在、気づきの存在がいます。究極をいえば自我の成分は全存在です。

波を自分と思い込むエネルギー(自我)は全存在(海)でできている

人間の体、思考を自分のものと思い込むエネルギー=自我は全存在が作り出したエネルギーです。ですから自我は全存在でできています。自我は錯覚だろうと全存在であることに間違いはありません。波は海の一部であり、さらに波を自分自身と思い込むエネルギーも海です。海以外の存在はいないのです。だからこそ波が崩壊した時にそこにあるのは海だけです。結局海しか存在しないのですからこの世は海が創作した海物語です。海と海物語の違いは海物語には不安や、恐れ、不足感という感情が存在します。これは海には存在しないものです。海物語には確実に存在します。ですから不安や恐れ、不足感も突き詰めれば海です。

(Visited 18 times, 1 visits today)