感情

いつから人間は自身の死を深刻に受け止めるようになったのか?

マリオの死を深刻に受け止める人はいない

スーパーマリオをやっていてマリオの死を深刻に受け止める人はいません、ですがこの体、この人間の体の死に関しては恐ろしく恐れます。それだけこのゲームにマリオとして没入している証拠です。もしも没入してなければこれほどまでに死を恐れることはないでしょう。それはそのはず、このゲームは神が作ったゲームですから超絶リアリティー、五感も半端なく鋭敏で、思考や感情も恐ろしくリアリティーがあります。ですからこのゲームに登場する人間はその五感で感じる経験、感情、思考を全部自分のものにすることができるのです。

もしもスーパーマリオがこの現実社会よりもリアリティーに溢れてたら、、、

もしもスーパーマリオというゲームが、人間の目を覆うゴーグル型になり、、圧倒的なリアリティーを再現できたならば人間は恐らくゲームばかりをやるでしょう。この現実よりもリアリティーに満ちさらに楽しかったらなおさらです。そのゲームの中でマリオが何かを達成すればマリオとして喜び、もしもマリオが失敗すればマリオとして悲しむことができます。もしもクッパに攻撃されればマリオとして腹が立ちます。もうその時には自身が人間だったことは忘れているはずです。これが今気づきの意識に起こっています。自分をこの体であるという大錯覚が起こり、全体験を人間として所有しているのです。

それでもマリオに愛着があるのはこのゲームは素晴らしいから

マリオが居なかったらスーパーマリオをプレイすることはできません。マリオ無くしてスーパーマリオなしです。この人間劇場も同じ、私無くしてこの自分劇場は成立しないのです。私無くしてこの人間ゲームは成立しません、ということで気づきの意識、全体はこの私に愛着を持っています。この私を無下にすることは断じてありません。もしも私にとって最悪最低の事件が起こったとしてもそれも気づきの意識が起こしています。その経験を愛しているのです。

マリオからゲームそのものへの視点の転換

自分はマリオだ、からの脱却

これは視点の転換です、自身をマリオとするか、ゲームそのものとするかの転換です。今まではゲームの中での効果音はマリオが聴いていました、ですが今はゲーム全体として聴いています。今まではマリオがクッパに出会いました、ですがこれからはクッパの登場をゲームが認識します。今までは失敗が続くとマリオが落ち込みました、ですがこれからはゲームがマリオの失敗を認識します。今まではマリオがピーチ姫を救い歓喜に沸きました、これからは歓喜をゲームが認識します。音楽、感情、キャラの登場をゲームとして認識します。スーパーマリオをしているプレイヤーは皆これをしています、違いがあるとすればプレイヤーは個別に存在せずゲーム本体がマリオを動かし様々なドラマが起こっています。

これまでは個人の行動の結果を個人が所有してきた

人間のほとんどは起こる事件の全部を個人が所有します、感情が湧けばそれを自分の感情と認識し、思考が湧けばそれも自分の思考と認識します。何かが目に入れば自分が見たと判断します、ですが実際はこの体を通じて気づきの意識が見ています。何かが聞こえれば個人がそれを聴いたと判断しますが体を通じて気づきの意識が認識しています。個人の人間が感じる全ては気づきの意識が認識しています。これを全部個人が所有してきたと誤解し続けただけです。マリオが体験した全てをマリオが所有してきたと誤解するのと全く同じです。本当はマリオは何も経験していません、プレイヤーが経験しています。

子供の頃はみんな全部の経験をゲームレベルで感じていた

子供の頃はみんな自身の経験をゲームぐらいに感じていました、自分を経験する経験者という概念すら無かったはずです。その証拠に昨日喧嘩したお友達との争った原因など次の日になればすっかり忘れていたはずです。喧嘩は起こったかもしれませんが次の日には何も無かったかのようにそのお友達と遊びます。経験を個人が所有していないのです、そして個人という概念も薄いのです。これって自分をマリオだという思い込みが薄い状態でゲームをしている感覚です。

このブログをカフェで書いてる時

音楽が聞こえる、、、

私は今このブログをカフェで書いています。音楽が聞こえます、この音楽私の耳で聴いているということもできますが気づきの意識が聴いているとも捉えれます。パソコン画面が見えます、これも人間である私が見ていると捉えることもできますが気づきの意識が見ていると捉えることもできます。この体はありますがくPC画面と私の間には体は存在しません、ただ目の前にPC画面だけがあります。気づきの意識がこれを認識します。勿論目をつぶるとPC画面は消えます、真っ暗が見えます。気づきの意識が真っ暗をい認識します。人間としても捉えることはいつでもできますが気づきの意識としても捉えることができます。ブログをタイピングする時にPCに指が触れる感覚を感じます。これを体が感じていると認識することもできますが気づきの意識が感じていると認識することはできます。

マリオを意識しようとしなくてもスーパーマリオはできる

スーパーマリオをプレイする時、全体験をマリオがしていると錯覚してもプレイできますがプレーヤーがやっているという事実でもプレイできます。当たり前の話です。この人間ゲームも同じ、人間のなかに自分が居るという前提でプレイできますが、その前提を壊し全部を気づきの意識が体験していると捉えることができます、本当はこちらです。どこまでも人間の中に自分が居てこの人間をプレイしていると捉えることはできます、ですが全部をこの気づきの意識が経験していると捉えることができます。

マリオがコテンパンにやられて

マリオに五感があるとしましょう、その五感がある状態でクッパにコテンパンにやられた、、、マリオの中に自分がいると錯覚するのは容易にできます。痛いのですから、さらに悔しいという感情が湧いてきたら、、自分の感情と錯覚するマリオを作るのは容易でしょう。ですが本当は全部プレイヤーがやっています。このリアルバージョンが人間ゲームです。人間が感じる痛み、辛さ、苦しさ、悔しさ、、、これを自分の体が体験しているという思想、、、完璧に人間ゲームにどっぷりはまり込み、気づきの意識、プレイヤーは自分がやっていることを忘れます。人間ゲームの凄いところはこの体の中に自分が居ると錯覚を起こしても何一つ矛盾がないことです。

気づきの意識で観察する

マリオの体感を全て観察していく

スーパーマリオの中でマリオが体感していくことを気づきの意識として体感していきます。マリオがクリボーに出会います。クリポーを発見します、クリボーにぶつかります、痛いという感覚を持ちます、血が出ます、クリボーにジャンプして踏みつけます、足にクリボーの感触があります、クリボーが潰れます、手が痛みます、体温が上昇します、嬉しいという感情が生まれます、よし次に行こうという思考が湧きます、、、気づきの意識として全てを観察する時、マリオという独立した存在は居なくなります。マリオを経験する気づきの意識だけがあります。このように我々の人間活動も同じように気づきの意識として観察していくと体の中の自分が居なくなります。

体の中の自分は経験を自分のものとする思考のこと

気づきの意識で観察するのと一般の人間活動の大きな違いは、、、経験を自分のもの(体)とするかしないか、、、これだけです。実は我々は全経験、全思考、全感情を自分(体)のものとして捉えているだけです、この捉えがなくればマリオを操るプレイヤーに直ぐになれます。主人公が180度変わります。主人公の次元はいつでも変えることができます。

プレイヤー、気づきの意識、全体の視点に戻る

今コーヒーを飲んでいます、コーヒーが口に入ります、苦味を経験します、喉を通ります、冷たさを感じます、安堵感が湧いてきます、、、これを今までは体の中の自分が経験していると認識してきました。これをしません。この経験だけがある、経験を積んでいるのは気づきの意識、ゲームプレイヤーです。またコーヒーを飲みます、コーヒーの香りがします、今度はミルクの味がしました、甘みを感じます、喉を通ります。これを体の中の自分が経験したという認識をしません。ただ経験だけを観察します。主体客体の世界が崩れました、経験だけが湧き続ける世界です。

自分は対象がなくては存在できない

何かを感じ、何かを思考するからこそ自分が居ると錯覚できる

自分が居るから、何かを感じ、何かを思考し、何かをすることができると思っています。ですが実際は逆です、何かを感じ、何かを思考し、何かを実行できるからこそ自分が居るのだと信じているのです。もしも何も感じず、思考もないのならば自分が居ると信じることはできません。対象があって初めて自分はこの世に存在すると信じることができています。主体客体セットで自分は存在できるのです。

五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、この体の中に自分が居るという思考も湧く

この体に五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、それらをこの体の中の自分が所有しているという思考がさらに湧くことでこの自分は存在できています。何かしらの対象があることでこのプロセスは成就します。コップがあって、それをこの体が視覚で確認し、この体が触って確認し、持ち上げて確認し、このコップは美しいという思考が湧いてきてきて、このコップが欲しいという感情が湧き、それらの感覚を所有するのはこの私であるという思考が湧くと、、この自分の存在を信じます。

この自分という存在を絶対的に信じる限り、苦しみは消えない

対象に対する五感プラス思考、プラス感情を通じて自分が居ることに絶対的な自信を持つわけですが、、、この錯覚を信じる限り、、不足感、欠乏感、欠如感が癒えることはありません。自分という存在は全体が作ったゲームであり、そこにのめり込むほどにギャップが生まれ苦しみが湧いてきます。全体がこの小さな体であると錯覚を起こせば不快感が湧くのは当然なのですが、、この分離の世界に一旦のめり込んでしまうとなかなか脱出できません。

私たちは体ではない、、では何か?

答えはいつもシンプル

この自分劇場、この体の中に自分が居る、、、この大前提は非常に強固で革新に満ち素晴らしいアイデアです。体が動けば五感もあるし思考も感情も湧いてくる、、、だからこの体の中に自分が居るのは当たり前。ただもしもこの体の中に自分が居ないとしたら、、どこに居るのか???ということです。自分、自我それについてもしっかりとした打開策、代替案を持っています。そうです、自分は体の周りを囲っているという理論です。オーラという表現をする人もいます。ですがもしもそれも違う、、、となったならば自分はどこに居るのでしょうか?全部ということになります、視界入る全部が真の存在ということになります。

体の中に自分が居ないなら全部

自分が居るという感覚に絶対的に自信があるから、もしも体の中に居ないならば外にいる、、、この理論が生まれます。そして死んだならばこの自分はどこに行くのか?という理論に発展するのも当然なんです。スピリチュアルにハマったきっかけも江原さんが死後の霊とダイレクトに会話をしているのを見たからであり、そこに何の疑いを持ちませんでした。ですが今は分かります、自分が居るというこの感覚は絶妙な条件が合わさっての錯覚であるということが。五感、思考、感情、、これらが湧いてくるからこそこの絶対的な感覚に自信を持てるのです。マリオに五感が発達し、さらに思考、感情、この体の中に自分が居るという思考が湧き続けたら、、、マリオに自我が芽生えます。覚者が人間に対し「安心して苦しめ」と言うのはこのような理由からです。

マリオに五感と思考、感情を与えてみる

マリオがクッパと戦う時に痛み、苦しさ、戦略を考える思考、そしてその感覚を自分のものだという思考を与えたらどうなるか、、、間違いなく自分が居るという感覚を持てるはずです。マリオ自身が痛みを感じそれを自分のモノとする思考があれば間違いなく自分がクッパと戦っていると思えるはずです。この自分がマリオという感覚はゲームケイレイターの望みです。本当は自分はマリオであるという認識はゲームクリエイターが認識しているのですが、、、要はゲームクリエイターがマリオになり切るという遊びをしているのです。それが我々人間です。

自我が芽生えたマリオはそう簡単には死ななくなる

もしもマリオに自我が芽生えた自分がこのゲームをやっていると勘違いしたらどうなるか?そう簡単には死ななくなります、死なないために恐ろしく慎重になるでしょう。一個の壁越えジャンプでも何度もシュミレーションしてから行うはずです。クッパと戦う時などはデータを集めて対クッパ、シュミレーションを完璧にするどころか寝首を斯くという奇策に走るかもしれません。もしくは賄賂を渡して穏便に済ませるという方法も取るかもです。こんなことは当たり前にやります。これって人間の行動のことです。人間がマリオですらも簡単に騙せるのですから全体、神が人間を騙すのなど屁の河童なのです。

自分が居なければ全体はこのドラマを創造できない

悟りの世界では自分、自我が悪の根源かのように扱われるケースは多々あります。自分さえ無ければ自我さえなければこの世の苦しみはない、、、その通りです。ですがそれを作り出したのは全体、神であり、全体、神が無駄なことをするわけがないのですから自我、自分には大きな役割があります。それがこの自分劇場、自我ストーリーの創造です。変幻自在のこの自分劇場があるからこそ喜怒哀楽、全体への憧れ、神への羨望、全感情を味わい尽くすことができるのです。全感情を味わい尽くすためにこの自分劇場は創造されました。全体は全体のままでは絶対にできないことです。

最初から自分劇場だと分かっていたら、、、

この自分劇場が最初から作り物、ノンリアリティーであることがバレていたら全く面白くもなんともない、、、子供の頃から学校でこのことを習っていて腹落ちでもしてしまったら受験も、就職も、結婚、出産というリスクあることを人はしなくなるかもしれません。要はマジになれない、、、ということでこの自分劇場は全知全能の全体が完璧に入れこむように完璧なのです。全く思い通りにならない、、、それが全体の狙いです。自分を創造している全体こそが自分がこのドラマで至福しかない生活を送ることを何よりも嫌います。それならばこの自分劇場はいらないと。

自ら進んで辛酸を舐める

外に出るとコスパが悪いから何もしないで一日中家にいよう、、、、このように自分が発案しこれでもしも自分が満足してしまったらこの自分劇場はしょうもないものになってしまいます。そのため全体はそうならないように自分に不足感を湧き出すように設定しました。家にいると退屈、喪失、孤独であるように不足感が湧き出るようになっているのです。結果コスパが悪かろうと自分は家を出てこの退屈、孤独、喪失をなんとか埋めようとドラマに参加していくのです。このメカニズムが分かってくると、、積極的に体験を積む方がこのドラマ劇場は上手くいくのが分かります。どうせこの不足感はどこに居ても襲ってくるのだから最初からコスパ無視して体験をしにいく、、ということです。

さあ自分を卒業しよう

自分とは人間ゲームの表面

ドラゴンクエスト3というゲームがありこれには表面と裏面が存在します。表面をクリアするとまさかの裏面に突入という流れです。私はこの人間ゲームの表面こそが「この体に自分が居る」という設定ゲームだと思います。そしてそこを見破り次第、次のゲームに裏面に突入すると。表面は非常にエキサイティングです、なぜならばこんな小さくて卑小で極弱な体の中に自分が居るという史上最低の初期設定だからです。勿論この体の中に自分が居ないということが分かってもこの体がパワーアップすることは絶対にありません。ですが少なくとも深刻さが消えます、マリオを自分と思っていた自分がマリアは自分ではないと気づく気軽さです。

裏面は「経験はあるが自分はいない」

この体の中に自分は居ないという気づきが起きても当然経験は続きます。朝起きてコーヒーを飲めば美味しいと感じるし、運動をすればスッキリします。人とコミュニケーションを取れば喜怒哀楽全部起こります。ですがそれを所有する個人が居ないという点が全く異なります。経験、感情、思考だけが起こり続けます、そしてそれを所有する個人が消えています。この体に向けてあらゆる人がアプローチをかけてきてもそれはこの体に向けてのこと、それだけです。個人としてそれを所有しないのですから周囲からすれば飄々と生きているようには見えるはずです。多くの方は全てを自分ごととして捉え重くなっているのです。

自分ごとと捉えないのは無責任?!

全ての出来事、感情、思考を自分ごとと捉えないわけですから無責任に映ることもあるでしょう。もっと深刻に悩むべきだ、もっと熟慮を重ねて行動すべきだ、、、と。ですが実際には、、自分ごとと捉えないことで頭脳を常にリラックスさせておくことができますから頭脳が明晰になっていきます。この体に起こる問題に対して迅速に明瞭に処理していくことができるのです。無責任どころか積極的解決に向かいます。

地動説以来の大発明「自分が錯覚」

自分が錯覚であることに気づいたら二度と戻らない。。。

自分が錯覚である、この感覚の気づきは、、天動説が地動説に切り替わった時の人類の驚きと同じです。そもそも地球は平坦で、その周りを宇宙が回っていると真剣に信じ込んできました、研究者が実は地球こそが太陽の周りを回っていると唱えても変人扱い、病気扱いをされたモノです。今回の提案、実は自分とは錯覚であるというアイデアはその当時と全く同じ扱いを受けます。この体の中に自分が居るというのは思考のアイデアです。思考と記憶が作り出した画期的なアイデアです。

人間同士は自分の存在を共有し続ける

天動説が人間にとって当たり前の定説だった時、それに異を唱える動物は皆無でした。人間だけが人間同士で勝手にそう思いこんでいただけです。人間全員がそう信じればそれに異を唱えるのは誰もいないのです。今回の自分錯覚説も全く同じです、人口の99。999パーセントがそう信じていれば先ずこの理論が覆されることはないでしょう。もしも自分錯覚説に気づいた者が現実的に目の前に現れても病人か変人に扱われて終わりです。

自分というのはアイデア

人間がどれほどのテクノロジーの進化を遂げても体に中に「自分」を発見できることはできません。断言できます。なぜならば自分とは思考と記憶が作り上げたアイデアだからです。この体の中に思考も湧いてくるし、感情も湧いている、そして五感もガッツリ感じている、、、だからこの体の中に自分が居るというアイデア、理論です。この体無しに思考も感情も湧かないではないか!その証拠に熟睡中は何も湧いていない!ということです。ですが実際は思考、感情が湧いた時にこの体の中に湧いたのだと信じ込んでいるだけです。マリオがゲームの中で味わう辛酸はマリオのものだと言い張るのと同じです。スーパーマリオの中で辛酸を味わっているのはマリオではなくプレイヤーです。

もしも動物の感情が読めてしまったら大変

動物の精神状態が理解できてしまったら

もしも人間がテクノロジーを発展させて動物の精神状態を読み取れるようになったら、、、大変なことが起きます。悩み苦しむ動物も将来に不安になっている動物も、過去を憂う動物も皆無だからです。つまり人間よりも遥かに精神状態が安定しているということです。そんなことはない、、人間様がこれほど不安や不平を抱え毎日ストレスを背負いながら生きているのになぜ動物の方が心穏やかなのか?と思うでしょうが事実です。人間だけが将来不安に怯え生きているのです。

何億光年先の惑星すらも発見できる人間が、苦しみのメカニズムを発見出来ない

人間はとてつもない進化を遂げてきました、船を発明し、飛行機を発明し、スペースシャトルを発明し、、何億光年先の天体すらも発見しました、、ですが人間は人間の苦しみ原因をまだ発見出来ずにいます。ジョークです。釈迦やキリストがかつてそこの解明に至ってもそこから携わる人間がまた誤解を繰り返し全く異なった解釈が行われています。人間は自身の苦しみ解決のため今日も新しいテクノロジーを進化させ、便利な生活用品、快適な住居を開発しますが人間の苦しみの本質が解消されることはありません。

まさか人間の初期設定が勘違いだった、、、

渋谷駅に行けば見渡す限りに何千人という人間が居ますが、その中でこの体の中に実は自分が居ないという事実を知っている人はどれほどいるでしょうか?恐らく一人もいないでしょう。この体の中に自分が居るという大誤解は天動説から地動説に切り替わった時ぐらいの衝撃的発見になります。人間は何万年もの間、この体の中に自分が居るという勘違いを続けてきました、そろそろその勘違いが訂正されてもいい時期です。