思考

事実(非二元)以外は思考(二元)するのを辞める

事実(非二元)だけ見ていく

これからの将来、、、こんな事態になる可能性があるから今からこんな準備をしていかなくては、、、これは思考が考えだす不安から来る思考です。これは事実とは全く関係がありません。事実がこうなっているから将来こうなるのでは????これ事実から湧き出た思考です。この思考に我々は取り込まれていきます。事実は非二元です、ですが事実から湧き出る思考は二元です。この思考に取り込まれていくから二元に取り込まれます。そして二元の世界は苦しみの世界です、酸素が薄い世界です。

事実(非二元)だけを見ていけば本来は全く重くならない

例えば今ロシア、ウクライナが戦争を起こしています。これは事実(非二元)です。ですがこの事実に基づいて我々は重く重く考えていきます。第三次世界大戦になったら、核戦争になったら、、こうやって思考、自分、二元の世界に取り込まれていきます。ここは苦しい世界です。ですが事実だけで言えばロシア、ウクライナ戦争の影響はほぼ生活には支障がないです。仕事があぶれた、会社が倒産した、ウクライナ人難民が街に溢れた、、これはないですね、、つまり事実は何も起きていないのです。何も起きていないならば事実は軽いままです。これが非二元です。

事実(神)は重くない

神が居る世界は重くないです、神が薄れた世界、、思考の世界は重いです。神が居る世界、思考以外の世界では事実は淡々と起きていきますが実は大したことはないです。なぜならば神の世界だからです。では事実として東京直下型地震が起きたらどうなんだ?という話をしましょう。もしも事実として起きてそこに入れなくなったら移動するだけです。会社も失い家も失い全部失ったらそれは重いだろうと、、それは違います、会社を失い家を失った時に、、、これからの人生をどうしたらいいのかと思考が湧き出して思考(二元)に取り込まれるのが分かっているから苦しいのです。事実は何も苦しくないのです。事実とは神が居る場所です。そこから離れて思考、自分、幻想の世界に行ってしまうから苦しいのです。

思考が無我を自我に引き戻す

思考=自我

思考が湧いてきても放置していいのは、、、この思考こそが無我から自我を引き出してきます、思考に取り込まれますと自我、自分が湧き出てきます。自分の世界は、幻想の世界、二元の世界に、、、引き戻されます。非常に空気が薄い世界です、苦しい世界です。自分の世界、二元の世界、自我の世界に居続けていますと酸欠になっていきます、そして寝ることで回復します。寝れば無我、無心、非二元、悟りの世界に入ります。

考えてはいけないのか??

考えてはいけないのか???そんなことはありません。ただ考える、思考すれば自分、自我、二元の世界に入り込んでいることを自覚してください。ここは空気が薄い世界、神が薄い世界、非二元が薄い世界です。酸欠状態になります。水の中に潜った状態です。苦しいのです。自分から思考、感情、二元の世界に入り込むと、、苦しいです。

思考してもいいんです

思考してもいいんです、ですが思考すればそのまま自分、自我、二元、幻想、時空間に入り込むことを自覚ください。そこは神が薄い世界です、空気が薄い世界です。その覚悟を持って思考するのは問題ないです。苦しくなったら無心、無思考、無我に入ればいいのですから。重要なことはそこに自覚的であることです。コーヒーを飲む、食事をする、会話をするのがなぜ非二元なのか?そこに自分が居ないからです、自分が居ないならば無我しかいません。

思考を放置するためには勝手に湧いたことを理解する

思考は勝手に湧く

もしも思考を自分が作り出したならばそれに注力しそこから思考を広げるのも一つでしょう。ですが実際には思考は勝手に湧いてきています、「私」の責任ではなく勝手に湧いてきている、、、ですからその湧いてきた思考に注力する必要はないのです。その思考を大切にしてそこから広げる必要はありません。ただ放置するだけで勝手に消えていきます。

思考は勝手に湧いて勝手に消える

思考は勝手に湧いて勝手に消えます、それにこの「自分」が注力するとそこから思考に取り込まれていきます。ですからここは意識的に放置です、思考を放置することで消えるのを待ちます。絶対的意識でこの思考を放置するのです、そこから思考に取り込まれないように意識します。すると五感に注力できます、見えるもの、聞こえる音、触った感触と体で感じる五感に神経を集中できるのです、そこが今です。そこが非二元です、そこがワンネスです。非二元とは遠いどこかにあるのではなく今ここにあります。

今ここで至福に至れるのに何を求めるか?

体の感覚、五感に意識を向ければ今ここで非二元、ワンネス、至福に入れます。にも関わらず何を求めるのでしょう、人間は今ここから悟りに入れます、思考の乗っ取りに邪魔されなければ人間は今にあるしかできません。今とは非二元、全存在、悟りのことです。こんな簡単に無心、無我に入れるのですからもう何かを貪る必要はありません。

ギャンブルしている時だけは思考が落ちる

ギャンブル狂は思考から逃げたいだけ

ギャンブル中毒、、、今話題のYOUTUBERガーシーは自身をギャンブル中毒と認めています。あれだけ頭の回転が良い人がなぜギャンブル中毒になってしまうのか???ギャンブルをすればお金が無くなる、、、これは中学生でも理解できる。あれだけ頭が良い人がなぜギャンブル中毒になるのかという話です。結論から言えば思考の回転が速いからギャンブル中毒になったということです。彼の会話のテンポから誰でも分かると思いますが思考の回転が異常に早い、、、もしも日常生活であれほどまでに思考に取り込まれてしまっていたらどうなるか???死にたくなるほど苦しいはずです。思考に取り込まれた状態は今から離れます、今とは全体、ワンネス、大いなる存在の場所、、、ここから徹底的に離れます、、、、そこは非常に居心地の悪い場所です。それを回避してくれる救いの神こそがギャンブルです。ギャンブルは頭を使います、五感をフル回転にします。空気を読みます、、、、これらは実は今に居ることを可能にします。その瞬間思考のループが外れます。居心地の悪さが解消されます。

カイジで読み解く

ギャンブル漫画のカイジ、、、カイジは絶対絶命のピンチの際に、、ギャンブル相手の顔色、雰囲気、空気、言葉、、に全集中していきます。五感をフルスロットルさせていきます。体をフル回転しています。この瞬間今にあるのです、、、思考からの乗っ取りを回避しています。体に全集中している状態は、、、思考の乗っ取りが消え失せていて安堵、歓喜、平和に襲われているのです。五感をフル回転にさせなくてはならないスポーツ、ギャンブル、仕事、恋愛、、、全てはこのパターンです。

思考を放置せよ

ガーシーはあれだけ思考の回転数が早い人、あの状態を日常生活でやれば恐らく死にたくなるほど居心地が悪いはずです。解決方法はギャンブルではないのです、思考を放置する、これだけです。思考が湧いてきても気にしない、放置のみ。そこから思考のループに入らなければいいのです。頭の回転に自信がある人は思考を信用しています、思考を無視できない、、、結果思考に飲み込まれて、、、苦しみの世界に入り込んでいきます。

思考を意識して放置する、思考は無意識だと取り込まれる

思考が湧いてきたら意識して放置してみる

ニュース番組を観ればあらゆる思考が湧いてきます、、、この瞬間に無意識にしているとそのまま思考に取り込まれていきます。今日友人と会うという約束をする、、、するとあらゆる思考が湧いてきます、服装をどうするか?時間は守れるか?どこで食事をしよう、、、、そこから思考に取り込まれていきます。これが思考に対し無意識の状態です。非常に苦しい状態です。なぜならば今こそが至福、歓喜、平和であって、、思考の場所はそこから離れた場所、過去、未来です。

思考に対し常に意識的であれ

思考というものを我々は無条件で受け入れています、思考が湧くことを悪いことだと思っていません。勿論思考=悪ではない、、、ですが思考に取り込まれると苦しいのは事実です。なぜならば今、非二元、全体から離れるから。そこで思考に対し意識的になってみます、思考が湧いたら意識的に放置します。これを何度も何度も行っていきます。もう思考の無意識取り込みには絶対に付き合わないと決めます。

今とは平和、歓喜、安堵

今にある時、、、平和、歓喜、安堵が襲ってきます。今とは無我、無心のこと、、、そこは神が住む場所、全体が全体である場所です。そこに意識的に入り込みます、、、無心、無我、神に意識的に入っていきます。思考を意識的に放置して無心、無我に意識的に入ります。五感の経験に意識することそこは今、無心、無我です。五感とは体の感覚であり、体は今にしか存在できません。

思考に関わらない

ただ湧いては消えていく思考に振り回されない

思考はとにかく湧いてきます、青空に湧いてくる雲のように、、次から次へと、、、ですがこの思考に関わってしまうと思考ループに取り込まれます。その思考ループは誰もが知っていますが苦しいゾーンです。雲に巻き込まれた飛行機、思考に引っかかってしまった意識は苦しいのです。思考は放っておけば消えてしまいます、ですが人間はこの思考に敏感に反応します。そして苦しみの時間が継続します。

思考というエネルギーを掴まない

思考というエネルギーを一度掴むと長くそこに巻き込まれることになります。ですから思考が湧いてきても放置します。放置して消えて無くなるのを待ちます。それよりも日常生活の感覚に意識を向けます、五感に意識をむけます、、、体の感覚、五感の感覚は今にしか存在しません、体の感覚に意識を向けるとそのまま今に入れます、今とは非二元、ワンネスのことです。これを言葉で理解するのではなく体で感じます。体で非二元を感じていきます。

人と話をしているとなぜ楽か?

人と話をしていると相手の話を聞くという行為が入ります、この瞬間思考を使わずに済みます、思考しながら話を聞くのが難しいのでその瞬間思考が外れるのです、そして話を返している瞬間思考が止まります。要は人とのコミュニケーションは五感を使うということです。その瞬間非二元を感じることができるのです。

五感と思考の綱引きに勝つ

五感は常に神に導く

体を使った五感に触れることは神に触れることです。体とは今にしか居ることができません、今とは全体のこと、神のこと、ワンネスのことです。五感に触れ続ければそのまま今、神、全体、ワンネスにあることです。ところが五感を感じると必ず思考が湧いてきます、この料理は新鮮だろうか?この香りは何の調味料だろう?このワインはフランス製か?あの看板は昨日見たっけ?どの五感からでも思考が割り込んできます、、、この思考の割り込みに乗ってはいけません。この思考の割り込みに乗れば、、、そのまま過去、未来へと連れ出され引っ張り出され、、、今、神、全体、ワンネスから離れていきます。

思考は過去、未来に意識を引きずり回す

思考が存在する場所とは過去、未来です。思考に意識を向ければそのまま過去、未来に意識が引っ張り出されます。過去、未来とは今、神、全体の波動が薄れた場所です。この場所に居続けると居心地が悪くなっていきます、酸欠になっていきます。一日中思考フルスロットルの人間は一日中酸欠状態にあります。思考の罠に引っかかったら直ぐに五感の感覚に戻ります。そこは今、全体、神です。

五感と思考の意識の引っ張り合いは思考に軍配が上がり続けてきた

五感と思考の引っ張り合い、、、多くの方は思考に引っ張られ続けてきたはずです。今、全体、神から、、、引き摺り下ろされ、、、酸素が薄い場所に連れて行かれていたはずです。それが思考が存在する場所、過去、未来です。何かを見てば思考が湧き、何かを食べれば思考が湧く、何かに触れれば思考が湧き、、、と一日中今から過去未来へと連れて行かれてきたはずです。もう思考に関心をもたない、、、思考が湧いてきても放置です。

思考との同一化から脱却した意識

気が抜けたような感覚

「思考こそが私」これが99.999999パーセントの人々の認識の仕方です。ですから会議の場所で何も発言をしていないと心配になります。飲み会で発言は少ないと心配になります。ボールに一切触れていないサッカー選手のような気持ちになります。だからこそなんとか思考し発言したい、、私はここに居るよと。ですが「この思考は自分ではない」この気づきを得た意識はもう思考との同一化に興味がありません、なぜならばそれは苦しい世界への入り口だからです。何も正解がない世界、話せば話すほど、思考すれば思考するほどに苦しくんる世界です。そんな人生御免被りたいという話です。

思考を使えとひたすらに沸き続ける

思考との同一化をしている意識にとって思考ほど当てにならない存在はありません、なぜならば常に不安定極まりないからです。毎日瞬間瞬間全く違う思考が湧いてくるわけでこれを自分とする不安定さたるや半端ないという話です。感情も然りです、不安定極まりないという話です。不安定であるからこそ思考も感情も泉のように湧き続け同盟関係を維持します。ですがこの同盟関係のしんどいところは湧けば湧くほど「同一化した自分」が肥え太り苦しみも増大するのです。

今日の機嫌はどうですか?

大御所タレントになるとどのスタジオでもこの機嫌というのを周囲は気にします。結局にところ機嫌が良ければ変な発言はしてこない、ですが機嫌が悪ければどんな発言すらしてくる、当然粗探しのような発言を。つまり思考などは感情の処理でしかないのです、どんなに正論をかざしても結局は思考とは感情の処理です。負の感情が湧き続ければ思考もその処理に使われているだけです。自分でも分かっている、機嫌さえ良ければそれでいいのに。。ですがその機嫌をとることが一番難しい、、、、

思考も感情も自分じゃない

残念ながらこの事実を発見しない限り思考と感情の二人三脚に一生を費やすことになります。思考と感情を自分のモノ、自分と定義して生きている限り常時このパターンです。思考と感情は自分ではない、、、この境地をいかに身に付けるか、、思考が湧いても感情が湧いてもそれは「本当の自分」とは全く関係がない、、この感覚をいかに掴めるかにあります。この感覚をしっかりと掴めるように不思議なことに思考も感情も湧いてこなくなります。

自分=体、思考、感情の罠から抜けると自分ごとにできなくなる

他人から何か言われても自分ごとにできない

芸人が舞台で他の芸人からいじられる、「お前太り過ぎや!!」これに対して真剣に怒る芸人はいません。なぜならば自分に言ってはいるが「芸人としての自分」にいってきていることを理解しているからです。この体、思考、感情を自分と捉えなくなっていきますと他人から色々言われても自分ごとにできなくなります。どうやら他人はこの体の中の思考、感情を含めた「私」というものに意見があるらしい、、こんなノリになっていきます。色々「私」に不満があるらしいがその私は実は幻想でいない、、こんなすれ違いコントのような状況になります。

自分ごとにしない「私」に周囲はイラつき次々と罵詈雑言を

多少の皮肉を言われれば怯むのが「自分」人間ですがその自分が実は幻想でいないことを理解してしまうと皮肉ぐらいでは止まることができません。そうなれば周囲はさらなる皮肉を言って行動を止めにかかるかもしれません。「あなた」にしっかりと届くようにとより強い口調になるかもしれません。すれ違いコントがギャグでは済まなくなっていくということです。そうなったならばここで初めて思考を使いその皮肉、雑音に対応すればいいのです、冷静に。

全てを「自分ごと」にする周囲とは基本すれ違いだが

全てを「自分ごと」にできない覚醒者と、全てを「自分ごと」にする周囲とはすれ違いが当たり前になっていきます。ですが覚醒者は周囲が全部を「自分ごと」にしていることを百も承知ですからそこは冷静に対応できるようになります。自我を超越した人が自我を超越できていない人の対応を間違えるわけがないのです。自己を超越した人が自己を超越していない人をコントロールできないわけがないのです。

自己超越とは自己を散々味わった人に訪れる

この分離の世界は基本「自分」「自己」を味わいにきています。ですからここではこれが基本、ほぼ全員が「自分」「自己」「自我」からスタートします。ですから散々にこの自分にが苦しまされています、これに苦しんでいない人は100%いません。よって自身に自己超越が訪れたとしても自己に苦しむ人の気持ちが分からないわけがないのです、むしろ誰よりもその苦しみに敏感でもあります。

思考と一体化した自分と思考を観察する自分

多くの方は思考と一体化した自分のみ

多くの方は思考と一体化した自分として生きています。思考=自分です。思考が湧いてきたらその思考とは自分自身のことです。そこに何にも疑いを持ちません、そして人と関わるときも相手の思考をそのままその相手と判断します。要は人間関係とは思考関係なのです。相手はこんな思考をしておる、私はこんな思考をしている、相性がいい、悪いを判断していきます。ですが思考とは損得を図る道具ですから人間関係は=損得関係とも言えます。これが一般的な方の生き方です。

思考を観察する別の自分を作る

思考と完全一体化した自分ではなく、、、思考を観察する自分、、というのを今後は作っていきます。思考が湧いたらそれを自分とするのではなくそれを観察する自分を作ります。思考の声=自分の声ではなく、思考の声を観察する全く思考とは関係ない自分を作り出します。この自分、思考を観察する自分こそ、、、大いなる存在、全存在、気づきの意識です。

湧いてくる思考=自分の声、で生きるのは修羅の道

世の中の99.9999%の人は湧いてくる思考=自分の思考で生きていますが、これが修羅の道、地獄の道、苦悩の人生の入り口です。湧いてくる思考は湧いてくる思考です、、、、これに本来自分という定義はありません。ですが人間はこれを自分の声とすることに決めました。これによって人間は思考=自分として生きています。何にも疑わず無意識にそれを受け入れています。そして湧いてくる思考を自分の声とし、、、大切に大切にその声を聞き入れようとするのです。ですが本当はこの湧いてくる声を自分とするのは後付けです、湧いてくる声はただ湧いてくる声であり、、、それが誰の声という定義はないのです。

湧いてくる声、思考を観察する自分を作る

湧いてくる声を自分の声として生きていくことが苦しみを生み出します。この宇宙全体である存在が、湧いてくる声を自分と定義することで居心地の悪さが生まれます。そうではなく宇宙全体は、この湧いてくる声、思考をただ観察するという本来の存在に戻る必要があります。これによって宇宙全体は宇宙全体に戻ります。何を言っているか分からないかもしれませんが本来ここには宇宙全体の意識しかなく、その意識がこの体、湧いてくる思考、湧いてくる感情を自分と勘違いすることから苦しみが生まれました。だったらもう一度宇宙全体に戻ればいい、、、この体、湧いてくる思考、感情を宇宙全体として観察するという初期設定に戻すことで苦しみが解消されます。これは正しい間違っているを伝えているのではなく事実をのみ伝えています。