思考

思考に優劣はない

素晴らしい思考など存在しない

あの人の考え方は素晴らしい、あの人の考え方は幼稚である、、、考え方を所有するその人は存在せずそれゆえ考えとはただ根源から湧き続けるもの以上のものではありません。それゆえ固定化された考え方などあるはずもなくただある考えがある人を通じて湧き上がっていきます。何かを成し遂げた人は自分の考え方は素晴らしいのだとそこから「自分」を誇らしく思うという考えに縛られていくのですがこれはもう苦しみの入り口としか言いようがありません、なぜならばその自分も思考であり思考の世界に没入していきます。

本当の幸福は思考が湧かない瞬間

本当の幸福は思考が湧いていない瞬間、自分など忘れてしまっている瞬間、五感に浸っている瞬間(音楽、食事、会話、仕事、芸術、自然)です、五感で感じる事実に向き合っている時は思考が入り込む隙間がなくそこには根源、至福があります。ここに触れれば触れるほどに思考が自然と湧きあがらなくなっていきます。事実は思考とは何も関係がなくただ湧きあがりますから思考に振り回されるメリットは皆無です。

シナリオが淡々と続く

事実、現象はただ淡々と起こっていきます、ここに自己という存在、自己を前提とした意向など全く無意味、無介入、無力です。個人はただ起き上がる現象を都合よく切り抜いて個人のストーリーに仕立て上げるのですがそのストーリーを信じる限り苦しみが湧き続けます。実際には個人とは全く関係なく事実が起こり続けていきます。学校の入学、退学、転校、入社、転職、結婚、子育て、、、、全て個人の意思とは何も関係なく起き続けていきます。

こうなったらワクワクは思考の策略

大金持ちになったらワクワク

結果を期待してのワクワクは嘘のワクワクです。実際にそのような状況になるかは分かりませんし、そのような目的での行動では全体との調和が起こりません。例えば10億円を得れるからと10年間絶対にやりたくない仕事を我慢してやろうということになったとします。10年後のワクワクを期待するわけです。。。すると毎日が不調和な日々に襲われます、毎日毎瞬ごとに不調和が起こります。感情が湧き出し、思考が湧き出し、、自我が強化され全体との分離が進みます。恐ろしい不快感を感じながら10年間を過ごすようになります。

10年後のことを考えて何とか心を落ち着かす

10年後には10億円、これを考え続けることでなんとか精神状態を維持しようとしますがこれすらも思考です。思考が湧けば湧くほどに自我が強化されて全体との分離が進み全体との不調和が起きます。もしかしたら10億円を手に入れることができるかもしれませんが10年後には体は病み、人間関係は破綻し、家族も失いと、、、とんでもない状況が待っているかもです。

10億円手に入れたとて

10年間の忍耐の結果10億円を手に入れたとしましょう、、、、散財に散財をして豪華絢爛な生活をできたとしましょう。。。これで本当に心が晴れると思いますか???この豪華絢爛な生活は全部お金の力であって本人の力ではありません。どこまで行っても自信がつきません。これによって本当の人間関係が築けれることはありません。さらに、生活に飽きてきたときにそれを解消するにはまたお金が必要になります。そこでまたお金を使う生活をすればいくらお金があっても足りないのです。

最初からワクワクにいく

最初からワクワクすることをします。最初からワクワクすることを行います、見返り結果を一切期待することなく。これによって最初から全体との調和を味わうことができます、最初から平和、安堵の世界に入り込みます。自分が求めていたことがここだったという気づきが起こります。これさえしていれば最初から幸福だったんだという気づきが起こります。良い人生を送るって最初からできるのだという気づきです。結果を期待することで不調和が起き苦しかったという気づきが起こります。

生命の全記憶があるDNAが、思考の中で生きることに矛盾がある

細胞の一つ一つに全記憶がある

我々の細胞の中にあるDNAには生命の全記憶が蓄積されています。全部を知っているそのDNAを我々はこの体の中に所有しています。全記憶があるにも関わらず我々は完全なる無知として生きています。そしてこの体、思考、感情を自分自身であると錯覚して生きるという大いなる矛盾を抱えた生命なのです。全記憶を持った細胞を寄せ集めてこの体は出来ますが思考はこの体、思考、感情だけが自分自身であると錯覚しています。ダイアモンドで構築された宝石にも関わらず思考が私はガラスだと思い込んでいるような状態です。思考がいくら我輩はガラスであると信じてもダイアモンドであるという事実は変わらないので矛盾を抱えます。これが人間の苦しさです。

人間として生きる意味

では人間として生きる意味は何なのか??大きな神が居るならば、人間とは小さな神です。小さな神として我が人生を生きていきます、この人生では自身で決める(錯覚)という自由がありそれを行使していきます。この小さな体での小さな神体験です。神は人間を進化させることでここまで進化しました。この小さな体を使って独自の世界を作り出していきます。価値観がそのまま見える世界になります、そして経験がまたさらなる価値観を作りそれが見える世界に反映します。これを大きな神はやってみたかったということになります。そして本当は大きな神と小さな神には境目は一切なく、、全部が神です。

小さな神は至福には至れない

小さな神には問題点があります、それは小さな神は小さな神のままでは絶対に至福には至れないということです。永遠の幸福を得ることは出来ません、この体、思考、感情を自分と定義している間は、、ですから小さな神の大冒険は最終的に大きな神に吸収されることで決着を迎えるのです。小さな神としてあらゆる経験を積むと大きな神に再吸収されます、それは死ぬ時かもしれません、もしくは生きながらかもしれません。

私は体、思考、感情でもない

移りゆくものが自分であるはずがない

我々はこの体、思考、感情を「私」と決めつけて生きています。決めつけるためには確固たる保証が必要です。何かしらの決定だがなければ本当はそれはできないことです。これが自分であるという決定的保証、これを求めます。それが「我在り」です。間違いなく存在しているというこの感覚、この感覚を「自分」が居るという決定打にしているのです。ですがこれは間違いです、在るという感覚は間違いなく在りますが、、「自分」という感覚は嘘です。全部思考です。

「自分は嘘」だから疲れる

冷静に考えてみれば、、自分自身でただ居るだけならば疲れないはずです、、、そのままだから。でも会社に行っても学校に行っても夜になれば疲れを感じ寝ます、もしくは会社に居る間も疲れを感じています。なぜ疲れるのでしょうか??それは自分という存在が錯覚、嘘だからです。自分という存在は思考が考え出したアイデアです、自分という収縮した思考パワーです。

自分が溶ければいつでも全体

自分という存在は本来ないのでこの全体の中に溶けてしまえば自分は終わります、これが悟り、解放、解脱です。ではどうしたら自分は溶けてなくなるのか???それはこの自分という存在がなぜ今まで存在していたかを見抜くことです。自分を維持するメカニズムに気づくことです。自分を維持するために思考はこの自分が確実であるという思考を絶えず湧かせ続けています。本当を言えばただその思考が湧き続けています。

「私は在る」は思考???

「私は在る」は思考ではない

「私は在る」という感覚、これは生まれてきてから今まで一切途切れることはありません、こも感覚、、この世界に間違いなく「在る」というこの感覚こそが我々をhuman ではなくhuman beingにしている根拠です。何をしていても何を考えていても、、この「在る」という感覚だけは不変です。不変のものが思考であるはずがなく、、「ある」とは神の意識です。そうです、我々はいかに人間活動をやっていても神の「ある」という感覚の中でそれが行われているだけなのです。

「私の在る」と「他人の在る」は同じ

「私は在る」と友人が感じている「私は在る」は別人の在るなんでしょうか、、、、違います同じ人の在るです。そうです神の在るです。世界中80億人の「私は在る」は全部同じ存在が感じているのです。それを神、ワンネス、大いなる一つ、、と呼称します。個人は皆この「私は在る」の存在を深層心理では認識していますからここに戻りたいのです。恐ろしく楽しい時も恐ろしく辛い時もここに戻りたいのです。そして戻ることを「目が覚める」と表現します。

「熟睡時」の感覚は楽しい夢よりも偉大

夜、夢を見る際には皆わかっています、、、楽しい、楽しい、エキサイティングな夢を見るよりも熟睡後の恍惚感の方が間違いなく上であると、、、大金持ちになり、大有名人になり、全てを手に入れた男の夢を見るよりも、、熟睡後の幸福感が上であることを。。これは全員が気付いています。そうです、、この人間人生でいかに楽しく最高で快適な生活をしようとも、、「私はある」の感覚の場所に戻ることの方が偉大であることを皆知っています。だから多くの方が太古の昔から宗教を求め神を求め続けてきたのです。

思考は真理を見つけることはできない

思考こそが真理を隠す

これはもう本当にギャグです、何か苦しいことがあった時に思考が必ず湧いてきてこの問題を解決しようとします。これはもう自動反応として起こります、何も問題はありません。ですが多くの方がなぜ苦しんでいるかと言えば真理から離れた人生を生きているからです。それが苦しみを生み出します、そして真理から遠ざけるメソッドこそが思考なのです。これが自分自身であるという思考こそが自分を全体から切り離し、あらゆる単語を記憶することでこの幻想の世界を成立させています。その思考が苦しい時に湧いてきて、、、今回の問題はこうではないか??と囁くのです。借金を作り出す金融業者が借金返済のためにお金をさらに借りて事業をしたらどうか??と嘯く感覚と同じです。

思考が苦しみを生み出し、思考がそれを解決する

思考とはリボ払いを勧めるカード会社と全く同じです。リボ払いを勧めておいて実は返せなくなことを画策しています。思考もこれと全く同じ、思考こそがこの苦しみを湧き出す根源であるにも関わらず苦しい時は必ず出てきて思考を使ってこれを解決しようと呟きます。とんでもないメカニズム、闇金融業者、詐欺師です。ですがこの経験を願っていたのが全体です、全体の確信犯的な思考しようということです。そういう意味では思考は何も悪くないのです。

思考は闇金業者

闇金業者というのは実は借金を全体に返済させません。借金を返済させてしまったら利子を取れなくなります。そこで闇金業者は借金を意図的に返金させないようにして利子を延々と取り続けるということを平気でします。思考もこれと全く同じでこの体を自分であるという認識を思考で作っておいて苦しめ、その解決方法を思考で行おうとします。これによって自分=思考という隠密関係を絶対に壊さないようにするのです。自分に根本解決をさせない、、どこまでもしゃぶり尽くす、、これが思考の罠、闇金業者の罠です。

思考の目的は気づかれずに同一化すること

いつの間にか考え込んでいる

思考は意識的に意識をジャックします。思考は意識をジャックすることで自我を存続させます。思考の動きに意識が意識的に観察すると思考は困ります。思考は無意識を狙って意識をジャックするのです。困ったことが起こった、、この隙を狙って思考は意識をジャックします。コロナで会社が大変だ、、この好きを狙って思考は意識をジャックします。思考のフル回転が続きます。友人から冷たい態度を取られた、、この瞬間を狙って思考は意識をジャックします。

意識は思考の手口を完全に把握する

意識は思考に対しどう対応すればいいのか???思考の手口を完璧に把握してしまうことです。思考は何かしらの事件を突いて必ず意識をジャックしようとしますから何があっても思考の動きに敏感になるべきです。思考の湧き出しを敏感に感じるようにします。万引き犯の動きに敏感になるコンビニの店長のように、、、思考の動き、無意識を突いた動きにしっかりと冷静に対応します。

思考の手口はいつも同じ

思考の手口はいつも同じです、、最初はさりげなく、、徐々に大胆に意識をジャックします。いつの間にか考えごとをしている、、そんな際には意識的にその敗北を認めてください、、思考にジャックされたなと、、そしてそこからは意識的に反復作業や、何かに熱中すること、五感を感じることに集中します。ラジオ体操など簡単な運動でもいいかもしれません。ほとんどの方は思考にジャックされてもそれを問題にもしないで常にジャックされ続けます。

指を指たらしめているのは「思考」

思考がなくなれば腕全体と指の境目は消える

我々はこんな簡単なトリックに騙されてきたのか????これが覚者が悟った後に気づく感想です。こんな簡単なことなのになぜ気づかなかったのか???悔しい、、、、要はこういうことです。腕全体の中の指が独自に思考を操るようになり、、その思考によってこの指は腕全体とは何も関係がないという思考を持ちました。これは思考です、、、そしてその思考を通じてこの世界(腕全体)を眺めるとまさかの本当に指が腕全体から切り離されているように見えるのです。なぜならば我々が見ているこの世界は脳内で見ているからです。思考を信じ抜いた際には脳内ではそのように真実が変換されるのです。これが究極のトリック、人類が騙され続けてきたトリックです。そしてその騙した存在こそが思考と脳のセットです。この二つの存在によって我々は何万年間という歳月騙され続けたのです。

腕全体と指には境目はない!!

人間であればそんなことは全員が知っています、指と腕全体には境目はなく、、、人間が勝手に指という名称を使い出し指はこの世に誕生しました。ですが実際には腕と指には確固とした境目はなくこれはあくまで概念です。ですがそのように概念が作られ、さらに指から見える世界では指が完全独立して見えるならばそれはもう概念ではなく事実に置き換わるのです。脳というのは凄まじい機能を持っていて名前をつけた対象は脳の中で完全独立して見えるという事実があります。この事実こそが人間を全体から完全分離した存在であると錯覚を起こすことに成功しました。

脳のトリックを見破れ!!

人間は実はこの全体から全く分離独立していません、にも関わらず脳にかかってしまえば完全分離した存在に見せてくれます。脳のトリック、脳の幻想上映です。だからこそ人間はどこまで行っても腹が空く、満足ができず、違和感が拭えず、居心地の悪さが解消されないのです。これが人間という存在のカルマ、宿命、苦しみです。ですがこの事実に気付けたならばもう大丈夫、徐々に徐々に自身が全体であったことを思い出せばいいのです。

腕全体であったという気づき後もひたすらに思考は湧く

指ではなくなっても思考は続く

腕から完全独立したと錯覚した指も途中でこれは錯覚で本当は腕全体でしかなかったという気づきが起こります。これによって指の完全独立錯覚は消え失せるわけですが、、、それでも思考は湧いてきます。この思考の湧き出しをまた腕全体が掴みとってしまうとまた腕全体の中に指という独立国家が誕生します。ですから気づき後の後も思考の湧き出しには注意が必要です。私自身無我の状態を意識的に作れるようになった後もその成果を我がモノにしようとする思考の取り込みに何度も負けてきました。

無我に入るとは腕全体になっているということ

悟りという決まった形式というのは当たり前ですがあるわけではなく、、意識的に無我に入れることが悟りと私はしています。思考に乗っ取られ、思考に振り回されている状態が悟りが閉じている状態、、、思考の湧き出しに意識的になりいつでも無我の状態をキープできることが悟りを開いた状態です。友人と話をする際には当たり前ですが相手はこの私に話しかけてきますから、、、私という独立国家を演じなくてはなりません。ですが会話が終わればまた独立国家「私」から無我に戻ります。指から腕全体に戻るのです。そんなことは可能なのか???という話ですが「私」というのが思考でありそれを維持する方が大変なのです。

無我は虚しい???

自我ベースで生きている人は、、無我なんて虚しいのでは???と思うはずです。ですがこれはおかしな感覚で指という独立国家として生きるのと、、腕全体として生きるのとどちらが虚しいか??という話です。本当は独立していないにも関わらず指という独立国家があると信じ込んで生きていく方が虚しいのです。腕全体よりも指の方が、、、快適で安心で楽しい、、、というのは幻想です。

思考に気づくとは自身が指ではなく腕であることに気づくこと

指とは思考である

なぜ指が独自の感覚を持ち、腕とは全く関係がない存在だと勘違いできるかといえばそれは思考がそうさせているからです。指は独立しているという絶対的な思考があり、その上で指はこの全体(腕)を眺めることで腕が分離した世界に変化します。これが指の独立宣言です。これを可能にしている存在こそが思考です。ですから思考が湧いた時にこれに気づくことは指ではなく腕として存在していることを意味します。指は思考に完全同化しています。指は思考に気づきません。

一日中思考を放置してみる

一日中思考を放置するということは、、、指を放置するということです。腕に完全に成り切って指の存在を忘れてしまうということです。指からしたらたまったもんではありません、せっかく指として独立宣言したにも関わらず存在が薄れていくからです。これを指は嫌います、ますます思考が湧き出して指を主張するでしょう。ですがこれも放置します。すると徐々に指は存在性が薄れていきます。主導権が腕に戻ります。

思考との完全同一化は指の完全独立

思考が湧いてもそれに気づかず一日中思考に振り回されている状態は、、指に成り切っている状態です。指とは思考ですから、腕の中に指という完全独立した存在することを許すことになります。これは悪いことではありません、ですが非常に心苦しい体験であることは間違いありません、孤独感、喪失感、居心地の悪さ、焦燥感が湧いてきます。なぜならば本当は腕から完全分離した独立した指など存在しないからです。