幻想

周囲の反応は自動反応

怒るというのは「自由意思」があると思っているから

友人の誕生日にプレゼントを送ったにも関わらず「お礼」の連絡がない、、、こんな時個人は怒りの感情が湧いてきます、、なんで電話の一本もしてこないのか!!この怒りの感情とは友人には自由意志があり、、その自由意志においてしっかりとお礼を伝えるべきだという大前提があります。しかしながら真実を伝えれば自由意志が存在しない、、ただそのような反応が起きただけ、、、です。ですからそこに怒りは湧きようがなく、、それを認めるだけ、、、そして今後その友人と付き合っていくかを考えるだけです。

旦那の不倫

芸能人の不倫騒動が年に何回も報道されますがこの騒動が終焉することはない、、なぜならば不倫を起こ有名人には自由意志がないからです。ただの反応です、それを止める個人は存在しないのです。つまり化学反応みたいなものでそれを抑えれる個人が居ないのです。そんなことはない「私」はそのようなことをしない自信が間違いなくある、、それはそのような反応がこれまで起きてきただけ、、先のことは誰にも分かりません。重要なことは不倫を決定する自由意志が「人間」の体には存在しないということを認めることです。それを認めた上で旦那を怒ることはできません。

やられたい放題でいいのか???

旦那の不倫は旦那の意思ではない、、だから放置するしかない、、、のか???違います。自由意志ではなく化学反応、自動反応ですから、、今後もその旦那は不倫をする可能性が間違いなくあるという事実を認識しその上でその旦那と関わっていくかを冷静に思考するのです。自由意志ではないのならば許せると思うかもしれない、それでも許せないかもしれない、、それは誰にも分かりません。少なくとも旦那に怒りを抱えながら重く重く生きていくという地獄から抜け出せるのです。これが軽くなるということです。

怒りではなく、、、ただ冷静に判断する

浮気癖のある旦那、この旦那には一切の自由意志はありません、、、もしもこの行動が許せないのならば「次に浮気をしたら必ず離婚する」これを伝えて様子をみます、、それでも浮気が続くならばその旦那の浮気を止めることはできないでしょう、なぜならば旦那には自由意志が無いからです。そのような病気、、そう捉えることも自由です、、ですがこれは病気でなく全人類がそうだということです。聖人君子と呼ばれるのような人格者も次の人の行動を決める自由がないのですから、、、

信用できる人は誰もいない

絶望的かもしれませんがこれが事実です、、誰も100%の信用などできません。なぜならば自分の行動をコントロールできる個人が存在しないからです。あの人は信用できる、、これは幻想、理想です。たまたまこれまでその人の行動が「自分」にとって信用に値しただけ、、これからは全く分かりません。あの人は変わってしまった、こんな人ではなかったのに、、、違います、、たまたまこれまでがそうで、、たまたま最近が違ったのです。これが軽く生きる極意です、誰も信用などせず全自動のあらゆる人の言動を楽しむのです。

「何もない」は「自分」が困る

世界は何もない

この世界は突き詰めれば「何もない」です。何もない「意思決定」する個人は存在せず人間を含めた全生命がただただ自然現象として行動が起きています。意思決定する個人が不在のままただ現象だけが起きる世界、それこそが今我々が眺めている世界の本質です。その本質の世界が、、、あらゆる自由意志を持った人間によってコントロールされているように「見える」世界が幻想の世界です。ですがこの真実は「個人」にとっては実に都合が悪い、それを認めてしまえば「自分」が出る幕が無くなってしまうのです。

問題解決請負人「自分」

世界は自由意志を持った人間が集まり構築されている、あらゆる問題は個人が解決に当たる、解決能力が高い「個人」は尊敬され豊かになり満ち足りた人生を歩むことができる、、、これがこの世界の風習です。にも関わらず実は自由意志を持った個人、自分など存在せず、、ただただ全自動運転で人間は運営されていることが広まってしまえば、、「個人」「自分」「自我」はたまったもんじゃない、、、存在が消滅してしまいます。みんなで集まって公然の事実として「個人」は存在していたのですから、、認識が無くなってしまったら存在しえないのです。

周囲はどうでもいい

周囲は「自我」「個人」「自分」大前提の暮らし社会をこれからも構築していくでしょう。ですがそれも全く問題ありません、どう周囲が認識しようと真実は一つ、自由意志を持った個人は存在しないのです。ですからその事実だけを認識しながら生きていけばいいのです。どのような社会問題が起きようとそこに個人は何も介在していない、、つまり全てが自然現象だということです。雨、嵐、台風、猛暑、と何も変わらない、、解決方法は皆無、なぜならば解決できる「個人」は存在しないからです。そしてそれらの問題によって苦しむ「個人」も存在しません。

思い通りにならない

この世の苦しみ

この世の苦しみを一言で説明すればこれになります、思い通りにならない、、です。思い通りにならない、とは個人が考えるような理想に全く近づかないということになります。ですが実際にはそうではなく理想通りにいけば次は物足りないが生まれるのです。楽勝なゲームを想像してみてください、簡単に辞めてしまうでしょう。つまり思い通りに進めば退屈で、思い通りにいかないと苦しむ、、、これが人生なのです。そしてそのような人生をまさに神は望んだのです。全知全能の神にとって無知無能の人間活動は自身(神)は全知全能であることに気づかせてくれるのです。

これが分かってしまえば

これが分かるということは自身が神であるということに気づいたということです、このような人間活動を作り出した大元こそが自分であり、、これまでの体に宿った自分は幻想に過ぎないということです。すると自然にこの体の中の自分の衝動、欲望、感情に振り回されなくなっていきます。なぜならば本質の自分はそこには居ないからです。本質の自分とはこのゲームを成り立たせるシステムそのもの、、システムですから時間も空間も実は存在しません。幻想として時間、空間は存在します。

個人の思い通りになどなるわけがない

簡単に言ってしまえば個人など存在しません、幻想として存在します。その幻想はどこまでいっても幻想ですから何かを動かすパワーなど存在しないのです、、結果個人という幻想は日々周囲に振り回されることになります。そして個人という幻想を信じ続ける限り苦しみが終わることはありません。

安心して苦しむ

宇宙に無駄はない

現象の世界に個人として生きることは苦しみの人生です、、どんな煌びやかな生活を送っているように見える人も確実に苦しんでいます、、なぜならば個人という存在こそが不足を生み出す根源だからです。周囲が羨むような容姿の女性も、、常に不満を抱えていますし、、周囲が羨むようなお金を持っているような男性も常に不満を抱えています。苦しみとは不満足が生み出しますがこの不満足を作り出すツールが個人です。

その個人も

その個人も、、周囲からの声かけによって勝手に作り上げられるものであり、、全くもってその個人には責任がありません。個人は周囲からの声かけによって徐々に徐々に作り上げられていくのです。ですから気づいた時には自我が形成されこの自我を守るために、自我を満足させるために人生は構築されていきます。

苦しのがデフォルト

なぜ私の人生は苦しみがあるのか????それについて考えるのが無駄です。人生とは=苦しいだからです。これに例外はありません、、、苦しみとは不足感であり、、不足感は個人という存在そのものだからです。今苦しいのならばそれは当たり前なのです、、、いや私の人生は苦しくない、、、そんなことを表面上使う人もいるでしょう、、ですがそれは不可能、無理ゲーです。

どうしたら、、

ではどうしたら個人の存在という嘘、虚像を虚像と見破れるのでしょうか???それは簡単です。この現象界において実在する存在など存在しえないからです。そして全ての現象が虚像、幻想としてその幻想の動きに気づくことができるのはたった一つ、実在です。すると今起こる全てに気づいているのは自分という幻想ではなく絶対の実在であることが分かります。これが我々の本質です。

幻想のこの世界にコントロールできる誰かはいない

コントロールしようにも幻想ですから

この現象界には幻想しか存在しません、、、すると思考をコントロールできる実在というのは存在しえないことがわかります。思考、行動をコントロールできる虚像はありえない、、そうです、、この虚の世界は完全自動反応システムです、、その中で私がコントロールしているぞという思考がただ起こるのです、、、これも幻想の現れの一つです。そしてその思考すらも絶対という存在があるがゆえに気づかれていきます。

絶対が気づくのではない

絶対が気づくのではありません、、絶対が成長することはないのです。成長してしまったら絶対は絶対ではなくなってしまいます。そうです、、絶対があるがゆえに気づくという現象、幻想が起きるのです、色の変化に応じて。絶対は既に絶対ですから絶対が新しく気づいていくのではありません。絶対には影がありその影が変幻自在に動くことでそこに気づくが自動的に起きているのです。その気づくを個人が所有するというさらなる幻想が現れることで個人ストーリーが現象として今現れています。

絶対の影が現象

絶対、空の影、、これが現象、色、幻想です、、我々はこの影の移ろいを感じています、、しかもエンドレスに、、なぜならばこの影は絶対、無限の影だからです、、、この移ろいを感じることを個人という影が所有するという動きがやはり現象として起こり個人ストーリーが今まさに展開しているのです。この個人ストーリーは絶対には何も影響を与えず、、ただ起こるのです。

影の中に影をコントロールできる影は存在しない

今外に出て自身の影を見てください、、この影は完全受け身であり、、、個人の動きによって変幻自在に移ろうのみです、、、この影の中の影の一部において、、影の動きをコントロールできる一部は存在しえないのです。人間とは絶対の影であるにも関わらず自身の動きをコントーロールできると信じる痛い存在なのです。影の動きは絶対に依存しており、、コントロールできるようになることは未来永劫ないわけです。これがサレンダー、悟りです。

物質も精神も幻想

物質も精神も同じ

物質は常に移ろい変化していきます、精神もこれと同じ常に揺れ動き変化していきます。この二つは全く異なるようでいて移ろうという意味では全く同じなのです。そしてこの移ろうものは固定化されて確かなものではないのですから完全に幻想です。そしてこの物質、精神という幻想に気づくことができるのは幻想ではありえないわけですから我々の本質は自我という幻想ではなく、、絶対、根源であることが見えてきます。つまり移り変わらない完全な存在なのです。

移り変わるようでは絶対ではない

絶対には変化がありません、絶対はそのままで絶対であり、、そのままで無限でありそこには変化は起きようがない。なぜならば絶対に変化が起きてしまったら、、この幻想界、現象界の出来事に気づくことができないからです。つまり先ずは絶対的な存在があり、、その鏡の中に映る絶対の現れ、無限の顕現化があり、、それにただ気づくが起きているわけです。この気づくも絶対の中では起きておらず、、気づくは絶対の外で起きます。この気づく存在を神、真我、気づきの意識と呼びます。

色と空は最初から一つ

空があって色は次に現れたのではありません、、、最初からこの二つは同時に現れました、、空には時間など存在しませんから、、色即是空、空即是色がある。、、これで終わりです。そして空が延々であり、色が永遠であり、、気づくが延々に起き続けるのです。空の中には変化は一切起きず、、色は無限の現れとして変化が起き続ける、、そこに気づくという現象が起き続けるのです。空の中に最初から色があったのです。

悟りに興味が湧くという奇跡

この世界で、、

この世界で、この幻想の世界で悟りに興味を持つ個人はどれほど稀な存在なのか????目の前に居る百人に聞けば2、3人でしょう興味があるのは。多くの方はこの幻想の世界で目の前の階段を登るのがやっとで悟りという階段外の概念に興味が湧かないのです。悟りに興味が湧くためには、、物理的満足、精神的満足を満たす必要がありその満足の結果それでも足りない何かに気づく必要があるのです。

個人は完全な幸福には至れないのでは?

つまりはこういうことです、個人は物理的満足、精神的満足を得るために一生懸命努力をするわけですがいつまでたっても本当の満足には出会えないわけです、、、すると悟以外には解決はないのでは???という発想が湧くのです。これは個人史上最大のチャンスなわけです、、悟りを開きたいという衝動が湧き上がるのは素晴らしいこと、奇跡的なこと、、、どんな偉業を成し遂げることよりも素晴らしいことです。

本当は、、

本当のところは、、見かけ上の個人に起きる全ての経験は、、、悟り、目覚めへの完璧な出来事であり、、そういう意味ではこの現象界は完璧なのです。見かけ上の個人は完璧な環境に常にいるわけです、目覚めにとって。ですいから今恐ろしいほどの苦難にあっていても、八方塞がりであろうと、、個人の目覚めにとっては完璧完全な状況であるということです、常に。

主人公の大転換

幻想に気づくのは自分ではない

幻想に気づくことができるのは幻想ではない存在、非幻想です。この世界には幻想しか存在していませんからこの世界で幻想のカップに気付ける存在はいないのです。つまり自分という幻想はカップには気づけないということになります。では幻想であるカップに気づくのは誰でしょうか??真我です、絶対です、この幻想を作り出す根源です。究極をいえば真我、絶対、根源の中に投影、反映である幻想が生まれそこに気づくが生まれます。間違ってもこの幻想である体の中の自分ではないのです。

では今までの人生で起きた経験は誰のものか?

だとしたらこれまでの人生、我が人生で起こった経験の全ては誰のものなのでしょうか????ここでも答えは同じ、幻想が経験を所有するのは不可能です。つまりこの体、自分が経験を所有はできないのです。すると経験は誰のものなのか???真我、絶対、根源のものです。無限の存在である根源が無限の経験をしただけです。しかも個人が経験をしたという勘違いの経験を所有したのです。

その勘違いはなんのため?

無限の反映、無限の表現がこの現象界ですから、、、無限の経験がここでは起きます。個人という存在が経験を積むというこのストーリーもその無限の現れです。ですが実際にはそれは起きておらず、、個人を含む全現象はただ起こり、ただ消えます。個人という存在なくしては根源、絶対、空という存在に気づくことは不可能であり個人はそういう意味では重要な意味を持っているのです。これも無限の存在である根源の表現の一つです。

全幻想は気づかれてそこに存在する

全現象は気づかれてこそ

この世界は全て現象、幻想です、、幻想ですから気づかれなければ何の意味もありません。気づかれない幻想は存在しないに等しいのです。そして実際に気づかれない幻想は存在しません。つまり幻想とは気づかれた瞬間に現れているのです。気づかれた幻想だけが存在します、幻想として。自我が確実に幻想なのは、何かに夢中になっている間は気づかれません、つまり存在しないのです。ですが自分がやったという感覚が芽生えたときに自分、自我は幻想として存在するのです。

例えば、、YUTUBE

例えばYOUTUBEというプラットフォームには何億というチャンネルがあるでしょう、このチャンネルの全てを見ることは個人には不可能です、、するとチャンネルという幻想は見られる前には存在しないのです。個人という幻想がチャンネルを発見した瞬間にチャンネルが現れるのです。気づかれないチャンネルはこの世界には存在しえないということです。

自分という幻想

自分という幻想は最も身近な幻想ですがこれも気づかれた瞬間に立ち現れます。気づかれない間は自我という幻想は末梢されているのです。にも関わらず我々は自我は永遠不滅の存在だと信じています、ですが永遠不滅どころかゲーム、YOUTUBE、読書にはまっている間自我は消え去っているのです。完全に消え去る自我が全経験を所有しているというアイデア、思考だけがここにあります。ですがそれもこれも幻想です。そしてそれに気づき続ける絶対があります。

自分が音に気づくはない

幻想が幻想に気づくことはない

この見える世界は全て幻想です、、そしてこの私も、、目の前のコーヒーカップも確実に幻想です、、すると、、、この私という幻想が、、、コーヒーカップという幻想に気づくということは不可能です、、なぜならば両方とも実在しないからです、、、実在する存在が、、カップという幻想に気づくことはあっても幻想が幻想に気づくということはあり得ないのです。

カップに気づいたのは実在

カップに気づいたのはこの体の中の私ではなく、、実在です、、、幻想に気付けるのはそれしかありません、、つまり我々の本質はこの絶対的実在であり、、、だから毎瞬毎瞬気づきが起き続けるのです、、この幻想の世界で。そしてその気づいた存在を、、、この体の中の「自分」であるという勘違いが生まれ、、この自分ストーリーが誕生します。ですが残念ながらこの自分は何もかも気づくことができない幻想です。気づいているのは絶対的存在のみです。