主人公の大転換

幻想に気づくのは自分ではない

幻想に気づくことができるのは幻想ではない存在、非幻想です。この世界には幻想しか存在していませんからこの世界で幻想のカップに気付ける存在はいないのです。つまり自分という幻想はカップには気づけないということになります。では幻想であるカップに気づくのは誰でしょうか??真我です、絶対です、この幻想を作り出す根源です。究極をいえば真我、絶対、根源の中に投影、反映である幻想が生まれそこに気づくが生まれます。間違ってもこの幻想である体の中の自分ではないのです。

では今までの人生で起きた経験は誰のものか?

だとしたらこれまでの人生、我が人生で起こった経験の全ては誰のものなのでしょうか????ここでも答えは同じ、幻想が経験を所有するのは不可能です。つまりこの体、自分が経験を所有はできないのです。すると経験は誰のものなのか???真我、絶対、根源のものです。無限の存在である根源が無限の経験をしただけです。しかも個人が経験をしたという勘違いの経験を所有したのです。

その勘違いはなんのため?

無限の反映、無限の表現がこの現象界ですから、、、無限の経験がここでは起きます。個人という存在が経験を積むというこのストーリーもその無限の現れです。ですが実際にはそれは起きておらず、、個人を含む全現象はただ起こり、ただ消えます。個人という存在なくしては根源、絶対、空という存在に気づくことは不可能であり個人はそういう意味では重要な意味を持っているのです。これも無限の存在である根源の表現の一つです。

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