孤独感

独立国家「指」は腕全体の中を彷徨う

指は腕全体の中にあって理由もわからず彷徨う

腕全体から完全独立(錯覚)した指はなぜか焦燥感、孤独感に襲われ動き回るようになります。それが時空間です。時空間とは腕全体なのですが腕全体には指は見えません、、、なぜか独立した指はそこに両眼がありその「両眼」を通じてこの世界(腕全体)を見ることになるのですが本質とは全く異なった世界に写っています、なぜならば指には価値観というものが発達しているのでその価値観を通じた世界しかもう見えないのです。だからこそ目の前にホーム、全体、腕全体があるにも関わらず全くの幻想の世界を歩き回ることになるのです。これが独立国家「指」の地獄のストーリーです。

「指」は朝起きるとなぜかやることが沢山

指は朝起きるとやるべきことが沢山あります、会社に行く、学校にいく、買い物にいく、地域の集会に行く、会合に行く、、、、、ととにかく忙しいのが指の特徴です。ですが冷静に考えるとやるべく事など一切なく、、、腕全体の中で指が動き回るのはおかしな事です。老後の心配、年金問題、就職問題、結婚問題となぜか独立した指には解決すべき問題が恐ろしい勢いで襲ってきます。そもそも独立などしなければこれらの問題は皆無にも関わらずなぜこんな問題を抱えてまで独立したのか?という話です。しかも独立は錯覚です。

腕全体が、、、指体験をしてみたかった

腕全体は腕全体では腕の偉大さ、大きさ、力強さを感じることができません。腕以外の存在があればそれも比較検討できるのですが腕は全体ゆえにそれができません。そこで腕全体は指を形式上完全独立させて指体験を積ませたのです。完全独立と言っても指は構造上指自体では何も動くことはできず、、、決定権も一切ない、、、そこで独立したと錯覚させてその感情を味わい尽くすことにしたのです。人間が最終的に全員が至福に戻るのは、、、人間には何一つ自由意志はなく至福に帰る以外の選択肢がないということです。指が最後には腕全体であったことに気づくように、人間も全体であったということに気づくことになります。

思考に気づくとは自身が指ではなく腕であることに気づくこと

指とは思考である

なぜ指が独自の感覚を持ち、腕とは全く関係がない存在だと勘違いできるかといえばそれは思考がそうさせているからです。指は独立しているという絶対的な思考があり、その上で指はこの全体(腕)を眺めることで腕が分離した世界に変化します。これが指の独立宣言です。これを可能にしている存在こそが思考です。ですから思考が湧いた時にこれに気づくことは指ではなく腕として存在していることを意味します。指は思考に完全同化しています。指は思考に気づきません。

一日中思考を放置してみる

一日中思考を放置するということは、、、指を放置するということです。腕に完全に成り切って指の存在を忘れてしまうということです。指からしたらたまったもんではありません、せっかく指として独立宣言したにも関わらず存在が薄れていくからです。これを指は嫌います、ますます思考が湧き出して指を主張するでしょう。ですがこれも放置します。すると徐々に指は存在性が薄れていきます。主導権が腕に戻ります。

思考との完全同一化は指の完全独立

思考が湧いてもそれに気づかず一日中思考に振り回されている状態は、、指に成り切っている状態です。指とは思考ですから、腕の中に指という完全独立した存在することを許すことになります。これは悪いことではありません、ですが非常に心苦しい体験であることは間違いありません、孤独感、喪失感、居心地の悪さ、焦燥感が湧いてきます。なぜならば本当は腕から完全分離した独立した指など存在しないからです。

思考って何??化けの世界を作る道具

神は神のままでは何も苦しむことができませんでした、神は神のままでは孤独も喪失感も孤独感も居心地の悪さも感じることができませんでした。そのため神は考えました、この神の中にゲームを作ろうと、ゲームならば孤独、喪失、絶望、不足を経験できると、、そしてその反対の快楽、面白さ、新鮮、友情、親しみも経験できる、、こんな素晴らしいゲームを作ろう、、、そのために思考を利用しました。人間の脳をさらに進化させてし思考を作り出し、、先ずは人間に「自分」というアイデアを授けました、、これによって自分がこの神の世界に誕生したのです。さらにこの延長線上であらゆる現象に名前をつけてそれを個別分離した存在に作り上げていきました。神の分裂現象です。これによって「自分」は神の中を歩いて歩んでいくという体験を積むことができるようになったのです。

簡単に終わってしまっては困る

せっかく作り出したゲームですから簡単に終わってしまっては困ります。そのため自分には次々に思考が湧いてくるように設定しこの自分を維持していく工夫がされています。何かを「自分」が経験したら思考が湧く、その思考に取り込まれるとさらに苦しくなりさらに思考が湧くのループです。「自分」というのは基本苦しい存在なのでその苦しみの解消を思考でやってもらうという無限地獄を作り出したのです。これで神が考え出した「自分」は生きて死ぬまであらゆる経験を積むことができます。放置しても勝手にあらゆる経験を積んでくれるのです。神の完全自動人間自分体験です。

このシステムはさすがにどこかで気づかれる

人間として最初にこのシステムに気づいたのがゴーダマシッダルータです、彼はインドのある地域の王様で贅沢三昧な生活をしていました、にも関わらずなぜこれほど満たされないのか???頭の良い彼はそこから悟りの世界に入っていきました、そしてそこで悟りを開いたのです。彼が気づいた事実とはまさに上記のこと、人間とは苦しみのメカニズムから抜けない限り苦しみが永続するというモノです。人生とは苦である、です。ヨーロッパ地方でこれに気づいたのがイエス・キリストです。彼は人間は原罪と称しました、この罪という言葉は勘違いを意味しています。

探求をやめない限り全体は見えない

先ずは探求をやめる

自分とはこの居心地の悪さを常に解消すべく動き回る存在です。自分とは孤独感、喪失感の根本を見ようとはせず常に何かしらの行為でこれを解消しようとする存在です。自分に行動、探求を許せば自分はひたすらにこの行動を続けていくことになります。なぜならば今というここにただ居るのは非常に苦しいからです。だかこそ先ずは探求、行動を辞めなくてはなりません。いかに苦しくても先ず行動を止めること、ここがスタートです。

行動の先に真実がない

先ずは動け、、、これを人間は真理のように言います。ですが全体は自分の行動の中では絶対に見えないようになっています。なぜならば自分が動けるのは時空間の中だけだからです。目を見開いて全開で行動すればそこから時間、空間が生まれ出し、、幻想の世界にどっぷりと浸かることになるのです。そこには全体、神は居ません。

全体は個人が動くのを辞め、個人を解体すると現れる

全体とは個人が動くことを諦め、個人という構造を解体することでそこから現れます。個人という存在が全体を隠しているのであってその個人が全力で存在を探すのがギャグになります。個人という存在が抜け落ちた時こそ全体が出現します。個人が実は幻想であることを見抜くことで見える世界も幻想であり、、ゆえに動くことでは何も掴むことはできず、そしてそこに気づくしかありません。

人間に閉じ込められた神は都会を目指す

なぜ若者は都会を目指すのか??

人間に成り切った、人間のこの狭い空間に閉じ込められた神は、、、常に欲求不満です。見える世界である神がこの極小の体、思考、感情のみを「自分」と勘違いするわけですからこれはとんでもないことです。不快感極まりない、退屈感極まりない、孤独感全開です。これが人間の本質です。ここを勘違いすることでったのです人間の苦悩が継続されます。人間はそれゆえ欲望の塊です、私には欲が無い、、、としたら悟っています。恐らく嘘です。そこで若者は欲に突き動かされて都会を目指すのです。自分の欲を満たしてくれるのではないか、、、、という期待からです。

都会は確かにあらゆる欲望を満たしてはくれるが

都会は確かにあらゆる欲望を満たしてくれます。人との出会いも多く、チャンスも多い、何かアクションを起こそうとすれば、、そのきっかけがある。ですがそこでいかに欲望を満たし続けても一向にこの不足感は消えない、、なぜならばこの体を自分だと勘違いしているのが神だからです。神は神に戻らない限り絶対にこの違和感、不足感を解消してくれないのです。

あらゆる欲望を満たしても満足しない「自分、神」がいるという気づき

ここにいかに早く気づくかです。何を成し遂げても満足しない自分、何を成就しても満足しない自分、、、、この自分とは一体何か?化け物か???化け物どころか神です。餓鬼畜生の本質は神です。ここを理解しないと恐ろしいことになります。餓鬼畜生とは恐ろしい化け物ではなく、、、人間のこの体に閉じ込められた神だということ、、、つまり閉じ込められ切っているということです。勘違いがマックスに到達しているだけです。

神は人間という狭い箱に閉じ込められ孤独になる

孤独の意味を履き違えるな

人間とは神がこの狭い空間に閉じ込められた存在です。人間の中には神が閉じ込めらえています。そして人間の外には自分以外が広がっています。神はこの人間の体の中だけでありそれ以外は、、、全くの別物、、、、この状況に対し神は孤独を感じます。これが人間の孤独の真相です。孤独とは友人や、親友、彼女、パートナーがいないことではないのです。数人の親しい存在が居るから孤独ではない、、、そんなことはあり得ないのです。そうではなく神がこの人間の体に閉じ込めらえて孤独感を感じています。

たくさん友人が居るから孤独じゃない、、は嘘

友人の数=孤独じゃない、、が成り立たないのは孤独のメカニズムが全く違うからです。孤独とはこの体の中に神が閉じ込められているというこの勘違い、錯覚こそが生み出しています。そこが分かれば簡単、、この体、思考、感情が自分というのではなくこれからは神として生きればいいのです。神がこの体に入り込んでいる、そして神ですからこの見える全部が神だ、私だ、、、です。この瞬間歓喜、平和、安堵が押し寄せてきます。

芸能人の孤独死について

芸能人の自殺が問題になっています。芸能人は周囲からチヤホラされて孤独とは無縁では??そんなことはないのです。芸能人はこの体、思考、感情を自分自身であるという誤認識が強い、神がまさかこの体の中に閉じ込められているとは思いにくい、、つまり特別意識が強いのです。特別意識が強いということは周囲とは自分は違う、、この感覚は実は私は神そのもの、全部が神だに移りにくくなります。この人間の体を自分であるという勘違いを神は継続しやすくなります。

自分とは自ら分かれたと書くが全体から分かれるなどできない

自分とは自己矛盾

自分とは自ら分かれたと書くが全体から分かれるなど実際にはできません。なぜならばこの世界を構築するエネルギーはたった一つでありたった一つのエネルギーは分離できないからです。にも関わらず自分という存在は文字通り自ら分かれたとなっておりこれは矛盾を抱えています。実際には自ら分かれたと錯覚しているというのが正確です。たった一個のエネルギーの中に「自分」という形状が異なる存在が登場したというのが正解です。

自分は自己矛盾全開

自分とは自己矛盾全開ですから常に苦しい存在です。例えばたった一人で生きていれば孤独感を感じます、完全に全体から分離できているならば完成しているわけで孤独感を感じる必要はないのですが実際には常に孤独感を感じずにはいられない存在なのです。この点も自己矛盾を抱えている証拠になります。そのそもが全体から形状を変えて存在しているだけですから全体に触れる機会を得ることで「自分」は徐々に崩壊していく運命にあります。

自分は全体に触れていく

自分とは全体から形状を変えた存在であるので常に全体に触れる機会があります。例えば熟睡時、大惨事の無心時、何かに集中して無心になっている時、何かを達成した瞬間、何かを手に入れた瞬間などです。これらの機会には「自分」は瞬間消えてなくなるので自分を取り戻した際に全体を思い出さずにはいられません。こうして自分は徐々に徐々に全体への帰還を夢見るようになっていきます。

脳の分離錯覚機能をお酒が弛緩する

お酒は脳の分離錯覚機能を痺れさせる

お酒を飲むとフレンドリーになったり打ち解けたりできるのは分離錯覚機能を司どる脳の機能を痺れさせるからです。分離錯覚機能を作り出す脳に対してお酒は直接作用することで分離感を和らげます、これは不足感、孤独感、居心地の悪さをそのまま解消することになるのです。だから日本人の半数以上の人が毎晩のようにお酒を飲んでストレス発散をするのです。毎日小さな悟りを行っているような感覚になります。

脳の記憶機能が分離感を助長させる

これはあくまで推測ですが記憶を司どる脳の機能を痺れさせて分離感を和らいでいるようにも感じます。実際には脳の全部位に対しお酒は効いているのではないでしょうか。お酒は飲むと血液に流入し全身に廻ります。当然脳にも巡るわけで記憶がなくなったりもする時があります。ですから記憶の部分を和らげることで自我の感覚を和らげ不足感、孤独感の発生を一時的に抑えているのではないでしょうか。

嫌なことがあった時ほどお酒に走る

嫌なことがあればお酒に走る人が多いのは、、、そのまま記憶を痺れさせているとしか思えません。記憶がぼやけることで自我がぼやけ、それによって分離感覚が収まっていきます。要は人間が分離した存在から全体に戻っているということになります。これによって歓喜、平和、安堵に直接繋がる体験になるのです。覚醒剤などはその名の通りそれがマックスに作用するのではないでしょうか。タバコも然り、コーヒー、お茶、カフェインもその作用が強く働く一つです。

人間は完璧さを勘違いしている

宇宙の完璧はメカニズムのこと

人間は完璧な環境を求めて日々活動します。もっとお金が欲しい、もっと安定が欲しい、もっと地位や名誉が欲しい、、欲しい、欲しいを連発します。これが人間にとっての完璧です。ですが本当の完璧は違います、水が水蒸気になり、木が燃えれば灰になる、、太陽が出れば明るくなり、、太陽が沈めば暗くなる、、、この完璧なメカニズムこそが宇宙の完璧です。にも関わらず人間はその完璧さには驚きもせず自分の環境が完璧ではないことを嘆いています、このギャップが人間の不幸を生み出します。

では不平不満を言う人間は不完璧なのか?

違いでます、この宇宙空間に不完璧なものは存在できません。つまり人間とは完璧を追い求め常に不平不満でいることが完璧な姿なのです。ではこのメカニズムに気がついて完璧を追い求めなくなったら不完璧なのか?そんなことはありません、それはそれで完璧なのです。不平不満を言うのも完璧、不平不満を言わなくなてっても完璧、、宇宙に不完璧なものは存在しません。

不平不満が湧いてくるのを止めるには?

人間が人間の状態で外に対して完璧性を求める限り、宇宙のメカニズムの完璧性に満足することはないでしょう。そうではなくなぜ人間は不満、居心地の悪さ、不足感、孤独感が湧くのか?この完璧なメカニズムの謎に迫るのです、そうすると人間という存在の本質に突き当たります。不平不満全開の今のままで完璧、だがこのメカニズムを理解すると不平不満が湧かなくなるという事実に突き当たります。

苦しみこそが自我を悟りに誘う

自我増大=苦悩増大

苦しい、悲しい、寂しい、、、これらの苦しみは自我こそが作り出しています。信じられないかもしれませんが自立するとは苦しみを増やす行為なのです。だからこそ自立に積極的になれる人はそうはいません、それは自立がそのまま自我の確立でありそれはそのまま苦しみの増大だからです。ということで自立は決して生易しいものではなくとんでもなくチャレンジフルなことなのです。

あの人は自立していて憧れる、、

自立、自我の確立は、、、決して甘いものではありません。世間は自立した人間を生活力があり分別があるぐらいの評価しかできないかもしれませんが全く違うのです。自我の確立とはそのままで不足感、欠乏感の確立なのです。自我の確立とは分離意識の完成でもありそれはそのまま居心地の悪さ、不足感、分離感、孤独感の完成でもあるのです。地獄の始まりでもあるのです。社長は孤独、、、と言われるのは社員とは状況が違う、、という簡単な話ではなく、、、自我の確立とは全体との完全分離でありそれこそが孤独感や不足感を生み出すのです。

確立した自我は悟りに誘われる

自我確立とは自立確立であり、、これは同時に全体からの完全分離を意味します。この完全分離は苦しさ、孤独感、不足感の確立でもあります。よって自我が確立した大人は苦しだとともに生きていくことになるのです。ですがここで問題があります、自立すればするほどに苦しくなるならば今後自身は何を目指したらいいか?という話です。この先にはさらなる苦しさが待っているならば人生に何も期待はできない、、こうなります。ということで自我が確立した大人は逆にこの自我とは何か?という探求に誘われることになるのです。