勉強も運動も仕事も全部楽しめてしまう人

集中すればなんでも楽しい

集中すればなんでも面白くなってしまうのがこの夢の仕掛けです。人間が思考している時、それは人間になり切っている気づきの意識の状態です。この状態は苦しみが湧き出てきます。人間になり切っているからです。ですが完全集中して思考が抜け落ちている時、これが自分自身であるという思考も抜け落ちていますから気づきの意識そのもの体験だけがある状態です。この状態は安堵、歓喜、平和そのものです。ですから物事を始める時は簡単思考が抜け落ちるまで集中できることをすればいいのです。夢としての人間は完璧ではないので雑念が湧いてくることはやらないことです。集中できればなんでも楽しい、集中するように1日を組み立てていく、これがポイントです。

have toで物事に取り組むと集中できない

これもあれもやらなくては、、タスクを決めて処理をしていくと人生は苦しくなります。思考がぐるぐる回転します。そうではなく集中できることだけで人生を構築していきます。どうやったら集中できるかに専念します。集中さえできていれば思考が抜け落ち、歓喜、平和、安堵がそのまま湧いてきます。湧いてくるという表現は間違いで歓喜、平和になってしまいます。

飽きたら即切り替え

集中できているかが全てです。集中できなくなったら即切り替え、他のことに替えます。集中できていないも関わらずダラダラと継続すれば思考がぐるぐると湧いてきます。するとこの心身こそが自分自身であるという思考も湧くので途端に苦しくなるのです。思考が湧いてきたら苦しくなるというここを理解できるかです。思考とは集中と集中の切り替え時ぐらいに使えばいいのであって基本は使いません。もしも湧いてきたらその思考を観察します、これは気づきの意識への強制シフトです。

空即是色とは

空は常に色として現る

ブッダが2500年前に発見したこと、それは空即是色です。この世に見える世界は空が現象化した幻想でこれは空が見る夢です。この夢は空が作り出しその夢を人間という生命現象を通じて夢物語を体験させていきます。この夢物語を歩むのは人間ですが人間が体験する内容を認識し、意識するのは当然空です。空がこの夢を体験する以外に体験者はいません。体験者という者は実際にはないのですが体験者という幻想を使ってただ体験だけがあります。全部は夢ですから空が自身を変幻自在に現象化してただ体験があります。

なぜこの体験は基本苦しいのか

釈迦が発見したこと、それはこの世は苦であるという。これが最初いまいちわかりませんでした。なぜわざわざ空は苦しみを人間に味合わせるのか?それが分かりませんでした。今はわかります。実は苦しんでいる人間はこの世にはいません。なぜならばこれは全て夢だからです。全て夢ならば感情を味わっているのは夢を見ている張本人しかあり得ないのです。ではなぜ人は苦しいとか悲しい、とかいう感情を持っているように感じるのでしょうか。それは実は感じていません。感じているのは全て感じる存在、気づきの存在です。それを人間が感じていると常に勘違いしているのです。夢の中で苦しんでいるのはいつでも夢を見ている張本人で登場人物ではないですよね。ですからこの苦しみも実は勘違いです。信じられませんが人間はこの感情を自分のモノとしているだけで今まで全感情を味わっていたのは夢を作り出した全存在です。

エックハルトがいう思考の観察は今までも普通に気づきの意識がやっていた

これは夢ですから夢の創造主はいつもこの夢を見ています。今まで一度たりともこの夢をよそ見したことはりません。そして今もやはりこの夢を見ているのは気づきの意識です。思考を観察せよ、これがエックハルトの言葉ですが気づきの意識は常にこれをやってきました。全ての感情を観察し、全ての思考を観察してきたのは気づきの意識です。感情を認識し、思考をしてきたのは人間ではありません。人間も気づきの意識ですから人間が認識してきたと仮定してもそれも気づきの意識が人間として認識しただけです。要は同じことです。夢を毎晩見ている時に誰がどういう形で感情を抱こうとその感情を認識しているのは夢を見ている張本人しかいないのです。

ただひたすらに湧いてくる欠乏感を自分のモノとして生きていく登場人物

ストレスが溜まっている日の夢は悪夢になる

凄いハッピーな1日を過ごした日に悪夢を見ることはあまりないです。ストレスフルな1日を過ごした日は悪夢を見るパターンが多い。ストレスフルだった日はなぜか夢の登場人物に災難が降りかかり悪夢にうなされます。つまり夢を見ている張本人のストレスによって夢の展開は変わっていくわけです。夢の登場人物はストレスを自分のモノとしてこのストレス解消のためにあらゆる行動を起こし夢が展開されていくということになります。

この現実社会も全く同じ、この夢を認識するモノのストレスを登場人物である私は自分のモノとしてただひたすらに行動していく

この夢を認識し、かつこの夢そのものである気づきの意識、大いなる一つは「私」がいるという錯覚をお超すことでこの夢を展開していきます。この心身こそ私であるという錯覚を持ち続けた主人公である私はなんともいえない欠乏感、孤独感、欠落感を解消するべくこの夢の中で活動し続けています。この夢の凄いところは個人がいるという勘違いが強くなればなるほどにストレスが増大するようになっていることです。ストレスを自分のモノとして解決しようする責任感が強い主人公であればあるほどによりストレスは増大していきます。

夢をただ認識する気づきの意識は主人公の行動に奔走されることは全くない

あなたが昨晩見た夢の中で、、主人公が全く意に介さないような行動をとったとしてもそれを後悔することはありません。夢の中での主人公の行動が失敗続きだったとしても所詮夢の中の行動でありそれ以上でもそれ以下でもない、、ただそれだけです。この現実社会も気づきの意識がみる夢ですから気づきの意識が主人公である私の行動に右往左往することはありません。私を主人公に置いてただ夢が展開されていきます。気づきの意識が展開する夢ですから主人公の私が取る行動の結果は全て気づきの意識が勝手に決めるということです。因果応報はあるようには見えますが無いといえば全くないです。所詮夢ですから。

海であることを忘れた波は疲れている

海であることを忘れると思考フルスロットル状態になる

海であることを忘れた波はなぜか不足感、欠落感、孤独感が半端なく中から湧いてきます。朝起きて寝るまでこの欠落感、欠乏感、孤独感をひたすらに埋めるために思考フルスロットルで動き回るのです。そして動けば第二波、三波の感情が次々に湧いてきますがこれらは先ほどの欠乏感、孤独感が形を変えたものであることは間違いありません。なんとかしてこの感情解消のためにあらゆる手を尽くし、頭を尽くし動きますがこのイタチごっこは半永久的に続くために徐々に疲弊してくるのです。よって人間はどこかで中毒対象を見つけ出し中毒行動でこれを乗り越えようとするのです。それが恋愛だったりTVだったりゲームだったりギャンブルだったりお酒だったりです。

なぜここまで何かに中毒になるのか?

この夢物語の中では常に不足感、欠落感、孤独感が襲ってきますからいかにこの感情を沈めるかに思考はフルスロットルになります。結果多くは何かしらに中毒になることでこれを乗り越えようとします。それをしている間思考を削ぎ落とせるような何かを求め続けるのです。人間にとって中毒とは現実逃避ではなく全く意味がわからないこの欠乏感、喪失感、孤独感を感じなくさせてくれる助け舟なのです。そしてこの思考の削ぎ落としを中毒ではなく全ての人間活動の所作からそこに入れますと夢物語から常に抜け出た次元にシフトできているので欠乏感を感じずにいられるのです。どのタイミングでも意識、気づきの意識に戻れる人は中毒とは無縁で生きられます。

この夢物語では湧き上がる欠乏感を中毒ではなく、思考フルスロットルでもなく、見抜くことで解決する

もしかしたらこれは誰かが見ている夢なのか?そのような疑問が湧いてきたらこの夢から覚める準備ができています。夢を見ているのは主人公ではなくこの夢をただ認識するものです。これまでこのただ認識するものにあらゆる名前をつけてきました。神、ブラフマン、キリスト、仏、空、、、名称は多くの場合この夢の登場人物達によって誤解されていきます。このただ認識するものがこの夢を見ています。湧き上がる欠乏感を主人公のモノと勘違いさせ主人公を右往左往させ時に積極的に時に消極的にこの欠乏感を埋めることを目的に動き続けさせてきました。何かに中毒になっても相決するわけでもなく、思考フルスロットルでも解決はしません。これが夢だと見抜き俯瞰することで深刻さを根本から無くしていくことでこの夢物語から認識するものが覚めるのをただ待つのみです。

苦しみ、欠乏感、孤独感から逃げるのではなく、、

なんとか誤魔化してこの夢物語の欠乏感、喪失感から逃げ続けるのは至難の技ですからそうではなくこれに向き合うこうことが重要です。準備ができた登場人物はこの喪失感に向き合うことでそこから無心に入る、無我に入る、全存在に入っていきます。喪失感の根源は自分自身そのものであり外にこの解決を求めても無駄です。自分自身が全存在であることに気づく以外この戦いは続きます。

海であることを忘れた波は損得でしか動けない

思考とは損得を判断するもの

夢の中の登場人物は思考をフルに使って存在しますがこの思考とは損得機械です。自身にとって何かしらの得があると思考が判断すれば動き、損があると思えば動きません。究極の損得マシーンなのです。そんなはずはない、親が子にかける愛情はどうなんだ?となりますが見ず知らずの子供の世話をする親がほぼいないように自分が腹を痛めた子供だからこその限定的な愛になります。これは本当の愛ではありません。子供を自分と同一視して愛情をかけているだけです。故にこの夢劇場ではどこまでいっても損得での人間関係が広がります。

夢劇場の登場人物に損得以外の期待をしないこと

この現実社会は夢劇場でありよって人間関係はどこまでいっても損得で行われます。どんなに深い関係の夫婦も、友人同士も突き詰めると損得がそこにはあります。自身は人間であるという錯覚をしたこの夢劇場の登場人物である限りこの縛りから逃れられないのです。自身は全存在ではなく別個の人間であると誤解したこの夢の登場人物は本来が全存在であるからしてどこまでいっても不足感の塊なのです。ですからこの不足感解消のために生き続けることになりどこまでいってもこの不足感解消に繋がらない行動は取れないのです。人間の行動のベースは完璧なまでに不足感の解消になります。

不足感をお互いに解消しあえるから関係を結ぶ

どんなに神聖な関係に見える人間関係でも人間=不足感であり、この不足感解消が人間の義務です。この人なら自分の不足感を何かしらで補ってくれる、これが人間関係を結ぶ動機でありこれ無しで成り立つ人間関係は皆無です。だからこそお互いの期待を満たして上げることができなくなるとその関係は破滅に向かうのです。なぜならば不足感を解消できない場合、苦しみと向き合うしかもう方法がないからです。夢物語での人間関係とは究極の損得関係でありここから抜け出すには夢から覚めるしかありません。

夢であることを最後まで信じたくない登場人物達(自我)

なぜこの話題には登場人物達は食いつかないのか?

この世が夢であって登場人物である我々は実は存在していないし独立した個人もいない、この手のお話をこの夢の中で他の登場人物に話をしてもあまり聞く耳を持とうとしません。ぜひその話を最後まで聞かせて欲しい、とはならないのが面白いところです。あらゆる宗教の教義であってもこの世は夢だと断じるのが少ないのはやはり夢物語上人気のない話題なのかもしれません。というよりも人格を持った人間であると勘違いする登場人物の存在自体を否定する内容が聞き入られるわけがないということです。

誰もこの話題をしないのならば自ら進んでこの闇を暴露するしかない

私(登場人物)もこれまでこれらの話題に触れてきたのですがどうしてもこの話題が腹落ちしませんでした。やっぱり自分の存在を絶対に否定したくないし今までの苦労は一体なんだったのか?そんな悲しい結末は冗談じゃないという気持ちが湧いてきて見たくないわけです。ですが心の奥底(全存在)ではどこかでホッとする感覚、これしかないよねという一種諦めがありました。サレンダーという言葉になるとは思いますがもうこれを受け入れるしかないという残念だけど安心という感覚です。個人がいない、この世は実は夢というこの大どんでん返し以外やはり落ち着く場所はないのです。

成長し、進化し続ける個人が赤ちゃんを見たときの敗北感はここだった

人間とは成長するのが素晴らしいこと、進化し続けるのが素晴らしい、神に向かって自身のバイブレーションを上げることが本望、アーユルベーダ的にエネルギー上昇が決めて、、、あらゆる自己向上に励んできた自分ですが赤ちゃんや子犬、無邪気な子供達を見る時になんともいえない虚無感を抱えていました。本当にこの歩みでいいのか?何かが違うのではないか。。。ですが今でははっきりとわかります、進化しようとするこの個人こそが苦しみの原因、進化しようと退化しようと個人であるという思い込みを持つ限りこの苦しみは解除されない、、これが夢だと諦めることなし安堵、歓喜、安心、平和が訪れないことを悟りました。

なぜ人は故郷に対し不思議な価値を感じるのか

この夢の登場人物は全員が故郷に帰りたい

この夢の登場人物は全員がある場所を求めています。それが故郷です。地方から都会に上京した人間がかつての実家に対し深い感情を抱くようにこの夢の登場人物は全員が故郷(全存在)を求めています。これが初期設定です。この故郷を求める感情が孤独感の正体です。この孤独感を常に他のもので埋めようとする動きがパートナー、親友、両親、子供などへの渇望です。結婚に興味がない、友人に興味がない、、子供に興味がない、、と他人に言えばこの夢物語で変人扱いされるのはこのためです。孤独を感じない人間はいない、それは勿論ですがその本質にはこの故郷(全存在)を求める動きがあります。

その故郷は今目の前にある

この夢の登場人物は全員が故郷(大いなる一つ)を求める旅を続けています。そしてその旅が困難を極めるのは大いなる一つはこの夢物語には落ちていないということです。夢から覚めた時に目の前にあります。そして夢から覚めるのは登場人物ではありません、夢を見ている全存在です。登場人物の中の主人公を通じてみるこの夢物語を意識する全存在が夢から覚めると全存在がそこにはあります。もしくは夢の主人公であるあなたが無心になって何かに取り組む時に思考が抜け落ち自我が解体しその瞬間無我になります、その時実はあなたは故郷にいるのです。なぜならばあなたがいないからです。あなたがこの夢物語にいない時そこには物語は存在できなくなります。あなたと物語はセットだからです。

故郷とは自分自身(全存在)であり故郷を離れているのも全存在が勘違いした存在

故郷とは自分自身のことです、故郷とはこの夢を見ている張本人、その人のことです。故郷(全存在)が勘違いをして個人として夢物語の中に登場しているのがこの夢物語であり帰る先とは自分自身なのです。そこにはやはり自分とは何を勘違いした登場人物が多数登場していてみんなで勘違いを続けています。とはいえあなたが主人公の物語には個人という確固たる存在は実はいるはずがなく(夢だから)個人に見える現象同士が関係を取り合っているだけです。

夢の中でこの生き方が正しい間違っていると話し合う無意味さ

夢である以上正しい、間違いは確実にない

これがもしも本当に夢ならば正しい、間違いは完全に無意味なのがわかるはずです。夢の中での正しい、間違いってただのエンタメですよね。設定も個人によって全く違うわけですから、、ですからこの夢の主人公にとってその時最も都合の良い考え方を取り入れることになります。勿論これも自動で湧いてきます。この人は間違っている、この人は正しい、、、これはこの夢の中のルールであることを理解すると深刻さが薄れてきます。

それでも自分にとっての正しいを敷く主人公

この夢物語に正義、悪は本当は存在しませんが、それでもこの夢物語を生きていく主人公(私)には正義が必要になってきます。食べていくために自分の正義観が起こってきます。それぞれの登場人物はそれでも当たり前にそれぞれの正義感を持っているのです。これがこの夢物語です。そして時にお互いの正義を振りかざして戦うわけです。それが個人間のイザコザだったり組織間の抗争、国同士の戦争です。個人があるという前提のこの夢物語を生きている者同士に争いが絶えないのがこのためです。勿論争う個人は本当はいません、夢ですから。

正義と正義でぶつかり合う登場人物同士のイザコザは面白い

これは夢ですから本当はぶつかり合う個人はいません、ですが自身の目には個人と個人の戦いはハッキリと見えるはずです。お互いの正義を振りかざし戦い合う姿は見ていて面白いモノです。それぞれの登場人物には全く異なった過去があり人格があり、ストーリーがありますから意見をぶつけ合えば十中八九争いになるのです。それが分かっていても争い合うこの夢物語の登場人物、この争いもただ起きていますから万事良好ということになります。全存在には。

自我と自我のお喋りが無駄に思えたら

登場人物同士の会話に勿論意味はない

夢物語の中での醍醐味の一つが他の登場人物との交流があります。他愛もないお喋り、これは分離する前の全存在には不可能なことゆえに他人がいるという錯覚はこの夢物語を刺激的にしてくれる大きなファクターです。他愛もないお喋りすら分離経験上エンタメです。ですがこのエンタメもひとしき行えば途中で飽きてきてもおかしくありません。その時はもうこの遊びは卒業、次の遊びへのシフトが始まるはずです。

他人とのコミュニケーションはそれほど重要でもない

友人は多ければ多いほど素晴らしい、友達100人できるかな、、あれは幼稚園児の話であってその遊びがそのまま大人にまでなっても楽しいとは限りません。これは夢物語ですから友人をたくさん作ろうという思いが湧けばそれもそれ、友人をたくさん作りたいという思いが湧かなければそれもそれです。夢物語の中でどうやって自身から湧いてくる欲望を叶えていくかは登場人物によって全く変わってしまうのです。

コミュニケーションは自分がいることを腹落ちさせてくれる

この夢物語においてコミュニケーションは登場人物の存在を確固なモノにしてくれます。夢ですから本当は確立した登場人物は存在しません、だからこそ他人とのコミュニケーションはその不確実性を払拭してくれるように思えるのです。深いコミュニケーションと同時に湧き上がる安堵の感情は自我を安堵させるとともに、実は相手に向き合うということに無心になれたときに訪れる無我からくる安堵です。コミュニケーションも無心になって相手と向かい合えばそれはコミュニケーション道に入ることができます。そこでは虚しいおしゃべりではなく人間関係道があります。そこからでも無心、無我、真我に入れます。

夢の中に出てくるアジャシャンティーやエックハルトトールをどのように扱えばいいのか

なぜ夢の中にこれらの覚者と呼ばれるような存在が出てくるのか

アジャシャンティー、エックハルトトール、トニーパーソンズ、ラマナマハルシ、これらの覚者と呼ばれるような存在がもしもあなたの夢に出現したとしてそれをどう受け止めれば良いのでしょうか。夢の中に夢のカラクリを解説する登場人物が出現した、そう取るだけです。ですから彼らは登場人物であって人間ではありません。人間風覚者とでも呼べばいいのか、とにかく夢の中に出てきたキャラということになります。そして彼らを変に尊敬し、依存し、囲い込むというのもまた間違っています。尊敬しようと依存しようとそれは夢の中の登場人物でしかありませんし、彼らが話す内容も全て夢の創造主から湧いてくるだけです。ですからそれは時に真実を照らしているようにも見えれば見えない時もあるただそれだけです。

夢の登場人物の言葉を鵜呑みにしてもしょうがない

言葉とはこの夢物語の中でただ湧いてくるモノですからそれがラマナマハルシの言葉だろうが、エックハルトトールの言葉だろうが、トニーパーソンズの言葉だろうがそこに真実があるという保証は一切ありません。そもそも真実を正確に言い当てる言葉など証明のしようがないのです。ですからこの夢物語の中に真実らしきことを言っている登場人物がいる程度の認識でいいかもしれません。誰が何を叫んでいても説いていてもそれを認識している、意識してるのは全存在(真実)です。登場人物の全てが全存在の分離に見える現象、現象の全ては全存在が変容した表現です。

誰が本当のことを言っているのか

このは夢物語ですから誰が本当のことを言っているのかは永久にわかりませんし、分かるのは夢から覚めた時です。夢である以上その中の登場人物は変幻自在に変化する可能性すらあります。言葉ではこれが夢物語だと表現してもでは覚めた状態はこうだといい言える言葉はありません。言葉の限界はこの夢物語の中での表現を超えることができないことです。言葉とはこの夢物語の中でしか沸き起こらないモノです。言葉も勿論真実(真我)から湧いて出てきますが言葉が真実を証明することはできません。色即是色、空即是色、、、現象界は即ち全存在であり、全存在は即ち現象界です。