究極的に言えば事実以外は何も起きていない

私は生きているということすらも思い込み

全存在が全存在体験をしているこの現象の世界では今起きている事実以外は何も起きていません。もしも起きている事実以外のことが起きているとしたらこれは全存在ではなくなってしまいます。全存在が全存在であるここで全存在以外の現象が起きているわけがないのです。今ここ=全存在です。ここでいう今とは時間とは全く異なります。時間とは脳の記憶が作り出した創造物です。創造物を超えたものが今です。私は生きている、これも思考です。生きているっていうのは多分人間として生きているということでしょうが、その事実はありません、というか認識していないはずです。私がただある、ただこの体が動いている、、ただ語感が作用している、これは事実です。全存在がこれを認識しています、ですがこの私(人間)が生きて人生で歩んでいるというのは思考です。事実ではありません。全存在が認識していないことは何も起こっていないということです。

実は人間活動のほとんどが思い込み

将来のために今勉強をしないと大変なことになる、、だから勉強をしよう。これは思い込みです。勉強しないと大変なことになる、、という事実はここにありません。思考の中、夢の中にどっぷりと浸かる思考です。今起きていること、これが全てです。これ以外は存在しようがありません。私は認識していない事実があってだからこそ今のうち色々な準備をしよう。これは現実ではありません。事実は今ここで起きていることが全てです。事実のみを受け入れているとそこに思考が入り込む余地がないのでそのまま至福、歓喜、安堵に入ります。この事実を理解した時に人(全存在)は思考への取り憑きを辞めます。今ここで至福に入れるのに何の準備が必要なんでしょうか。

今ここから至福に入れる人間(全存在)が準備をしなくては至福に至れないと勘違いするメカニズム

主語を人間とするか全存在とするかで行動が全く変わってしまいます。人間を主語にすれば至福とは準備に準備を重ねて苦しい山を上りようやく辿り着くというストーリーに入ります。主語を全存在にすれば全存在そのものが歓喜、至福、安堵ですからその状態にシフトするだけです。そこに準備は一切不要です。思考を完璧に抜け落とさせれば人は全存在に強制シフトします。なぜならば心身がこと自分であるという思い込みは思考だからです。事実ではありません。今ここで至福、歓喜、安堵になれるのにわざわざ準備に準備を重ねて山登りをする意味はないのです。もちろんその山登りも全存在の苦しみ体験ですからそれもまた良しです。

スーパーコンピュターをアップデートする意味とは

知識が悪い訳ではない

知識をつけることは悪いことではありません。知識をつけることはこの現実社会で生き抜いていくために重要なことではあります。選択肢を広げます。むしろ知識をつけるために無心になって取り組めば学ぶことで無我に入ります、ワンネスに入ります。即歓喜、感動、至福です。学ぶことを通じて人間は神に戻るのです。

受験勉強も悪くない

受験勉強を通じて無心モード、無我モードに入ることは可能です、そこに思考が出る幕はありません、集中して勉学することは悪いことではないのです。人は何からでも無心モード、無我モード、夢から脱出モードに切り替えれるのです。知識を得ることから、無心、無我、全存在に入ります。

ワンネスがスーパーコンピュータを有効に使う

知識をつけることで無心、無我、ワンネスへの切り替えができたら次にこの知識を使ってスパコンを使って明晰に考察することもできます。スパコンを使い続けていれば不足感が湧いてくることを自覚できていれば危険なこともありません。スパコンを使う時は人間、自我モードに切り替わりますから長時間使用は避けなくてはなりません。思考=この心身こそは自分であるという自我モード起動スイッチです。

苦しみたいのは自我ではなく無我

ここを勘違いしてはいけない

自我、思考は苦しみを生み出すためのメカニズムであってこのメカニズムを採用しているのは無我、ワンネス、大いなる一つです。自我が人間を苦しませたがっているのではありません、自我とはこの心身を自分のものとする思考であり、この思考も全存在、ワンネスから湧いてきているだけです。苦しみを作り出しそれを認識する全存在があるだけ。我々人間(本当はいない)はこのメカニズム上で苦しみを湧き出させる機能です。ですから最初から最後まで悪者はいません、苦しみを味わいたい全存在がそう仕組んだだけのことです。

このメカニズムから抜け出すのを決めるのも全存在、ワンネス、、、人間(本当はいない)に決めることはできない

どのタイミングでこの苦しみのメカニズムが抜け落ちるのか、これを決めれれる人はいません。人は苦しみを作り出すメカニズムの名称ですからそこに解除の決断はできないのです。ワンネスが自我を利用して苦しみ体験をしているだけ、これだけです。

夢を作り夢を見ているのも全存在ですから夢から覚めるのも全存在

夢を作り、夢を見ているのも全存在、当然夢から覚めるのも全存在です。我々人間はその中で苦しみの感情が湧き上がるための道具でしかありません。もちろんこの道具無くして苦しみを経験できないわけですからこの道具は価値があります。価値がないものもありませんが。いつこの夢を見ている全存在が夢から覚めるのかそこは興味が出るところです。人間は苦しむための道具ですからもしも今あなたが苦しんでいるならば役割を全うしている優秀な人間です。

物事に集中できない時は他の作業で集中に入る

集中とは自我を欠落させることでありその練習から入る

集中とは自我を欠落させる、思考を欠落させる行為です。何かしらのタスクにおいてこれに集中できない時は先ずは他の作業に集中することで集中、無心に入ることに馴染んでいきます。集中、無心、無我夢中に入るのはにはコツがありこれは思考を落とすことです、これが多くの人ができません。雑念が湧き続けて集中に入らしてくれない無心に入らせてくれないのです。その場合は集中しやすい行動からスタートします。集中を思い出すことからスタートするのです。

集中を思い出した人は何にでも集中に入れる

集中、無心とは癖付ですからとにかく何にからでも入る癖をつけたもの勝ちです。集中、無心=歓喜、安堵、平和ですからこれ以上に価値のあるものは世の中に存在しないのです。多くの人は何かを手に入れたら、何かを達成したら歓喜に至るろ思っています、これは間違いではなくその通りですがその歓喜は手に入れた瞬間の一瞬のみ、永続とは程遠くはかないものです。そうではなくその達成する道において集中、無心、無我に入り込んでしまえばそのままそこで歓喜に至るのです。

集中、無心、無我になれる=歓喜、平和、安堵になれる

この境地を腹の底から体感できた人にはもう対象は要らなくなります。高級品、家、車、バッグ、名誉、名声、お金、、これらの対象は人間を一瞬歓喜に導いてくれるものです。ですがそれは一瞬のこと、直ぐに次の獲物を探さなくてはなりません。ですがもしもそれを手に入れる道中でそのまま集中、無心、無我になったならば達成の必要が要らなくなるのです。

トラブルから悟りに入る

トラブルすらも無心に戻るキッカケにする

日常生活では多くの方はトラブルに巻き込まれます。そしてトラブルに巻き込まれる度に思考フルロットルモードに切り替わり悲鳴します。思考フルスロットルモードは自我モード、夢の中にどっぷり浸かり時間、空間次元に埋没します。ですがこれからはトラブルを利用して無心モードに切り替えていきます。トラブルがあることでルーティーンの行動に戻し無心に入っていくのです。トラブルすらもルーティン、無心、無我モードへの入り口にします。

トラブルがあった時には一度無心モードに入り安堵に戻す

トラブルがあるとそこから人は思考がグルグルになり、思考を止めることができなくなります。ですがここでもその負のスパイラルに入ることなく強制的に先ずはルーティンに戻ります。ルーティンは無心でできること、無我でできること、歓喜、安堵、平和への瞬間シフトです。そしてそこから思考を使いトラブルを解決していきます。

常に無我にあればトラブルを明晰な思考で処理できる

常にルーティン、無心、無我にあることができている人であれば思考を明晰にトラブル解決に向けることで一瞬でトラブルを解決できます。むしろトラブルが楽しいと思える程です。トラブルが楽しいと思えるほどにエネルギーで体が充実しているということです。そこまできていればトラブル即思考で解決ができます。そしてそのトラブル解決が時間を要する場合に関してはその行動をルーティンに入れ、無心に入り、無我に入り、そこから悟り、ワンネスに入っていきます。

思考モードの人の行動は予想がつかない、無心モードの人の行動は予想がつく

思考モード全開の人は常に反応を繰り返している

思考モード全開、自我モード全開の人の習慣は反応に次ぐ反応のみです。何かしらに反応をし続けているのが思考モード、自我モードです。毎日朝起きたら何をするかが全く決まっていません、その時その時に反応し続けているだけなのでやたらと忙しく見えます。そしてやたらと顔が疲れています。感情の起伏が激しくなり、思考の起伏も激しいという共通点があります。

無心モード全開の人は常に同じことをしている

無心モードの人の特徴は同じ所作、作業をくりかえしているという点です。無心モードに入ったらその行動を続けることが一番の歓喜、平和、安堵ですから自ら進んで他の行動に切り替えるなど基本しないのです。そして飽きたら違う行動をとり、そしてまた元に戻っていきます。外から見ていると3パターンぐらいの行動をひたすらに取り続けているように見えます。所作に入り込むことが重要であり1日にいかに多くの雑事をこなすかには興味が湧きません。

思考モード全開は夢に埋没している

無我モード、無心モードは現実にいないような印象がありこのモードは夢の中にいるかのように思えますが実は真逆です。無我無心モードこそがこの夢物語から一瞬抜けた状態なのです。夢物語にいないということはどこにいるのか?それは全存在、空、ワンネス、大いなる一つです。そして思考全開、自我全開の状態こそが夢物語どっぷりになるのです。いかに長い時間を自我による勘違いした状態から脱却できるかがこの夢物語を軽々と生きていけるかになります。

予定を入れたがる中毒について

予定を埋めていないと不安になるメカニズム

全存在であることを忘れ一個人の分離した人間であるという思いこみを始めた瞬間から孤独感、虚無感、不足感が湧き出てきます。そしてこの感情を自分の中で湧いていると勘違いをします。これがこの夢の仕組みです。なぜこの夢劇場ではひたすらにこの孤独感が湧くかといえばそういう理由なのです。予定を埋めて常に人に会う約束をすればこの孤独感が無くなるとさらにまた勘違いをします。人間が抱える孤独感とは実はこの孤独感なのですがこれを人は勘違いをして人に会えない孤独感なのだと解釈するのです。そのため365日人に会っても実はこの孤独感は解消されません。この孤独感を感じないように逃げ続けているだけなのです。

カンの鋭い人は途中で気づく

人に会っていても全く孤独感は癒されていないと、その通りなのです。人間が抱える孤独感とは人に会って解消されるものではないのです。勿論人に会うことが良くないとかを言っているわけではありません。人に会うことでその人に無心になって集中し真摯に向き合えば向き合うことで無心になり無我の状態になります。この状態は歓喜、安堵、平和、愛の状態です。何人の人に会うか、何時間会うかは実はどうでもいいのです。人と会うという行為を大切にすること、相手に集中することが重要です。ただの時間潰しではなくどこまで相手に寄り添えるか、相手に真摯に向き合う会話であればそこから悟りに入れます。その瞬間、歓喜、平和、安堵の中にいます。

孤独感と向き合うことで悟りに入る

一人でいることを人間は孤独だと勘違いしています。人間であることが孤独なのであって一人でいることは孤独なのではありません。何十人と一緒にいても本当の孤独感は一切解消されないのです。それは孤独の意味を履き違えているからです。孤独感は大いなる一つの勘違いから生まれてきています。ですから一人になることを恐れるのではなく一人の状態から悟りに入る、歓喜に入る、安堵に入ることが重要なのです。

女性の買い物中毒のメカニズム

女性が買い物好きな理由

人が買い物を好きな理由はなぜでしょうか?買い物というのは何かしらの欲しい対象です。海であることを忘れた波は自身が本来は広大無辺な存在であることを覚えていますから常に渇望感、不足感を抱えています。海の代替品、全存在の代替品を求めて日々生きています。その代替品の一つが買い物です。買い物で次から次へと買い続けるこの行為は大なる存在の代替品を得続ける行為なのです。ですがこの代替品は大いなる一つとは全く違い規模が小さいですから直ぐにお腹が空いてまた買い続けることになるのです。

男性がタバコを吸い続ける理由

タバコを通じて人間はニコチンを摂取しているわけですがニコチンはこの大いなる一つの代替品です。ニコチンでハイになりたがるのはこの欠乏感、欠落感を埋めるためです。ニコチンのような興奮剤は全て脳内に幸福ホルモンを分泌するわけですがこのホルモンで欠落感を一時的に埋めているわけです。ですがこれも分泌が終わればまた吸いたくなるということです。多くの方が一度タバコに手を染めると死ぬまで喫煙し続ける理由がこれです。

男性がお酒を飲み続ける理由

男性がお酒を飲み続ける理由も同じです。大いなる一つが自身をちっぽけなこの人間であると勘違いすることから欠落感、孤独感、喪失感が湧き出てくるわけですがこれをお酒が一時的に埋めてくれます。お酒も飲むと幸福ホルモンが分泌されるため飲み始めると多く場合死ぬまで飲み続けます。人間である以上お酒をやめることはほぼ不可能です。「人間やめますか覚醒剤をやめますか?」というキャッチコピーのスローガンを一度見たことがありますがこれは皮肉にも真実です。人間を辞めない限り基本中毒というものから逃げることは不可能です。自身は人間だという勘違い、そしてこれが全て夢だという腹落ち以外に不足感、喪失感、虚無感はなくなりません。それは自身が本当は完璧な全存在だからです。

超能力はあるかもしれないがそれも夢物語の一つ

超能力

サイババが流行った時、サイババの手のひらから砂のような物が出てきてそこれを参拝者は聖灰と称して一生の宝にしました。故に覚醒や悟りはどこか超能力を称えそのような能力すらも湧くのだというイメージを与えました。ですが実際はそのような超能力と悟りは一切関係がなくむしろこのようなイメージは悟りを遠いものにします。悟りとはこの世が夢だと腹落ちさせることであり夢の中で自身が聖人君子になる話とは全く異なるのです。

ただしサイババはそれで価値が下がるわけではない

この夢物語ではこれが夢であることを再発見させるためのヒントがたくさんあります。例えばこのサイババもその一つ、超常現象を引き起こすような存在を信じることで再発見に至ることもあるわけです。キリストが水をワインに変えたなどの逸話が残っているのはやはり悟りにそのような期待を持つ方が多いからでその期待から悟りに入ることは間違っていません。全部が全存在の現象化ですからそこに善悪があるわけがないのです。

サイババも全存在の現れ

サイババも全存在の現れです。サイババに何か役割があるとかそういうことではありません、厳密にいうとサイババという人は幻です、全て夢ですからサイババという分離した個人がいるわけではないのです。ですが人間の視覚ではハッキリとそう見えます。視覚ではハッキリとサイババは人に見えますし、話をすればか反応もします。触ればそこに人がいるようにも感じます。ですがそれでもこれは夢ですから全て幻です。

熟睡時は意識だけがある、熟睡とは意識だけの状態

熟睡時の記憶がないのは、、

熟睡時は記憶がありません。それはなぜか?脳が完全に休んでいるからです。記憶の機能をストップしています。ですが熟睡から覚めると人は安堵、平和の状態を少し覚えています。その時気づきの意識から夢に戻ったのです。熟睡時は気づきの意識のみ、そして起きると気づきの意識が人間活動を意識し始めます。そして人間自体が湧き上がる感情、思考を自分のものとして勘違いするという状態を気づきの意識が認識します。

気づきの意識は全部を気づいている

気づきの意識は熟睡時は人間活動を停止して気づきの意識そのままの状態になります。この時の記憶がないのは人間の記憶脳が停止しているからです。人間が夢を見ている時、人間の脳の記憶を使って気づきの意識は夢を見ます。この時に夢を見ているのも気づきの意識です。人間の脳をフィルターにして夢を創造しそれを観察します。人間が起きれば今度は人間の五感を使って夢物語を創造しそれも気づきの意識が全て認識します。認識するという言葉が実は的を得ていないのは認識するという主体客体の世界ではなく認識そのものです。ただこれ以上は言葉で説明することができません。認識するという言葉は人間が作った言葉であり人間は主体、客体の世界でしか存在できないのでこの言葉は誤解を生むのです。

空即是色

空即是色は素晴らしい言葉でこれはやはり分かっている人が書いたモノです。空はこれ即ち色である。本当にこれだけなのです。ここに動詞が入るということはありません。なぜならば動くという現象には動くための場所が必要になりこれは二元の世界の話なのです。ということで本当は空即ちこれ色だけです。色とはあらゆる現象でありそこに人間という独立した(勘違い)存在を湧き起こしこの色の世界を完成させました。