仕事

やりたいことが見つからない、、無我に入る

やりたいことなど見つかるわけがない

自我ベースで生きている人間にとってやりたことなど見つかるわけがありません。なぜならば自我は損得でしか物事を判断できないのでやりたいことなどに興味がないのです。ですから自分が好きなことで食べたい、、、などの自己実現は究極のギャグです、自我にとって。こんな仕事がいいかも、あんな仕事がいいかも、、これらを思考に相談すればそんなことはするべきではないと一刀両断されます。食べれるはずがない、絶対に儲からない、、これで終わりです。

先ずは自我を離れて無我に入る習慣をつける

というわけでいかにしたら好きなことやりたいことが見つかるかといえば無我に入る習慣をつけるしかありません。自我ベースで生きているかぎりどんなアイデアも瞬殺されてしまいます。自我とは思考のことであり思考に相談すれば全部破棄です。思考は基本損得、ショートスパンでの利益しか追えないのです。そんな思考にやりたことは何か?と問えばそんなものはないで終わりです。それよりもいかに毎日無我に入るかです、作業、仕事に集中することでどこからでも無心無我に入っていきます。思考を介在させないでいかに無我に入るかだけを考えていきます。

やりたいことは無我が教えてくれる

今やりたいことがないならば、それは無我に入れないからです。やりたいこと、情熱を燃やせることは無我に入らなけえば分かりません。思考はそんなことには全く興味がないのです、思考にその答えを問えば恐ろしいことえしか教えてくれないはずです。大人はみんな我慢して生きている、早く大人になれで終わりです。そうではなくどんな仕事、作業でもそこから無心、無我に入るのです。仕事の難易度、知名度、価値は一切関係ありません。いかに集中してことに当たれるか、それだけです。もしも作業から無我に入り込むことができれば無我が答えを教えてくれます。そして無我に入り込めばそこが安住の場所になります。

「どうでもいい」これは自我崩壊の声

自我は不安に駆られてあの手この手を尽くす

自我は基本不安です、最も危ういもの思考、感情、そして体を自分とすることで常に不安定に生活をします。今日の体調、メンタル、、何もかもが不安定。だからこそ圧倒的な安定に常に憧れます、圧倒的収入、貯金、地位、職業、、、強いモノに対する憧れは自身の不安定さゆえです。ということで自我は小賢しくこららを集めようとするわけです。自我の本音に任せておけば基本どこまでも拝金主義、安定主義です。それを手に入れるためなら魂だって売ってやるの覚悟です。

自我同士の取り決めは細かい

会社へ入れば分かると思いますがルールが恐ろしく細かい、、、人間という自我と自我の集団の取り決めは細部に至ります。なぜならば自我にとって永遠、絶対は皆無、基本的に全部をルールで縛らないと不安でしょうがないのです。結果どこまで行っても細かいルール契約が続きます。ルールを守ることが仕事なのか?というぐらいにルール厳守が続くのです。自我はそれでいいかもしれません、ですがその奥にある本質、無我、大いなる一つは「どうでもいい」と感じています。

何をするにも約束、約束

アメリカのメジャーリーガーがチームと契約する時、百科事典並の書類の契約をまとめるようです。これには怪我について取り決め、肖像権、家族の不幸、成績不振のケース、次のチームに行った時の決め事、、、全ケースに対しての取り決めを行います、これが悪いと言いたいのではありません。これが自我同士の契約んです。どうでもいい、、と言いたくなるような山のような契約を約束しないと将来的に問題にあるということです。ですが実際にはここまで契約を結んでも問題は常に起こり続けます。これが自我同士のコミュニケーションです。

「どうでもいい」が頻繁に湧いてきたら、、、

全宇宙存在、大いなる存在はこの自我分裂ゲームを楽しむのは、、、全体では絶対に体験をするためこそです。とはいえあまりに下らない細かいルール、取り決めに1日を縛られ続けると不快感、欠乏感、居心地の悪さが泉のように湧いてきます、自我から。。。。それでも思考はこの感情をなんとか処理していきますが、、、ある時どうでも良くなります、もうどうでもいい、、、苦しさの爆発です、苦しさで自我が内部崩壊を起こします。

負の感情蓄積体=ペインボディー

負の感情を抱え込んでいく体

負の感情を無視したり誤魔化したり、気晴らしに逃げ続けていきますと、、その負の感情は体に蓄積されていきます。エックハルトはこれをペインボディーと表現しますが要は負の感情蓄積体です。この負の感情蓄積体は自身の体の中に形成されやがてそれらは集団的ペインボディーとも共鳴するようになります。社会的ストレスなどが個人とリンクしてしまうということです。例えばストレスフルな環境に行くと自分まで気分が悪くなるというアレです。重要なことはそれらの場所に行かないということではなく自身のペインボディー、負の感情蓄積体を解消することです。

先ずは無視をしないこと

仕事がストレスフルな人はギャンブルにハマりやすくなります。あれこそ負の感情の完全無視、負の感情を忘れるつもりでギャンブルに興じますが負の感情を生み出すストレス源を断ち切ることには行かないので日に日にストレスが増えていくことになります。ですがこの負の感情を見ることから逃げ続けていきますと気晴らしの度合いもまた増えていく傾向にありギャンブル依存症にまでなっていくのです。そして体には負の感情が着実に蓄積されペインボディーが形成されていきます。ギャンブルに逃げるのではなくストレスをしっかりと見つめる、しっかりと観察する、、それを誤魔化さない、、これをすることで一時的には辛いですが、そこから無心無我に入れるようになっていきます。それをしっかりと観察することで観察する存在に昇華していきます。

負の感情を無意識に抱え込んでいくと

負の感情を無意識に抱え込んでいきますとそれは確実に人間関係に影響を与えるようになります。相手の攻撃性を引き起こしてしまうこともあります、例えば職場で絡まれる、お店で絡まれる、、など溜まった負の感情は接する人間のやはり負の感情蓄積体を刺激するようになるのです。睡眠不足の時に色々悪いことが続くのはこのパターンです。要はため込んだ自身の負の感情がそれを爆発させたく接する人間を刺激しているわけです。このストレス、負の感情を無視し続けた結果の成れの果てです。

溢れ出る情熱を手に入れる方法

溢れ出る情熱はこの世界にはない

溢れ出る情熱はこの見える世界には存在しません。この見える世界は大いなる存在が衣を纏った世界です、この中に情熱を探してもそこにはないのです。溢れ出る情熱は自我では探し出せないモノなのです、思考を働かせてもそこには情熱はありません、思考がない世界、無心の世界、無我の世界にのみ溢れ出る情熱は存在しています。思考に乗っ取られた状態では情熱は湧いてこないのです。思考が抜け落ち、自我が解消され無我に入り込めた状態になると情熱そのものになります。

何にも本気になれない、、何が天職か分からない

本気になれること、天職と呼べるようなモノ、これらは思考で考えても見つかりません。なぜならばそれらは思考が存在しない状態のことを言うからです。思考が本気や天職、情熱を見つけることができないのは当たり前なのです、その思考こそがそれらをベールに包んでいるからです。つまり思考を極限まで削ぎ落とした状態こそが本気、天職、情熱なのです。

溢れ出る情熱は思考を外せばそこにある

多くの方は大人になるにつれてコスパ、見返り、意味、損得、、これらを第一優先に考えるようになります。これらは全部思考が考えだすアイデアです。思考の世界には情熱はないのです。思考が抜け落ちた瞬間情熱が溢れてきます。にも関わらず思考を駆使して天職、情熱が湧く分野、本気になれる仕事は何か?を考えるのですからこれは苦しい道のりになります。思考でやりがい、情熱、生きがい、、、これらを探すのは辞めることです。思考というものを完全に無視して取り除いて、、いかに無心、無我に入るかだけに集中していくとその状態が答えに引っ張ってくれます。無我が全部教えてくれます。

宇宙が行う能力は実は私のモノ

自然治癒力は自分の力

なぜこの私は強い者に惹かれるのか?強いボクサー、強いアスリート、強い政治家、強い実業家、、、とにかくこの私は強い存在に憧れます。それはそもそもこの私とは全宇宙でありこの世の全ての力だからです。自然治癒力、血液を回す動き、消化から排泄、とこの体の中で行われる全ては自分の力でありさらに太陽、地球の自転、公転、大気の流れ全てを動かす力こそが自分です。だからこそ人間という自覚を持ちながらもあらゆる強さに憧れるのです。

この私が行うことは自覚できているだけ

この私が行うこと、例えばこのブログを書き、読書をし、仕事をし、会計をし、生活を回す、、、このことを自分の力であると我々は思っています。ですがこれは自由意志が及ぶ範囲のことを示しています。本当はこの自由意志が及ばない全ての行為が自分の行為です、その中のごく一部、自由意志が働く分野のみを自分の力であると錯覚するのがこの人間です。だからこそ違和感を感じ力強い者に憧れを抱き続けるのです。本当はそうではなく宇宙が行う全行動、全能力こそが自分の力です。この体が行う、しかも自由意志の範囲で行う行為はその極々一部ということになります。しかしこれも私の能力の一部です。

何を達成しても満足できない理由

過去のオリンピック金メダリスト受賞者の中でも自殺者が居るかもしれません、、、金メダルを受賞するぐらいの達成をしても満足できないのがこの人間です。なぜかと言えば金メダルを受賞する以上のこと、この地球を自転させる、公転させる、気温を保つ、海流を動かす、万物の全行為を動かしている存在こそが自分でありだからこそ金メダルを獲得するぐらいでは満足できるわけがないのです。万物を動かす存在がこの体、心を自分であると意識することがこの人間活動です。人間として幸福になる、人間として安定する、人間として歓喜を味わう、、これらが全て刹那的、一時的、短絡的なのはそもそも自分が人間でないからです。

自我生存戦略

思考を使わなくてはならないことを用意する

自我とは思考です、今思考をいつしか自分であると勘違いするのがこの人間です。体も勿論ですがこの思考こそが最も自分を自分たらしむモノではないでしょうか。思考が湧けば自分の存在を強く強く感じることができるはずです。このために自我は思考が湧くことを積極的にします、周囲に問題を作る、自分に問題を作る、、、こんな調子で自分には解決しなくてはならない問題が山積みであるという流れです。思考を常に使い倒し解決を図っていきます。思考を使えば使うほどに自分を意識できるはずなのです。

思考を使わない状態を知ってしまった時の自我の反逆が一番怖い

私自身思考を使わないで物事を達成できるようになったのは中学生の頃です。高校受験の塾に通うことでそこでの勉強が無我に入り込めないとこなせない程のハードルの高さだったので獲得しました。無心、無我に意識的に入り込めるようになりその状況で受験勉強に取り組むという感覚を獲得したのです。そこから全部が全部そのやり方で物事を習得していきました。すると自我はそれをできる自分を特別視するようになりある種傲慢になっていきました、他人と同じ評価などツマラナイ、、終始こんな感じです。自分は特別な存在なのだという強い優越感を持つようになりました、これは人間関係を結ぶ上で非常に大変になっていきます。社会人になってもこれは続き、何か私にとって特別な仕事があるはずだ、なぜならば自分は特別なのだ、、、という思考はフルスロットルで湧いてきます。会社を辞めて起業独立した自分はそこで自分は特別であるという深い満足感を得ました、ですが日常はいつも同じことの繰り返し、やはりこれでは自我は死んでしまいます。そのため自我は次々に目標を自身で打ち出しそれをこなしていくように自身を仕向けるのです。私は途中からこの目標設定には終わりがないことを悟りました。どれほど難しい問題をクリアしても翌週にはもっと難しい問題、目標をクリアしようとする自分が居るのです。目標中毒のようなモノです。

それでも思考を使わないで目標を達成し続けた結果

それでも次々に目標を無我の状態に入って達成していった結果、私は次第にこの目標地獄を終わらせたいと思うようになりました。自我存続のために目標を追い続けるのはごめんだ、そんな感情が湧いてくるようになったのです。そこで私は次の目標は悟りを開くことに決めたのです。自己実現ではない、自己超越だということです。ここを本気で取り組まない限り延々と目標達成をし続ける人生になってしまうという絶望です。自我は自我存続のために次々に自身の目標を設定してきます。ですがこのラットレースは終わりがないため疲れるのです。こうして私は今悟りにまつわる様々な文章を描き続けています。このチャレンジは自身にとっての自己超越チャレンジになります。

思考が湧いてくると自我は安心する

なぜならば思考が自我の栄養分だから

自分とはこの思考のことです、大いなる一つがこの思考を自分と勘違いしてこの自分ゲームはスタートしました。ですから思考が湧いていないと自分が居ないことになります。思考が湧いている時だけ自分が居ます、思考が湧いていないと自分が居ないのです。自分がいつもいつも居る人は常に苦しみを味わっています。なぜならばこの自分の存在は大いなる存在という本来の自分ではないからです。本来の自分で1日のほとんどを過ごさない時人は人生を苦しいと感じます。なんとかしてこの自分を味わわないように家族を作ったり趣味を作ったりと常に何かしらの対象を外に作りそこに向き合うことで自分を忘れないように大いなる一つは工夫します。一人で部屋にじっとして居れば延々と思考のループがめぐり人は苦しみの中で過ごすことになるのです。

自分は存在していたい

自分というこの存在は大いなる存在にとって大変重要な存在にはあります。ですがこの自分という状態で居続けるのはとにかく疲れますからあの手この手を使って疲弊しないように工夫します。子供がゲームばかりをやりたがるのはゲーム中は思考が止まり無我になることで楽だからです。子供はゲームという武器を手に入れたらなかなか手放さないのは楽しいというだけではありません、苦しみが湧いてこないからです。ここに既に答えはあるのです。仕事がなぜ苦しいと言えば思考が止まるほどに集中できないからです、面白くないから。ですから思考が止まるほどに集中できる仕事を見つけてしまえばそれで終わり、そこからは無我でずっと居れます。ですがここでも注意点が、自我は思考がない状態で居続けると消滅してしまいますからなんとかして問題を生み出して無我から主導権を奪いにかかるのです。

自分はいいが周囲に問題がある

自分自身は無我に入れることで平和を手に入れることができた。だが周囲はそうでないから問題ばかりを作ってくる、これが第二の試練です。このまま無我の状態のままで居れば自我は消滅してしまいますからなんとかして主導権を奪い返したい、、こうなります。すると簡単な手口が、、、無我に入れない人間を見つけ出して問題化するということです。周囲に無我に入れない人間を探し出し問題視してそこから思考フルスロットルを作るのです。こうして自我は存続を図るということです。

優秀な社長が部下を問題視する

多くの場合社長になれるような人は仕事に集中することで無我に入り込める人です。集中できなければ結果など出ないですから当然これをできます。このまま行ってしまえば自我は消滅します、このため自我は次の手口を考えるのです、「部下に問題がある」このパターンを無理くり作り出すのです。自我は自身の存続のために周囲に問題がある人を無理くり作り出すことでその解決に思考をつかわせるのです。これで自我は延命措置に成功します。自分自身の中に問題がなくなってしまった人には周囲を問題化させて自我は存続を図っていくのです。

イチローはこのパターンに陥った

シアトル・マリナーズ時代のイチローでは活躍後周囲との人間関係がおかしくなっていきました、フロントに対する不満、チームメイトに対する不満を頻繁に話すようになりました。本来であれば自分自身があれだけ活躍できているのだから問題は特にないはず、、自身の存在自体がチームを引っ張っているに違いないからです。ですがそれでは自我は消え去ってしまいます。問題が何もないからです。ここで自我は周囲を問題視することで存続を図るのです、周囲の人間が何もわかっていないという判断を下しそこに注視することで思考フルスロットルを無理くり作り出します。そして周囲は周囲で自我との格闘があり思うようにいくわけがないのでそこから苦しむことができるのです。

口に出して独り言を言うか、頭の中で独り言を言うか

口に出して独り言を言えば精神病

例えば電車の中でひたすらに独り言を言っている若者を見たら精神病ではないか?と疑うはずです。なぜならば彼は自分が独り言を言っているのに気づいていないからです。独り言の多くは自身には自覚がなくそれゆえ周囲からは病的に見えるのです。病院で診断を受ければ病名がしっかりとつくでしょう。ですが頭の中だけでグルグルと回る独り言、これは周囲は気づきません。そうなるとその人は病院に行かない限り自分を病人だと気づかないと言うことになります。現代人はこの頭の中での独り言を半端なく言っているのではないでしょうか?悟りの観点から説明すればこれは機能不全、負の感情自然発生状態です。

独り言がグルグルと頭を回れば要注意

頭の中をグルグルと思考が回るのが何が悪いのか?その前になぜ頭の中をグルグルと思考が回るのか?と言う話です。結論から説明すれば負の感情を一生懸命思考で解消しようとしているのです。明日の仕事に行きたくないな、、、この感情が湧いてきたらどうしたら解決できるか?あの上司が悪いのか?自分が悪いのか?仕事のやり方を変えて見たらどうだろう?いっそのことを転職をしてみたらどうか?このように思考がグルグルと巡ります。昨日散々考え回したのだからなぜ今日もそれ行っているのか?これは絶対に考えません、なぜならば今日も間違いなく負の感情が湧いてくるからです。それをなんとか解決しようと精一杯なのです。思考がグルグルとめぐれば回る回転数に比例して負の感情が湧くという地獄のスパイラルに人間は簡単に陥ります。

口に出して独り言を言うまでこれは続く

思考の暴走を一旦許したら最後、、精神病になるまでこの思考回転は続いていきます。負の感情は延々と沸き続けそれを解消すべくさらに思考がグルグルと回転を始めます。回転数が増えれば増えるほどに自我が強固に肥え太りさらに負の感情が湧くという地獄ループです。真面目な人ほどこのループにハマりやすいのは考えて解決を図らなければという責任感からです。能天気な人、考えるのが苦手な人はこのループには入りにくいモノです。負の感情は思考の活動、自我の活動こそが湧かしているという事実をいかに早く見つけるか、そして一旦それが分かったらもうこのループに入らないことです。

幻の認識は幻の終わり

我々は真実をただ認識すればいい

「この自分は間違いなく居る」これは自我が作り出した錯覚のメカニズムです。このメカニズムをいかにしたら脱却できるか?探求者は自我の存在を知りながらもではそうしたらこれを脱却できるかに心酔します。幻の真実はそれを幻と見抜いた瞬間なくなるということです。つまりこれは幻であることを体現するほかありません。知識のレベルでこれをいかに知ったところでそれは知識であって概念です。お寿司とはこういう味だ、、、こんな情報を1万回聞いても本当のお寿司の味は理解できません。悟りもこれと同じ先ずは体感し自我が幻であることを理解するほかありません。

大ピンチの状態、、、自我が抜け落ちる

突然の交通事故、街での喧嘩騒動、隣家の火事、震災、、、こんな非常事態に実は人間は楽になっています。急に頭が軽くなり気分が晴れているのを知っているでしょうか?火事場の糞力ではないですが緊急時とは普段の数倍の力が出ます。この状態は思考が抜け落ち自我が抜け落ち無我、ワンネスの状態です。スポーツ選手ならば知っているはず、余談を許さないような試合中いつもは重苦しい頭が劇的に冴えている、、これが無我です。この状態は誰でも知っているのです、ただこれを意識的にできない。なぜか?それこそ自我の妨害です。

毎日積極的に無我になることで幻は消えていく

無我の状態の気づきとは、、普段は自我が気分を視界を重くしていたんだな、、です。自我がただ不平不満、負の感情を湧き出させていたのだなという絶望的な気づきです。この気づきを積極的に行っていきます。積極的に無我に入っていくのです。全ての作業、全ての仕事、全ての会話、全ての雑事に対し無我で取り組むのです。もしくは負の感情が湧いてきたらそれを集中して観察します、積極的に負の感情を観察する観察者になるのです。そこから無我に入ります。人間活動の全てを無我への入り口に変えるのです。その時に気づくのは自我こそが人間を苦しませていたのだな、、というジョークです。

生きる喜びを知って死ぬか、知らずに死ぬか

真の生きる喜びを知って死ぬ

真の生きる喜びを知っている人はほぼいません、多くの方は形やモノ、名誉、安定、名声、お金など、、、、外的要因に喜びの価値を置きそれを手をかえ品をかえ続けてなんとか死ぬまで生きていきます。内部的要因に本当の生きる喜びがあるとは知らず延々と外にそれを追い求めて死ぬのです。もしもその喜びを知ることがあるとすればそれは死んだ時ということでしょうか。

真の生きる喜びは何かに集中し無我になるか、感情観察に集中して無我になるか

真の喜びは時間の中には存在しません、時間を超えた場所にそれはあります。人間という形を所有しながらこの時間の枠を超えることは実際にはできないので人間を活用して真の喜びを得ようとする試みは全て悲惨な結果に終わるのです。私が家を買う、私が結婚する、私が収入が上がる、私が名声をえる、、、主語に私がついている時点で時間という枠の中での収穫になります。これらの収穫物は時間と共に満足感が消し去っていきます。真の喜びとは時間外にありますから私の不在時にこれが起こるのです、、、家を買うために仕事に集中する、結婚するために自分磨きに集中する、収入を上げるためにビジネス研究に集中する、、、これら集中行為時には自分というものが抜け落ちます、自我が抜け落ちます、、、すると無我が出現します。もしくはこれらの目標達成に向けて様々な感情が湧いてくるとしましょう、、辛い、しんどい、疲れた、寂しい、、、この感情をしっかりと観察します、集中して観察します、思考の介在を許さずに集中するのです、、、するとそこから無心、無我に入っていきます。無我になった状態、この状態こそが真の生きる喜びがなだれ込んでくる時です。

人間には人参などいらない

馬を走らせるには人参が必要になります、人参無くして馬は走りません。ですが人間は違います、最初は人参を追いかけて走っていたつもりがその状態から無我に入り走ること自体が最高の喜びになります。これが悟りです。最初はローン返済のために頑張って働いていたのが働くことに無心になりそこから生きる喜びが溢れてきます。辛いという感情が道半ばで湧いてきたならばその感情を集中して観察することでそこから無我に入れます。人間とは実はどのタイミングからでも悟り、無我に入りこめる生物なのです。全体(悟り)は人間を作り出し生きる悟りを創造しました。