生きる喜びを知って死ぬか、知らずに死ぬか

真の生きる喜びを知って死ぬ

真の生きる喜びを知っている人はほぼいません、多くの方は形やモノ、名誉、安定、名声、お金など、、、、外的要因に喜びの価値を置きそれを手をかえ品をかえ続けてなんとか死ぬまで生きていきます。内部的要因に本当の生きる喜びがあるとは知らず延々と外にそれを追い求めて死ぬのです。もしもその喜びを知ることがあるとすればそれは死んだ時ということでしょうか。

真の生きる喜びは何かに集中し無我になるか、感情観察に集中して無我になるか

真の喜びは時間の中には存在しません、時間を超えた場所にそれはあります。人間という形を所有しながらこの時間の枠を超えることは実際にはできないので人間を活用して真の喜びを得ようとする試みは全て悲惨な結果に終わるのです。私が家を買う、私が結婚する、私が収入が上がる、私が名声をえる、、、主語に私がついている時点で時間という枠の中での収穫になります。これらの収穫物は時間と共に満足感が消し去っていきます。真の喜びとは時間外にありますから私の不在時にこれが起こるのです、、、家を買うために仕事に集中する、結婚するために自分磨きに集中する、収入を上げるためにビジネス研究に集中する、、、これら集中行為時には自分というものが抜け落ちます、自我が抜け落ちます、、、すると無我が出現します。もしくはこれらの目標達成に向けて様々な感情が湧いてくるとしましょう、、辛い、しんどい、疲れた、寂しい、、、この感情をしっかりと観察します、集中して観察します、思考の介在を許さずに集中するのです、、、するとそこから無心、無我に入っていきます。無我になった状態、この状態こそが真の生きる喜びがなだれ込んでくる時です。

人間には人参などいらない

馬を走らせるには人参が必要になります、人参無くして馬は走りません。ですが人間は違います、最初は人参を追いかけて走っていたつもりがその状態から無我に入り走ること自体が最高の喜びになります。これが悟りです。最初はローン返済のために頑張って働いていたのが働くことに無心になりそこから生きる喜びが溢れてきます。辛いという感情が道半ばで湧いてきたならばその感情を集中して観察することでそこから無我に入れます。人間とは実はどのタイミングからでも悟り、無我に入りこめる生物なのです。全体(悟り)は人間を作り出し生きる悟りを創造しました。

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