ノンデュアリティ

最大の執着は最大の感情回収ポイント

執着とは個人から感情を回収する最強ツール

例えば見かけ上の私は「活躍したい」という執着が強い人間でした、ですから願望実現系の書籍を漁るように読みまくりましたが全然思うような結果に恵まれませんでした。この執着のために20年以上の歳月を傾けたのではないでしょうか、、この執着は究極的のこの見かけ上の自分からあらゆる感情を回収できます。「悔しい、苦しい、もう少し、妬み嫉み、」この感情こそが全体が回収したい感情集です。この見かけ上の私だからこそ回収できる感情なのです。

願望実現は見かけ上の「私」を苦しませた

別に活躍なんかしなくても気にしない、、そのような上っ面の我慢をしても「目指したい存在」「羨ましい存在」」が見かけ上次々に登場し「見かけ上の私」を煽ってきます。その結果やっぱり活躍して周りから評価されたいが込み上げてくるのです。そこ感情をコツコツ全体が回収していきます、アザーすといった感じで。この執着感情収集システムは気づきが起きるまでエンドレスに続くのです。そしてようやくそこから抜けるポイントになったのがノンデュアリティスピーカーと呼ばれるこの見かけ上の人々のメッセージでした。

どうやら答えはこれだぞ

これらの人々のメッセージを聞いても全く理解できないのですが「これが答えなんだな」という思考は見かけ上の私から湧いてきました。だからそこからは滝に打たれるようにこれらの人々のメッセージを聞き続けたのです、見かけ上。そして徐々に徐々にこの見かけ上の私にこれらのメッセージが染み渡り今このブログを書いています、見かけ上。全体が今この見かけ上の私が全体に気づくという経験をさせていると感じています、実際には全体からこの私の中に閉じ込めらているという錯覚が起こり次にこれが錯覚だったという気づきが起こり始めています。見かけ上の私など最初から居なくこれはただの3D映像であったという気づきです。

この事実を伝えなければならない相手は居ない

自分がそれに気づいたとて

悟りの勉強は面白い、ノンデュアリティメッセージは突き刺さる、、すると多くの人はこれを周囲の人間に知らせたいという衝動が起きたりします。ですがこの衝動は放っておいて大丈夫です。なぜならば知らせたい周囲こそがただの現象、3D映像、五感で感じる蜃気楼ですから教えたところでその事実は何も変わらないのです。そして相手には相手の人生があると本気で思っているかもしれませんがその人の人生は存在しないのです。

「スーパーマリオ」はあっても「スーパーノコノコ」はない

あなたの体はマリオでそのマリオの人生は「スーパーマリオ」と呼ばれています。ではマリオの脇役でちょいちょい出てくる「ノコノコ」にはノコノコの人生はあるのでしょうか????実際にはこのノコノコの人生「スーパーノコノコ」は存在しないのです。もしもノコノコの人生が在るとしたらマリオが見ていない場所でもノコノコの活動が続くことになります、ですがそのじような事実はないのです。ノコノコはマリオが画面の中心にいる場所の脇でたまに登場するしか存在できないのです。つまりノコノコは画面から外れると空、ゼロに戻っているのです。

ノコノコに感情が有るならば、、その場で全体が回収している

マリオはゲーム上、ノコノコを常に踏みつけ殺していきます、その際にノコノコは表面上痛そうな表情をして死んでいきます、ですがこの時ノコノコの中で悔しい、モドカシイ、残念無念!という感情は湧いているでしょうか?湧いていません。もしも湧いているならばその感情をTV画面は回収しているはずです。TV画面上でその感情を回収できます、マリオはその感情を認識できないのは当たり前としてゲーム本体は必ずこれを回収します。ですがそれが無いのです。なぜ言い切れるか、、マリオの感情を回収し、それを認識している存在こそがゲーム本体だからです。????ということは普段マリオが感じている悲しい、辛い、ムカつく、は、、マリオ(自分)ではなくゲーム本体が感じているのです。私が感じているつもりだった「悲しい」、「孤独」「妬み嫉み」「嬉しい」「楽しい」は、、、ゲーム本体が受け取っていたのです。つまり「私」はマリオの中に居るのではなく、、ゲーム本体だったのです。

私がゲーム本体ならば、、空ではないか、、、

私がゲーム本来ならば、、、私はこの現象界を現象化する空であり、ならば現象界そのもの色ではないか、、、その通りです。つまり現象界そのものであり、この現象を湧き出す存在なのです。ゲーム本体です。ゲーム本体であなければマリオの感情は回収できないのです。そしてこのマリオ(かつての私)を主人公にしたこのゲームはマリオのためだけに存在しておりマリオ(かつての私)オリジナルゲームです。ですからこのゲームには私(ゲーム本体)しか存在しておらず大いにこれを独占して遊び尽くせばいいのです。周囲の批判が怖い、周囲の評判が怖い、、、残念!!!周囲に居ると思われている人々(映像)には感情すら湧いていません。

非二元では混乱する

主体客体

非二元という言葉は分かりやすいようで分かりにくい、、、主体客体の世界、、要は生命現象の中に別々の存在があると信じるか、ないと悟かの話なのです。そうです我々は生命現象に名前を付けるまでは主体客体、「私とあなた」「俺とお前」など一切ない世界に居たのです。これがノンデュアリティー、非二元、悟りです。恐ろしく単純な話です。悟りとはもともと名前がなかったたった一つの世界が広がっているだけ、、に気づくことなのです。

幼児はみんな知っている

名前を覚える前の子供は全員知っています、というか悟りの中にいます、というか悟りしかありません。なぜならば名前がない世界に居るのですから、そしてそこには自分が居るという発想もないのです。これが悟りです。こんな簡単なことなのか???そうです悟りとはこんな簡単なことなのです。悟りを難しく「考える」のは難しく考えないと簡単に見つかってしまうからです。

悟り、覚醒、一瞥体験、覚者

スピリチュアル用語では様々な言葉が使用されますがこれらは全部事実を逆に難しくするのです。こういった言葉を使うことで思考は悟りをどこか遠くの場所に押し込めようとするのです。幼児は全員が悟っていて全く難しいことではない、難しい言葉を覚えて悟りを奥深くに押し込んできただけです。そもそも名前のない世界に生まれた我々はいつでも元の世界に帰れるに決まっています、名前を思い出す前の一瞬は常に根元悟りが広がっておりその事実に触れるかだけです。思考が湧いてきたらそれによってドラマに入っていることを思い出すのです。この繰り返しで人は悟りに戻ります。

水に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

自分に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

幼少期のプール体験で人は誰でも水に顔を埋めれば苦しいのは分かっています。毎日顔を水に埋めるのが趣味である、、という人が少ないのは苦しいからです。これは人間も同じで自分がこの体の中に居る、この思考に埋まれば苦しさが湧いてきます。これは事実です。自分というアイデアが全く無ければ誰かに罵られても、馬鹿にされても、怒られても感情が湧いてきません、この人は何をどこに向かって叫んでいるのだろうと不思議な気持ちは湧いてくるかもしれませんが、、つまり自分が居るという思考があるから人間関係の苦しさが湧くのです。

誰も自分を評価してくれない

評価されない、もっと評価されたい、全員を振り向かせたい、、これもこの体の中に自分が居るから湧いてくる発想です。ですが事実はこの体には自分という存在は存在しないのです。むしろ本当は居ないからこそ相手をされないと不安が湧いてくるのです、誰にも相手にされないということは自分が居ないのでは?と湧いてきそうだからです。だから苦しいと分かっていても自分という思考に常に顔を埋めているのが事実です。女性が着飾るのも、男性が仕事を頑張るのもこの体の中の自分に注目してほしいからです。

その自分が悟りを開きたい

悟りを開く「自分」は最初から居ないわけですが自分を信じていれば苦しさが湧いてきますから悟りでも何でも開きたいわけです。ですがそれすらも自分が悟りを開くのだという思考を信じている間は悟りは開きません。この自分が記憶によって作られた思考であると見破らないと。見破ることが悟り、目覚め、覚醒です。目覚めるのは自分ではありません、この自分が記憶に依存した思考であると根源が気づくことが悟りです。主人公が私(思考)から根源(事実)にシフトすることがノンデュアリティーです。

最後はテクノロジーが人間を解脱させるのか??

テクノロジーの進化が解脱を生み出す

マトリックスという映画の大成功、ポケモンGOなどのリアリティーを取り入れたゲーム、バーチャルリアリティー、グーグルグラス、、、、あらゆるテクノロジーが人間というシステム、脳が作り出している世界に類似した世界を作り出します。テクノロジーが脳の機能をまるで模倣しているかのようなゲーム、ソフトが日々誕生していきます。悟りの学びをしてきた人間からするとこれってもう答えだよね、、という驚きです。

今までも人間を驚異的に変えたのは技術

考えてみれば産業革命が起こり人間の生活は圧倒的に変わりました、そして次が今起こっているIT革命、そこからのAI革命、、恐らく今回の技術革新は人間を悟らせる、解脱させるとこまでいくのではないか???そんな感覚を強烈に覚えます。バシャールが言うにはテクノロジー改革はハイアーマインドの物質化とのこと、、これも理解できます。オーバーソウル、集合意識との繋がりが強固になってくるとそこから情報が降りてきます。自我という思考の分断が緩めば全体との繋がりが強固になります。IT革命は人間としての生活を大きく変えていきますから自我の緩みを生み出す可能性があります。

悟り、ノンデュアリティがYahooニュースに載る時代が来るかも

YOUTUBEの視聴回数などを見ていても悟り、ノンデュアリティに関する動画の再生数はそれほど多くはありません。まだまだ世間のこの分野に対しての理解は少ないようです。これからどれほど技術が進みこれらの分野に対する関心が増えていくかが楽しみです。

五感の感覚だけを感じて1日を過ごす

五感の実況中継

我々は既にノンデュアリティの世界に生きています。と言うよりもノンデュアリティしかこの世界にはありません、そこに思考が湧き出しそこにしがみつことで思考の世界に取り込まれていく「自分」が作り出されそのまま思考の世界を生きることになります。どちらも幻想です。その幻想の世界が苦しいので人はこの世は苦しいとなるのです。自ら思考の世界に張り込み窒息しようになっています。

解決しなくてはならないことがある、、、

とは言え解決しなくてはならない問題がある時はどうするのだ?何も思考しなければ問題は解決しない、、、それを理解して思考を使っていることに自覚的であるならば問題ないでしょう。ですが多くの方は考えるのがデフォルトになり常に考え続けています、考えていないと不安だと言わんばかりに。結局は思考に取り込まれ続けています。思考に取りこまれれば非二元から離れていき苦しくなっていきます、結果苦しいからまた考えるのループに入るのです。

五感だけに触れていく

それが分かればもう簡単です、五感だけに意識的に触れて行けばいいのです。五感の感覚を自ら実況中継して五感の感覚に思考を挟み込まない癖をつけていきます。こんなアナログなこと?そうです。こんなアナログなことなのです、思考は常に入り込む隙間を狙っていますがそこに隙間を与えない、、こんなアナログな行為の連続で思考がない世界の心地よさを思い出していきます。その心地よさの先に非二元がいつでも横たわっています。その世界は平和、歓喜、安堵の世界です。

ノンデュアリティしかない

ノンデュアリティしかない世界に個人が現れた

個人とは思考のことです、思考が無ければ基本今もノンデュアリティの世界が広がっています。するとこの個人は存在理由がなくなってしまいますから思考を湧かしてそこにしがみつき個人を主張します。すると自然と世界が重苦しくなっていきます、そこで思考の出番です、この重苦しい世界、人生をいかにするかと思考がフル回転するわけです。そしてまた重苦しさが続きます。思考とはノンデュアリティの世界に個人を作り出し重苦しさを生み出す母なのです。

思考を放置すればいつでもノンデュアリティ

思考が湧いてきたら放置する、思考が湧いてきたら放置する、、、これをしているとこの世から自分が居なくなります。すると不思議なことにこの世が軽くなっていきます、、、自分が居ない世界が軽いとは何事か???ですがそもそもがこの世はノンデュアリティしかなく軽さでしかないのです。そこに自分が突然現れ重苦しい世界を創造しました、、その大元こそが思考です。だからこそ思考を放置していると世界は軽くなっていくのです。

五感に集中する

人間の五感は今しか機能しません、今飲んだビールがあとで味がする、、そんなことはあり得ません。と言うことで人間の五感は今にしかなく、、、この今こそがノンデュアリティです、無心無我です。五感を感じる瞬間思考は機能しません、だから思考は五感が働いた後に湧き出しそこからの乗っ取りを企てます。ですがそこに乗らなければひたすらに五感の世界が続きます、つまりノンデュアリティ、今、無心、無我が続きます。そこは平和、歓喜、安堵の世界です。

思考が思考を呼び、五感が五感を呼ぶ

考えれば考えるほどに泥沼に入る

多くの方はこれを経験していると思います。バイトを辞めたくなってきたときなどバイトのことを休み中も考えてしまうようになる、、するとバイト中もバイト外もそのことばかりを考えてしまって、、、重くなって重くなって急遽辞める、、、物事の終わりってだいたいこんな感じです。バイトが楽しい時は楽しいから考えたりしない、夢中になっているから、、、だから休み中も特にバイトのことを考えずにいられる、、結果重くならない、、、

非二元、ノンデュアリティは、、どこにある?

日々の生活の中で思考を意識的に放置することを学びますと、、、思考に支配されない、、、すると日々の生活は五感のみに、、、五感とは徹底的に無心の世界、無我の世界です、感じるいうことに「自分」は必要ないからです。ただ感じるだけがあるだけ、、、音楽が流れる、友人との会話がある、スポーツを感じる、、感じるだけ、、、するとそこから無心無我に馴染んでいきます、大なる一つ、非二元が馴染んできます。思考が思考を呼び重くなり、五感は五感を呼び軽くなる、無心無我の世界です。

無我が思考を忌み嫌うまで、、、

本当に無心無我に馴染んでいきますと、、もう思考に対して違和感を感じるようになっていきます。思考のバイブレーションが合わなくなっていくのです。無心、無我、ワンネスのバイブレーションに馴染んで行くと思考のバイブスに違和感を感じるようになります。このためにはひたすらにどちらに馴染む癖をつけるかです。先ずは最初の一歩からです。

ノンデュアリティの革命

金森将さんはノンデュアリティの革命家

私は日本人の非二元スピーカーを何人か注目していますが金森将さんはその中の一人です。彼の理論はとてつもなくシンプルでありながら誰でも実践できる理論を打ち上げています。この日常生活から非二元に触れるというモノです。瞑想をするでもなく思考観察をするでもなく花道など何かに集中するでもなく、、、日常生活にただシンプルに触れていくという画期的なメッセージです。ですがこれは真理を突いており素晴らしいアイデアです。

非二元を日常で触れ続けることで非二元を理解する

日常生活において非二元とは何か??それはこの体が五感で感じる瞬間です、朝起きてコーヒーを飲む、音楽が耳に入る、小鳥の声を聞く、青空を眺める、、シャワーが肌に触れる、、、、この全てが非二元です。つまりこの体に在るということ、体の感覚に今この瞬間在るということを実感する、、、この体の感覚こそが今ここに在るということ、非二元です。思考を放置してこの体に在り続ける、、、そして非二元に触れ続けることでそのまま非二元に馴染んでいく。。。禅などはこの手法をとるのかと思いますがこれを日常生活のあれこれで実践できるということが素晴らしい。

思考を放置

思考が湧いてきてもただ放置する、、、そこに関わらない、、無視を決め込むのでもなく、、、ただ放置する、、そして再び五感での体感に注力する、、、そこから非二元を感じる、、、非二元の素晴らしさが分かってくる、、、非二元になる、、、周りくどい説明は一切抜きにしてただ非二元に近づいていく、、、言葉や概念から非二元を理解するのではなくあくまで感じていく、、、ノンデュアリティの革命です。

何一つ否定するものがない=ノンデュアリティー

否定するためには否定する対象が必要

何かを否定するためには先ず否定する「自分」が必要になります。さらに否定するための「対象」が必要になる。そして否定する対象があるならば肯定する「対象」も必要になる。こんな具合で否定とは分離世界でしか成り立たないということです。つまり否定をしている時点でそれはノンデュアル、非二元ではないということになります。非二元とは「対象」となる分離した存在が何もないということです。非二元を生きるとは対象が何も無い世界を生きるということになります、つまり完全なる一なるエネルギーそのもになるということです。これが究極の悟り、大悟です。

何十年間分離を学んできたのだから

我々は生まれてきてからひたすらに分離を学んできました。物に名前を付けてひたすらに分離を続けてきた、、結果相当数の名称を覚えその分だけこの見える世界は分離を極めたのです。何十年間かけての分離マスターです。そしてそれに辟易したならば、、融合マスターになればいいのです。融合マスターとは悟り、覚者です。徹底的に学んできた名称をカテゴライズしていき俯瞰していきます、俯瞰して俯瞰して情報が整理されていきますと、、つまり情報が融合されていきますと、、最後はたった一つのエネルギーに見えてきます。たった一つのエネルギーが秩序を持って最高のアートを描いていたのが理解できます。目の前に常に最高のアートが現れた状態になります。

分離マスターから融合マスターへの道

悟りを目指すということは単純に融合マスターを目指すことになります。これまで学んできた情報の究極の整理です。「要は、、」「端的に言えば、、」「とどのつまり、、」情報を伝えるのが上手い人は必ずこれをします、、分かりやすい説明とは、、情報の整理のことです。このマスターになっていくのです、、、悟りを目指すとはこのことです。覚者は、、、見ている世界をそのまま表現しますが、、、あれを理解できたら苦労はしない、、、我々分離世界を生きている人間は徐々に情報を整理していくことで同時に見ている世界を整理していきます。情報整理、情報融合の行き着くところは悟りです。