水に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

自分に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

幼少期のプール体験で人は誰でも水に顔を埋めれば苦しいのは分かっています。毎日顔を水に埋めるのが趣味である、、という人が少ないのは苦しいからです。これは人間も同じで自分がこの体の中に居る、この思考に埋まれば苦しさが湧いてきます。これは事実です。自分というアイデアが全く無ければ誰かに罵られても、馬鹿にされても、怒られても感情が湧いてきません、この人は何をどこに向かって叫んでいるのだろうと不思議な気持ちは湧いてくるかもしれませんが、、つまり自分が居るという思考があるから人間関係の苦しさが湧くのです。

誰も自分を評価してくれない

評価されない、もっと評価されたい、全員を振り向かせたい、、これもこの体の中に自分が居るから湧いてくる発想です。ですが事実はこの体には自分という存在は存在しないのです。むしろ本当は居ないからこそ相手をされないと不安が湧いてくるのです、誰にも相手にされないということは自分が居ないのでは?と湧いてきそうだからです。だから苦しいと分かっていても自分という思考に常に顔を埋めているのが事実です。女性が着飾るのも、男性が仕事を頑張るのもこの体の中の自分に注目してほしいからです。

その自分が悟りを開きたい

悟りを開く「自分」は最初から居ないわけですが自分を信じていれば苦しさが湧いてきますから悟りでも何でも開きたいわけです。ですがそれすらも自分が悟りを開くのだという思考を信じている間は悟りは開きません。この自分が記憶によって作られた思考であると見破らないと。見破ることが悟り、目覚め、覚醒です。目覚めるのは自分ではありません、この自分が記憶に依存した思考であると根源が気づくことが悟りです。主人公が私(思考)から根源(事実)にシフトすることがノンデュアリティーです。

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