気づきの意識

機能としての自分を生きる

自分とは機能

悟りを開いたから、、、この個人とは全く無縁に生きていく、、これは不可能です、、、名前としての自分、機能としての自分は存在します、、、この夢の中で。交通違反をして警察官に呼び止められているにも関わらず「自分は居ないから」と言って逃げれば捕まります。機能としての自分を果たしてしっかりと違反切符を切ってもらう方が楽です。つまり機能としての自分はしっかりと果たしていくことになるのです、夢の中で。

どんな機能を果たしたいですか???

思考が湧いてもただ全体から起こっただけ、行動が湧いてもただ全体から起こっただけ、、このように気づきの意識の立場で言動の観察を始めますと、、、空白の時間が増えていきます、、、、自称自分に全く邪魔されない時間が増えます、、、役割を果たす時間が増えていきます、機能としての自分を果たす時間が増えていくのです。その時に中から湧いてくる衝動こそが気づきの意識そのものの衝動、機能としての自分をいかに果たすかの衝動です。

全ては自分の捉え方次第

この個人絶対的に存在すると考えますと、、、思考の波に飲み込まれていきます、、、思考はこの個人の損得のために一日中フル活動しているのです、、、、これが個人で生きている人たちの苦しさなのです。全部の言動はただ全体から湧いている、、このような視点で言動を観察しますと、、、思考が湧いてこなくなります。。。思考は観察されると静かになるのです、、、その結果機能としての自分が果たす役割が増えていきます、、この状況は深刻さがなくただ楽しいが湧いてきます。

私は在る、、以外は全部観念

この意識以外は観念

気づきの存在、私は在る、、、というこの感覚以外は全部観念です、、、あらゆる思考は全て観念です。この体の中に自分が居るという大前提での思考は全て観念です、、、この神羅万象は私は在るの中で繰り広げられ、、人間ドラマを作り出しました、、、、そのドラマに気づき続ける存在が私は在るという気づきの意識です、、、本来はたった一つのエネルギーが神羅万象として動き続けるだけです。

人間たるもの、、、

人間たるもの、、、法律はしっかりと守った方が良いよね、、お金のことはしっかりした方が良いよね、異性問題はトラブルよね、、、全部観念です、、神羅万象の動きの一つです、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません。人間という個別分離した存在はそもそも居ません。ですから人間が居るという大前提の思考は全て観念です、真実ではありません。ただしその観念も神羅万象の一つです。

観念に良否はない

神羅万象の動きである観念に良否などは全くなく、、、ただ動きとしてあります、、、そしてそれらの全てじが観念であることを見抜き、、自己の不在を見抜き、、自分は誰かに迫っていきます、、、この人間ドラマの夢から醒め、、私は在る、、、に戻る、、、これだけが真の目的です、、、、ですがその動きがいつ起きるか???それすらも神羅万象の動き次第、、そこに関われる自己はいません。

探求も神羅万象からの起こり

探求は悪くない

個人が真理を探求する、、、その個人が真理を隠している、、、その通りです。。ですがその個人の探求もまた神羅万象から起こっておます、神羅万象の動きそのものです。ですから行動が劣っているなどは絶対にないのです。ですが個人が真理を、神羅万象全体を探しても、、見つからないというのは事実です。ですが真理、真我、への探求が起こっているという時点で何かしらの存在に気づいている真我がそこに居るのは事実です。何も気づいていないにも関わらず真我、全体、気づきの意識への探求が起きるとは思えないからです。

探求が止まらない

探求が止まらないようならばそうなのです、、、そのような人はほぼ居ませんから、、それは凄いことです。探求することに義務も要求もなく、、ただ探求は真我へと誘っていきます、、、益々真我気づきの意識が身近に感じれるようになっていきます。。。最後は真我、気づきの意識が個人の不在を見つけ、、そのメカニズムに気づきます。その時に自分、自分以外の概念が紛糾し、、真我そのものが残ります。気づきの意識そのものが残るのです。

自分と自分以外

自分が居て、自分以外がある、、、、これが我々の認識です。自分がこうだから、、自分以外がこう、、です。自分+自分以外で全部です。自分以外とはこの見える世界全てのことです、、、ところが自分という存在自体の概念が壊れ、、真実を発見しますと、、、自分が居ないことが分かってしまいます、、すると自分以外の概念がぶっ壊れるわけです、、、今までの誤認識がはっきりと分かってしまう、、気づきの意識がそこに気づく瞬間です。

「優しい」人

優しいに個人をくっつけた

無我に入る習慣がある人、、、瞑想などで無我を過ごす機会が多い人は、、、、優しい人は多い、、例えば大谷翔平選手などは性格の良さが滲み出てますね、、、、無我に入る習慣があると、、、無我に直に触れていきますから万物の真理そのものが、、大谷翔平を演じているだけになっていきます。すると優しそう、性格が良さそう、、になります。優しいのは個人ではありません、、優しさ(真我)が、、大谷翔平を通じて話をしているのです。

性格が良いを演じても無駄

性格を良く見せよう、、、この試みがほぼ失敗に終わるのは、、、優しさとは作れるものではなく、、、どれだけ多くの時間を「優しさ」そのもので居れるかにかかっているからです。真の優しさとは真我、気づきの意識そのものであり、、、それを演じるのは不可能です、、触れる、、成る、、、時間を増やすしかありません。一瞥体験で、、、真理が分かってしまっても、、、真我になっている時間を作れない方は、、、「優しさ」が先行しません。

ただ「優しさ」に触れ続ける

性格が良いというのは、、、相手に損をさせないとか、、厳しい発言をしない、、とかそういうことではないのです。毎日の中で「優しさ」(真我)そのものになっている時間が長くあるか否かなのです。。。ですから優しくなるのは不可能です、、、優しさそのものになることは可能です。性格が良い人になろうとする試みは失敗に終わります。

自分は今疲れている、、と気づきの意識が気づいた

全部が全部

全部が全部このパターンです、、気づいているのは全て気づきの意識です。私はコーヒーが嫌いだとう思考が湧くのを気づきの意識が気づいた、、、、私はりんごが好きだ、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づいた、、、、です。。。この自分は、、、どんな思考が湧いても、、、それに気づくことはできません。気付くののは全て気づきの意識です。

あの人は元気だなー、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づいた

人のことも全部コレです、、、、あの人っていっつも元気だよなー、、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づきました。あの人って性格悪いよなー、、、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づきました、、、という感じ、、、そうです、、、全部気づきの意識の中で気づかれているのです、、、、この神羅万象は気づきの意識が気づくためのステージなのです。

だとしたら、、、目の前の体調が悪そうな老人の感情は??

目の前に老人が居て、、調子が悪そう、、、そのことに気づきの意識が気づいています、、、映像として、、、ですが老人の感情は分かりません、、、そうなると気づきの意識はそこは気づかないのか???そうです、、気づきはありません。。。。え???調子が悪そうに見えているだけで実際には老人に感情はないのか???はいありません、、あれば気づきの意識が気づきますよね。。。。

究極の諦めは気楽、、、

究極の諦めです、、、目に入る周囲の人々の感情は実在していない、、、芸能人が、、、TVで謝罪会見、、、ですが感情は実在していない????例えばVTRであれば当然、、映像のみですから、、見た瞬間には感情は湧いていませんよね、、、、ですがこれが生放送でも同じことです。。。これで他人のことを深刻に考えるのが不可能になりました。

肌感覚で同価値になっていく

差別がなくなる

男には厳しく女には優しく、、、先輩には優しく後輩には厳しく、、、老人には優しく若者には厳しく、、、と相手によって態度を変えるのはまー普通のことです、、、ですが生命現象の真実に触れていきますと、、、肌感覚でそれができなくなっていきます。なぜならば神羅万象の動きに優劣はないからです。。これを頭で理解して、、、優劣をつけてはいけない、、、これは混乱します。。。そうではなく森羅万象に直に触れることで、、そうなっていくということです。

本物を知ると、、、、

無我に入る、瞑想に入る、、、このように気づきの意識、真我に直に触れる時間を増やして行きますと、、、自然と、、、物事、人物に差別ができなくなっていきます、、、なぜならば差別がない世界に直に触れているから、、、例えば学校の先生は肌感覚で生徒に優劣を付けない感覚を持っていないと難しいでしょう、、これと同じで、、、この感覚を得るには、、、真実に直に触れる必要があるのです。

偽物に触れると、、、

差別分別された、、物がたくさん在る世界は、、、ファンタジーの世界、、脳内の世界です、、、この世界はファンタジーですから、、、ここに触れれば触れるほどに、、、真実から遠ざかります。。。肌感覚でこれが神羅万象の現れであることが分からなくなっていきます。すると物事に優劣をつけ、人に優劣をつけ、比較し、上下、善悪、良否の判断が強くなっていきます。これが苦しい世界への入り口です。

瞑想で気づきの意識そのものになる

気づきの意識に目的はない

何かのために瞑想をする、、瞑想をして元気溌剌、、瞑想で願望実現、、、、、そういった瞑想の使い方もあるかもしれません、、、ですが瞑想とは自身が気づきの意識であった、神羅万象そのものであったという気づきです。集中とは、、、自分など最初から居なかったという気づきです、、、、瞑想は、、、集中とはまた違う形での、、、自己実現、、、瞑想そのものが、、、至福、、静寂です。

とりあえず、、瞑想しよう

色々嫌なことが1日中あったけど、、、とりあえず瞑想しよう、、、瞑想に帰ろう、、、です。。目を閉じて現象の世界を締め出し、、、気づきの意識そのものになるのです。。。感覚、意識だけになります、、、本当は気づきの意識しかなく、、、そこに戻る感覚です。1日に何度もここに戻ります、、、すると、、、現象界で起こる様々な事件に深刻さを感じなくなっていきます、、、これは、、、頭で考えるのではなく、、、そう感じるようになっていきます。

これが夢だと見抜いていく

これが夢だと見抜くためには真実に触れる意外に方法はありません、、真実に触れれば、、、これがファンタジー、夢であるこちが腹落ちします、、、夢だ、夢だ、夢だと、、、、1万回説明を受けるよりも、、、真実に触れる、、、真実になってしまう、、、これ以外にこれを夢だと見抜く方法はないのです。。。。何かに集中することは、、、まさにその一つ、、、そして目を閉じて、、、全く対象のない世界(ノンデュアリティ)に直接触れるのも一つです。

自由意志はないは虚無主義?

自由意志はない、、、

自由意志はない、、、これは虚無主義ではありません、、、完全なる受け身、完全なる神任せ、、、これは無気力に生きることではないんです。。。そうではなくやる気も積極性すらも全部全体、神羅万象から湧いていますよ、、ということです。。。なんかやる気が強烈に湧いてきちゃって、、、そうです、、、全体から湧いているのです。。。この事実に明晰になるのです。

どんどん明晰になっていく

全ては湧いているならばもう何も悩まずにボーとしていよう、、、まあなんでもいいのです、、、不思議なことに無駄な思考が減りますと、、、とんでもなく頭が明晰になっていきます、、、常に気づきの意識であるのですからこれは当然、、、明晰な頭脳であらゆることにチャレンジするようになります、、、本当にこれは神に使われている使徒のようです、、、そして起きた結果についても一切悩まない、、、なぜならばその行動、結果が起きただけだからです。

一番重要なことは、、、

自由意志がないことが腹落ちしていきますと、、とにかく思考が湧いてこなくなります、、、思考のラリーが起きないのです。。すると空白が空きます、、無意識の思考のおしゃべりが完全に止まります、、、するとそれらを観察する気づきの意識が現れます、、、ずっと隠れていた気づきの意識が現れるのです、、、これが目的です、、気づきの意識を引っ張り出すためにこの理論は重要なのです。思考の言動の全てを全体に委ねることで全体、気づきの意識が言動を観察するという状態になります。

悟りとは全てが同価値であることの気づき

優先順位がないことの気づき

全ては神羅万象の現れ、この自分、相手も、世界の全てもが神羅万象の現れですから、、、そこに良否、善悪、優劣は絶対にないわけです、、あったらおかしい、、、、全ては同価値、、、、これが真実です。ですがその中で生きる我々は常に優先順位を考え、、、何を優先するかを考えていきています。。。これは間違っているのか???違います、、、、本来は完全なる同価値であることを把握し、、その上で、、、便宜上、機能上優先順位を付ければ苦しくないのです。。。

全ては同価値、、、

これは本当に幸福なことなのです、、全てに価値がるという気づきは幸福です、、、自分だけが価値があり、、それ以外には価値がない、、、これは苦しい、、、悟りとは全肯定、全価値平等、、そこが分かった上で、機能上、、何かを優先して生きていきます。。。本当は全てが同価値であることが分かっている、、、この認識の有無が幸福に大きく影響します。

空に触れる

空に触れる、気づきの意識そのものになる、、、この体感が神羅万象、全てが同価値であることに気づかせます。私は何かに集中する、無我に入ることでこの体感を得ていきました、、、そして人間の全ての行為が神羅万象から、気づきの意識からただ起こっている気づきを得ました、、、この自分という存在ですら神羅万象の動きの一つであるという気づきが起きました、、、これは体感で得ていきます。

自分を雑に扱うことではない

全ては同価値であるのは分かった、、、では自分よりを他人を優先して生きていってもいいんですよね????という疑問が生まれるはずですが、、、自分を大切にしなければ、、先ず生きていくことができません、ですからこれは他者優先主義ではありません。機能としての自身を大切にしていくことになるでしょう、、、とはいえ、、、神羅万象の動きから脱して自分が何かを自由意志で行うことはありませんから、、、そこに介在できる自分が居ないというのが答えです。

声を大にして伝えるわけ

難しいものという概念こそが自我の罠

悟りなんて、、、どこか遠くのインド人が達成するもの、、、これが多くの日本人が抱く悟りのイメージです。ですが実際には悟りは決して遠い国のファンタジーではありません、むしろ超現実、現実そのものです。あまりにも身近なために自我は遠くに悟りを押し込め、、、気づかせないのです。

こんなに近くに答えがあるからこそ、、、

我々が追い求めていた悟りは、、、まさか生まれてきてこれまで常に自身と一緒に居ました、、、???遠くに押し込めようがないのです、、、完全に毎瞬毎瞬、、、もっとも近くに居た存在です、、、、光の気づき、温度の気づき、食感の気づき、感情への気づき、、、、全部に対する気づきこそが、、、悟りです。。。。そうです、、人類全員が持っているこの意識こそが悟りです。。。。全員というのが重要、、これは、、、決して体調不良、病気でも失われない感覚なのです。。。自身が体調が悪いと感じる、、この感じている感覚、、、これが悟りです。

意識だけが先ずある

朝起きて、、、意識がない、、、、ということはありません、、、体調が悪い、、、だから意識が無い、、、それはない、、、そうです、、、意識は常に在るのです、、、絶対的に、、、この絶対的な存在、、これが悟り、気づきの意識、全体です、、、、この意識を誰が所有するのか????これまでは自分が所有していると信じてきました、、、違います、、この意識が全部を所有しているのです、、、意識がこの自分も所有しています、、意識が、、、ただ意識そのものであるという気づき、、、意識の中で、、全てが起こっているという気づき、、これらが悟りです。