イメージ

思考は真実を発見できない

思考はこのストーリーの中で起きる

これが夢であり私物語であり、幻想であることを見抜く、、これが悟りです、、、そしてこの夢を作り上げたのが言葉です、思考です、、、ですから思考とはこの夢の建設請負人です、、、それゆえ思考は真実を発見できません、、むしろ思考がこの夢を絶えず建設し続けています。思考、価値観、観念こそが、、この夢の土台を作る屋台骨なのです。

気づきとはこの思考がいかに夢を作りあげるかを俯瞰すること

この個人という存在が実在する、、そしてこの個人があらゆる経験をしている、、、という圧倒的な大誤解が、、、観念を築き上げ、、、その観念に沿った現実が作られます、夢として。多くの場合、、この個人が居るという前提で思考が起きますから、、思考はこの大誤解を助長することになるのです。観念が新たにリニューアルされていきます、、するとそれに沿った現実という夢が形成され、、イメージとしての個人はそれを経験します。

夢だと気づき始めると

これが夢だという気づきが起き始めますと、、、もう思考はこの私ストーリーを助長する動きを止めます、、私という存在ありきの思考が止まるのです、、これまではこの私が実在しているという大前提で思考が湧き続けましたが、、この私はイメージ、概念、幻想であるという気づきが起きますと、、もうその延長線状の思考が止まります。

自由意志があるという勘違いが「私」への強烈な執着になる

もしも自由意志がないとなると、、

この世の住人で、、自由意志があることを信じる人はほとんどでしょう、、なぜか???この私、イメージの私、概念の私、、、を強化するためにこの自由意思という概念は非常に強力な武器になるからです。。。この自由意志を起こしているのは誰だ???私だ!!!です。ゆえに自由意志の否定は自己意識があるという設定の夢物語から強烈な拒絶反応が起きます。。。

ただ起こっている

思考も感情も、行動も、私が居るという概念もただ起こっている、全体から、、、このような認識で過ごしてみてください、、本当にそれで成り立ってしまいます、、、私というのは概念で概念が自由意志を駆使するっておかしいよね、、だとするとこの思考、感情、行動はただ全体から起こっているとしてもおかしくはない、、、今は信じられないかもしれませんが本当にこれで生活が成り立ってしまいます。

「私」がこの体を守っているという概念

皆なぜ「私」に固執するかと言えば、、この「私」がこの体を守っていると本気で信じているからです。。この私が居なくなってしまったら誰がこの体を守るのか???という話です、、、ですが本当は大丈夫なのです、、自我を俯瞰する超意識を持つことができれば、、思考を要所要所で使うことができますから、、、自我はもう必要なくなります。今までは自我意識でこの体を守ってきました、夢を現実と信じて。。ですがこれからは自我もこの世界も夢であることを俯瞰し、、夢を利用して生きていきます、、

波が浜辺で消滅した時に大海に戻る体験をする

波(個人意識)は消滅し、大海(真我)を知る

波(個人)はこの体の死を体験する時に大海(真我)に戻る体験を積みます、、、これが悟りです、、実は波ではなく大海だったという気づきです。波ではなく思考ですから、、、ただ大海である状態を知ります。個人は言葉が作ったイメージ、概念、思考ですから、、これが幻想であることを腹の底から理解しますと大海(真我)だったという気づきの体験が起きます。

究極の体験

我々(波)においての究極の経験こそが大海だったという気づきです。この気づきが起きることが悟りです、、ということでこれを完全に理解してしまいます、、自我形成(波)のプロセス、波と大海の違い、、自我(波)の動きの特徴、、波物語のカラクリ、、波としての経験が観念を作りそれが体験する世界を作り出す、、分離の世界の構築方法、、

確かに私は海だ!

知識の上での、、私は海だ!!という理解は重要になります、、なぜならば我々は腹落ちした感覚を体感するように設定されているからです、、、私は被害者だ、、これを完璧な感覚で信じていると、、被害者を経験します。。私はラッキーだ、、これを完璧な感覚で確信していますと、、これを体感します。。私は海そのもの、真我、、これを完璧な感覚で理解が起きますと、、それを体感する経験が起きます。

悟りを知る、そして体験をする

悟りとは何たるか???

悟りとは何かを感じるためには先ずはこれを知る必要があります、、、どういうことなのか???知識としてこれを知ります、、そして完全なる理解が起きますと、、次はこれを体験できるようになります、、なぜか???人はその人の観念が作り出した世界を経験するからです、、、つまり十二分に理解をしたならば次はそれをこの幻想の世界で体験できるということです、、、

この私が居ない世界がある

今までの私はこの体の中に居る私だけでした、、、ところが悟りとは、、、このイメージとしての私が本当の私ではなく、、、この世界そのもの、この現象そのもの、、そしてそれに気づく存在そのものであるという理解が先ずは知識として起こります、、本当のこの理解が進めと、、次にそれを経験するというプロセスに進みます。「あ、確かにこれは私ではない、、全部が私だという体験」

体験を起こすには先ずは理解する

我々が体験をしているのは我々の観念です、、つまり本当のところで感じている世界観、、これを我々は体験します。。。観念において悟りを全く理解していなければこれを体験することは先ずない、、ということになります。ですから先ずは完璧な理解、頭での理解、、観念に落とし込むような理解が重要になるのです。その先に、、、体験が待っています、、、そしてそれを味わい尽くした時に、、本当の気づきになります。

必要悪としての自我

セルフイメージは脳が作り出した必要悪

私、自分、我、、、なんでもいいのですがこの自己意識は、、脳が作り出した生命維持機能です、、、これは錯覚ですが、、この錯覚があるがゆえにこの体は、、その中に自分を所有し、、二重の意味でこの体を安全に維持活動させようとします、、、危ないとこに近寄らせない、、という動きは体、自己意識この二つで防衛されるのです。この自我、セルフイメージを作り出すことで、、人間という種は飛躍的に人口を増やしました。

苦しい

ただし問題点もあります、、苦しいということです、、、孤独感、不足感、焦燥感を自我(セルフイメージ)は生み出します、、必要悪をこの場合は捨てたいのですが体は絶対に手放さない、、、なぜならばこれは体を維持する上で有効だからです、、、だとしたら自我が必要のない状態にするしかない、、この自我の働きを俯瞰して、、自我の活動をしなくてもいい状態にする、、これが大切になります。

より俯瞰する

自我というのがいかに働きこの体を保っているのかを理解します、、、自我の目的はこの体を守ることにあります、、体が食べれていれば基本はいい、、そしてこの体がより長期的に安全である状態を目指します、、地位、名誉、社会的評価に関心が出るのもこの一つです。自我の動きを完璧に理解することで、、自我の暴走、自我への完全集中、意識が自己意識に取り込まれることを防ぎます。意識を自己意識ではなく、本当の意識に戻します。ここが静寂の場所、平和な場所です。

自己というイメージの解体

そもそもは存在しなかった

私とは言葉です、、言葉はその場でイメージを作り出し、、そのイメージがなるで実在するかのように感じることができます、、これが人間の脳が作り出した体平和維持装置です。この体を所有する私という存在を作り上げることで、、、、この体はより安全にこの体を保持できるようになったのです、、体だけじゃない、この私も、、この体に組み込まれ、、、めちゃくちゃ大事な存在になった、、この私は必死になってこの体を守ろうとする、、なぜならば、、、この体の中には「私」が居るのだから。

覚者は「私は居ない」を連呼する

大人になって悟りの本を読んでみる、、、「私は居ない」もうその頃にはすっかり自分というイメージが定着し、、、全く疑いもしない存在に、、、私はがっつりこの体に組みこまれVIP扱いになっています。人間同士はお互いにこの名前がついた「私」を呼び合うまでに、、イメージを共有し最大限強化しています、、、私がいない、、なんて何を言っているのか???です。

私と決着をつける

これだけ強化されたブランドイメージ、、、このイメージが実は実在しないなんて、、どうしたら思えるのか???これをするにはブランド立ち上げから確立までの流れを俯瞰するのが一番、、なぜ我々は名前を呼び合っているのか???そもそも私が居たから、、、名前が付いたのではない、、、名前をつけることで「私」というイメージが誕生したのだ、、、この気づきを得ていくことで、、「私」というイメージに対する関心を薄めていきます。

何者かになりたい

イメージがイメージに憧れる

小さい子供に自我が芽生えてくると、、、仮面ライダーになりたい、、という衝動が起こってきます、、これは自分はこの小さい非力な存在であるというイメージが子供の中に作られたからです、、、そこでもっと強い存在、もっと逞しい存在に憧れるという衝動が起きるのです。自分というイメージに意識が集中することで、、仮面ライダーというイメージに興味がでます。

敏腕社長になりたい

子供はやがて成長し社会人になると、、、今度は敏腕社長になりたい、、、カッコ良い仕事ができる先輩のようになりたいという衝動が湧きます、、、これも同じ、、、私という「自己意識」が出来上がることで、、不足感が同時に湧くようになり、、その不足感を埋めるために、、目標というイメージが必要になったのです。ですが実際に敏腕社長になれたところで、、、何も不足感は満たされない、、、一瞬の安堵以外は、、、

何者になっても無駄

結論から言えば個人意識は何者になっても無駄なのです、、なぜならば何者になったという個人というイメージは全く解消されないからです。この個人が居るというイメージこそが苦しみ、不足感、孤独感、分離感を生み出すのですから、、、、このイメージがただのイメージであることを見抜く以外に解決はないのです、、「わ・た・し」というのは言葉です、、この言葉がイメージを作り上げ、、さもこの経験の全てを所有する私が居るという壮大なストーリーが作られました。。自己意識、、、自分が居るという意識です、、、意識ですからこれは実在ではない、、、このとんでもなく簡単なトリックに人間は騙され続けているのです。

脳が進化し「私」を作り上げた

人間の脳は進化し、、この「私」というイメージを作りました、、この私はこの分離した世界を生きるというストーリーを作ったのです、、、脳はこの体を安全に維持するために、、このような仕掛けを作ったのです、、、事実人間は人口を増やし続けている、、、これは脳の大きな偉業です、、、ですが同時に人間はイメージの世界に閉じ込められて、、苦しみも味わうようになりました。。。これが人間の宿命です。

ベクトルが外に行く

ベクトルが外に行けば

この私、イメージとしての私、概念の私に意識が集中していますと、、孤独感、分離感、欠乏感が同時に湧いてきます、、、その場合これを埋めるのは外に向きます、、この私を埋めてくれる何かを探す旅にでるのです、、これが私ストーリー、私物語です、、私を埋めてくれる何かを探し続ける旅です。。。そして見つける何か、、例えばお金、友人、パートナー、名誉、地位も全て、、、イメージ、概念でから、、、空想が空想を手にれているだけ、イメージがイメージを手に入れているだけ、概念が概念を手に入れているだけ、、、何も満たされない旅です。

途中でそのことに気づき

おかしい、、何を手に入れても満たされない、、一瞬の幸福が起きるが直ぐに元の状態に。。。それは当たり前、私というイメージ、概念、妄想が、、、手にれる何かもイメージ、概念、妄想ですから、、、実は何も起きていない、、、そこに苦しみ始めた時に、、、私というイメージが問題なのでは???私という自己意識が問題なのでは???と気づき始める人もでてきます。

ベクトルじゃない

私という個人が居るという概念、イメージ、妄想こそが苦しみを生み出している、、、この気づきが起きますと、、、もうこの私を満たすというやり方、、外に何かを求めることに興味がなくなっていきます、徐々に。ベクトルが外ではなく、、、かといってこの私の内側でもない、、、ただ俯瞰したい、、、ただ真実を知りたい、、という衝動だけが起こるのです。。。このイメージの私に関心が湧かない、、、この私に構うにはもうたくさんだ、、

真実だけを探す

もう私が真実を探す、、、、の私が居ない、、、ただ真実を知りたい、、、、という衝動が起きます、、、すると段々と分かってくる、、、、この私はイメージに過ぎない、、さらに、、周囲のある名前がついた物は全てイメージ、、そして評価、批判も全てこのイメージに向けて起こるものだと。。。イメージが最大限の評価を受けて至福に至る、、、わけがない、、、至福とはイメージに焦点が向かず、、、どこにも焦点が向かない状態、、意識が意識として在る状態です。

私は悟って金持ちになる???

分かっていない、、

悟ったらモテますか???金持ちになりますか???有名になりますか???人格者になりますか????全く分かっていない、、、、悟りとは自我、エゴ、自己意識の解放であり、、、この見かけ上の私がイメージに過ぎなかったという気づきです。主語がこの見かけ上の「私」から全体にシフトします、、、主語が全体になっている存在が見かけ上の「私」を生きることになります、、ただそれだけ、、、全体として生きるならば、、、やりたい放題ですよね???違うんです、、、この全体は何一つ、、自由意志はないのです、、、、、つまりこの見かけ上の「私」をコントロールなど全くできない、、、これまでもこれからも、、、

悟ったらどうなるかは何もわからない

悟とはこの世界を俯瞰した目で見えること、、、ただそれだけ、、、その中の動きにはまるで関与できない、、、という気づきです、、、、この見かけ上の「私」が今後どうなるかなど全く分かりません、、、ただし一つ言えることがあります、、、どうなってもかつての深刻さが戻ることはありません、、苦しみの原因が分かり、、、また苦しむことができないのです、、、苦しみの原因が分かったって苦しみに飲み込まれることはありますよね????ないんです、、、苦しみとは巻き込まれる見かけ上の「私」が主語の時だけです、、、巻き込まれる私が居ないんです、、、巻き込む動きそのものが私だったんです。

ブログを書く

見かけ上のこの私に気づきが起きた後、、、ブログを書くが起き続けています、、、ただそれだけ、、、書けば書くほどに気づきが深まっていきます、、、、なぜ書くのか???ただその衝動が起き続けます、、、ストーリーとしては思考はあらゆる意味を付けますが、、、書くが起き続けています。一つ言えること、、、この安心感は味わったことがない、、、動かなくてはの、、、衝動が起きない、、、しなくてはいけないことが一つもない、、ただ淡々と行動が起きる、、、面白い世界です。

動くな

自我の動きを止めろ

この私、イメージの私、概念の私はこの物語の世界で、夢の世界で、概念の世界で、、、、動き廻ります、、、そのままでは苦しいからです、そのままでは不足感、渇望感、孤独感が襲ってきますから、、、何かを求めます、、、その何かは「私」には実は分かっていないのですがそれでも求めずにはいられません。これがこの世界に生きることが苦しみをさらに生み出します。悟れば分かります、、この求める動きこそが苦しみを終わらせないことを、、、、ですから覚者は言う「動くな」と、、、、

動いたって無駄

いったい何年間動き続ければ気が済むのか、、、自我に任せて動き続け、、、本当の幸福を得たことはあるのか???という話です。ないはず、、、この地上で横に動き回っても、、思考を動かし続けても絶対に至らない幸福を手に入れるためには、、、先ずは理解することです、、、動いても手に入らないことを。そして今この場所、、、ここに全生命エネルギー、森羅万象の動きがあり、、、それに気づく存在が居る、、この両極の存在が私です。

この夢の動きこそ

この夢、幻想の動きこそが私です、、この夢、幻想の動きを支える場所こそ私です、、、この見かけ上の「私」を生み出す存在こそ私です、、全思考、全感情、全行動を生み出す存在こそ私です、、、全動きが在るから動きのスペースの存在(空)が現れ、、スペース(空)が在るから現象(色)が現れます、、色と空は一つであり、、、それが私です。ここに気づくためには先ずは見かけ上の「私」の動きを止める必要があります、エゴ、自我、自己意識と呼ばれる存在の動きを止めます。