ベクトルが外に行く

ベクトルが外に行けば

この私、イメージとしての私、概念の私に意識が集中していますと、、孤独感、分離感、欠乏感が同時に湧いてきます、、、その場合これを埋めるのは外に向きます、、この私を埋めてくれる何かを探す旅にでるのです、、これが私ストーリー、私物語です、、私を埋めてくれる何かを探し続ける旅です。。。そして見つける何か、、例えばお金、友人、パートナー、名誉、地位も全て、、、イメージ、概念でから、、、空想が空想を手にれているだけ、イメージがイメージを手に入れているだけ、概念が概念を手に入れているだけ、、、何も満たされない旅です。

途中でそのことに気づき

おかしい、、何を手に入れても満たされない、、一瞬の幸福が起きるが直ぐに元の状態に。。。それは当たり前、私というイメージ、概念、妄想が、、、手にれる何かもイメージ、概念、妄想ですから、、、実は何も起きていない、、、そこに苦しみ始めた時に、、、私というイメージが問題なのでは???私という自己意識が問題なのでは???と気づき始める人もでてきます。

ベクトルじゃない

私という個人が居るという概念、イメージ、妄想こそが苦しみを生み出している、、、この気づきが起きますと、、、もうこの私を満たすというやり方、、外に何かを求めることに興味がなくなっていきます、徐々に。ベクトルが外ではなく、、、かといってこの私の内側でもない、、、ただ俯瞰したい、、、ただ真実を知りたい、、という衝動だけが起こるのです。。。このイメージの私に関心が湧かない、、、この私に構うにはもうたくさんだ、、

真実だけを探す

もう私が真実を探す、、、、の私が居ない、、、ただ真実を知りたい、、、、という衝動が起きます、、、すると段々と分かってくる、、、、この私はイメージに過ぎない、、さらに、、周囲のある名前がついた物は全てイメージ、、そして評価、批判も全てこのイメージに向けて起こるものだと。。。イメージが最大限の評価を受けて至福に至る、、、わけがない、、、至福とはイメージに焦点が向かず、、、どこにも焦点が向かない状態、、意識が意識として在る状態です。

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