悟り

負の感情が湧いてきたらチャンス

負の感情が湧いてきた時こそ

負の感情が湧いてきたら多くの人はテンションが下がります、緊張します、苦しくなります、、、、そしてその解消に思考を使います。これが人間の当たり前の行動です、ですがこれをしない、これをすると一時的にはこの負の感情は解消されても直ぐにまた負の感情が量産されてしまう。ここでグッと耐えてこの感情を同一視しない、これを自分のモノにしないこう決めます。そしてこの感情をまるで他人事のようにしっかりと観察します。今この体の中に「負の感情が湧いている」ただこれだけです。これをなんとかして解消しよう、、、これが自我、思考の罠です。

負の感情が湧くことで悟りが開く、、、、

負の感情が湧いてきた今瞬間こそが悟りを開くチャンスです。負の感情が湧いてきたら多くの方がテンションを落とし、腐り、気分を落としますがここを悟りのチャンスに使います。感情の観察者になってしまうのです、感情の観察者になることに無心になります。感情の観察者になることで無我になります。自我としてこの感情を解決するのではなく無我になるのです。これは大反対の解決方法です。自我が解決するのではなく真我になるのです、この瞬間に。これが感情観察により悟りの開き方です。

人は今悟りを開く

感情が豊かに湧いている状態とは人間が最も人間らしい状態です。この瞬間は普通は自我全開の状態、実は苦しい状態なのです。この状態において無我になる、気づきの意識になる、真我になる、、、悟りを開く。。これが人生を苦しみの中で生きていくか、至福の中で生きていくかの転換点になります。「今日はなんて退屈なんだ」この感情をしっかりと観察することでそのまま真我、無我、大いなる一つになるのです。こんなことを人間が果たしてできるのか?人間にはこれはできません、それをするのは真我、無我です。歓喜、平和、愛がこれをします。

good dreamかbad dream の違い

人間の思考が見せる世界

我々は思考が見せる世界に住んでいます。世界を見渡せば物や人物、風景で溢れていますが全てに名前がつけらえていて実は我々はその名前が付いたものだけを見ています。名前がついていない物はこの世に存在していないと同じ我々はそれを感知できません。これが分離の世界の定石です。この世界の始まりは自我というものが目覚めていき先ずは自身の分離がスタートです、これによってその自分が見る世界が広がりました。だからこそ我々が望む生活とはその世界がグッドなモノ、そして避けたいのはバッドな世界です。ですがそれらは全部分離の世界という枠から逃れられないという特徴があります。

ブッダは言った「この世には苦しかない」

分離方法を変えていけば確かにこの世はグッドな世界になるかもしれません、ですがそれも分離の世界であるということに違いはなく、、結果自身からネガティブな感情が湧き出し続けます。こに分離の世界に住んでいる状態でネガティブな感情が湧かないということは絶対になく常にその処理に追われ続けます。ではこの分離の世界の枠から抜け出すにはどうしたらいいか?先ずは自身の分離の罠から抜けることです、自身が実は思考によって分離した存在であるというこの罠から抜けるのです。思考によって独立した自分が居るという洗脳にかかっておりこれを見抜くことです。

人間とは考える葦である

誰が言った言葉かはわかりませんがこれが人間の共通認識です。人間、私とは考える葦である。この体の中に考える私が居る。。これで自身の分離はスタートしたのです、ですがこれはアイデア、発想の域を抜けることができません。実際には考えることによってこの私は確実に居ると信じ切っているのです。でも時々この嘘に人間は気付いています、大震災や、大事故、大怪我、大ハプニング、、、自分のことなど完全に忘れ去って事にあたっている時に恐ろしいほどの安堵が襲ってくることを。絶対絶命のピンチになぜか心が穏やかになることを、、、このことを人は実は知っています。これらの経験が積み重なり人はこの大嘘に気づくようになります。

ネガティブな感情が湧いてきたら、、、自分ごとににしないで観察してみる

先ほどのようなハプニングは人生で何度もないために人はすぐに自分というモノに引き戻され普段の生活に戻ります。普段の生活はまたネガティブな感情が湧き続ける生活です。仕事も辛いのが当たり前、家事も辛いのが当たり前、人間付き合いも面倒で当たり前、金銭事情を世知辛くて当たり前、、、これが人間のデフォルトです。ですがこの感情を使って悟りを開く方法があります。このネガティブな感情が湧いてきたらそれを自分ごとにしないでそれを他人事のようにじっと観察します。湧いてきた瞬間からその感情を誰のもにもしないでただ観察するのです。この感情を観察する事に没頭してみてください、、、するとその感情が消えていきます、むしろそれを通じて平和が湧いてきます。意味がわかりません、、、、辛いを観察していたらそのまま平和に切り替わる???意味不明、、、これが人間を騙し続ける自我のカラクリです。

自我は全感情を自分ごとにして自我を存続させているだけ

自我の策略を解説します。自我は湧いてくる感情を全部自分ごとにします、そして多くのそれらのネガティブな感情を思考を使って解決します。この人間としての当たり前の行動、これが自我の策略です。当たり前に湧いてくるネガティブな感情、これをまず自分ごとにしなくてはこの自我システムは維持できません、そのため湧いてきた感情を全て解消します、、そしてしれを思考(自我)が解決するのです。思考とは自我のことです、自我を作っている大親分が思考です。思考がネガティブな感情処理に活躍すればするほどに自我は大きく肥え太っていきます、結果ネガティブな感情もより肥大化していくという流れです。ネガティブな感情が発生するには仕掛けが必要でありそこには大きく自我が関わります、というよりも自我というシステムこそがこの感情発生装置なのです。このメカニズムを打ち砕く一番効果的な方法、それは湧いてくる感情に反応しないということです、、、信じられないかもしれませんがこの感情に思考でもって解決を図ると自我が肥大化するというとんでもないカラクリが働くのです。これで人間は自我システムから逃れられなくなります。悟りを開くなど夢のまた夢、、となるわけです。でも実はこんな簡単なカラクリを見破るだけで自我システムは発動しなくなるのです。この自我が解体した状態、思考がただの思考に戻った状態こそを悟りと呼びます。

ポジティブシンキングの危険な罠

自己啓発の定石

30代になって仕事で独立した際に売上げ、利益、収益、、、何でもが自己責任にシフトしました。そのため多くの自己啓発本を読み漁り成功を夢見て邁進しました。全部自分の責任ということは成功すれば全部自分の実績ということです。これほどに涎が出るチャレンジはありません。その時に読んだ本、ナポレオンヒル、本田宗一郎、中村天風、斎藤一人、松下幸之助、、、、事業家で成功した人間の多くが説くポジティブシンキング絶対肯定論に強く惹かれたのを覚えています。そしてこれらの考え方で事業に向かうと確かに成功に近づきます。ですがどれほど成功し利益を出し、あり得ないほどの自由を手に入れても一向になくならないのが不足感でした。おかしい、、これほど上手く行きすぎているのに何も変わらないこの焦燥感、、、絶望、、、とりあえず見ないようにしよう、、、

成功など何の穴埋めにもならない

ポジティブシンキングは確かに成功に近づく定石です、どれほどまでに失敗してもチャレンジを続ける、、、何度も立ち上がりチャレンジを永続すればどこかで結果は出る、、その通りです。確率的にもそうなります。全失敗を成功の種と捉え続けることで必ず結果はどこかで出るものです。それは間違いありません。ですが埋まらない不足感、焦燥感、、、、結果が出ているにも関わらず埋まらない不足感を味わった人はどれほどいるでしょうか?おそらくあまりいない、、、だからこそ誰にも相談できない。。募る焦り、孤独、、、反比例するように上がる自尊心、特別感。

ポジティブシンキングを所有するのは自分

ポジティブシンキングというぐらいですからこれは考え方の話です。思考ですね、この思考こそが自分自身から負の感情を湧き上がらせているのです、、、びっくりします。松下幸之助、ナポレオンヒル、中村天風がこんな引っ掛け問題にやられますかね、、人間の思考、観念、哲学こそが不足感を湧き起こしている、、、これでは人間は至福に至るわけがないのです。なぜならば人間とは考える葦ではないか、、、つまりこういうことです、この自分を自分と思い続ける限り真実の幸福は絶対に来ないのです。自分がポジティブシンキングを所有している限りそのシンキングこそが不足感、居心地の悪さを生み出すという仕掛けです。

負の感情が湧いてきたら、、、

負の感情が湧いてきたら、、それをポジティブに捉え直し、、、、これがポジティブシンキングですが、、、これをしている限り、、負の感情が湧き続けます。そうではなくその感情を観察する存在になる、その感情から逃げずにその感情をじっと観察する、、観察することに集中する、、観察することに無心になる、、、観察することに無我になる、、観察する大いなる一つになる、、、観察から歓喜、安堵、平和に入って行きます。人間活動としては当然湧いてくる負の感情を観察することから悟りに入ります。

負の感情から逃げるという生き方から負の感情を使って悟るという生き方へ

これはポジティブシンキングとは全く違う

私は基本快楽主義です、ですから嫌なことは大嫌い、やりたくないことはしなくていい、我慢など愚の骨頂、常識世間体糞食らえで生きてきました。これをしないために仕事に打ち込んで結果を出すことでこの生き方を継続してきました。仕事技術達成のための負の感情はルーティンという反復作業で無思考に持ち込みむしろ楽しんでこれを達成してきました。だからこそなおのこと「やりたくないことはしない」こう決めて生きてきました、エックハルトが説く感情観察から悟りに入る方法は知ってはいましたが自分には関係ないとタカを括っていました。ですがどうしても気になる、どうしても避けて通れない、、負の感情から逃げるという癖がついた自身のエゴがこれを強烈に避けているところに悟りのヒントがあることは分かっていました。感情観察はポジティブシンキングとは全く違います、ポジティブシンキングとは観念書き換えです、ですがこの観念こそが負の感情を生み出しているというのが悟りです。観念はポジティブだろうとネガティブだろうと負の感情を生み続けます。その観念を支える思考というエネルギーこそが偽りの自分を作り出しているからです。

負の感情は見なくていいと決めていた

私は究極の快楽主義です、ですから負の感情とは見なくていいものと決めていました。とはいえ一日2時間以上のエクササイズを自身に課し、1日2時間以上パソコン作業に向かい、さらに仕事もする、、、ネガティブな感情が湧かないわけがない、、、ところが作業に集中する、無心になる、無我になるという感覚を習得した私にとってこれらはネガティブな感情を沸かす要因にはならなかったのです。もしもあるとするならば対人関係で嫌なことを言われる、軽い態度を取られる、、恩を仇で返される、、、などでした。そしてこれらが起こった際には冷静なNOで対処してきました。ですから負の感情を味わうことがほぼほぼ無かったのです。

これからはしっかりと観察していく

1日のほとんどの時間を無心、無我の状態で過ごすことができる自分にとって嫌な感情と向き合う時間はほぼなくそしてそれを気にもしませんでした。ですがエックハルトトールの思考観察、感情観察を読み返していくうちにこれは今後積極的に自分の人生に取り入れていくことを決めました。自分自身から湧いてくる思考、感情を観察するということは難しいことではありません、なぜならば人とのコミュニケーションではこれを冷静にする自分がいるからです。なぜ自分の思考、感情を観察するのが難しいと感じているのか?これぞ自我の策略、自我の延命措置に間違いないでしょう。

負の感情観察から無我に入る

負の感情観察から無我に入る、、、これは矛盾を抱えた表現にも思えます。負の感情を生み出しているのは紛れもなく自分自身でありそれを観察することで無我に入るとはどういうことでしょうか。負の感情を生み出しているのは自分自身であるのですがそれが偽りの自分自身だということです。偽りの自分が居るからこそ負の感情が湧き起こっているのです、これを真我、無我で観察します。大いなる存在としてこの感情を観察することでそのまま歓喜、安堵、平和になります。負の感情が湧くということは偽りの自分がそこにはあり、だからこそそれを真我で眺めることで偽りの自我が消滅します。負の感情発生とはそこから悟りに入る大チャンスだったのです。

女性は受容から悟りに入り、男性は集中から悟りに入る

女性と男性では悟り方が異なっていい

女性は男性に比べて受容的です、子育てという弱い人間を育てる立場からか受容力が男性よりも高いです。言葉が喋れず、思考が未熟で、判断能力がない子供を受容する包容力が男性よりも高く作られています。子供のワガママ、子供の喜怒哀楽、子供の癇癪に対して女性は忍耐強くそれを受け入れます。女性が子供を産むと波動が変わるというのはこのためかもしれません。女性は自身から湧いてくる感情を見つめ観察しそこから悟りに入れる可能性があります。男性は女性に比べ攻撃本能が高いので自身から湧いてくる攻撃的な感情に振り回されてしまう可能性が高い、ですが女性は受け入れるという受容性が高い分、他人からの攻撃から湧いてくるネガティブな感情を観察しそこから悟りに入るということができます。子供の暴言、子供の泣き言、友人の悪口、友人のヒステリー、、、あらゆる感情の揺さぶりを観察することでそこから悟りに入っていきます。

男性は集中から悟りに入る

男性は本来狩に出る役割がありましたから、ジャングルに入っていき集中力を駆使して獲物を捕獲します。敵を攻撃するために集中力を極限まで高めていき獲物を確保します。この集中力とは同時に無我の境地でありそこから悟りに入ることができます。集中して集中して集中し尽くしていくことで自分という偽りの自我を完全に排除していきます、その状態は大いなる一つ、無我、無心、悟りです。獲物を捕獲するためにそのまま歓喜、平和、安堵になっていきます。男性の職人さんが多いのはこのためです。男性は何かに集中し尽くすことでそこから悟りに入れます。

悟という状態を知ることでどこからでも悟りに入る

女性は子育てを通じて受容から悟りに入り、男性は仕事などで集中し尽くすことでそこから悟りにはいります。そして一度この悟った状態を経験すると人はどこからでも悟りに入ることができます。悟りとは遠いどこかにあるのではなく常にここに悟りがあるわけでそれを邪魔しているのは常に自我です。思考によって構築されたこの自我こそが悟りを見えないようにしている張本人であり自我のシステムエラーが負の感情です。この負の感情を受容し観察することで悟りを開くこともできれば、その感情から何かに集中することで悟りを開くこともできます。

人間の自我が負の感情を生み出すことを理解すれば、、

人間の自我こそが負の感情を生み出していることが理解できれば人はどこからでも悟りを開くことができます。その負の感情をじっくりと観察することで無我に入ることもできれば、その負の感情から何かに没頭して集中し尽くして悟りを開くこともできます。どちらにしても人はこの負の感情から思考を使って逃れ続けることは困難でありいかにこの負の感情と向き合う癖をつけていくかが重要になります。思考は常に思考を使ってこの負の感情を解消しようと企てますがこの作戦は常にその場しのぎです。そうではなくこの負の感情こそが悟りに入る入り口であるという俯瞰した視点が重要です。

なぜ辛さを耐えることが難しいのか?

辛さの根元に気付いていないから

人間というのがなぜ辛さに対して弱いのか?なぜ辛いという感情から逃げてしまうのか?なぜ辛いことを積極的に避けるのか?この大きなテーマに迫りたいと思います。辛いことを耐えれないことがなぜ悪いのか?辛いことは辛いわけでそれは人間が人間であることの証拠、これを克服することなど不可能に決まっている、、、これが大方の見方でしょう。ですが実際はそうではありません、辛いという感情は実は外部的要素は一切関係がなく人間という中から湧いてきています。辛いという感情が外部的要素に大きく依存しているならば解決方法はほぼ皆無でしょう。なぜならば人間は外部に依存しなくては生きていけないからです。ですがそうではない、、辛いという感情は人間が人間であるという事実から生まれてきているのです。この事実を理解できないからこそ人間は辛さを味わうと混乱し、フリーズし、緊張し苦しむのです。故に辛さは延々に耐えることができない人間の弱みとなるのです。根本原因を知らず意味不明だからこそ苦しいのです。

辛さに耐えるのではなく、、ただ理解する

辛いという感情が人間を混乱させ、フリーズさせ、絶望的にさせるのは辛いという感情がなぜ湧くのか?そこが意味不明だからです。意味不明だからこそ人間はこの感情を酷く警戒し緊張します。ですがこれは人間の無知からきています。辛いという感情は人間が人間であり続けるメカニズム思考から発生しており故に思考を本当の自分ではないと見破ることでこれは解消できます。このことが分からないからこそ人間はただただ混乱し取り乱し辛いという感情から逃げ続けるのです。そうではなくありのままにこの感情を観察します、ありのままにこの感情の出所を理解します、すると二次的三次的感情の波に襲われなくて済むだけでなく、その感情を観察することから無我に入り悟りに入ります。

辛い→混乱→平常に戻りたい

辛いという感情は紛れもなく不快でありそれは事実です、そしてそれは多くの場合外部的要因によってもたらされたと人は勘違いしています。だからこそ辛いが起こった時に混乱しどうしていいか分からなくなりさらにネガティブな感情、負の感情が大波のように襲ってくる、、、この大波を回避するためには思考をフル回転して逃れようとなるわけです。結果辛さは一時的には回避できても思考と感情の隠密関係が強固になり自我も肥大化しエゴも肥大化し偽りの自分も肥大化していきます。辛い感情、違和感の感情、不足感の感情はより一層その自己から湧いてくるようになっていくのです。これでもしも根本解決になっているとしたら大間違いです。この事実をしっかりと受け止めたならばやることは一つ、辛いという感情に真摯に向き合うこと、この感情で無意識になるのでなくむしろ意識的にこの感情を眺めます、観察します。これを観察することでそこから無我に入る、無心に入る、悟りに入っていきます。

負の感情とは何か?

負の感情、正の感情

負の感情とはなんでしょうか?ではその反対の意味の感情は?正の感情ということになります。負の感情はできれば避けたい、、ではその反対の正の感情はできれば味わいたい、、、これが人間の性です。別にこれは当たり前のことでしょう。この人間としての大前提、デフォルト、これが実は人間を苦しみの渦から逃れさせない罠です。負の感情は確実にあり正の感情も確実にある、そしてできる限り負の感情を味わないように工夫し、正の感情だけを味わっていきたい、、ということです。

正負の感情理論から抜ける

結論からお伝えすれば正負の感情はセットでありどちらか一方のみを得続けるのは不可能です。例えばギャンブルですがもしもギャンブルというモノが勝ち続けれるモノならば誰もギャンブルをやらないでしょう、あれば負ける悔しさというのが大前提にあって勝つ喜びがある。しかも圧倒的に負けが多い方が勝った時に嬉しいのであって勝って当たり前のようなギャンブルならば誰もやらないでしょう。つまり人間は負けが込んでからの勝ちを味わいたくてギャンブルをしています、しかも大金をかけて。どちらにしてもギャンブルはハマってしまうとなかなか抜け出せないのは負けることも勝つことも実は苦しい、、、勝ったから抜けれるというような代物ではなく中毒という偽りの快楽から人間は抜け出せないということです。

偽りの快楽とはこの自分のこと

偽りの快楽とはこの偽りの自分が大きく関わっています。ギャンブル好きをバカにする人は多いです、なぜ勝てないと分かっていてやるのか?と。ですがこの偽りの自分が好む快楽とは全て偽りの快楽です。なぜならば存在自体が偽るだからです。私というこの存在こそが思考がでっち上げた偽りでありだからこそ人間は負の感情が湧き出てきます、存在するだけで。この偽りの自分が得ようとする快楽は全部偽りになります、特に思考が指し示す快楽は偽りです、なぜならばこの思考こそが偽りの自分を形成するエネルギーだからです。まさか偽りの自分を作り出す思考がこの偽りの自分を解消するような提案をするわけがなく故に人間は常にこの思考に振り回されて偽りの快楽を得続けることで偽りの苦しみ、感情から逃げ続けていきます。ギャンブル、お酒、タバコ、たわいの無いお喋り、買い物、、、思考が再示す快楽は全て偽りの快楽であり偽りの負の感情を一時的に打ち消すのみです。そしてまた偽りの自分が消えないためこの正負の感情を得続けていきます。

正負の感情を観察する

楽しいを追い続けるのも、苦しいから逃げ続けることも実はどちらも目糞鼻くそでしてそこに優劣はありません。なぜならばこれらの行動は根本解決にならないからです、対処療法です。人間が生きている上での苦しみは自身が実は思考がでっち上げた偽りの自分であることがこしらえておりそこに気づくまでは延々と苦悩が続きます。苦しい、悲しい、辛い、楽しい、快適、、、これらの感情が偽りの自分から湧き出してきた時、これを観察する存在になることでその場で悟りに入ります。感情を観察することで安堵、歓喜、平和になります。何かがあったから楽しい、何かがあったから辛い、何かがあったから悲しい、何かがあったから孤独、何かがあったから幸福、、これらは全部偽りの自分から湧き出してきた二次的、三次的感情であり、、その根本には自身が偽りであることからくる違和感が支えています。

負の感情の解消方法を知らない人間の末路

これだけ近い存在なのに

負の感情、これこそが人間を苦しませ続けるエネルギーです。このエネルギーさえ湧かなければ人間とはいかに生きやすい動物か、、、負の感情さえ湧かなければお金を使うこともないし、人間関係のトラブルもない、働く必要さえないかもしれません。いや働いたとしても負の感情が湧かないならば何も辛くない、、、要はこの負の感情とは人間を常に常に苦しませ続けてきた張本人、極悪犯です。なぜ人が魔が刺すかと言えば絶対にこの負の感情が要因なのです。芸能人のスキャンダルも、犯罪も、不祥事も絶対にこの負の感情が絡んでいます。ですが人間は恐ろしいことにこの負の感情がなぜ湧くのか?そしてその解消方法を知りません。

先ずは思考がある

負の感情がなぜ湧くか?これには思考というモノが絡んでいます。負の感情が湧くのには人は何かしらの外部的な要因を常に探します。例えば給料が低い、安定しない、世知辛い世の中、評価されない、、、こういった外部的要因があるからこそ負の感情が湧いていると推測しています。ですが実際には違う、、、負の感情は自分という存在、自我、エゴが生み出しているのです。大いなる存在であるモノがこの体こそを自分と勘違いすることで居心地の悪さ、不完全性、が生まれそこから負の感情が湧き出してきます。だからこそこの感情は得体の知れない底無し沼であり今年一年間負の感情が生まれなかったということには絶対にならないのです。人間は毎日この負の感情と戦い続けているのです。この偽りの自分、自我、エゴの正体こそが思考です。

にも関わらず思考がこの感情を解消する始末

人間とはいかに無知な生物なのか、、、思考がこの偽りの自分、自我、エゴを生み出しそれゆえに負の感情が湧いてくる、しかしながらこの負の感情の解決方法をまた思考に委ねるということをしています。負の感情の正体がまさか自分の内面というか自分というモノの構築エネルギーだということです。それに気づかずに負の感情の解消を思考に委ねている、、、これは悲劇です。ということで負の感情の解消方法、根本解消方法とは何か?それが感情の観察です、感情が湧いてきたらその感情から逃げるのではなくその感情を観察する、、、誰が?それは大いなる存在、気づきの存在、自我ではなく真我です。負の感情が湧いてくることでそこから悟りを開きます。

負の感情の解決を思考に委ね続けた結果

負の感情を思考は一時解決する

思考とは負の感情にとって強めのお酒のような存在です。飲めば一瞬その負の感情を完璧に消し去ることができます。ですがそれはあくまで一瞬でありまた負の感情は勢力を増して襲いかかってきます。なぜ勢力が増すかといえば思考こそがこの偽の自分、自我、エゴを構築している主犯人だからです。思考は決して悪いわけではありません、ですがこの思考は偽りの自分をこの世に作り出します、偽りの自分を作り出しこの分離の世界を創造する張本人です。ですから負の感情の解決を思考に委ねればどうなるか?自我が強化され偽りの自分は強固になり分離の世界はさらに分離を極めていく、結果負の感情はより激しく湧いてくる、このメカニズムに入り込みます。

負の感情を解消するのではなく見つめる

負の感情を解消するには何かしらの気晴らしに逃げるか、もしくは他に何か集中できることを見つけ出し逃げるのが人間の常套手段です。要は逃げるというのが普通です。ですがそれをしない、思考を利用して負の感情回避をしないと決める。逆に負の感情をしっかりと見つめ見つめる存在、気づきの存在になる。大いなる存在にそのままなってしまいます。負の感情こそが人間を人間たらしめてきた大きな要因ですがそれすらも悟りに入る道具にしてしまうのです。

楽しいから逃げる人はいない

何かをしていて嬉しい、楽しいが湧いてきた時にそこから逃げる人はいないでしょう。そこで思考を使い逃げてしまう、、、このケースはないのです。逆に辛い、悲しい、孤独、これらの感情が湧いた時に人間は逃げます、思考フルスロットルで逃げ出します。だからこそこの負の感情こそが悟りに入るポイントになるのです。これこそが悟りへの入り口です。楽しいを意識的に観察する人はいないでしょう、観察する必要がないから。ですが辛い、悲しいを観察するには意識的でなければならない、、、、逃げる癖が付いているからです。だからこそこれは悟りの入り口なのです、意識的でいる時それは大いなる一つの状態です。それを意識的と言います。無意識であるときとは思考に乗っ取られた状態です。

負の感情から悟る

負の感情は悟りへの入り口

負の感情を嫌がる人間は多くいます、というよりも負の感情を歓迎する人間などこの世にいるのでしょうか?いないはずです。それが人間を人間からの解脱を阻止します。そうではなくこの負の感情を観察することでそこから悟りに入ります、負の感情を徹底的に観察し、見つめることでそこから大いなる一つになります。自分というものから湧いてくる感情を観察できるのは自分(体)ではなく大いなる一つです。大いなる一つは常に人間の感情を観察できるのです。

負の感情が湧いてきたら、嫌悪しない、、、

多くの方は負の感情を嫌悪します、人生でいかにこの負の感情を味わわずに済むかを真剣に考え逃げ続けていきます。負の感情を味わわない生活を確保するために人は思考をフル回転しそれを一時的に達成しますが実はこれは自我の罠、エゴの罠です。それは実は自我、エゴの存続方法なのです。そこで思考を使ってくれれば人は思考を信用するようになります、思考を信頼するようになります。この思考こそが自我、エゴの養分です。これはトリック、罠です。負の感情から逃げるごとに自我は肥え太っていくのです。

負の感情すらも悟りへの入り口にする

負の感情が湧いてきたらそれを利用して悟りに入ります。その感情をしっかりと見つめる存在になることでその場で悟りに入ります。負の感情を観察し続け大いなる一つにそのままなってしまいます。負の感情を見つめる存在、観察する存在、止観する存在として悟りに入ります。これは人間ではありません、自我ではありません、エゴでもありません、大いなる一つです。