悟り

私=探求

私とは探求のこと

私とは探求です、というよりも探求するために作られたのがこの私です。私とは神が勘違いしてこの体、思考、感情を「自分」だと認識する存在です。神の意識がこの体、思考、感情にフォーカスされきった状態こそこの私です。故にこの私を支えているのは神の勘違いでありだからこそ常に違和感を感じ続けることになります。この私が居るというこの認識こそが不快感を生み出し私はこの不快感を解消すべく探求し続けることになります。

探求は悪くない

私とは探求ですから探求は決して悪くありません。ですがこの探求を続けている限り「私」は存在し続けますからこの違和感は消えないということになります。私は常に探求し、その探求が私を存続させ続けるというメカニズムに入り込んでいきます。けれどこの探求を継続させ続けていきますと、、徐々にこの探求には終わりがないことを知ります、肌感覚で理解できてきます。そこで私はこの探求の旅を終え、なぜ私は探求してきたのか?という疑問の解消にシフトするのです。

私はこのエネルギー全体、神、ワンネス

この私が探求するという旅には終わりがないことを薄々ながら理解できてきた私は、、この探求の根本解決に乗り出します。そもそも探求で答えが出ないならば、、私にはこの解決は不可能ということになります。そうしますと「悟り」系と言われる書籍にすがるしかない、、、「私が居ない」という身も蓋もないメッセージにすがる以外に解決がないことを悟ります。

神はなぜ自殺者が出るような人間体験をするのか?

神は一体何をしたいのか??

人間というのは不思議な動物でこの体を生き伸ばすためだったらなんでもやります。他の動植物を乱獲してまで自らを生き伸ばせようとします。その一方で自殺者が世界中で年間何十万人とでます。何がなんでも生き延びようとする一方で自ら命を落とすこともします。この矛盾は一体どこからくるのでしょうか???答えは簡単で、、人間とは他の動植物を乱獲してしまうほどに苦しい生き物だということです。人間の飽くなき欲求とはその土台に圧倒的な苦しさがあるのです。この苦しさこそが動植物の乱獲や地球破壊、そして自らの破壊につながるのです。

なぜ人間はここまで苦しい生き物なのか??

人間だけが個別意識を持ちます、人間だけが分離した世界を生きているという錯覚を起こすことができるのです。結果頼れるのは自分自身だけという、、、このドライな生き方になってしまうということです。ではなぜ人間には個別意識があるかと言えば、、、それは神が人間に完全になり切ることができているからです、神は人間という高度に発達した体、脳を所有する存在に意識をフォーカスすることができます。これによって神は初めて不幸、苦しみ、孤独、焦燥感、居心地の悪さを経験することに成功したのです。人間ほど神の壮大さ、偉大さ、深さを感じることができる存在はいない、、一方で人間ほど自身の弱さ、小ささ、浅さを痛感する存在もいないのです。これを神は経験してみたかったということになります。

腹を決めて悟りを開く

人間とはここまで苦しい生き物ならば、、もう至福を求めて生きるのは辞めた方がいい、、、むしろ最初からそこは貪るのは辞めて、、、悟りを開く以外に至福には至れないことを腹落ちさせるべきです。神がコンフォートゾーンを人間にシフトして生きている以上、、この苦しみ、居心地の悪さは解消できないものだと、、、腹を括るのです。そしてこの苦しみを終わらせるならば解脱、神へのコンフォートゾーンのシフト、悟りしかありません。

自我は言う、悟った暁には絶対に幸福になれると

自我とは大いなる勘違いした存在

悟りという言葉ほど誤解されている言葉はないかもしれません。悟りとは、、、個人が成し遂げるもの、、この誤解を最もされています。あの人は悟っている、あの人は悟っていない、、、、どこまで行っても悟りをこの人間と結びつけたがります。ですが実際にはこの誤解こそが悟りを人間から遠ざける結果になるのです。人間が彷徨いながらこの世界を生きていく時、「悟り」こそがこの苦悩を終わらせるメッセージであるにも関わらず人間はこの「悟り」を理解できません。なぜならば人間が実は幻想という身も蓋もないメッセージだからです。

神から自我へのコンフォートゾーンのシフト

コンフォートゾーンで説明すると悟りは一気に理解できるようになります。先ず第一にこの世界の主人公は全体、神、ワンネスです、主人公というよりも、、それしかありません。たった一つのエネルギーだけがありそれが姿を変えて現象化しているだけ、、、これが真実です。で、その中で人間という形をとった生命現象が出現しました、、この生命現象は独自の進化を重ね、体、脳を相当なハイスペックなレベルにまで向上させました。これにより全体、神、ワンネスはこの人間に意識を集中させる、コンフォートゾーンを全体から人間にシフトさせることに成功したのです。

これに成功した神は。。。

これに成功した神はそこからは自身を人間として生きていくことになります。人間と人間以外の世界を生きることに成功したのです。その世界では常にこの体を守っていかなくてはならなくなり、、必死になって知識、体力を付けていきます。全ては生き延びるため、、、人間になり切った神はこれを消滅させないために必死に生きていくのです。ですがそれと同時に人間にコンフォートゾーンをシフトさせた状態では絶対的な永遠の幸福に至れないことも知っています。なぜならば神=人間ではないからです。これはどこまで行っても茶番に過ぎずだから人間は常に不足感を抱えて生きているのです。

人間に成り切った、人間にコンフォートゾーンをシフトした神は、、、

この人間体験を大いに楽しむわけですが、、そのためには自分が神であることを忘れる必要がありました。ですが実際には神は自身が神であることをどこかで気づくことになります。いつまでも人間になり切って自分が神であることを忘れ続けるのは難しいものです。それはある意味人間としての幸福実現の限界に達した時かもしれません、、、どこまで走れば人間は幸福になるのか???これって本当にゴールはあるの????こういった疑問が人間から湧いてくるようになると人間に成り切った神はそもそもが大天才ですから本当のことを思い出すようになっていきます。

自分は全体を知った時に再び全体の王になろうとする

自分が無くなると全体になるにも関わらず

自分とは面白いもので悟った後もこの自分が悟りの王になろうとします。悟った自分としての覇権取得です。ですがこの自分が居なくなった状態こそが悟りであり再び主権を奪い返せばもう悟りではありません。これを苫米地式コーチングで説明すると面白い。神のコンフォートゾーンが人間になった状態が「自分」です。そしてこのコンフォートゾーンがシフトして神が神であることがコンフォートゾーンにシフトした状態、これが悟りです。この時点で人間としての自分は居ません、コンフォートゾーンがずれてしまっているからです。ところがコンフォートゾーンがシフトする前にこの状態を垣間見てそのままコンフォートゾーンが人間に戻った状態こそが自我、自分が理想とすることなのです。自我は絶対に自我を消滅させたくないので手が込んでいます。

目指すべきはコンフォートゾーンの完全シフト

目指すべきは自分の完全解消です。コンフォートゾーンの完璧なシフトです。人間であるというコンフォートゾーンから神であるということにコンフォートゾーンをズラすことです。神が神であることにコンフォートゾーンがシフトすると人間は神の一部になりますから人間の個別意識を維持できなくなります。これが自我の消滅、終焉です。人間の個別意識とはコンフォートゾーンが人間にあることを意味するからです。神にコンフォートゾーンがシフトすれば人間、元自分は神の表現に戻ります。ですがそれでも五感はあるし思考も感情も湧き続けます。それを所有する自分がいないだけです。元自分がそれを所有するのか、、所有したらそれは自分です。

神は苫米地式コーチングを使って人間になった

神はどうやって人間になったのか??簡単です、、、私は人間である、、ということを信じれるようになるまで情報を滝のように浴び続けたのです。。両親の声かけ、学校での暗記、、全部です。これって苫米地式コーチングでいうゴール側の情報を浴びるように収集しゴールに臨場感を持たせるというアレです。ゴール側に臨場感、リアリティーを感じ続けていけばゴールに親近感、コンフォートゾーンがシフトするというアレです。苫米地氏が口を酸っぱくするまで言っていることそのままです。赤ん坊は、、、両親から滝のような声かけを浴び続け、、私は人間であるというコンフォートゾーンを完成させたのです。神はこうして人間になりました。

コンフォートゾーンと悟り

100万通りでの悟り解説

世界にあらゆる宗教が存在するのは真実を意表す方法は100万通りあってもいいわけです。ということで私もこのブログであらゆる例え話で悟りを解説していきたいと思います。その一つがコンフォートゾーンという切り口、この切り口は苫米地英人さんが行う苫米地式コーチングから学びました。彼のコーチングの最大の特徴はゴールをコンフォートゾーンの外に設定するということ、ここが他と圧倒的に違います。コンフォートゾーンの中のゴールは現状維持でしかない、こう断言します。例えば巨人軍の選手が巨人で四番を打つのはコンフォートゾーンの中にあるのです、ここを目標にしますと達成が近づくにつれ目標意識が落ちていきます、そうではなく巨人では絶対に達成できないような目標をゴールにせよ、、、これが苫米地式コーチングの特徴です。例えばヤンキースで四番を打つ、、これならば巨人に居ては達成できません。これを目標にせよ!ということです。

実はこれコンフォートゾーンをズラすトレーニング

このコンフォートゾーンの外にゴールを置くという真の目的はコンフォートゾーンをズラすことにあります。多くの方はコンフォートゾーンの中に居続け死にます。一生同じコンフォートゾーンの中に安住してそのまま死にます、しかもそこが居心地が悪くてもです。どんなに居心地が悪くてもそこで食べていけるのならばそこに居ます、これがコンフォートゾーンです。だからこそコンフォートゾーンの外にゴールを設定せよ!が生まれるのです。実はこれ自我の働きそのものです。自我は自身の存在を消滅させたくないので一度そこで食べてると知るとそこに居続けようとする働きがあります。ですが同時にそれはそれで苦しいのです。同じ場所に居て自我を存続させたい、だが本当は居たくない、、、なぜならば自我の本質は神だからです。神は神に戻りたいのです。

自我がここに居たい、、だが自我の本質は居たくない、、、

苫米地氏はコンフォートゾーンをズラすことを積極的にせよと唱えます。悟りの観点から説明するとどのコンフォートゾーンも居心地が必ず悪くなると説明します。なぜならば自我の本質は神であり神は人間であるというこのコンフォートゾーンこそが苦しいのだと。苫米地氏は目標を達成する前にゴールを常に上に上いに設定せよと説明します。そして自身のゴールは世界平和、戦争の廃止、差別の解消であると唱えています。これは自己超越です、悟りです。悟りの観点では、、、目標設定の最終ゴールを悟り、神と設定することで最初から今の苦しみの根源を解説していきます。

成功者の落胆、、、満足すると思っていた

自分の本性を神だと知らない人の悲劇

神のコンフォートゾーンが「人間」になった状態、それが「自分」です。神は生まれてからの七年間の声掛けによってコンフォートゾーンが「人間」になりました。これによって神は人間として日々生きるようになっていきます。本来が神ですから何をやっても直ぐに飽きます、砂遊びで毎日遊んでいた子供が半年後には砂には全く興味が無くなるのもこの事実からです。これは人間の全部に当てはまり、、進学に成功しても数ヶ月後には直ぐになれてしまいますし、就職に成功しても、結婚に成功しても、、、安定に成功しても、、、直ぐに居心地が悪くなるのです。それは神が人間という状態にコンフォートゾーンがシフトしている時点で基本居心地が悪いからです。人間の思考はこの居心地の悪さの本質は理解できずそのため次々に何かしらを叶えていくのです。

そして最後には成功者になる、、、

人間としての居心地の悪さ、、、ここの真摯に向き合う人は、、あえて大きな目標を設定し次々に目標を叶えていきます。収入を達成したら名誉、自由、栄光、安定、配偶者と、、、次から次へと叶えていくのです。ですがどこまで行っても抜けない居心地の悪さ、、、これは神が人間になり切っていることからくるものです。よって不快感に真摯に向き合ってきた人間は最後には成功者になってもこれが解決できないことを知った時に絶望します。ですが実は人間とは最初から絶望した存在でありそれを見て見ぬふりをしてきただけなのです。

何もせずに絶望のままでいるよりも

最初から人間であることに絶望し、、何もせずに絶望で終わるよりも、、絶望を見て見ぬふりをして必死にもがいた人の方が私は気づきが早いのではと思います。成功者とは自身のコンフォートゾーンをシフトし続けた人間であり、最後にコンフォートゾーンを悟りに引き上げるのは決して難しくありません。ですが自身のコンフォートゾーンを全くシフトしたことがない人間はそれが難しいでしょう。脳機能が機能不全を起こしコンフォートゾーンが急遽神に戻るというような事件でも無ければそれは達成できません。

一瞥体験は「自分=神」を垣間見ること

自分のコンフォートゾーンが神になった人は悟り、「自分=神」の体験は一瞥体験、覚醒体験

問答無用で我々はたった一つのエネルギーで構築されているにコンフォートゾーンがシフトしてしまった人は覚者です。実は自分は神だった、、、この体験を積んだ人は一瞥体験者、覚醒体験者、空感体験者でしょう。自分はいつでも神だ、、、ここにコンフォートゾーンがシフトしてしまったら全事件、全トラブル、全惨事をもう「自分ごと」にできない、、、この個人に起こる事件とは捉えることができなくなります。なぜならばこの個人、自分という感覚が圧倒的に思い込みであったことを知ってしまったからです。コンフォートゾーンがシフトしてしまえばそうなります。

それでもこの視覚、この聴覚、この嗅覚は機能し続ける

全五感が働き続け人間活動は今日も続いていくわけですが、、、、この感覚こそが神が人間にコンフォートゾーンがシフトしてしまった要因であることが腹落ちしますともうその手には引っ掛からなくなります。思考が湧き、感情が今日も湧き続けますが、、、これこそが神を人間というコンフォートゾーンに収めてきた要因です。神は人間に成り切れた要因こそがこの五感、思考、感情、体です。

神の人間ゲームは仕組を理解して終わる

人間というこの体が存続する以上、、この体は宇宙空間で機能し続けます。ですが神=人間、、、この感覚は日に日に薄らいでいきます。なぜならば神=神が本来だからです。神=人間はコンフォートゾーンがそこにフォーカスされただけの状態です。神の凄いところは神=人間を人間が生まれ死ぬまでやれてしまうことです、これぞ神です。ですが神=人間が実は偽りであることが分かってしまった今それを盲信し続けるのは逆に難しくなっていきます。

コンフォートゾーンに神が収まっている苦痛

コンフォートゾーンの中に居ると苦しくなる理由

苫米地氏曰く、セミリタイアした人の多くは直ぐに死ぬ、、、これ悟りの観点でもまさにそうです。人間は新しい情報を入れないと脳の中の記憶の中をひたすらに見ているので、、記憶の中に住んでいる。そうなれば生きている価値がなくなり直ぐに死ぬ、、これが苫米地氏の意見ですがこれもその通りです。コンフォートゾーンの中に居続けることがなぜ苦しいのか?それはそこに収まっているのが神だからです。

人間というコンフォートゾーンは苦しい

神が人間という枠の中をコンフォートゾーンにしてしまったら苦しいのは当たり前です。神が人間体験をし続けるだけで居心地が良いならば神は頭がイカれている、、、、神のコンフォートゾーンは神です、人間とは一時的にコンフォートゾーンがシフトしてしまった場所というだけ、仮初の姿です。ですから人間活動自体が苦しくて当たり前なのです。この事実からも実は自分が神であることが理解できるはずです。なぜ億万長者になっても自殺するのか?億万長者というコンフォートゾーンは神にとっては居心地の悪さ全開です。

自分が本当は神なんだ、、これでコンフォートゾーンの苦しさが理解できる

苫米地氏はコンフォートゾーンをシフトし続けよと著書で説明します。なぜならばその中に居ても脳の記憶の中に住んでいるだけだと、、、、私の視点はこうです、、、神はどのコンフォートゾーンに居ても居心地が悪い、、だから本来のコンフォートゾーンである神にさっさと戻りましょうです。億万長者になっても有名人になってもインフルエンサーになっても神にとってはどこも居心地が悪いのです。人間というコンフォートゾーンを抜けるまではこの居心地の悪さは続きます。

悟りへと導く「苫米地式コーチング」は凄い

脳科学は苫米地英人氏の方便では?

私は苫米地式コーチングに一時期ハマりにハマりました、、ハマっている当初は実はそこまで気づいていなかったのですが自身が悟り、非二元について探求を重ねていくに従い、、実は苫米地式コーチングは「悟り」への誘いであったことを強く痛感するようになりました。覚者が伝える「自我」というメカニズムを現代風に表したのが「コンフォートゾーン」、、コンフォートゾーンの外にゴールを設定するが「自己超越」「悟り」、、抽象度を高くする、、「分離の解消」、、、と気づけば全部悟りの世界のことなのです。

苫米地氏は映画「マトリックス」を制作する代わりに「苫米地式コーチング」を作った

あくまでこれは私の推測でしかありませんが、苫米地氏のコーチングは民衆、大衆を騙すための方便でゃないかと考えます。マトリックスという映画は監督による悟りへの方便です。苫米地式コーチングは自己啓発、目標達成、成功法則を謳った苫米地氏の悟りへの方便ではないでしょうか。脳とはこの人間の分離感覚を完璧なまでに強化するツールですからそこに責め込むのは素晴らしいアイデアです。

脳のトリックを見抜き悟りへ誘う

苫米地氏を著書の中で何度も抽象度の最高は悟であると述べています、、視座を最も高くした地点、全体を眺める視点とは悟りの状態です。この世は突き詰めればたった一つのエネルギーで構成されていますから分離というのは全くなく、、そこを苫米地氏は抽象度を上げていくことで情報を整理しそこに導きます。最終的には人間もその一つのエネルギーの構成要因であることは間違いがなく、、自分が消え失せます。その時に残るのは「無」であり「全体」であり「神」です。

自分のコンフォートゾーンを全体にシフトする

コンフォートゾーンを自分から全体にシフトする

自分が神であった、、この気づきは自分というコンフォートゾーンが神にシフトした瞬間です。我こそは自分であるというコンフォートゾーンが、、我こそは神であるにシフトすればそれは悟りです。覚醒体験ではなく悟りです。この体、思考、感情を自分としてきたコンフォートゾーンを神=自分にシフトさせます。自分自身が実は神であるという事実を常に自身に突きつけていくことでコンフォートゾーンがシフトする可能性があります。

あなたとはこの体、思考、感情であるという洗脳を受けた幼少期

一万回の呼びかけであなたはこの体、思考、感情であるという概念が受け付けられました。これが幼少期の洗脳です。コンフォートゾーンがこの体、思考、感情になったのです、それまではコンフォートゾーンは全体でした。そして我々の多くはこの体、思考を自分であるというコンフォートゾーンを一生変えずに生き続けるのがほとんどです。ですがそのコンフォートゾーンはエキサイティングですが苦しいものです。

自身は神であることを思い出すまで情報を浴びてみる

結局のところ自分は神であることを思い出すまで思い出すような情報に触れる以外にコンフォートゾーンをシフトする方法はありません。いかに浄化してもいかに行をしてもこの個人に絶対的なコンフォートゾーンが敷かれていればシフトはしません。自身が神であることを思い出した人の書籍やブログなどを読むことでその感覚にリアリティーを作り出しコンフォートゾーンをずらしていきます。このブログもその一つです。