自分は全体を知った時に再び全体の王になろうとする

自分が無くなると全体になるにも関わらず

自分とは面白いもので悟った後もこの自分が悟りの王になろうとします。悟った自分としての覇権取得です。ですがこの自分が居なくなった状態こそが悟りであり再び主権を奪い返せばもう悟りではありません。これを苫米地式コーチングで説明すると面白い。神のコンフォートゾーンが人間になった状態が「自分」です。そしてこのコンフォートゾーンがシフトして神が神であることがコンフォートゾーンにシフトした状態、これが悟りです。この時点で人間としての自分は居ません、コンフォートゾーンがずれてしまっているからです。ところがコンフォートゾーンがシフトする前にこの状態を垣間見てそのままコンフォートゾーンが人間に戻った状態こそが自我、自分が理想とすることなのです。自我は絶対に自我を消滅させたくないので手が込んでいます。

目指すべきはコンフォートゾーンの完全シフト

目指すべきは自分の完全解消です。コンフォートゾーンの完璧なシフトです。人間であるというコンフォートゾーンから神であるということにコンフォートゾーンをズラすことです。神が神であることにコンフォートゾーンがシフトすると人間は神の一部になりますから人間の個別意識を維持できなくなります。これが自我の消滅、終焉です。人間の個別意識とはコンフォートゾーンが人間にあることを意味するからです。神にコンフォートゾーンがシフトすれば人間、元自分は神の表現に戻ります。ですがそれでも五感はあるし思考も感情も湧き続けます。それを所有する自分がいないだけです。元自分がそれを所有するのか、、所有したらそれは自分です。

神は苫米地式コーチングを使って人間になった

神はどうやって人間になったのか??簡単です、、、私は人間である、、ということを信じれるようになるまで情報を滝のように浴び続けたのです。。両親の声かけ、学校での暗記、、全部です。これって苫米地式コーチングでいうゴール側の情報を浴びるように収集しゴールに臨場感を持たせるというアレです。ゴール側に臨場感、リアリティーを感じ続けていけばゴールに親近感、コンフォートゾーンがシフトするというアレです。苫米地氏が口を酸っぱくするまで言っていることそのままです。赤ん坊は、、、両親から滝のような声かけを浴び続け、、私は人間であるというコンフォートゾーンを完成させたのです。神はこうして人間になりました。

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