自我

自分とは記憶に依存した存在

記憶はこの現象界に存在しない

この現象界はどこまでいっても在るように見える世界です、、この現象界に「何か」が在ることは絶対にないのです。すると記憶はどこに在るのか???記憶は空(サーバー)にあります。そして会話のたびにこのサーバー(空)から記憶が湧き出し会話は成り立っているのです。そしてこの記憶を受け取る場所こそが脳です、、脳も見かけ上の物、実態はありません、あくまで見かけ上、ゲーム上、、脳が記憶を受け取ります。

自分の存在を絶対視できるのは記憶があるから

見かけ上のこの体を通じて得た経験の全ては空(サーバー)に記憶されており、、、ゆえにこの体の存在を絶対視するという思考が起こります。そしてこの体の行動を全て決める存在「自分」が居るという感覚が起こるのです、全体(空)から。この体は自由意思で(見かけ上)動きますからこの自分がこに体の言動の全てを牛耳っているという思考が起こります。事実からみればこれは勘違いですが、、「勘違いだ」が起こらない限りこの「自分ゲーム」は何の問題もなく進みます。ただし全体(空)がこの体が私だという成り切り(起こる)は、、、同時に閉塞感を生み出しこれが「苦しい」を土台としたこの人生ゲームになるのです。

釈迦は悟り「人生とは苦である」と語った

人生とは苦なのです、、人生が無くなると絶対幸福になります。人生がない瞬間は熟睡と死です。もしくはこの自我、自分のメカニムを完全腹落ちし、、全体としてこの体を操るという全体主体のゲームに戻すほかありません。見える現象は全て蜃気楼、3D画像でありそこには中身はなく、、ゆえにそこには思考も感情もない、、これを虚無と捉えるか、、面白いと捉えるか、、、それすらも全体から湧いてきます。

霊的進化の罠

魂という存在は便利

魂とは思考です、アイデアです、実在はしません、ですがこのアイデアは大変便利で応用が利きます。霊的進化のために霊的成熟のためにとあらゆるセラピー、メソッドが溢れかえっていますがこれは我々が一般社会でやってきた活動と何も変わりません。より高い偏差値の学校へ、より就職人気会社へ、より高いリッチな家を、、より高く高くというこの活動は魂に受け継がれここでも同じことをするのです。

より高く、より優れた、より強く、、、の輪から抜ける

我々が現実と呼ばれた社会でやってきた進化に疲弊し、スピリチュアルという世界に逃げても待っているのはこの魂の進化ゲームです。魂が進化するのは大変魅力的で神聖な香りがします。ですが散々このパターンで人生が疲れてきてまた同じような進化ゲームに参加するのはもう嫌だ、そう考えてもおかしくはありません。そうです、もう十分、進化発展ゲームは終わりにしたい、、その時に腹落ちするのが悟りです。悟る自分は居ないし悟る魂もない、、という進化ゲーム究極の終焉です。

悟り人すらも人生の最終ゴールにしてしまう

イエスキリスト、釈迦、空海、、、悟ったと言われている人は人生のゴールにされてしまいますがこれは全くの誤解、、、彼らは彼らを形成してきた「自分」「自我」が抜け落ちた体です。つまり人体の中に形成されているだろうとされてきた自分という存在が形成されなくなった体、、、自分という感覚が抜け落ち全体がその体の口を通じてメッセージが湧き上がったという事実があるのみです。多くの方がイメージする悟り人と悟りは全く異なります。

至福しかない世界でどうやって苦しむことができるか

この世界は至福で構成されている

信じられないかもしれませんがこの世界の構成材料は至福です。至福が原料でこの世界は構成されています。ですから我々はいつでもこの至福に戻れるのです、原料が至福ですから。だったら早く至福に戻してくれ、、、大丈夫焦らなくても、自分という感覚すら至福を原料に構成されていますから自分という感覚が消えれば即至福に戻ります。じゃあ早く自分を消してくれ!!自分という感覚を湧かし続けるのも至福です、苦しいの原料も至福です。自分という感覚が起こらなくなれば即至福になります。その時を待つしかありません。

1日の中で自分が居ない状態を作ってしまう

目を閉じれば自分が居なくなります、何を言っているのか??違います、本当に目を閉じると自分が居なくなるのです。目を閉じればこの体が消えてなくなります、あとは自分という感覚だけになります。人は視覚に頼る動物ですから目を開けば強烈に自分を感じます。そうなってしまっているのです。ですから意図的に目を閉じて体を消してしまうのです。この世界は五感が感じることができないものは存在できません、これは答えです。といことは目を閉じるだけでこの世界は半分消えたようなもの、この体も確実に消えます。その時に強烈に自分という感覚を維持することが逆に難しくなります。

積極的に自分という感覚を消していくトレーニングを

何十万回という究極のスパルタトレーニングで「自分」という感覚を作り上げたのですから「自分」を消すにも徹底的なスパルタトレーニングは有効です。その一つが目を閉じてこの体を消してしまうというトレーニング、つまり瞑想です。あとは何かに夢中になる時間を多く作ること、その時自分が居なくなるはずです。私はこのブログ制作を徹底的に夢中に行います、無我夢中でこれを行います。これは実は瞑想なのです。目を閉じて自分を無くすか、無我夢中になって自分を無くす、、目的は同じです。自我の終焉です。

自分(縄張り)の必要性を無くしてしまう

悟りとは自分(縄張り意識)の必要性自体を無くしてしまうこと

自分が頑張ってこの体を保持してきた、自分が懸命にこの体をサバイブさせてきた、、自分がなんとかこの体を生き伸ばしてきた、、にも関わらず自分なんて本当は居ないんですよ、、、と突然言われて何を言っているか分かりません。いきなりお役御免ですよと言われても、、無理ゲーです。そうではなくなぜ自分が必要ないのかを説得していきます、、、元々全てが根源の現れであり思考も全て根源の現れです、自我悪者であるはずがなく全て根源(愛)でできています、ただこの自分が居るという思考が強く湧き出しますと苦しいもセットで湧いてしまうのです。そして全ての思考が実は根元から湧いているだけだった、自分が作り出していたのではなくただ湧いていただけだった、、この事実を知るだけで軽くなるのです。縄張り意識が和らぐわけです。縄張りを強く意識して「自分」がこの縄張りを守るのだという思考が湧きにくくなるのです。もうこれからは「自分」が頑張る必要がないという事実を理解するが起きればそれでいいのです。

自分の必要性を理解する方が早い

本当は居ないんです、本当は自分なんて存在していないんです、自分が居ないの大合唱はこれまでの脳の進化からすると急ブレーキになってしまいパニックになるだけです。そうではなく自分を肯定していく、自分を絶対肯定してく、、この作業が自分を緩めます。そうかこれまでの決断全てはただ根元から湧いてきていただけだったんだ、、これまでの思考も全て根元から湧いていただけだったんだ、、これが自分を緩めていきます、自分の必要性が崩れていくのです。

強烈な縄張り意識(自分)も愛せる

縄張りを強く意識している狼は悪者でしょうか、縄張りを強く意識しているライオンはエゴイストでしょうか、、彼らはただ自身を食べさせるために必死なだけです。狼、ライオンの縄張り意識は愛おしいものです。そしてその縄張り意識も根元からの現れですから愛でできています。この世で愛(根源)以外の現れはありません。そしてそこまで理解が進んでいき自分(縄張り意識)すらも愛せるようになった時に全てが根源だった(悟り)が腹落ちします。

自分が居なければ苦しむことはできない

なぜ野生動物は苦しむことができないのか???

野生動物は孤独感、悲壮感、怒り、苦しみを感じることができません、彼らはそれらの感情思考を感じる術がないのです。なぜか???自分という自我が芽生えていないからです、自分が居るという思考が湧いていないからです。これがないとなぜ喜怒哀楽が湧かないのか??それは攻撃されても罵られても個人というアイデアがなければ反応できないのです。何かを盗まれた時に自分のお金という思考がなければ怒ることができません。ただお金が無くなったでは怒りが湧きようがないのです。

人間の脳は進化し自分を作り上げた

人間の脳は進化し野生動物とは全く別次元の活動を始めました。それが思考活動です、この思考活動が自我を形成し自分の餌、自分の土地、自分の獲物、自分の寝床、自分の領地、自分の縄張りを強化していったのです。これは自己生存保存能力最大の強化になりました、、ところがこの自己は、、、他者からの侵略に対して過剰に反応します、、これが全苦しみの元です。自己保存能力強化と引き換えに苦しみを作り上げたのです。

この事実をただ認識する

この事実を認識しますと、、、怒り、むかつき、悲しみ、孤独が湧いてこなくなります。なぜならばこの感情、思考は自己強化戦略の副作用に過ぎないからです。本当は自分など存在しない、戦略上作り上げた方が良かっただけ、だからこそこの喜怒哀楽の感情に振り回される必要がないのです。戦略的に自己を作り上げ結果人間という種族はこの地球上で繁栄した、だがこの自己は他者からの侵略(攻撃、批判、中傷誹謗)に過剰に反応する、、結果人生が苦しくなるというメカニズムです。

「悟り」と「自分」の綱引きに勝つ

五感全開で悟り、自分への呼び戻しを見抜く

悟りを学んでいきますと徐々に思考の仕組み、自分の仕組みが分かってきて五感中心、事実中心、根源中心の生活にシフトしていきます。思考のサイクル、悩みのサイクルが理解できてきますと悩み続けるということが逆にできなくなります。なえならばその思考こそが苦しさを生み出していることが腹落ちできるからです。するといつも爽快、いつも軽快という覚醒状態になっていきます。ところがこの状態は周囲からの評価も高いのでここでこの評価は「自分」が得たという思考が再登場してきます。この流れで多くの人はまた思考に振り回されていきます。

悟りが開きかけた時思考が大量流入してくる

この自分ゲーム最大の山場は悟りが開きかけたその瞬間、思考が大量流出して「自分が居る」を維持しようとする場面です。映画マトリックスでもネオが覚醒する瞬間までエージェントスミスが大量投入されてきます。覚醒を阻もうとエージェントスミスが大抵抗を続けるのです。この大抵抗こそが思考の大量投入、「自分」は凄い、「自分」はもっと評価されるべき、「自分」はついに悟りを開くぞ、、、です。気を抜いている間に「自分が居る」という最強の思考が湧いてきます。

爽快な状態に周囲は評価で「自分」を思い出させようとする

自我が薄れ爽快な状態が湧いてきますと、、この体に向かって周囲は最大限の評価を送ってきます。あなたはなんて素敵な人なのだろう、あなたの近くに居たい、あなたからその方法を教えて欲しい、という連打を浴びせてくるのです。これによってこの体は再び自分を思い出し自分への評価に酔いしれるという思考に取り込まれていきます。自分は評価されるなーという一瞬の酔いが覚めますとまた苦しみの人生が続くのです。これが思考(エージェントスミス)の悟り阻止メソッドです。

エージェントスミスの手の内を掴む

エージェントスミスの目的は、、、「自分が居る」を維持することそれだけです。これが目的ですからそのためにあらゆる思考が湧いてきます、例えばあいつはお前の悪口を影で言っているのでは?友人Aはお前を騙そうとしているかもよ、周囲から評価されているお前はいつか叩き落とされるかもよ、、、と、、するとそれは困る、それは腹立たしい、それはムカつく、、、という思考が再び湧いてきて、、、自分が再浮上するのです。まさか湧いてくる思考がエージェントスミスだったとは、、、、これは見抜けない。ただこれもエージェントスミスの手の内が最初から分かっていればスルーできます、思考が湧いたらバッサバッサと切り倒せばいいのです。

日本が今混迷の中に居る?

真っ赤な嘘

バブルが弾け日本は混迷の社会に、、、いったい何年間こなんな重いドラマを続けるのでしょうか?答えは何も起きていません、完璧な現象、事実がただ起き続けています。完璧な現象事実に人間は勝手な解釈をしてああでもないこうでもないと思考の渦に入っていくのです、結果重い空気がのしかかり苦しさが湧き上がっていきます。事実は何も起きてなくただ現象が移り変わるのみ、そしてその現象に我々の自我は何一つ影響を与えることはありません、そんなはずはない総理大臣の決定は全国民に影響を与えるではないか?そうではないのです、その決定こそが勝手に根元から湧いてきただけなのです。全てはそうなるように決まっているのです。

先が見えない、、、

先が見えない社会、、、これもとんでもない大誤解、、、先など見えるわけがないのです、自分自身の行動、思考、決定、全てが全自動であり何一つコントロールできないにも関わらずなぜ社会全体の先など見えるのでしょうか。自分の思考はコントロールできている、だからこそ先が見えないこの社会が怖い、、、大きな勘違いです。自分の思考などがそもそも無く、さらにその思考もただ湧いてきているだけ、自分様に起きる結果も全部決まっています。

人生のこの先など一ミリも考えなくていい

老後の心配、年金の心配、体の心配、、、全てが決まり切っています。決まり切っているにも関わらず一体何を心配する必要があるのでしょうか。何も心配することなどない、、逆に言えば心配するというのは自分というものに今後の未来を変える力があると信じている証拠でもあります、そんな力は微塵も用意されていません。絶望的なまでにこの個人には未来を切り開く力など皆無です。答えたただ淡々とこの体を通じて思考、行動が湧いてくるだけです。それ以上も以下もないのです。

目の前の不幸人は誰?

目の前に重篤な病人にが居ても、、、

目の前に重篤な病人、大借金を抱えた人、失業に失業を重ねホームレスになった人が居ても、、、あなたは何も同情する必要はありません。そのように映るその人はそのようになるように最初から完璧に設定されて居たののです、宇宙の采配には一切のミスがありませんからそうなるように全て決められていたというだけです。そしてその人々がさぞ辛いだろうというのはあなたの中に湧いてきた想像、思考でしかないということです。騙されないでください、、辛いだろうはどこまでいっても思考なのです。「辛い」という事実はどこにも起こっていません。

何も解決すべき問題はない

目の前にはただ完璧な現象が起き続けています、この完璧な現象に人間様が関与できることなど一切ありません。いかにこの完璧な現象が不完璧に見えてもそう見えているだけ、宇宙の采配にミスなどおきようがないのです。その采配に対し自分はああだこうだと嘆き悲しみますがそれは思考という想像上のことです。事実は全く何も関係がないのです。事実は完璧に目の前で現象化し続けています。

ホームレスも、大病人も、、、

ホームレスも大病人も完璧にその姿をあなたの目の前に映し出しています。ホームレスの財布の中に1億円の現金があることもなく、大病人がオリンピックに出たら金メダルを取ったということも起きません。このゲームは完璧にその緻密さを奏でています。その緻密さ精巧さこそがこのゲーム、現象の素晴らさであり、、目の前のホームレス、大病人をみて悩み苦しむのは傲慢な自我あってのことです。本当はその自分すらどこにも居ないというのが事実です。

最初から全て決まっているならば

何が面白い人生なのか?

最初から全て決まっているんですよ、そうお伝えすると多くの方はでは何が楽しい人生なのか?と反応します。この反応こそが今不幸な証拠です、今苦しい証拠です。毎日が楽しくて仕方がないのならば最初から全て決まっていようといないとどちらでもいいからです。幼稚園の遊具で毎日楽しく遊んでいる生徒にこの事実を伝えても誰もショックを受けないでしょう。なぜならば今楽しいのだからそんなことはどっちでもいい、、ということです。

絶対的幸福感に包まれて

最初から全て決まっていると聞いて「良かった」「素晴らしい」と思う方は稀です。なぜならばこの「自分」はこの人生の全責任を任され運営してきたと信じ切ってきたからです。今更お役御免、社長職辞任、代表取締役解任は酷過ぎるよ、、、という話です。じゃあ「自分」はこれから何をして生きていけばいいのか??という話です。それは当たり前のこと、退職金もない、慰労金もない、慰謝料もない、、じゃやってられないというわけです。ですがこの事実が腹落ちしてきますと、、確かに自分が決めていないなー、、という事実が徐々に押し寄せてきます。そしてお役御免になった自分は徐々に忘れさられていく、、辞めた社長の影がいつの間にかなくなっていく会社と同じです。

桐島、部活辞めたってよ

この映画の中の桐島は、、映画の作中一切登場しません、桐島の周辺の映像のみ、、その中には桐島の姿が全くでてこないのです。霧島を知る知人、友人、同級生は全部でてきますが肝心の桐島が全くでてこないのです。ですがこの映画は完璧に桐島抜きで話が進んでいくのです。これがまさに自我、自分というものです。自分というものなど一切でてこないにも関わらずこの人生は完全に進んでいるのです。そして自分というのが本当は居ないのならばこの人生そのものが嘘、勘違いであることも腹落ちしてきます。この腹落ちは自分がするのではなく、腹落ちがただ起きます、湧き上がります。

桐島が実は居ないのならば

この映画では最初から最後まで全く桐島が登場しないのですが、、そうなればこの桐島を主人公にした映画そのものはただの映像になります、映像が移り変わりその登場人物が桐島がまるで居るかのように演技を続けていきます、桐島が絶対に居ると信じれるようなあらゆるシナリオが用意されこの映画は進んでいくのです。そして本当は桐島は居ない、、、これが我々の人生の正体です。生まれてきてからまるで「自分」というものが居るかのような扱いを受け続け、自分が絶対に居るという確信に変わる、その自分が「湧いてくる思考」を所有することで意思決定し人生を選択する「自分」に昇格していくのです。

ただ事実だけを見てみる

「私は居る」は想像

我々人間は多くの時間を想像に費やします、私が居る、友人Aは悪い奴だ、学校の先生Bは優しい人だ、私の親は何も分かってくれない、、、これらは全部想像です、、、先ず「私」は想像物です、そして友人Aも体は実在しますがその中居るはずのAは想像の域を出ません、学校の先生も体は実在しますがその中に居るはずのBは名前であって実態を証明できません。私の親にあっても体は実在しますがその体の中に親の自我を見つけることは不可能です。想像物である「私」とこれまた想像物である「A」「B」「親」との関係もこれまた想像でしかありません。この想像上の人物同士の関係について悩むという思考が湧いていて苦しんでいるのです。

人間関係が苦しいのは実態がないから

職場では人間関係だけが苦しい、家族でも人間関係だけが苦しい、親との人間関係だけが苦しい、、、この苦しさは全て想像上の想像物の関係性から生まれています。体は間違いなくありますがその中に「自我が在る」というのは間違いなく想像です。間違いのない想像物同士の関係は事実とは無関係のフィクションですからこれは苦しいのです。事実とは根源であり、根源から湧き上がる想像物の中に入り込んでいけば苦しさが根源から湧いてきます。

苦しいのが好きならば

苦しい思いをしたいのならば徹底的に人間関係の中にどっぷりと浸かってみてください、想像VS想像の世界は思考の駆け引きが起こり苦しさマックスになっていきます。人間関係の中に飲み込まれても決して思考を野放しにしないことです、あいつはこんなことを考えているのでは?あんな悪巧みをしているのでは?腹の中では実は自分を嫌っているのでは??このような思考の波に飲み込まれないことです、感じたら感じ放し、湧いたら湧き放し、、人間関係が至福に誘ってくれることはなくそこに期待しないことなのです。そうではなく事実に徹底的に向き合うことこそが至福への入り口であることを悟ることです。

事実とは

事実とは体の五感です、そこに人が居るのを感じる、そこに音楽が流れているのを感じる、そこにスポーツ中継があるのを感じる、食事を感じる、仕事を感じる、、、人間の面白い会話を感じる、、ここに徹底的に向き合うのです。この向き合う先に思考ではない本当の至福があります。人間という思考上の幻想ゲームにのめり込むのではなく五感にのめり込んで行く、、感じるという事実に徹底的に向き合うことで常に根源に触れ続けるのです。