自我

現実だと信じてきたからこその全行動が無駄になる

悟りのメッセージの限界点

人生を長く生きてきた人ほどに、、、私の人生には何か意義があった、、この現実を生き抜くための信念を貫いてきた、、、と人それぞれにこの現実と私という戦い、向き合いに意義を見出しています。。。。ですが悟りとはこの全てを全否定します、、このストーリー、この私が居るという大前提が錯覚ですよという究極のメッセージです。何十年間の努力を無駄にされたようなメッセージなのです。だからこそ多くの方はこの悟り系のメッセージに対し拒絶反応を起こします。

それでもいい

それでいい、、これまでの努力が全部無駄になったとしても意味が無かったとしても本当の幸福にたどりつきたいんだ、、、そのような心境にたどり着いた者が悟りのメッセージを受け入れます、、、ただ今が苦しいだけ、、では難しい、、、なぜならば、、、自我を信じている状態は、、、これまでの努力を必ず報われるようにしたい、、という衝動が働くからです。

身も蓋もない

この私がイメージに過ぎず、、実在していない、、、みんなでイメージを共有しあい、、、そのイメージが実在しているという前提でドラマを作り上げていた、、、これが事実です、、この事実を認めて初めて、、至福に至ります。自己意識が現れるということは同時に集団との共存を強く意識しますから、、そこを捨てるなどというのは大変な恐怖心が湧きます、、、ゆえに、、、そのメッセージを遠いどこかに閉まっておきます。

学べば食えるという気づきの重要性

学ぶというのは気づくということ

学ぶとはなんでしょうか???学ぶとは今まで知らなかった言葉、概念を覚えていくことです、、知らなかったことに気づき、、学習をしていきます。。。りんごには実は100種類の名前がある、、、このことを知らなかった人はそこに気づき学びます。。。学ぶということは新しい概念に気づき覚えていくことです。基本的に人間は多くの知識を持っている方が生きやすくなります、、肉体としては、、、例えば就職先を一社しか知らない人よりも100社知ってる方が入社成功率が上がります、、知識とは生き延びるための選択肢を増やします。

「私」にとって学ぶメリットがあることに気づく

この私はイメージですが、、このイメージの世界の中で学ぶことは生きるための選択肢を増やし生き延びやすくなっていきます、、、この気づきが先ずは学ぶことで起きます、、、学ぶというのはこの体を生き延びやすくするので、、、学ぶことに抵抗が起きにくいのは当然です、、そして学んで学んでよりこの体を安全領域に持っていきます、、

この延長線上に悟りがあれば、、、

学べば食いやすくなる、、これに気づきの意識が気づきますと、、学び続けることができます、、、ストーリー上の私を通じた思考もこれに抵抗せず、行動もこれに抵抗をしません、、、学べば生き延びやすい、、という気づきがあるからです。。。悟りとは自我の消滅にも関わらずこれらのメッセージを比較的抵抗に遭わずに、、学び続けることができます、、、学べば食えるという気づきが大きく作用します。自我が消滅してもこの体は食えるという気づきが気づきの意識にあるからです。

名曲

名曲とは???

名曲とは、、、自我、私、個人という存在を完全に忘れた状態で、、、真我から生まれ出たものです、、、将来の心配をしながら、、来年の予算を気にしながら、、、名曲は生まれない、、、完全なる真我の状態から、この体を通じて起こった創造物です。

静寂から突然それが起こる

思考をこねくり回したら、、名曲が生まれた、、、あまり聞いたことがありません、、、思考をこねくり回し、、疲れ果て、、、、思考が全く止まってしまった時に、、、名曲が起きる、、、しがらみが多くなり、、、個人を強く意識するようになると。、、、この個人と思考はセットですから思考がガンガンに湧くようになります、、この状態では無我に入れない、、、、真我に入れない、、、

名曲を作って売れなければ

この発想が起これば、、、これは思考ですから、、、、イメージの世界、幻想の世界に入り込みます、、売れるというのはこのイメージの世界での現象です、、、この中で売れることを考えれば、、、名曲は起きません、、この場所にはないからです。。。。名曲はイメージの外、幻想の外に存在します。。。邪念が完全に抜けた場所、、そこに名曲が存在します。

自我の根っこをぶった切る

勘違いの大元

自我の活動、反応は、、勘違いという大きな土台の上で起こる化学反応です、、化学反応ですから、、これを静止できる個人、自分は存在しません、、、化学反応を止める唯一の方法は、、この勘違いという土台に完璧に気づく以外に道はないのです。。。その大きな勘違いとは、、、この自分が自由意志で物事を決めているという勘違いです。これが嘘だった、勘違いだった、、、という大どんでん返し、天動説が地動説に切り替わるようなパラダイムシフトを超こします、、すると自由意志がある個人を前提にした、、思考、行動が湧いてこない、、もしくは途中で気づくようになります。

地動説を信じ切った後に。。。

地動説を信じ切った後に、、今日の太陽は早く動くなーとは思いませんね、、全く同じメカニズムです、、、全ての言動は真我から勝手に起こっている、、、これを腹の底から信じた時に、、感情、思考、行動が変わってしまうのです、、、勝手に。蜃気楼を見て早くあそこに行きたい、、とは思いません、蜃気楼という気づきが起きたあとに、、その衝動がもう起きないのです。

これは人類の新しいパラダイムシフト

個人の思考、行動、感情が、、、全部真我からただ起こっていただけだった、、、この気づきは、、、人類のパラダイムシフトです、、この気づきは地動説後の人類の発展と同じです、、、それぐらいに大きな気づきです。この気づきが今人類に起きそうになっています。情報革命が進み、、悟り、ノンデュアリティのメッセージが徐々に世間に浸透し始めています、、これは奇跡です。

難しい入り方

こうした方がいい

こうした方がいい、、このメッセージは、、、こうすればもっと楽になりますよ、、幸福にんりますよ、、苦しみがなくなりますよ、、、という意味を含みます、、、ところがこのメッセージの功罪は、、、それを受け入れることができる自己意識、自我がまるでいるかのような書き方になってしまいます、、、相手は分かりました、、そうしてみます!!となる、、、、この勘違いが苦しみを生んでいます。。。ですが、、、本質の部分では、真我の部分では、、このメッセージによって反応が変わる場合もある、、ということです。。勘違いを起こすリスク、真我からの起こるが変わるメリット、、、この両面、矛盾を常にはらむのがこの悟りのメッセージです。

歯に海苔がついているよ

相手の歯に海苔がついている時、、、このメッセージを当然言いますね、、、相手は気づき、、直ぐに海苔をとる、、すると相手は、、私が海苔をとった、、、と思う、、、この当たり前のやりとりに人間の苦しみが隠れています、、メッセージを聞いた相手の中で、、、、「海苔を取らなきゃ」という思考が真我から起き、海苔を取るが起きた、、、そして最後に「私は海苔を取った」という感覚が起きる、、、これが全てです。。。この理解、この実感が湧かないがゆえに、、、、全ての苦しみが生まれます。

物事を良くしたい、、という不幸

もう少し売り上げが高ければ、、もう少し天気がよければ、、もう少し睡眠時間が取れれば、、人間とはこの連続、、毎日毎分、、この心理状態に犯されています。。。。。もう少し、、がなくなることは一生ないでしょう、、、ですが、、、、今この目の前の現象は神、真我、根源から起こった現象です、、明日も明後日も、来年も、、ずっと、、、この現象を変える力は個人には一切ない、、、、この事実が腹落ちしますと、、、急に楽になります、、もう何も改善しなくていい、、もうこの世界に私は何も責任を取らなくていい、、この脱力が起きます。。。。。人生で初めての脱力、、、それがこの事実を理解することです。

仮に変えたいという衝動が起こっても

仮に仮に、、この世界をこう変えたいなーという衝動が起こっても、、、それも真我、神、根源から起きています、、、、自己意識が起こした???とんでもない、、そんな力は一切ありません、、自己意識自体が真我からの起こりです、、、悟りのドミノはここから倒れます、、、身も蓋もない、、この事実から悟りのドミノが倒れていきます。

ユニフォーム(私)はただの番号

ユニフォームが突然、、、

スポーツ選手のユニフォーム、、ユニフォームには選手の動きの全てを、、、何もコントールする力はなく、、ただの番号として機能します、、ここを勘違いする人はいません、、、ところが、、、これを「人間」に当てはめると、、、体に付けられた「名前」これはユニフォームでしかないのですがこのユニフォーム「名前」がなぜ全思考、行動のコントロールをしている、、、という大勘違い起きます、、、ここで重要なのは、、、私は名前「ユニフォーム」であるという動きは、、、ユニフォーム「名前」にはできません、、これをできるのはこの体から思考を起こす存在、真我です。。

自己意識という罠

多くの方は自己意識、、この体の中に自分が居る、、という発想はこの体の中から起こっていると信じていますが違います、、、この体の中に真我からそれが起きているのです。。自己意識は神、真我作り出したものです、、この辺りが悟りを非常に難しくします、、、、この世界で何かを起こすことができる存在は神、真我、無我であり、、、この体、ユニフォームには何の力もないのです。。。

私の自己意識が、、、やっちまって

私の自我が、、私の自己意識が、、、私のユニフォームが、、、全部勘違いです、、、この説明こそが苦しみの元なのです、、、自我、自己意識、ユニフォーム、、、ここには力がないのです、、何かを起こす、、、起こすことができるのは神、真我です。。。ここさえ整理がつけば、、、あとはドミノが倒れるように、、気づきの連鎖が起きます。。。「昨日もううちょっとお酒を押さえておけば」、、、、、違う違う、、、それを決めることができる個人、自我、、ユニフォームは居ないのです。。。。動きは全部根元、神、真我から起きます。

真我の勘違いを前提にした自動反応=自我

自我という言葉の功罪

自我という言葉をハッキリと理解する、、これはもう悟りの全てです、、、ここが理解できてしまえば、、もう人生は苦しむことができません、、、ですがこの自我、覚者によって説明が曖昧ゆえに、、、混乱を究めます、、、、、そして自我に対応する言葉、、真我、無我があることで益々混乱が起こるわけです。。ここを整理したいと思います。。。

自我は実在はしない

自我という、、、物質はまず完璧に実在しません、、、この体の中に自我があって、、、自我は物質ではない、、、この体の中に「私」という存在が在ってこの私が言動の全てを行っているという勘違いが起き、、その勘違いを元にした全ての反応を自我と呼びます、、、要は人間の発言、行動はほぼ自我そのものです、、これを自我がやっている、、、という表現が出ることで、、、自我という、、実態がないものがまたここで生まれます。。ここが悟りを非常に難しくします。

つまり人間の動きは自我そのもの

あの人の自我が、、、というよりも、、勘違いを前提にしたその動きが自我です、、、悪口を言ったら、、、相手が怒り出した、、、、この動きが自我です、、、全ては真我、根源から言動が自動的に起こっている、、この理解が起きていない、、真我から起こる動き、、これが自我です、、、逆に言えば周囲の見かけ上の人間全ての動きが自我です、、、、自我が居て、、、この表現が混乱を招く気がします。

勘違いを起こしたのはユニフォームではない

ここで重要な

体が真我、、ユニフォームは自我、、、体が動きユニフォームは番号に過ぎない、、にも関わらずいつのまにか、、ユニフォームが体の動きを決めている、、、という大勘違いが起きました、、そして今も起きています、、、、その勘違いはユニフォーム(自我)がしたんではありません、、、体(真我)がしたんです、、そして今も。。。ですからユニフォーム(自我)には全くもって罪はないのです、、、

悟り業界では自我の悪口が多くなるが、、、

ここが非常に難しいところ、、悟り本では自我の悪口が列挙します、、、ですが本当のところ、、自我(ユニフォーム)には悪さをする力がない、、悪さをするのは体(真我)です、、、、しかしそこも本当のところ、、真我の動きも自由意志はなく、、、勝手に起こっています。。。ユニフォームが全部が全部を決めているんだ、、という勘違いが真我(体)から起きちゃった、、、ということです。この気づきが悟りです。

本当の自我とは

悟り業界でいう自我とは、、、真我がユニフォームに全部を決める力があるという勘違いが起こりその勘違いを前提にした真我の反応=自我です、、、自我とは反応です、、、ここを覚えてしまう、、、あまり深く考えずにここを理解してしまいますと、、、悟り本で何回も出てくる自我という本性が見えてきます、、、すると、、、自我は実在などするわけがなく、、、それは真我の勘違いを前提にした自動反応(自我)であることは腹落ちします。。そしてその腹落ちは、、ユニフォーム(仮の私)でもなく自我(自動反応)でもなく、、真我そのものから勝手に起こるのです。

なぜユニフォーム(自我)に体の動きを決める力があると勘違いが起こったのか???

そういう勘違いが起こった

真我が体、、ユニフォームが自我と呼ばれています。スポーツ選手は体が動き、ユニフォームはその上に乗っているだけです、、、ユニフォームは選手の動きにまるでノータッチ、、、これが真実です。。。にも関わらず、、ユニフォームが全てを決めている、、、こういう勘違いが起こったのが人間関係、ユニフォーム関係です。勘違いが起こってしまったので、、、、一人の選手(ユニフォーム)が調子が悪いと、、その選手(ユニフォーム)に向かって監督は注意します、、、今日はどうした???と、、、ですが注意を受けた選手(ユニフォーム)は何も決める力がないにも関わらず答えます、、、、全力で頑張ってみますと、、、ギャグです、、人類全員のギャグです。

ユニフォーム(自我)はただ体の動きに付いていく

なぜこんなことが起きたのか????人類の大ハプニング、、、便宜上ユニフォームを着るのは便利です、、ユニフォームには番号が貼ってあってこれがあるとプレイがしやすい、、、ですがそのユニフォームが体の動きを決めているという勘違いが起こってしまったのが最大の不幸、、この不幸を生きて死ぬまでやっているのが、、、このユニフォーム(自我)です。。。この話を聞いても、、、ユニフォームには何の決断を動きを出来ませんから、、、ただ体の動き(真我)に従うだけです、、最初からユニフォーム(自我)は何もしていなかった、、、ただその気づきが起きれば十分です。

絶対失敗したくない

最初はここから始まる

自我が形成されれますと、、、一回の人生絶対に私は失敗だけはしたくない、、このように思うようになります、この見かけ上の私は、、、ですが、、輪廻転生の話を聞き、、そうか人生は何度でもあるんだ、、となると途端に今世は失敗してもしょうがない、、こうなります、、、、その次に実は自分なんてイメージ、概念、幻想で、、本当は存在すらしてない、、と気づきますと、、、絶対幸福になります、、今生きてこの場に居るだけで嬉しい、、です。

そういう意味では輪廻転生は価値がある

輪廻転生という発想、思想、概念は、、自我が存在するというイメージを強く持つ場合大変有効です、、自我はむしろ死んだ後もこの自我が続くのか、、と安心します、、、ですからそういう意味では非常に良いアイデアです。。ですがあくまでこれはアイデア、、私もアイデア、輪廻転生もアイデアです、、、このアイデアの世界を継続させることが一番辛いのです。

失敗も何も失敗する自分がアイデアに過ぎない

私は絶対今世失敗したくないんです、、失敗するのは誰ですか???私です、、でも私って、、言葉が作ったアイデアですよ、、実在はありません、、この体(イメージ)を所有しているいうことにしたアイデアです、、アイデアがどうしたら失敗し不幸になることが出来るのでしょうか???勿論見かけ上、この体は多くの失敗をするかもしれません、、ですが、、その失敗をした「私」はアイデアです。そもそも私という存在が居たのではなくこの体に私というラベルを貼っただけです。その証拠に無人島で生き延びた人には「私」は居ないんです。つまり私の失敗も私の人生も存在しないのです。

これは「私」を辞めることではない

とはいえ社会で生活する我々が「私」を辞めることはできません、、便宜上「私」は必要です、、ですがあくまでこれは便宜上のアイデア、概念、幻想です、、、社会生活を便利にするために「私」という言葉が使われ始めただけに過ぎません。そこに気づくと「私」の幸福ではなく、、今この場所が静寂、平和そのものなのが分かってきます。「私」というアイデアから解放され、、本当の静寂を感じます、、感じるのはアイデアとしての「私」ではなく「私」から解放された全体です。