幻想

ポケモンカードに一億円の値段が付く世界

全てが幻想である理由

ポケモンのレアカードには一億円の値段がつきます。ポケモンカードは紙でできていてその上にカラープリントがされているだけです。この模様が違うことをマニアは多様なカードが存在していると言います。その中のごく一部の模様に対してそれは数が少ないから価値があると思います。これによって一億円の値段がある模様に付けられました。宇宙人から見たら模様が異なるだけ、、ですが人間にとってはその模様には一億円の価値があるとううことになります。

我々は勝手に作り上げた価値観の中で喜怒哀楽を勝手に作り上げ生活している

人間の価値観とは全部ポケモンレアカードです。さつまいもは100円でレアカードは1億円です。これが人間の価値観なのです、その価値観の中で喜怒哀楽が湧き上がりサツマイモを手に入れても嬉しさはなくレアカードを目の前にすると卒倒するほどに喜びます。ポケモンは実在せず人間のアイデアです、これは空想です、この空想に一億円の価値がつくのです。一億円の価値があるというのも思考です。なんとなく分かってきたと思いますが我々は幻想の中にどっぷりと浸かって生きているのです。

現実が厳しいのではない、幻想が厳しいのだ

レアカードに一億円の価値があるという思考が湧き上がり、100年ローンで買う価値があるという思考が湧き上がり、それまらば寝ないでも働こうが湧き上がり、、本当に4時間睡眠で働き続けるが湧き上がる、、、これがこの世を苦しくしているメカニズムです。全部思考の策略です。思考が悪いのではありません、思考というプログラムの中に生きていると苦しくなりますという話です。

あの世などない

あの世があるならこの世は不完璧

あの世がある、、私は何十年もこの言葉を信じてきた一人です。この世で死んだらあの世に行く、、非常に魅力的な(考え方)です。ですがこれは事実ではありません。事実は簡単この世は今見える場所だけ。これ以外は一切存在しません、もしも存在するならば今見えている世界はごく一部(不完璧)になり完璧では無くなってしまいます。今ここで感じる静寂がごく一部ならばこの静寂は完璧では無くなってしまいます。そうですあの世を肯定するということはこの世が完璧で在ることを全否定することになるのです。

この世が完璧であるわけがない、、

この世のどこが完璧なのか??毎日あらゆる犯罪が溢れ返り民事刑事裁判が起き続け、、争いが絶えないこの世のどこが完璧なのか???完璧なのです、不完璧に見えているだけで、そして不完璧に見えていることこそも完璧なのです。完璧な世界が不完璧に見えるためには、、神羅万象、この現象(色)に名前を付けまくりさも独立した存在同士が争っているように見える必要があります。そこまでの手間隙をかけて初めて争いが起こっているように見えているのです。これが完璧なのです。種明かしをすれば全ての素粒子は完璧で、完璧でできた素粒子が構成するあらゆる物質が争いを起こしているように見えることで不完璧を感じるが起きているのです。

この世が絶望的までに不完璧に見えるから

この世が絶望的なまでに不完璧に見えてしまうからこそ人(アイデア)はあの世を想像し(アイデア)輪廻転生を(アイデア)を思いつきました。今まさに夢、幻想を言葉のマジックで見ることができる自分(アイデア)が体が死んでもこれが続くと発想するのは自然なことです。ですが事実はこの目の前に完璧がありこの完璧の上に不完璧に見える世界を作り出しただけということです。紙という完璧な土台に不完璧に見えるような絵を描いただけです。

孤独を感じやすいのは静寂を知らないから

人と居るよりも静寂が心地よい

人と一緒に居るのが好きな人は自分感覚が強い人です、自分感覚があれば分離感、孤独感は湧き出し続けますから自然と人と一緒に居たくなります。私は一人ではないを感じることが出来るからです。ですがこれは分離感自体を減らすことではありませんから常に誰かと一緒に居続ける必要もでてきます。静寂を常に感じることができる人は人を必要としなくなります。静寂とは根源であり根源とは至福です、至福に触れ続けれる人にとって人は逆に自分を意識する存在になりますから疲れるわけです。人と一緒に居て疲れるのは相手は話しかけて来ますから自分を意識しやすくなるのです。分離感と一人ではないが沸き続けます。

目を閉じて静寂に入る

人はいつでも静寂に触れることができます、それは目を閉じることです。目を閉じれば名前がついた物が消え去ります、物が消え自分も消えます、、熟睡中に孤独感を感じないのは当たり前でそこには自分という感覚が存在しないからです。起きるとなぜ孤独感を感じるのか?それは自分を意識するからです。目を開くと自分の所有物が飛び込んできますし、体も飛び込んできます。これによって自分とあらゆる物という幻想の世界が広がるのです。目を閉じると幻想の世界が消え去り静寂の中でただ音がする世界が広がります。これを1日に何度も行います、すると自分という感覚よりも静寂に触れる時間の方が増えていきます。孤独感が消え去り静寂に包み込まれていきます。

何かに夢中になる時

人は何かに夢中になる時我を忘れます、実はあの時間は静寂に包まれています。何かに夢中になっている時に雑音が凄まじかったという記憶はないでしょう、何かに夢中になれる人は体感で静寂を知っている人です。そしてこの静寂が心地が良いために人に会って孤独感を埋めるよりもより何かに夢中になることを優先するのです。静寂に触れる方法の一つです。

目を閉じると悟りが迫ってくる

幻想の世界からの脱却

あらゆる生命現象に名前を付けた我々人類は目を開けば勝手に名前が迫ってきます、我々が物を認識できるのは名前を覚えたからです。完全な根源からの現れの中で物を発見できるのは名前を覚えたからです。大草原の中から鳥を見つけることができるのは鳥という名前を覚えたからです。ですから目を開いた状態で目の前に根源の現れがただ在るということに気づくのは不可能です。本当は鳥も、猫も、木も、雲も全部実在などしません、それはただの根源の現れに過ぎないからです。目を閉じるとこの名前がついた分離体が消え去ります、目の前には名前が一切ない暗闇が広がります、、そして静寂から音が湧くのだけを感じればいいのです。目を閉じるだけではっきりと静寂から音が湧くのを感じます。

見える世界こそが幻想の世界

目を閉じると根源を感じ、目を開くと物が入り込んできます。この名前がついた物が入ってくる世界こそが幻想の世界です、名前などないにも関わらず名前が付いた物がしっかりと入ってきてしまいます。しっかりと幻想の世界が飛び込んでくるのです、「自分」に。この幻想の世界から抜ける方法があります、目を閉じて幻想を締め出すのです。幻想を締め出すと現実が入ってきます。そして音が鳴った時にこれは鳥の声かな?これは子供の声かな、これはヘリコプターの音かな?という発想を捨てます。ただ音に触れます、ただ音が湧くのを感じます。音を発する何かは存在しません。根源、静寂からただ音が湧くのを知るのです。最後は目を開いていても静寂(根源)を感じることができるようになります。幻想の世界の中に居るのに根源が湧き出してきます。幻想も全て根源(静寂)でできているのですからそれも当たり前です。

名前など実在しない

名前とは音です、音の組み合わせで成り立っています、、これは実在しません。りんごという生命現象は存在しないのです。ある生命現象にりんごという音を付けただけです。しかし我々はリンゴが視界に入るとリンゴを生命現象の現れからしっかりと切り抜きします。空間にりんごという分離物体が登場してしまうのです。これが幻想です、幻想を作り出す天才に人間はなってしまったのです。この幻想を終わらせる方法がただ目を閉じること、これだけです。目を閉じて音だけをしっかりと聞きます、思考が湧いたならばその思考が静寂から湧くのを感じます。幻想ではなく根源から音だけが湧くのを感じます。これが根源に触れる、根源を感じる方法です。

幻想の自分を逆に大切にする

幻想としての自分をしっかりと大切にしていく?

一番辛い状態、それは幻想の自分を完全な実在として思い込み、、自分を強く強く守ろうとすることです。強く強く幻想の世界に入り込んでいます。大人は現実を見ろと子供に言いますが大人こそ現実ではなく幻想をしっかりと見ています。子供はこの大人は何を言っているのか最初意味が分からないのです。この大人はなぜいつもイライラし焦っているのか???幻想の中にどっぷり浸かってしまった大人は何をしても分離感、孤独感、不足感が湧き続け苦しんでいるのです。先ずは自分という感覚を無自覚から自覚的になることからスタートするのも一つです。

自分という感覚を持っていることに自覚的になる

自分という感覚をしっかりと持っている、本当はただの肉の塊である生命現象の一部を「自分」という言葉を付けてそれが実在するように振る舞っている、本当は根源の現れの一部にも関わらずそこに名前を付けて実在しているように感じている、、朝起きて直ぐにこの体を自分だと再認識しストーリーを始めている。こうしてこの自分ストーリーに自覚的になっていきます。

全ての経験を「自分」が所有している

朝のコーヒーの味、仕事での成功、友人との楽しい食事、、、これらを「自分」が獲得したと信じているのです。自分というこの確かな感覚が全経験を所有しています。ですがこれはあくまで幻想なのです。ですからどこまでいっても分離感に襲われ続けるのです、この分離感が辛いからさらなる経験をしてこの分離感を埋めようとするわけですからそれを所有するのは結局「自分」という感覚ということになりこのラットレースは続くということです。こんな「自分」を愛するのです、こんな一生懸命な自分を愛してあげてください、ラットレースを走り続ける自分という感覚を微笑んでください。この自分という感覚が無ければこの幻想ゲームは成立しないのですから。

悟りへの欲求が無くならない理由

みんなどこかで気づいている

みんなどこかで気づいています、この世界に生きている限り本当の幸福には出会えないということを。どんな目標を達成してもどんな夢を叶えてもどんな称賛を得ても絶対にそれでは満たされないことを知っています。頭で考えて足を知るを実践しよう、欲張った生活をやめようと心がけてもそれで満たされることはない、、、私たちは本当の幸福にいつか出会えるのだろうか?と思うのです。

ストーリーの世界には至福はない

私が居る、これを認識しながら至福に至ることは絶対にありません。私が居る世界には至福はない、、ここは幻想の世界、妄想の世界、、息苦しい世界なのです。全員が息苦しいのですから争いは絶えず、競争も絶えない、奪いの世界、餓鬼畜生界になってしまうのです。もしも苦しみから解放されるには解脱しかない、、解脱とは「自分が居る」という記憶が抜け落ちることです。

先ずは無間地獄を理解する

どこまで幸福を追いかけても至福には絶対に至らないということを先ずは理解することがこの地獄を緩和する一つの方法です。このストーリーの中でこれを追いかけても幸福を手に入れるのは「自分」ですから難しい。この自分は記憶が作り出した思考であり幻想、実態がないのです。ですからこの自分を幸せにすることは不可能なのです。この自分が幻想であることを見破りこの自分に振り回されないようにする、この自分の幸福探しに付き合わないことが重要です。

自分の幸福探しはキリがない

自分の幸福探しは地獄の始まり、この自分を幸福にさせようと頑張れば頑張るほどに地獄に入り込んでいきます。この自分を幸福にしようと頑張ってもちっとも幸福にならない、むしろ苦しくなっていく、、なぜならばこの自分は実在しないからです。実在しない自分を幸福にしようなど不可能なのです。この自分が嘘であることに気づき五感を開いていきます。自分を作り出す思考主体の世界から五感という根源の世界を開くことで根源に近づきます。

究極の至福に触れれば触れるほどに近づいてくる

なぜあの人はあの苦痛に耐えられるのか

ブラック企業に勤めほとんど睡眠時間が確保できていないにも関わらずなぜあの人はあの会社を辞めないのか??実はその人にとってその生活はそれほど苦痛ではないというのが答えです。至福に触れるとより至福に触れることができていきます、至福とは根源、事実のことです。事実は根源からできていますから事実に触れていくと根源、至福が近づいてきます。思考とは実在しない、これはファンタジー、幻想ですから思考に触れれば触れるほどにファンタジー、幻想に取り込まれていきます。ここは根源(至福)が喜怒哀楽を味わうことができる場所です。至福が自分(思考)を作り出し喜怒哀楽を味わうことができる場所です。

辛い時期は根源(至福)が自分(思考)を作り出し辛いを完璧に味わいたいのだ

20代の頃は本当に辛かった、、、これは至福(根源)が自分(思考)を湧き出しファンタジーの世界を作り出し辛いを経験したかったのです。至福は至福のままでは辛いを経験できない、そのために自分(幻想)を作って辛いを味わったのです。自分とは至福以外を経験する道具(思考)です。至福でしかない至福は至福を経験することもできないのです、だからこそ至福ではない状態(自分)を湧き出し自分を使って至福を再発見させるという経験を積んでいるのです。

人生が辛い、、、完璧

至福は至福のままでは辛いを経験できない、、、だから自分が居る(思考)を湧き出し自分になりすましファンタジーの世界を経験しました、それがこの世です。この世とは喜怒哀楽を経験する場所なのです、だから今人生が辛いのならばそれは至福(根源)の狙い通り、、完璧なのです。友人が辛そうで悲しくなる、、その友人の辛い経験こそが至福(根源)の狙い通りなのです、そして辛そうにしている友人は実在せず辛いという経験だけが事実です。辛そうにしている友人の正体は根源そのもの、根源から湧く思考です。

ただ事実だけを見てみる

「私は居る」は想像

我々人間は多くの時間を想像に費やします、私が居る、友人Aは悪い奴だ、学校の先生Bは優しい人だ、私の親は何も分かってくれない、、、これらは全部想像です、、、先ず「私」は想像物です、そして友人Aも体は実在しますがその中居るはずのAは想像の域を出ません、学校の先生も体は実在しますがその中に居るはずのBは名前であって実態を証明できません。私の親にあっても体は実在しますがその体の中に親の自我を見つけることは不可能です。想像物である「私」とこれまた想像物である「A」「B」「親」との関係もこれまた想像でしかありません。この想像上の人物同士の関係について悩むという思考が湧いていて苦しんでいるのです。

人間関係が苦しいのは実態がないから

職場では人間関係だけが苦しい、家族でも人間関係だけが苦しい、親との人間関係だけが苦しい、、、この苦しさは全て想像上の想像物の関係性から生まれています。体は間違いなくありますがその中に「自我が在る」というのは間違いなく想像です。間違いのない想像物同士の関係は事実とは無関係のフィクションですからこれは苦しいのです。事実とは根源であり、根源から湧き上がる想像物の中に入り込んでいけば苦しさが根源から湧いてきます。

苦しいのが好きならば

苦しい思いをしたいのならば徹底的に人間関係の中にどっぷりと浸かってみてください、想像VS想像の世界は思考の駆け引きが起こり苦しさマックスになっていきます。人間関係の中に飲み込まれても決して思考を野放しにしないことです、あいつはこんなことを考えているのでは?あんな悪巧みをしているのでは?腹の中では実は自分を嫌っているのでは??このような思考の波に飲み込まれないことです、感じたら感じ放し、湧いたら湧き放し、、人間関係が至福に誘ってくれることはなくそこに期待しないことなのです。そうではなく事実に徹底的に向き合うことこそが至福への入り口であることを悟ることです。

事実とは

事実とは体の五感です、そこに人が居るのを感じる、そこに音楽が流れているのを感じる、そこにスポーツ中継があるのを感じる、食事を感じる、仕事を感じる、、、人間の面白い会話を感じる、、ここに徹底的に向き合うのです。この向き合う先に思考ではない本当の至福があります。人間という思考上の幻想ゲームにのめり込むのではなく五感にのめり込んで行く、、感じるという事実に徹底的に向き合うことで常に根源に触れ続けるのです。

インターネットの世界はこの世を露わにする

ネット上の情報はどこにある???

インターネットを我々は何気なしに使っています。今ではもう若者、大人の生活においてメインになったのは間違いないでしょう。特に子供など遊びのほとんどがネットを介しています。では我々が普段親しんでいるネット上の情報はどこにあるのか???という話です。答えはサーバーということになりますが、、サーバーの中をかっぽじって見れば一体何があるのか???恐らく無機質なチップしかないでしょう。間違いなく情報を閲覧できることはありません、物理的に。つまり我々が普段親しんでいるこの画面、ソフトは物理的には実在していないのです。

我々が見ているこの物理的世界も実在しない

覚者は悟り、、この物理的世界は実在していないことを理解します。インターネット情報と同じ画面上には間違いなく見えますが、、、実在していない、、あるように見えるだけ、、、、これが我々が普段接している世界そのものです。見えるし、触れれるし、香れるし、味わえる、、だけど実在はしていない、、、どこまで行ってもインターネットの世界と同じなのです。幻想だけど楽しめる、幻想だけど苦しめる、、これはネットもこの世も全く同じです。

ネットの中身は実在しないから無視???

ネットの中身は実在していない、、、だから無視でいい、、この意見はピントがズレています。誰もネットを強要されて遊んでいないはずです、皆好奇心、怖いもの見たさでネットを始めたはずです。今では携帯電話にデフォルトでネットがついており使い倒しています。それは便利だから。この人間世界も同じ、大きな神が人間体験をしたくてやっています、実在していないからヤらない、、という話はピントがずれています。

観念がなければこの夢は誕生しない

思考、観念、ビリーフが無ければこの夢は成立しない

思考、観念、ビリーフはこの世界を構築するプログラム言語です。この世界は自身の思考、観念、ビリーフに支えられています。逆にいえば観念が全くなければこの世界はただのエネルギーになります。プログラムがないのですから。この夢、我々が生きているこの幻想は我々が構築したプログラム言語で成立しておりそれが普段の我々の生活、経験、入ってくる情報から成り立っているのです。

人生を変えたければ価値観を変える、人生を辞めたければ思考を手放す

人生を真剣に変えたいのであれば価値観を変えなくてはなりません、価値観が変われば見える世界も変わります、脳が重要というモノのみを見せてくれます。その重要であるという価値基準が変わるのですから見える世界は変わって当然です。ですが価値観を変える、観念を変える、ビリーフを変えるというのはあくまでもこの小さい神のストーリーの中に話であり、このストーリーの中に居る限りは本当の苦しみから解放されることはありません。価値観がなぜ見える世界、感じる世界、触れる世界を変えるのか、、ここにフォーカスしていきますと人間の構築が理解できます。これは神として小さい神(人間)を観察する視点です。主人公が神になります。

視座が変わる

自分の人生というものに圧倒的なリアリティーを感じ、閉塞感、拘束感、閉鎖感の中に居る時人は絶望的な気持ちになります。ですがこの人生は小さな神の体験ストーリーであることを理解し観念、価値観が変わるとこの人生も変わることが理解できますと閉塞感にヒビが入ります、少し隙間ができます。その隙間から光が入ってきます。その光とは大きな神の光です。そして最終的には自分は小さい神ではなく元々大きな神であったという気づきが起こります。