気づきの意識

ただ観察するの深い意味

観察する存在は悩むことができない

全ての言動は全体、気づきの意識からただ起こっています、、、ただ起きています。。。怒りの感情がガッツリ起こったとしてもそれは全体、気づきの意識から起こりました、、、これを全体、気づきの意識として観察します、、、これを自分ごととは捉えず、、ひたすらに観察するのです、、、すると摩訶不思議、怒りの感情がに伴って思考が湧いてきません、、、直ぐに静かになります、、なぜならば怒りの感情を観察する全体、気づきの意識は静寂そのものだからです。

怒りの感情を観察する全体は動揺することができない

怒りの感情を観察する全体、気づきの意識は観察しても動揺することができません。全体、気づきの存在ができることは自分ごとに捉えるが起き、それに対する思考を起こす、、しかありません。。。これが苦しみのメカニズムです。ここに入ると苦しくなりますから、、ただ怒りの感情を全体、気づきの意識として観察します。すると、、それで終わります、静寂になります。

怒りの感情を個人と結びつける

ただ全体、気づきの意識から湧き上がる怒りの感情を、、自分が発したと勘違いが起きますと、、自分がこれを解決しなくては、、が起きます、、これで思考の湧き上がりがエンドレスに続きます。何度も言いますが怒りの感情はただ全体から湧き上がりますから、、これをただ観察します、全体、気づきの意識として、、、怒りの感情すらも全体、気づきの意識に戻る道具にします。そこから静寂、至福に入ります。

悟りすらも人生の充実に利用しようとする自我

悟ったらどんな人生になれるだろう????

悟ったらどれほど人生が充実するだろう???悟れれば今の苦しみが消え失せ毎日の人生が楽になるのでは???これが自我の陰謀、策略です。悟りとはこの自分もこの自分の人生も、、全部もともと無かったという気づきです、、自分も人生も全く存在しなくても、、しっかりと意識だけは元々あった、、、この気づきの意識に戻ることが悟りです。

自分も自我も存在していなかった世界に戻る

結論から言えばこの自分に意識がフォーカスすることで思考が溢れ出て言動が溢れ出てこの言動に振り回され続け苦しみが生まれます。このメカニズムに圧倒的に気づき、、いやそもそも自分なんてなかったよね、、、という究極の気づきに至ることが悟りです。自分なんて存在せず、存在なくして普通に生きていた赤ちゃん、、、ところが後天的に発生したこの自分に意識のフォーカスが集まることで、、自分ストーリーが始まった、、、そこからが苦しみの毎日に、、、

悟りとは全部諦めるということ

悟りが自己啓発と全く異なるのは、、、全部を諦めるのが悟りだということです。全ての言動がただ気づきの意識、全体から起きているという究極の諦めです、、、、そこに自分は何も介在できない、、いや自分が居ない、、、自分が居ないわけだから充実した人生が虚偽だった、幻想だった、妄想だったという気づきです。これの何が良いのか???自分には良くないのです、、、ですがなぜか至福感に包まれる、、全てを手放した時至福が現れます。

赤ちゃんに戻って経験を整理する

自分がコップを触った、、はない

赤ちゃんに戻って経験を整理します、、、自分がコップを触っている、、、絶対にありえないことです。自分という存在は赤ちゃんには存在しません、そしてコップという存在もありません、、ただ触れたがある、、、触れるという動詞もない、、感覚だけが何かある、、、自分が目の前のバッタを見て触ってみた、、、これも絶対にない、、先ずバッタという存在は赤ちゃんの世界には居ません、、、景色が動いている、、という感覚だけ、、、そしてそれを触る自分という存在も居ません、、そして触ったという動詞もない、、ただ感覚だけがある、、

感覚だけがある、、、

赤ちゃんにとってこの世界はただ感覚だけがある世界、、それだけ、、起きて寝るまで感覚だけが在り続けるだけ、、、そこに名詞も動詞もない、、、感覚だけが確実に在る、、、、名詞の無い世界、動詞のない世界、自分という存在も居ない世界、、、これが本当の世界です。。そこには時間もない、、、ただ揺れ動く現象、生命がある、、あることに気づく存在だけが居る

徐々に名前を覚え、動詞を覚えていく

徐々に名前を覚えていくことで赤ちゃんの視界にそれが独立して登場する、そこに目の焦点が合う、、そしてそれを認識するのが「自分」だと教わる、、、徐々に見える世界が変わっていく、、自分がバッタを触る、、というストーリーが湧き出す、、、気づきの意識しかなかった世界に自分、バッタ、触るが生まれる、、これを繰り返し学んでいくことで自分の人生に多様性が生まれあらゆる自分活動が生じる、、、本当には何もない世界に、、自分劇場が広がっていく、、この自分劇場が苦しいのならば、、、気づきの意識しかなかったことを思い出す、、そこは至福の世界。

気づきの存在は気づきの存在であるために努力を必要としない

気づきの存在であることの安心感

全ては気づきの意識の中で起こっています、この自分という感覚も、、音も光も、会話の全ても、、気づきの存在の中で起きています、、、この事実に気づくことの大切なことはもう努力がいらないということです、自らが気づきの存在、全体であるという気づきに至った時、、ここからさらに努力して何かになる必要がなくなります。我々は個人として生きてきたので、、、努力を必要としてきました、、今が苦しいから、、努力して、、、明るい未来を手に入れようとしてきました、、ですが気づきの意識そのものであるという気づきが起きるともう努力のしようがないわけです。

自分の存在、思考が起きていなくても、、、

自分が居るという感覚がなくても、思考がなくても、、、ただ気づきの意識だけは確実に在ります、、、何かに没頭していても、、没頭していなくてもそれに気づく、気づきの意識があります。我々はこの気づきの意識なのです、、、それ以外であるわけがないのです。この気づきの意識の中に一時的に自分をこしらえただけ、、こしらえていない時もそれに気づく気づきの意識、、、

徹底的に気づきの意識になって起こりを楽しむ

私は気づきの意識だ、、この意識が芽生えてもそれでも自分は登場しますし、、友人も、仕事仲間も、、みんなこの気づきの意識の中で登場します、、それをただ気づきの意識として楽しみます。この体から出てくる思考、行動を楽しみます、、友人の体からでてくる言動を楽しみます、、、安心の場所で事の起こりを楽しむです。

言語を覚える前から気づきは確実にあった

自分など存在する前から気づきがあった

言葉を覚え、この体を自分と記憶するまえから、、、ずっと気づきの意識はありました、光を感じ、空腹を感じ、気温を感じる感覚は確実にありました、、、これが気づきの意識です。。。我々は恐らくこの気づきの意識の中にずっといます、、、この気づきの意識が無くなることは絶対にない、、、熟睡中もこの気づきの意識の中に居る、、、ただその記憶がないだけ、、、起きている最中は必ずあり、熟睡中もある、、、記憶があるかないかの違いだけです。

常に気づいている

この私が怒っている、、、これに気づいているのは気づきの意識です、、この私が幸福を感じている、、こレに気づくのは気づきの意識です。気づきの意識その外に我々は出たことがありません、常に気づきの意識の中で存在しています。だから全部気づけるのです。思考を覚えるはるか前から気づきの意識は確実にあり、、ただそれを記憶していないだけです、、

孤独感はこの気づきの意識の存在を忘れているだけ

孤独感とはこの気づきの意識の存在を忘れ自我に没頭している時に起きます、、あれたった一人しかここに居ない、、こうなります。違います、、、気づきの意識の中に全てが在ります、起き上がっています、、全ての経験は気づきの意識を通じて起きており、これは人といようが居まいとと同じことです。気づきの意識の感覚をもっていれば孤独感が湧いてきにくくなります。なぜならばそこは絶対的安心の場所だからです。

あの人はあれさえしなければ、、、

清原元選手は覚醒剤さえ手を出さなければ、、、

違います、、、全体から清原選手を通じて覚醒剤に手を出すが起きたのです、、、これ以外の事実は起きようが無かったのです、、、清原選手はこれを酷く後悔し、、、違います、、、後悔できる自分など居ないのです。ただそれが起こりました、、そしてそれを後悔するが起きたのです、、、どれほど後悔しようと、、、先に何が起きるかは全く分からないのです。これが事実です。

彼の失敗で周囲が学ぶ????

彼の失敗で周囲は学んだ、、絶対に手を出してはいけない、、、全部を失ってしまう、、、この事件でどれほどの学ぶが起きようと、、、全体から起こりをコントロールできる自分は絶対に居ないのです。ただ事の起こりを観察するしかありません、観察者、傍観者になるしかありません、、、そんな無責任な人生ありますか???それは分別ある大人の発言ですか????違います、、、観察者、傍観者になってしまうと至福が包み込んでくるのです、、、当事者のポジションを諦めるとただそれだけで至福なのです。

当事者意識の欠落

当事者は辛い、、当事者の座を諦めるまでは、、、当事者はしんどいのです、、、当事者は成功しても苦しいのです、、成功しても苦しいならば当事者であるメリットってあるんですか???ありません、、、このことに気づく以外は。そうです、当事者の場から降りてしまうのです、、そして全ての事の起こりを見守る傍観者に戻るのです、、気づきの意識、全体の意識、神の意識に戻るのです。そこに至福があります。

自分探しの旅とは

自分が居なかった、、

自分探しの旅に出る、、、、決して珍しい話ではありません、、、、何が幸福で何が不幸なのか???何にも分からなくなったから自分探しの旅にでよう、、、、気持ちは本当に分かります、、、ですがその答えが出ることはない、、なぜならば、、自分が居ないから、、、、アベシ、、、本当はいない自分を探す旅ほど辛いことはないのです、、、、

色々な経験をしたら、、、

色々な経験をしたら、、、自分が分かるのでは、、、、残念!!!!色々な経験をする自分が居ないのです、、、経験を積めば積むほどに、、自称自分は、、、大きくなっていきますが、、、実は居ない、、、あらゆる経験を積んでいるのは自分ではなく気づきの意識、意識そのもの、全体です。。。

自分が居ないという気づき、、

あれ、、この自分を無視したような行動をしている方が幸福では???大正解!!!そうです、この自分が居ないのでは???という前提で行動すると楽しいのです、嬉しいのです、至福なのです、、、自分なんかを探すよりも自分なんて居ないと思って気軽に行動のすると至福に囲まれます。なんのこっちゃです。これだけ重視し大切にしてきたこの自分を無視した方が至福に包まれる、、、えらいこっちゃです。

無意識という言葉の意味

意識が無い

無意識に何かをしてしまう、、自覚なく何かをしてしまうことを無意識と言ったりしますが、、、これは間違い、、、無意識とは、、、全ての言動を自分がやっていると勘違いしている状態です。。。????え、、、じゃあほとんどの人は無意識に活動しているではないか????そうです、、、ほぼ全員が無意識に生きているのです、、意識が無い状態で生きています、、、だから苦しいのです。

全ての言動は大いなる気づきの意識から起きている

実際には我々は全部を意識しています、朝起きて寝るまで意識が欠落することなど皆無です。ですが重要なポイントはこの自分がやっているという勘違いなのです。この自分が言動を作っている状態、、これが無意識です。本当は大いなる気づきの意識から言動が起き、それを大いなる気づきの意識が気づいているのです。この最重要なポイントを掴んで人と話をしてみてください、面白いことが起きます。

言葉が減ってくる

大いなる気づきの意識から言動は起き、それを大いなる気づきの意識が認識をする、、、このことに気づきますと、、無駄な思考が全く湧いてこなくなります。無駄な言動が減ってしまう、、、、ああだ、こうだの言動が減っていくのです。代わりに何が起きるか、、、大いなる気づきの意識としての自覚です。大いなる気づきの意識として「私」から出てくる言葉に気づくという気づきが起きます。

全体(至福)が怒りを感じる

神が怒りを感じる???

怒りを感じる神(至福)、、怒りを感じる全体(至福)、怒りを感じる空(至福)、、、なんかしっくりきません。それはそうです、なぜ至福が怒りを感じることができるのか????という話です。ですが実際には本当にこの現象が起き続けています。ストーリー上の個人は怒りを感じることは絶対にできません、感じることができるのは気づきの意識(至福)、全体(至福)、神(至福)だけです。そうなりますと至福と怒りを同時に感じることになってしまい、、これはおかしいのです。ですがこれは全然おかしくない、、、、ゲームをやっている際の怒りは楽しんでいます、映画の中での怒りは楽しんでいます、、、そうです、、怒りを至福の中で楽しむことができるのです。

ただのめり込んだだけ

我々の正体は至福ですからこの至福が怒りで手が震えて苦しいというのはおかしいのです。主語が至福なのですから、、、もしもこの至福が怒りにどっぷり浸かることができるとしたら個人に成り切るという憑依をしなくてはなりません。憑依芸レベルののめり込みをした際にだけ、、、怒りに酔うことができます。だから小学生よりも中学、高校、社会人と、、、怒りを押し殺して生きている人が増えるのです。

怒りを感じたら、、、

怒りを感じたら、、、、今この怒りを感じたのは誰か???と問うてみてください、、、それは気づきの意識、全体、神です、、至福です。至福が怒りを感じたんだなーと思っているうちに怒りが消えていきます。なぜならば至福は至福でしかないからです。主語を私から全体(至福)に戻すのです、、、怒りを沸き起こすには「私」の存在がどうしても必要であり、、、ですがこの「私」は捏造された存在ですから事実ではないのです、、だからいつだってどこだって全体、気づきの意識、至福に戻れるのです、、、そっちが本当だからです。

思考がこの「私」を時間の中に閉じ込める

思考が悪いのではない

今日はこれやって、あれやって、明日はこれやってあれやって、、、昨日はこんなことしなければ良かった、一昨時はあんなこと言わなきゃ良かった、、、ストーリー上の私は毎日こうやって思考します。思考の特徴は将来のために、、もしくは過去を振り返って、、、を繰り返すのですが、、、、このことがストーリー上の「私」を絶対的なものにするのです。「私」ありきというのが思考の特徴なのです。だから思考を自分のものだという勘違いが続くと苦しくなっていくわけです。

思考はただ湧く

思考はただ全体から湧き上がります、、、明日雨だから傘持たなきゃ、、、が湧きます、、、その後にいや持たないで行ってもしも降ったら買えばいいか、、、湧くのです。その時にこれって全体からただ湧いてるんだなー、、、という気づきの意識の感覚、事実をただ眺める感覚を持つと、、自分劇場に入り込まなくて済むのです。

そして行動も湧く

どれほど思考しようとそれとは全く関係なく行動が起きることがあります、、これが事実です。行動も思考とは全く関係なく起こっています、全体から。ですからこの私がこの行動に対し出る幕はないのです。将来は絶対に軽井沢に住むぞ、、と決めていても、、いきなりアメリカに住むが起こるかもしれません。そうです、事実はこうなっているのです。