意識

自我に関心が向かないと

概念であっても

概念であっても知識であっても、、自我は幻、思い込みであることを頭で理解できますと、、自我の欲求を叶えることに関心は向かなくなります。そして今まで自我の欲求達成に向いていたエネルギーが真理探求に向かうのです。事実上自我に関心が向かない、、という状況になっていきます。すると、、自我は痩せ細っていき活力を失い、、益々真理の探求に意識が向くようになるのです。自我の欲求をいかに達成しても成就しても意味がないことは既に分かっているからです。

観葉植物

自我は観葉植物のようなものです、そこに関心が行けば行くほどに大きく成長しそのため欲求も大きくなる。ところが関心を向けなければ痩せこけていき、最終的には枯れて大地に再吸収されるのです。我々は自我を観葉植物として大切に大切に育て上げてきたのです。あらゆる敵から守り箔を付け最重要アイテムとしてこれまで扱ってきました。ですがその方法ですとほとほと疲れ果てたわけです。もう関心を自我に向けなくていいのです。

観察観照者になる

心の声が上がればこれまではその声を最大級大きく扱ってその声を満たすように動いてきましたが、、これからはその声をただ観察者、観照者として見ます。今思考が起きたな、、という感覚です。この声をしかり聞いて欲求を満たしたところで植物としての自我がより大きくなるだけなのです。大きな植物としての自我は多くの水を求めますから飢餓状態に突入します。

エゴの無意識の活動

エゴに対して意識的というのはない

エゴとは「この体この思考この感情が自分」という思考感覚が完全強固になった状態です。ですから思いついたアイデア=自分、、傷つた感情=自分ですから、、、「誰かに傷つけられた=自分」、、、じゃあ「やりかえしてやれ!!!というアイデア=自分、、、、の流れを止める方法がありません。やりかえしてやれ!!!がアイデアとして湧いてきた時に、、、それはあくまで湧いてきたアイデアに過ぎない、、、という俯瞰した感覚があれば、、、辞めとこう!!が湧きますが、、、、、それがないんです。

湧いてくる思考全部=自分

やり返してやれ!!!!が湧いてきた時、、、それがそのまま自分、、、、、であれば、、そのアイデアを疑うということはありません。ですからそのまま動くになります。多くの方は湧いてくる思考を自分が湧かせたとお見込んでいます、、、ところが実際は思考、アイデアは勝手に起こっているのです。。。思考になれ愛着があるかといえば「私の思考」だからです。だからそのアイデア思考に執着します。

私の思考が粗末にされた

約束事が守られなかった場合、、、なぜ人は怒り出すのか????それは「私の思考」が粗末に扱われたと感じるからです。「私の発言」が忘れられて粗末に扱われたと感じたからこそ怒るが勝手に起こったといくことです。エゴに同一化し無意識で生きている人々が性格が悪いとかそのような話では全くなく、、感情が自動反応で起こるということです。

考え方の否定

エゴと同一化、自我と同一化している人々に対して、、、、その考え方を否定しようものなら、、とんでもない拒絶反応が起こります。それは思考=自分ですから、、思考の否定は、、、自分の否定だからです。自分が消え去ってしまう自分が殺されてしまうような感情が自動反応で起こるのです。ですが「自分」を守るという点では非常に優秀な動きであり生物としては問題ないのです。

苦しい

自我との同一化、エゴとの同一化は生物としては非常に優秀でシンプルな行動でしょう。ところが問題は「苦しい」のです。「思考、感情は自分」という思考感覚は真実でないんです、嘘なんです、、、ですから、、、真の安らぎ、真の平和から一番遠いところに居るんです、、、この思考を信じると、、「痛み」が発生します。だから生きているのが辛い、、、となります。生物としては自身を否定することに拒絶反応を示し安全ですが同時に苦しいからは逃れられないのです。

善悪がないのならば人殺しは???

起きることが起きるならば

この現象界ではニュースなどで人殺し、殺人事件などがあったという現象が起きます。全ては起こるのだけなのだから人殺しもただ起こるのか???ということです。分離感覚を持った社会では基本人々は苦しいので、、、その苦しさゆえにトラブルが起こり、、最終的に人を殺めるという展開まで起こることはあるでしょう、現象として。ですがそれは分離意識がそうさせるのであって分離感覚が削ぎ落とされた場合には「苦しみ」がないのですから人を殺そうという動機が起きにくいのです。三億円の宝くじが当たった後に人の悪口を飲み屋で朝までした、、がありえないのと同じです。

世の中の悲劇は

世の中の悲劇は自我が起こした分離感覚が大きな原因です。先ず最初にここなのです、分離感覚がなく苦しみはない状態で人を責めようとか、攻撃しようとか発想が起きない。お腹いっぱいのライオンがシマウマを殺さないように必要がまったくないのです。だから我々は何も恐れず自我を俯瞰し自我を解体することにすればいいのです。この苦しみを終わらせたという衝動が今あるならばその衝動の根源に向かえばいいのです。

何でも起きうるのは確か

この世界は完全なノーコントロールですから勿論自我抜け落ちた後に犯罪に走るということは見かけ上起こるかもしれません。それをコントロールする誰かが居ないのですから。ただし自我が形成されていたとしてもノーコントロールは同じなのです、、、ですからやはり何でも起き得るのです。苦しみのない状態でも何でも起きえますし苦しみがあっても何でも起き得るのです。

大人が家族を大切にする理由

家族のために

人間は大人になるにつれて責任感という言葉を口にするようになります。子供の行動は「ただ楽しいから」ですが大人は「責任感」という言葉で動きます。大人はもう「楽しいから」では動けないんです。大人はなぜそれをやったの????と問われれば、、しないといけないから、、それが責任だから、、、となります。家族をなぜ養うのか?????その責任があるから、、、となるのです。ここで「ただ楽しいから」にはならないんです。

分離感

大人になりますと自我が形成されることで分離感が強烈に芽生えるので「苦しい」「憤り」が基本感情になりなす。常に「苦しい」なのです、すると、、何かを楽しいという理由では動けないんですね、、、もう既に。だから子供を育てるのは仕事だ、責任だ、、と義務化していくわけです。そして子供は育てあげれば今度は自身の保護者になる可能性もありますからそれに期待をしているのです。そのためなら頑張れるのです。

いいとか悪とかじゃない

自我が形成されるとそうなりますよ、、、という話であって、、こうした方が良いという話ではありません。そもそも自我を形成したのは自分ではないのです、自我は勝手に形成されたのです。だからこそ今後も自我は勝手に解体されるのです。形成も解体もする自我が本当は存在しないからです。この事実を俯瞰しますと、自我の解体が進む可能性があります。なぜならば自我を俯瞰している存在とは、、自我ではなく「本当の私」だからです。本当の自分が「自我」を観察し始め、、自我に意識が向かなくなった時に自我が解体し始めます。

欲望とは分離感覚で起きる

楽しみは「在る」から起きる

子供時代、何かをして遊ぶ時に欲望を発散しているという感覚はありませんでした。ただ面白いから遊ぶ、、それだけです。ところが大人になってくると、、、「欲望の発散」動機の大元になります。ただ集まって食事しよう!では人は集まらず、、、出会いを求めて、、仕事を求めて、、人脈を求めて、、と何か欲を満たす要因がないと集まらないのです。子供時代の楽しいから、、、じゃない、、もっと重い感情に支配されているのです。

大人になるにつれて

大人になるにつれて、、、体の中に自我が形成され、、そのれによって分離意識が形成されます。これはそのまま孤独、分離感を生み出し、、苦しいがわき起こるのです。「苦しい「」がデフォルトになるのですから、、楽しいからおいでよ!!!では集まらないわけです、、苦しいを取らないと楽しくないことは分かっていますから。ということで何のために???という欲望を満たす要因でなければ楽しくないのです。

欲望を満たせば

結局のところ欲望を満たすのは「分離感」の一時の解消なのです。自分は分離しているという錯覚を、、、何かを手に入れることで一時的に解消しているのです。ですからこれは楽しいではなく「一瞬の楽」になることです。楽しむとは、その行為自体が面白いということであり、これには目的がないのです。

子供はなぜ欲望ではないのか???

子供はなぜ欲望ではなく純粋楽しいをできるのか???それは分離感覚がまだ薄いからです。この体の中に自分という存在が育っていないからです。だから行為そのものを楽しめるのです。では大人はどうしたらいいのか???育て上げた自我、自己意識を再び解体するのです。自我自己意識を俯瞰してそこにエネルギーを注がない、、自我、自己を観察し、、現象の一部に戻するのです。すると観察する存在、、大いなる存在、気づきの意識に戻ります。まだ自我が形成されていなかった子供のようにただ楽しい、、が起き始めます。

新しい映画作り

今年の目標は、、、、

学校に通うと毎年のように書かされるあれ、、、今年の目標、、、これって実は何をやっているかと言えば「新しい映画のタイトル」を再設定しているのです。今年の映画のタイトルをどうするか決めているのです。この私のニューバージョンの映画です。そして今年の目標は部活を頑張ります、数学を頑張ります、英語を頑張ります、、、となります。ですが真面目に真面目にこれをやる生徒から無邪気さが消えていくのです。

目標なんて必要ない

残念がら、、この目標設定は映画の中の主人公に自身を閉じ込めておく、、常套手段です。あなたはこの体の主人でありこの体だけがあなたのものだからあなたが責任を持って生かせていくんだよ!!!という洗脳です。だから重いんです、、なんかドライなんです、、、いても経ってもいられないぐらいに重いんで、、目標が必要になり、、目標に意識が行くことでこの重さを晴らすという手段を習っているんです。軽ければ目標なんていらないんです。

私たちの本質は最初から「完成」

目標を持つということは未完成な自分だからこそでしょう、、未完成だから成熟を目指して目標を設定しましょうということ。ですが我々の本質は最初から「完成」なんです。なぜ完成が目標を設定して、、、みたいなことをやるんでしょうか????意味不明ですよね、、だから無邪気さが消えていくんです。意味不明だから。この現象界を現象界あらしめている存在それが我々の本質です。この現象界を作っている存在です、、この現象に欠陥品もなければ優劣は100%ないんです。完全を完全が今この瞬間に作り出しています、、その本質が「我々の本質」です。その現象の中にこの体が現れ便宜上この私を作り私の人生を作り出しています、幻想として。

音でもなく光でもなく空間でもなく時間でもない

それ

それとは何か????それがもしも音だったら、、音に気づくことはありません。それがもしも光だったら光に気づくことができません。それが自己意識だったら自己意識に気づくことはありません。それが思考ならば思考に気づくことはありません。それが感情ならば感情に気づくことはありません。それが経験ならば経験に気づくことができません。それが触れることが出来るものならば触れるに気づくことができません。この現象界で起こること以外、、それがそれです。

言葉で指し示せるものではない

それがもしも言葉で指し示せる「何か」ならば、、、この現象界で言葉に気づくことはできません。それは言葉で指し示せる「何か」でないからこそこの現象界では言葉で指し示せる「何か」で溢れそれらが気づかれています。そしてそれは気づかれる対象でもありません。なぜならばそれが気づかれてしまう対象ならば、、今この現象界で気づきは起きえないからです。

私の完全敗北

私には発見できない

全体を私が発見するのは不可能です、なぜか????私が全体から飛び出た時点でもう全体はそこにはないからです。もしも私が全体を発見すととしたら「私が抜け出た全体」です。それは私が抜け出ちゃっていますから全体ではありません。全体➖私です。私が発見したのは「全体➖私」です。だから私は全体を絶対に絶対に発見できないのです。私が悟るはありえない理由です。

私が完全敗北した時に

もう無理だ、、私には絶対に発見できないぞ!!!この気づきが全体から起こった時に、、私が消え去ります、だって「私には絶対に全体を発見できない」という気づきが全体から起こったのですから。その瞬間「私が全体を発見しよう」は起きないじゃないですか。私が見つけるという動きが起きえないのです。だからいいんです、、、この気づきが全体から起きるまでは徹底的に私が全体を探せばいいんです。

私という自己が起きることができない

私には絶対に絶対に悟りを見つけることはできないんだ、悟りを私が開くのはありえないんだ、、、、この気づきが全体から起きた時、、、、私の探求が起きなくなります。それまでは何度でもこの「私」が発見するんだ!!悟るんだ!!!が起きるでしょう。ですが俯瞰した気づきが起きると、、無理じゃん!!!という気づきが起きます。どう考えても「私」が全体を発見するのは無理だし、「私」が悟るのも無理じゃん!!!です。

全体だった

全体だった、、、という気づきは、、、「私」とは全然関係ないところで起きるんです、、「私」の不在時に起きるんです。「私」の在中は、、、、見えるのは全て「全体➖私」です。私を意識しながら見える全体はそれが限界なんです。だから悟りに「私」が関わっちゃだめなんです。逆に言えば「私」が抜け落ちちゃえば、、全体しかありません。

無限が作り出した有限風ストーリー

無限MAKE有限風ストーリー

この世界って本当に凄いと思います、さすが無限が作り出した有限のエンターテインメント、無限は無限ゆえに有限を知らない、、これは無限の影で、、、影の中で有限の体験が無限に起きるシステム。有限とはこの自己意識、、自己意識が有限という錯覚であるもの。有限であるという錯覚を持った自己意識が、、、さらに有限に見えるこの物理空間でドラマを無限に繰り広げていきます。この自己意識にはやはり有限に感じれる寿命がありと、、、まさに無限による有限の有限体験(寿命まで)です。寿命があるという意味では有限ですが、、この先どうなるかについては無限の可能性を秘めています。なぜならば自由意思(有限)があるようでいて実はまったくないからです。

無限は有限を作り出せるわけがない

主語は無限ですから、、残念ならが、、有限を作ることは絶対に絶対にできないのです。そうなると出来ることは有限と感じることだけです、、これならできます、、無限に。つまりこの世界で起きることの全てはどこまでいっても有限に感じることができる世界ということです。私が居るように感じる、猫が居るように感じる、、コーヒーを飲んだように感じる、、です。「私が〇〇○吉です」は嘘なんです、、、言い切ると嘘になっちゃいます。すると本当は誰?????が必ず起こるんです。だって「私が〇〇○吉です」を読み込んだのは無限ですから、、、、無限から「本当の私は誰????」が湧いちゃうんです、、絶対に。だからこの無限作有限風ストーリーは、、、、エンドレスに疑問が起き続けるのです。終わらないんです。

働いていたら急に思考が全く湧かなくなりまして、、、、

あんまり聞いたことないですよね?????こんなストーリー、、、なぜ?????なぜならば「私」という主語を使っているだけで「本当は誰????」が起きているんです。憤りが起きているんです。だって読み取っているのは全て無限ですから。「私」っていうイメージが浮かんだ瞬間に、、、??????が起こるんです。私は仕事で社長賞を取りました!と発言した瞬間から、、??????が起こっているんです。無限から。。。

充実

面白い漢字

充実って面白い漢字です。実が充ちるって書いて充実。。。。。充実した毎日って、、、どういう時に使います????何か新しい体験とかやりがいを感じる日々だったり、、とにかく今している活動に対して満足度が高い時を言いますよね????その時に実が充ちると表現する。この世界は実ではなくて虚なんです、、この現れては消えていく現象は虚です。消えちゃうんですから。その虚をただ眺める、、、例えば公園で空をずっと眺めてたんですよ。。。。。と友人に話して「充実してるじゃん!!」とはならないんですね、、なぜかと言えば、、、実がないんです。。。虚を眺めるだけって、、、、この虚の世界では、、、経験だけが実なんです。だけど逆に言えば毎日全員経験しかしてないから、、実しかないとも言えます。

結論

この体の中に自分という感覚があって、、その自分があらゆる経験をするって、、、、実は妄想、空想です。全くもって虚の世界です。ただ暇つぶしに何かするって、、、ずっとずっとこの自分って感覚(虚)が抜けないんです。ずっと虚の世界なんです。。自我の世界ってひたすらに幻想なんです。ところが無我夢中って言って、、、自分がないほどに何かに夢中になると、、、、自分を忘れます、自我を忘れます、自分って感覚が消えるんです。その時経験だけがあるんです、、経験は実なんです。自分が歩むストーリーという幻想が抜け落ちて、、経験という実しかなくなります。

無我夢中になって

無我夢中になって充実した毎日を送っていますと、、、実は自我ではなく大我、、、大いなる存在、、そのもので生きているんです。自分を忘れてますから。。。そしてその感覚、、本当のゆらぎ本当の安心本当の癒しが、、、自己意識を薄めていきます、、自己という感覚にエネルギーを注がなくなります。そうするともっともっと無我、大我、大いなる存在の状態に入りやすくなります。