負の感情観察

負の感情はいつか湧かなくなるだろうの罠

負の感情がいつかなくなることを夢見る生活の罠

今はこんなに酷い生活だがいつか良い暮らしをしたい、、これは人間が頻繁に考える思考の傾向です。このやり方を負の感情全般に利用します、今は辛く、悲しく、寂しく、退屈だかいつかこんな感情を味わなくてもいい人生が訪れるはずだ、、、これは思考、自我の罠です。ここ重要です。自身がこんだけ不幸なのは各各然々の理由がありこれを一個一個潰していけばこんな感情は一生味わうことはなくなる、、、これが自我の手口なのです。思考はこのために何かをスタートし何か作戦を立て、何かを実行します。ですが思考に頼ったこの作戦は逆に負の感情をさらに生み出す結果になり苦しみは永続していくのです。

今不幸なのはこういう理由だ、、の嘘

今辛いのは、今寂しいのは、今退屈なのは、、、、こうこうこういう理由だ、、、これは思考が考えだすいつものパターンです。外部的要因に必ず答えを見つけ出しこの答えを絶対的に達成しよう、そのためにはこういう作戦を立てて、、、この思考の策略は自我を肥大化させます。肥大化した自我は逆に負の感情をさらに生み出すという恐ろしい事態を生み出します。本当は負の感情は自我こそが生み出しています、この体の中に自分がいるという錯覚が生み出しているのです。ですが自我は絶対にこれを認めません、自分の存在が不幸を生み出しているなどを認めてしまったらもう今後存続ができなくなるからです。

負の感情を見つめる

負の感情は根拠なく発生するのではありません。負の感情は自身をこの体の中に居る存在で在るという勘違いが生み出します。ですからこの解決方法は自分がこれを解消するのではなくこの感情を全体として味わう以外にないのです。この感情が生まれたら全体に戻る以外に根本解決はありません。この負の感情が生まれたらただ観察する、何かをするのはいつも自我です、そうではなく全体として観察する、観察に集中する以外にこの感情を解消する方法はありません。

負の感情は無意識を常に狙っている?

負の感情、自我の存続

負の感情の根源は絶対的な存在からの分離が引き起こしています。ですからこの感情が湧いた時には実は全体に戻る、全体を思い出す絶好のチャンスなのです。ですが自我はそうはさせません、この負の感情の解消こそ自身が行うことで自我の存続を永続させていくのです。負の感情が湧いた瞬間に多くの方は不快感に打ちひしがれて即座に思考に委ねます、それまで意識的に生きていた人も負の感情には通常かてないモノです。相手から攻撃された、相手から誹謗中傷を受けた、相手から馬鹿にされた、、、途端に怒りが込み上げて、、思考が乗っ取り反撃を企てます。感情と思考の隠密プレイが始まります。

この作戦が理解できたら感情時に思考が出てこなくなる、、、

自我の生存戦略、負の感情時だけは意識的になれない、、、この作戦は人生の多くを占拠できます。ですが今まさにこの作戦が終わりを迎えています。負の感情が湧いてきたその時こそ思考を手放し感情を観察する、これによって自我から無我にシフトします。自我から真我にシフトします。自我から神にシフトします。負の感情の湧き出し時こそが自我の永続プログラム解体のチャンスなのです。負の感情自体は実は自我の味方でも何でもありません、負の感情は真我の味方でもない、、、負の感情は自我が生み出した真我とのギャップです。

真我−自我=負の感情

真我の偉大さと自我の小ささのギャップこそが負の感情です。もしも負の感情が湧き出してきたならばこのギャップが生み出されている証拠になります。毎日負の感情が湧き出すのならば自身が自我になり切っている証拠です。そうすれば真我ではなく自我になり切ることでこの感情が湧き出してくるのです。この解消方法を思考に頼ればさらに自我は強化されますから益々感情が湧き出してくるというメカニズムです。負の感情が湧いてきたならば自我になるのではなく真我になるに決まっているのです。感情を真我として観察しこのギャップをゼロにしてしまいます。

感情解消に思考を使うとドラマから逃れられない

思考とはこの「世」を作り出す機能

負の感情が湧いてきた時に多くの方は思考をフル回転してこの解消を行います。思考に絶対的な信頼を寄せる人間は負の感情が湧いた時こそ思考の出番、これを行います。ですがこれには大きな落とし穴が、、、思考とはこの世界を作り出す張本人だということです。この分離した世界は世の中の現象に対し名前を付けることで形成されているのです。例えば渋谷のセンター街に行くとしましょう、もしもそこに知り合いがいたらあなたはどうするか?確実に相手を見ます、相手に注目します。その瞬間にその相手以外は景色になるのです。このメカニズムを理解できたでしょうか?何千人という他の人間が風景になり名前を知っている人間だけがあなたの世界に飛び込んでくるのです。つまり人間とは名前をつけたモノだけが視界に飛び込んでくる世界なのです。この世は名前世界なのです。

思考はこの役目を担う

思考はこの視界に名前をつけこの人間に名前がついているモノに注目させます。名前がついているモノを毎日見て人間は生きているのです、逆に言えば名前がついた世界の中に生きているのが人間なのです。負の感情が湧き出した時に思考をフル回転してこの解消に臨むとどうなるか、、思考が強化されていきます。つまり人間は益々あなたの思考の世界に住むことになるのです、そしてその世界には居る自分自身は違和感を感じその違和感が負の感情になって湧き出してくるのです。そしてその感情をまた思考を駆使して解決を図ります。これが人間を苦しみのループから逃さない方法です。

人間ドラマからの脱却

負の感情を思考を駆使して解消すれば思考世界に人間はより没入するようになります。この世界は活気がなく退屈で生気がありません、居心地の悪い世界なのです。この世界から脱出する唯一の方法は負の感情が湧いた時に思考に頼らないことです、思考に頼ってその場しのぎの解決をするのではなくその感情をしっかりと観察します。その感情観察に集中します。その感情観察をするために今に在るようにします。感情観察から無心無我に入っていくのです。これで思考のループから脱却できます、思考の無限地獄から脱却できます。

観察することを「考え」ても無駄

今にあることは思考ではない

負の感情が湧いてきた時にそれを観察する、ただ集中してその感情を見つめる、、、これは思考して理解できるものではありません。むしろ思考こそが観察の邪魔になります、思考を削ぎ落とすために観察に集中するのであってそれを思考すれば本末転倒です。今にある、大いなる一つになる、真我になる、無心になるとはどういうことか?ここに思考で行き着こうとすれば矛盾が発生するのです、ここは絶対に思考では入れない世界だからです。じっくりと負の感情、ペインボディーを観察することで思考を削ぎ落としそこから無心、無我、大いなる一つに入っていくのです。そこには歓喜、平和、安堵があります。

周囲の人間に振り回されている、、、

自分自身は今にあることができても周囲の人間がそれができていない、、だから難しい、、、これも頻繁に聞く話ですがこれは論点がズレています。自分自身が感情を観察できていて周囲の人間の感情を観察できない方が不思議なのです。自分の感情こそ自分ごとでありこれには過剰に反応するのが人間です、逆に周囲の人間の感情など容易に観察できるはずです。観察することに集中するのです、そしてそこから悟りに入ります。そこから無心、無我に入り込みます。自分の体から湧いてくる負の感情観察が一番難しくだからこそそこからの悟りは強いのです。

自分関係に比べたら人間関係など楽勝

自分自身の感情、不足感、孤独感、欠乏感、退屈感、、、、この感情の対処には非常に敏感になります。真面目な方はこの感情を無視することができずこの根絶に命を燃やします。ですが解決をすればするほどに負の感情はより勢いを強めて攻め込んできます。真面目な人がうつ病になるのはこのためです。ネガティブな感情、ペインボディーの解消は真面目に思考を働かせれば地獄を見ます。そうではなくただ見つめます、ただ観察します、観察に集中します。これによってそこから無心、無我、真我に入っていくのです。

負の感情は相手の負の感情を覚醒させる

負の感情の連鎖

負の感情は周囲の負の感情を活性化する力を持っています。負の感情を抱いた人間は自身の思考がこの感情の解消に乗り出すわけですがその際に周囲の人間を利用することがままあります。例えば飲み屋で人に絡む場合などは典型的なこのパターンで相手が最も言われたくないようなことを言って攻撃します。自身の思考がこれを買って出るわけです、これによって言われた張本人のが負の感情が湧き出し喧嘩を買うという負のループにつながります。重要なことは負の感情と自我はセットですからこのセットの目的は確実に永続です。周囲に絡んでも上手くいくのは周囲の人間も負の感情と自我のセットを抱えているためその人間もこのメカニズムが発動しその人間の自我永続に一役買えるということにんるのです。

家に帰ってパートナーに当たるメカニズム

負の感情が湧いた私は家に帰って何をするか?その苛立ちを解消すべく思考は人に当たることでこれを解消しようと図ります。要はエネルギーの発散ですね、ですがパートナーからしたらたまったものではありません。いきなり攻撃されるわけですから、、、ですが負の感情+思考のペアはこの安易な作戦が大好きです。結果パートナーは絡まれそしてパートナーから負の感情が湧き出します、そしてパートナーの思考は言い返すことでこれを解消しようとします。これが人間関係のバトルの構造です。私の自我はこれで持続が約束され、相手の自我もこれで持続が約束されます。問題はこれによって永続された自我は肥大化しより負の感情が湧き出しやすくなるということです。

相手の負の感情が湧き出したら

相手の負の感情が湧き出したらどうすればいいのか?その感情から発せられる行動を意識的に観察することです、絶対にその作戦に乗るのではなくその行為を観察者になることでそこから無心、無我に入ります。相手の負の感情湧き出しをしっかりと観察することに集中してそこから悟りに入るのです。勿論攻撃が過激になることがあれば冷静に感情的にそれを止めることは重要です、問題はそこから自身の負の感情を湧き出し、その解決を思考に委ねることです。これでは相互の自我が肥大化しこの戦争は終わることがありません。

負の感情が湧いたらそこから不幸な自分を演じる自我

自我の作戦は常に稚拙

悲しい、苦しい、辛い、、、このような負の感情が湧いた時に自我、思考はどうするか?甘えることに慣れている思考は「不幸な自分」「大変な自分」「落ち込む自分」を演じます。なぜこれをするか?これをすれば周囲の大人が動いてくれることを学習しているからです。周囲の大人、特に両親が自分のために行動してくれることを自我は学習します。これによって自我は悲しい、苦しいなどの負の感情が湧いた時は塞ぎ込んで見せてこの感情解決を図るのです。ですがこの作戦には大きな落とし穴があります。それは感情の解消に思考(自我)を使ったということ、これによって自我は肥大化しさらに負の感情を生み出しやすくなるのです。

大人はこのような稚拙な行動を見抜かなくてはならない

大人が取るべき行動はこのような稚拙な行動を子供が取ったならば直ぐにそこを見抜き改善を図ることです。もしもこれを見抜かずにその作戦に乗ってしまえばその子供の自我はこの作戦を何度も使い続けることになるのです。何か落ち込めば落ち込んで見せるという演技に拍車がかかるどころか、、、無意識(常に)に感情と行動がセット化していきます。結果自我の肥大化は一途を辿り負の感情が毎日湧くような体質にシフトしていきます。

大人とは、、頭脳、IQとは何も関係がない

頭脳レベル、IQがその人の成熟度とダイレクトに関係するならば東大生は皆大人ということになりますがそうではありません。むしろ思考が発達していると負の感情の解決方法を思考に委ねる結果になり負の感情湧き出しからの思考フル回転が定番化します。思考が考えだす作戦は常に過去のデータから湧き出されそれは自我をさらに強化する結果になるのです。自我の肥大化はそのまま負の感情(ペインボディー)の肥大化に繋がり苦しみのメカニズムは完成します。

それでも苦しみは目覚めのためにある

負の感情とそれを解決する思考のメカニズムは勿論苦しみのメカニズムです。ですがそうは言ってもこのメカニズムは悪なのか?といえばそうではなくこのメカニズムは最終的には目覚めを経験させるための苦行のようなものです。宇宙には一切無駄なものはありませんからこのメカニズムは人間を目覚めに誘う荒療治のようなものです。私自身悟り、ノンデュアリティーの学びを始め、、、このエゴ、自我のメカニズムを学んできましたがこの核心にあってはなかなか理解が深まらない、、つまり自我の抵抗に相当に合いました。それだけ人を目覚めに渇望させる大きなポイントなのだと思います。

負の感情に思考を使わず観察すると意識のエネルギーに変換される

負の感情はパワー

負の感情が湧き上がった際にここで思考が通常はフル回転します。この負の感情を解消すべくです、ですがこれをしない、、ここから感情の観察に入るとどうなるか、、、負の感情は暴れずに消え去ります、そして意識は大いなる意識、真我へと変化します。意識が負の感情エネルギーを利用して活動を行うようになるのです。負の感情は思考と密接に繋がっていて自我のメカニズムを通常は強化します。ですがこれをしないで観察に徹すると観察者が生み出されます、それが大いなる存在です。負の感情はエネルギー化し意識の僕になります。

不良が大成するメカニズム

少年時代の不良が改心してそのまま大成する、、、大人になる、これは決して珍しい話ではありません。それどころか少年時代にグレてしまうような人間は大きなパワーを秘めています。それが負の感情とし思考のメカニズムに埋没すると非行という形になります。自身の行動を改め、負の感情に対し意識的に付き合う、観察をしていくとこの感情エネルギーは陽転し大いなる一つの僕として活動します。大いなる一つの活動エネルギーに昇華されます。多くの場合負の感情が湧き出すと思考が直ぐにこの感情を解消しようとするためお酒、ドラッグ、タバコ、ギャンブル、異性と気晴らし行動に転じます、これぞ思考の真骨頂です。そしてこれによって益々自我が強化されることにより不良行動に拍車がかかるのです。

負の感情と反社会勢力

負の感情を思考が解消しようとすれば必ず即座的な行動、短絡的な行動になるのです。例えば違法賭博や、違法ギャンブル、違法〇〇といかに短絡的にこれを解消するかを思考は考えだすのです。これを支えるのが反社会勢力になります。思考が考えだす負の感情の解消方法は常に短絡的、その場しのぎなのです。本人が少年時代にこのような生活を送った場合、そのままその先に進んでいくとこのような社会に生きる道を求めていきます。負の感情が湧いた時に即座に思考によって解消しようとしない、、負の感情を観察し、、しっかりと観察し集中しそこから無我無心に入っていきます。負の感情が湧く度に観察者になることに徹すれば負の感情はやがて観察者(大いなる一つ)の僕になります。

「最強のメンタル」は存在するか?

存在しない

本屋さんに行けばこのようなタイトルの書籍が数多く並んでいます。最強メンタル、メンタリスト、土壇場メンタル力、朝からフルコミッションメンタル、タスク処理メンタル術、、、これが人間がまだまだ思考というものの本質を理解できていない証拠です。思考というものは使えば使うほどに自我(これが自分であるという思考)が強化されていき負の感情を湧き出させます。思考をフルスロットルで使い倒せばそのまま負の感情が湧き出てくるのです。思考というのはナイフのようなもので確かに効果があり目の前の問題、負の感情を一刀両断できる力を持っています。ですがその思考こそが自我を形成し得体の知れない違和感を湧かすのです。人間として生きていて感じる孤独感、喪失感、不足感、欠乏感を生み出す真犯人こそが思考に基づく自我です。

目の前の負の感情を蹴散らすからこそ人は思考中毒になる

目の前に起こる負の感情、負の問題点を思考はバッサバッサと切り倒し蹴散らす力を持っています。そのため人は思考を一番の友とします。特に思考が回る人ほどに思考を使い倒すことになる、思考と一心同体、思考と心中するかのようです。ですがこの思考を心の友、中毒化した関係を継続しますとまさかの負の感情が増え続ける結果になっていくのです。思考とは自我を作り出すエネルギーでありそれはそのまま自我の肥大化を起こすわけです。

思考中毒から抜け出すには

思考中毒から抜け出す方法は何か?思考を野放しにしないことです、思考の活躍を応援しないことです。朝から晩まで思考をフル回転させないことです。これらを行えば行うほどに負の感情が湧き出してきて負のスパイラルに突入します。そうではなく負の感情が湧き上がったらそのままそれを観察します、感情が起き上がった状態をしっかりと観察し集中し無心になります。今無心という言葉を書きましたがそこに集中すると感情が消え去って無心状態、無我状態に入るのです。負の感情から逃げるのでもなくそれを臨機応変に処理する必要もない、ただそれを見つめます。ここが神、真我、大いなる一つの入り口です。

気晴らしのレジャーは必要ない?

人間が行うレジャーとは退屈、不幸を感じさせないための予定の詰め込みがほとんどです。何かしらの用事を詰め込んでしまえば退屈、不幸、孤独、寂しさを感じないで済みます。だからこそ皆必死になって予定を詰め込むのです。何も予定を入れなければ死んでしまう、、それほどまでに人は負の感情の扱いに困っているのです。負の感情は逃げても常に追いかけてきます、負の感情は逃げてもまた次の日には起き上がってきます。ですからこれと戦うのはもうやめましょう、これから逃げるのではなくそこを観察し集中し、無心になって無我に入ります、悟りに入ります。

全感情は神からの使者

感情とは不思議なモノで絶対にコントロールできない

感情の仕組みを理解しますとどうやらこの感情とどう付き合うかで人間として苦しんで生きるか、神として至福に生きていくかの分かれ道になることが理解できます。それほどまでに感情というものはチャンスであり地獄に落とすものでもあります。人間を人間のままにしておくかそこから悟り神になるかの分岐点、それが感情の扱い方ということです。人間が作り出したポジティブシンキングはそれをどう解釈するかで終わります、どんなに嫌なことがあってもそれをポジティブに捉え成功に導いていくというものです。これはこれで感情を観察するという意味である種意識的かもしれません、ですがどう解釈しようとそこから思考が乗り出していきその問題の解決を図ればそれを達成したのは自分であり自分の思考ということになります。

感情はただ湧いてくる

感情というのは面白いもので絶対に人間はこれをコントロールできません。明日このような感情を湧かそう、、こう決めて寝ても絶対にその通りにならない、、これが感情です。全くコントロールが効かないこの感情が毎日のようにこの人間の体の中で沸き続けるのです。そして人間はこの感情をいかに処理するか、、自身の思考をフル回転していきます。この感情処理の方法こそが人間の優劣、個性を決めているかのように真剣にそこに当たるわけです。ですがこの戦いの勝利者は常に感情、どれほど思考を駆使して負の感情を処理しても次の日には何もなかったかのようにまた湧いてくるのです。多くの場合人間はこの感情との勝負に負け果て勝負から逃げるようになります、そして気晴らしに何かを見つけて慎ましく生きていくようになります。

感情を観察してみる

多くの人はこの負の感情の湧き出す仕組みにすら興味を持てず、それが人間だからと諦めます。もしくはこの負の感情が変幻自在ゆえにそれが無意識で湧いてきていることすらも気づいていないかもしれません。どちらにしても自我の存続プログラムである自我発達→負の感情噴出→思考による解決→自我肥大化→負の感情噴出を見抜いている人はほぼいません。このメカニズムを解消したければ負の感情が湧いてきたらただそれを観察することです、何も思考を働かせずそのまま観察する、、、感情をのさばらせているのではなくただその感情を感じ観察します。集中して集中してこの感情観察をしていきますとそこから無心に入っていきます、そこから無我に入っていきます。するとそこに歓喜、平和、安堵が襲ってきます。これが人間卒業のプロセス、悟りのプロセス、無我への入り口です。

エックハルトトールの偉大さ

人間が書いた本ではない

悟り、ノンデュアリティー、エンライトメントこれらの世界に興味がある人の多くは彼の書籍を読んだことはあるでしょう。彼の本は人間が書いたモノではなく間違いなく無我、無心、真我が自我を介在しないで書いています。彼の本を読んでいると不思議にも思考がクリアー、感情もクリアーになっていきます。クリアーというと何もないという印象を与えるかもしれませんが熟睡した次の日のような感覚を一日中味わえるのです。思考がジャックしていない状態、感情がジャックしていない状態とは熟睡時の感覚であることが肌で感じることができます。

何かをするから楽しいは全部嘘

今日はこんな予定があるから楽しい、昨日はこんな用事があったから楽しかった、、これらは嘘の充実感です。本当の充実感はそのようなモノではなく静かな平和に襲われた感覚です、静かな安堵、静かな愛に襲われた感覚、これが二極、二元、正負を越えた感情による充実感です。何も予定がなくても静かに幸福、、この感覚とは思考、感情にジャックされていない無我、無心、真我の状態です。エックハルトトールはこの状態に意識的に入り書籍を書き上げたことが読んでいて感じます。

彼は思考、感情との同一化からの脱却に終始する

彼の書籍には非二元本特有の非二元ベースの書き方がありません。あくまでも人間という存在をベースに本が書き上げられています。私は当初これではせっかくの内容が最終的に自我に活用されてしまうのでは?と懐疑的に思う部分もありました。ですがこの書籍を何度も反復して読み返していくうちに、、自我のメカニズムを理解するだけで思考、感情のジャックが収まることを体感しました。一番重要なことは自我の乗っ取りから外れた世界の説明ではなくいかに自我がこのメカニズムを維持しているかに精通した方がより確実に無我に入れることだという理解に落ちました。自我は大変巧妙でどのような素晴らしい体験、気づきすらも知らぬ間に自我の手柄にしてしまいます。おかしい、いつの間にか苦しい感情が湧いている、、、このパターンです。エックハルトはこの点どこまでも自我のメカニズム、思考の乗っ取り、感情との同一化とそれだけの説明に終始することで自我のカラクリを壊滅的なまでに見抜いていきます。