負の感情観察

目の前に神(全体)が居るのになぜ居心地が悪いのか?

今目の前に神が顕現している

我々の目の前に広がる世界は神の顕現です。神が顕現化しそこに現れています。どのように見えていようとも神の顕現でないわけがありません。ですが我々は神の顕現を目の前にして居心地の悪さを常に感じています。不足感、孤独感、退屈感、喪失感などです。我々の前に神が広がっているにも関わらずこれらの感情が湧いているということ事実にもっと違和感を感じなくてはなりません。人間とは神を目の前にして退屈を感じる生き物なのです。

もっと先に満足できる世界が広がっているはずだ

我々は神の顕現を目の前にしながら、もっとこうなれば自分は幸せになるはずだ、もっとこういう家に住めれば幸福に、もっと良いパートナーが見つかれば充実するはず、、、と欲望を起こします。ですが今目の前に広がる世界は神の顕現です。神の顕現を目の前にしてなぜ不満が起きるのでしょうか?ここに今回のポイントが隠されています。我々の問題点は神の顕現を目の前にして自分はこの顕現とは違う存在であると確信していることです。なぜか神の顕現を目の前にしてこの自分だけは神の顕現とは別物であると宣言しているのです。これによって居心地の悪さが発生しているのです。

同級生全員の前で自分だけは違う学年である

同級生全員の中で自分だけは実は違う学年ではないか?こんな疑問を持った生徒がいたらその生徒はさぞかし居心地が悪いでしょう。なぜこの学年で一緒になって学んでいるのか?こういう気持ちが常に湧いてきます。これが全体の中の自分です。神の顕現を目の前にしてこの私だけは別物なのだと真剣に勘違いする存在、それが自我、エゴです。この勘違いが酷ければ酷いほどに生きづらい、、これだけです。この勘違いが少なければ少ないほどに生きやすい、、これだけです。エゴ、自我は自分だけは特別であると絶対的に思いたい存在ですがこれが苦しみを生み出しているのです。

目の前の存在が神でないとしたら一体何?

我々の目の前に映る存在、これが神ではないとしたら一体何でしょうか?宇宙、地球、空間、、、なんとでも名称をつけることはできますがではそれらは一体何を起源にして生まれているのか?そう考えると目の前に写り出す現象は唯一のエネルギーでしかありません。唯一のエネルギーを神、ワンネス、大いなる存在、無我と表現します。これが今私の目の前に広がっています。もしも目の前に広がる神が燻んで見えるとしたら燻んでいるのは神ではなく見ている存在の方でしょう、つまり私です。

自我は無我を感じることができない

自我は無我を感じることができないから苦しむ

目の前に心穏やかな至福に満ちた老人がいてその人が最高の師であるにも関わらず、多くの若者はその老人には見向きもせずモノ、ファッション、ゲーム、SNSに走っていきます。なぜ目の前に至福な存在がいるのに自我丸出しの若者はそこには興味を持てないのでしょうか?それは自我は無我を感じることができないからです。自我には目の前の至福な老人が理解できないのです、なぜ至福なのかを全くわからない、、、思考には至福を感じることができません。だから思考が求めるモノ、自我が求めるモノは常にピントがずれているのです。思考や自我、エゴが求めるモノは常に形あるモノなのです。それは自我には無我(安堵、平和、愛)を感じることができないからです。

むしろ失うことでの気づきが多い

大切な車を事故で失った若者は最初大いに苦しむはずです、自分のアイデンティーティーであった大好きな車を事故で失った若者はショックでしばらくは眠れなくなるかもしれません。ですが1ヶ月、2ヶ月もすればそのショックもなくなり今までの精神状態に戻ります。車を失ったという事実は変わらないにも関わらずなぜショックが癒えたのでしょうか?車を自我の一部として所有し自我が大きくなっていると感じるのが錯覚だからです。そもそもが錯覚で自我が大きくなっていただけのこと、車を失うことで実は本質は何も失っていないのです。むしろそれによって自我が小さくなったならばその分無我が大きくなるということです。

失って見たら実は平気だったという気づき

私は大学進学に失敗し一年間の浪人を経験しました、それまでは学校に順調に行っていたので学校に行っていないということ、同級生との足並みから外れることに怖さを持っていました。ですが実際に浪人を経験してみると非常に居心地がいい。ドロップアウトすることがこれほど肩の荷が降りるとは全く思っていませんでした。キャリアに傷がつくということを恐れ続けていた感情は一体どこから来ていたのだろう?自我の策略です。自我は順調にキャリアを積まなくては大変なことになると脅し続けていたわけです。ここが私にとっての最初に気づき、自我が恐れていたことを真に受ける必要はないということでした。

倒産、闘病、投獄、、、この三つを経験した成功者は多い

倒産、闘病、投獄、、、これらは現代社会においての地獄、全部を失う状態です。この状態を経験した人間がそこから成功するのが多いというのは理解できます。人間の自我が最も恐る状態を経験した人は、、、実はその状態でも何も失っていないことに気づきます。全自信、全信頼、全人間関係を失っても実は平気だということに気付いてしまうのです。失うと大変になるのが実は自我の策略でこれを失っても本質(無我)は何も失っていないのです。無我とは何もないということ、、、この状態が歓喜、平和、愛なのです。

口に出して独り言を言うか、頭の中で独り言を言うか

口に出して独り言を言えば精神病

例えば電車の中でひたすらに独り言を言っている若者を見たら精神病ではないか?と疑うはずです。なぜならば彼は自分が独り言を言っているのに気づいていないからです。独り言の多くは自身には自覚がなくそれゆえ周囲からは病的に見えるのです。病院で診断を受ければ病名がしっかりとつくでしょう。ですが頭の中だけでグルグルと回る独り言、これは周囲は気づきません。そうなるとその人は病院に行かない限り自分を病人だと気づかないと言うことになります。現代人はこの頭の中での独り言を半端なく言っているのではないでしょうか?悟りの観点から説明すればこれは機能不全、負の感情自然発生状態です。

独り言がグルグルと頭を回れば要注意

頭の中をグルグルと思考が回るのが何が悪いのか?その前になぜ頭の中をグルグルと思考が回るのか?と言う話です。結論から説明すれば負の感情を一生懸命思考で解消しようとしているのです。明日の仕事に行きたくないな、、、この感情が湧いてきたらどうしたら解決できるか?あの上司が悪いのか?自分が悪いのか?仕事のやり方を変えて見たらどうだろう?いっそのことを転職をしてみたらどうか?このように思考がグルグルと巡ります。昨日散々考え回したのだからなぜ今日もそれ行っているのか?これは絶対に考えません、なぜならば今日も間違いなく負の感情が湧いてくるからです。それをなんとか解決しようと精一杯なのです。思考がグルグルとめぐれば回る回転数に比例して負の感情が湧くという地獄のスパイラルに人間は簡単に陥ります。

口に出して独り言を言うまでこれは続く

思考の暴走を一旦許したら最後、、精神病になるまでこの思考回転は続いていきます。負の感情は延々と沸き続けそれを解消すべくさらに思考がグルグルと回転を始めます。回転数が増えれば増えるほどに自我が強固に肥え太りさらに負の感情が湧くという地獄ループです。真面目な人ほどこのループにハマりやすいのは考えて解決を図らなければという責任感からです。能天気な人、考えるのが苦手な人はこのループには入りにくいモノです。負の感情は思考の活動、自我の活動こそが湧かしているという事実をいかに早く見つけるか、そして一旦それが分かったらもうこのループに入らないことです。

幻の認識は幻の終わり

我々は真実をただ認識すればいい

「この自分は間違いなく居る」これは自我が作り出した錯覚のメカニズムです。このメカニズムをいかにしたら脱却できるか?探求者は自我の存在を知りながらもではそうしたらこれを脱却できるかに心酔します。幻の真実はそれを幻と見抜いた瞬間なくなるということです。つまりこれは幻であることを体現するほかありません。知識のレベルでこれをいかに知ったところでそれは知識であって概念です。お寿司とはこういう味だ、、、こんな情報を1万回聞いても本当のお寿司の味は理解できません。悟りもこれと同じ先ずは体感し自我が幻であることを理解するほかありません。

大ピンチの状態、、、自我が抜け落ちる

突然の交通事故、街での喧嘩騒動、隣家の火事、震災、、、こんな非常事態に実は人間は楽になっています。急に頭が軽くなり気分が晴れているのを知っているでしょうか?火事場の糞力ではないですが緊急時とは普段の数倍の力が出ます。この状態は思考が抜け落ち自我が抜け落ち無我、ワンネスの状態です。スポーツ選手ならば知っているはず、余談を許さないような試合中いつもは重苦しい頭が劇的に冴えている、、これが無我です。この状態は誰でも知っているのです、ただこれを意識的にできない。なぜか?それこそ自我の妨害です。

毎日積極的に無我になることで幻は消えていく

無我の状態の気づきとは、、普段は自我が気分を視界を重くしていたんだな、、です。自我がただ不平不満、負の感情を湧き出させていたのだなという絶望的な気づきです。この気づきを積極的に行っていきます。積極的に無我に入っていくのです。全ての作業、全ての仕事、全ての会話、全ての雑事に対し無我で取り組むのです。もしくは負の感情が湧いてきたらそれを集中して観察します、積極的に負の感情を観察する観察者になるのです。そこから無我に入ります。人間活動の全てを無我への入り口に変えるのです。その時に気づくのは自我こそが人間を苦しませていたのだな、、というジョークです。

思考が見せる世界の成れの果て

名前をつけた世界は生気がない

もしもあなたの前にある世界が曇っているならばそれは名前をつけた世界に生きています。もしも目の前の世界が生気を失っているならばそれは生気を奪っているのはその方の思考です。小さい子供が公園や家に居てもひたすらに楽しそうにしているのは見ている世界が輝きているからです。そこから少年は知識を延々とつけていき見える世界に名前がつけられラベルが貼られていくことで見える世界から生気が失われ行くのです。人は名前がつけられた世界にいると名前がついたモノしか見えなくなっていき本質から離れて行くのです。

例えば一日中ニュース番組を見ていてば

例えば朝起きてそこから一日中ニュース番組を見ているとしましょう、恐らく夕方ぐらいには目の前にある世界が曇っているはずです。どんよりと重苦しい世界が目の前に広がっているはずです。もともとどんよりしていたわけではありません、あなたの思考が世界を分裂させて生気を剥ぎ取ったのです。負の感情が湧く、それを思考で解決していく、、、この循環に陥っていきますと大人になればなるほどに世界は分裂していき生気を失っていきます。

本当に欲しいのは知識ではなく知恵

我々現代人に必要なモノは知識ではなく知恵です。この世の真実を照らす知恵が必要です、そうしないと知識ばかりが増えていき世界から生気が失われていきます。生気を奪うのはあなたの知識、思考です。知恵とは何か?知恵はこの世をシンプルに捉えていきます、シンプルに捉えていけば思考もシンプルで大丈夫になっていきます。必要な知識は徐々に減らせていけるのです。日経新聞の隅から隅まで読んでみてください、、恐らく見える世界から活気がなくなっているはずです。これは知識です。このブログを読んでもらいもしも視界に光が射してきたならばこの内容は知恵ということになります。

生きる喜びを知って死ぬか、知らずに死ぬか

真の生きる喜びを知って死ぬ

真の生きる喜びを知っている人はほぼいません、多くの方は形やモノ、名誉、安定、名声、お金など、、、、外的要因に喜びの価値を置きそれを手をかえ品をかえ続けてなんとか死ぬまで生きていきます。内部的要因に本当の生きる喜びがあるとは知らず延々と外にそれを追い求めて死ぬのです。もしもその喜びを知ることがあるとすればそれは死んだ時ということでしょうか。

真の生きる喜びは何かに集中し無我になるか、感情観察に集中して無我になるか

真の喜びは時間の中には存在しません、時間を超えた場所にそれはあります。人間という形を所有しながらこの時間の枠を超えることは実際にはできないので人間を活用して真の喜びを得ようとする試みは全て悲惨な結果に終わるのです。私が家を買う、私が結婚する、私が収入が上がる、私が名声をえる、、、主語に私がついている時点で時間という枠の中での収穫になります。これらの収穫物は時間と共に満足感が消し去っていきます。真の喜びとは時間外にありますから私の不在時にこれが起こるのです、、、家を買うために仕事に集中する、結婚するために自分磨きに集中する、収入を上げるためにビジネス研究に集中する、、、これら集中行為時には自分というものが抜け落ちます、自我が抜け落ちます、、、すると無我が出現します。もしくはこれらの目標達成に向けて様々な感情が湧いてくるとしましょう、、辛い、しんどい、疲れた、寂しい、、、この感情をしっかりと観察します、集中して観察します、思考の介在を許さずに集中するのです、、、するとそこから無心、無我に入っていきます。無我になった状態、この状態こそが真の生きる喜びがなだれ込んでくる時です。

人間には人参などいらない

馬を走らせるには人参が必要になります、人参無くして馬は走りません。ですが人間は違います、最初は人参を追いかけて走っていたつもりがその状態から無我に入り走ること自体が最高の喜びになります。これが悟りです。最初はローン返済のために頑張って働いていたのが働くことに無心になりそこから生きる喜びが溢れてきます。辛いという感情が道半ばで湧いてきたならばその感情を集中して観察することでそこから無我に入れます。人間とは実はどのタイミングからでも悟り、無我に入りこめる生物なのです。全体(悟り)は人間を作り出し生きる悟りを創造しました。

思考をあえて使わない生活、、、

比較検討検証をしない生き方

スーパーのチラシを見てください、何%オフ、何割引、残り00個、ポイント何倍デイ、まとめて買うと一割引き、、、、これを見ると人間の思考がフル回転します。思考がいかに得をするか、賢い消費者になるか、いかに損をしないか、、、これを考え始めます。実はこれ人間を不幸にするメカニズムがガッツリと詰まっています。思考を使えば使うほどに負の感情が湧くようになっています、得な消費者、賢い消費者になる代わりに負の感情がガッツリその人から湧き出ているのです。スーパー不幸体質に強制変換されています。

何も検証しない

私はスーパーに行くとこれらのチラシを全く見ないようにします。この商品がいくらか、、これだけです。欲しい商品と値段だけを見て買うか買わないか決めるだけです。もっと極端に言えば知っている野菜や商品であれば値段すら見ません、包装がやけに高級感漂っている時だけ値段を見ます、それ以外は値段すら見ない、、、これで思考を何も使わないで買い物ができます。負の感情を湧き出さずに買い物を行えるどころか買い物という行為に集中することでそこから無心、無我になれます。つまり買い物という行為から悟りに入るのです。

賢いと言われることを放棄する

クーポンと呼ばれるモノも一切使いません、クレジットカードに何ポイント溜まっているかも確認すらしません。思考を賑わそうとする他者の策略に乗らないようにします。手数料なども一切気にしません、その時に最も効率が良い方法を選ぶだけです。これによって思考の介在を防ぐことができます。料理を食べる時も一切順番を気にしません、食べたいモノから食べます、食べることにのみ集中します。すると食事そのものが道、悟りへの入り口になります。思考は色々言ってきます、これから食べないと冷める、野菜が先の方が消化酵素優位に、、、それらの思考の戯言を一切聞かないようにします。それによって食事の時間が無心、無我、悟りに変わります。

人間が話す賢いは全て小賢しさ

思考ができる賢さは全部小賢しさです、これは断言できます。人間とはこの小賢しさ全開で発展した生物なのです。ですからこの思考をフル回転すればどうなるか?小賢しさ全開の人生になります、こんな人生の何の価値があるのか?という話です。そしてこの小賢しさ全開の人生にはついて回るペナルティーがあります、それが負の感情の噴出です。自我が強固に肥大化すればするほどに負の感情が噴出するように設定されているのです。自我とは思考で支えられておりこの思考の強化は自我の強化です。コスパがいい、コスパ最高、、、こんな言葉を自分が使い始めたら要注意思考が人生の幅を利かせています。せっかくの無我無心、悟りに入るチャンスをコスパで失っています。

明日震災で全てを失うかもしれないのに

形あるモノになぜしがみつく?

人間は形のある動物です。だからやはり形を信頼します。人は見かけが9割という本がありますがまさにそれ、、、内面を見る力がない人間はとにかく形にこだわるのです。日本人はロリコン、、これは最悪な評価しか日本人ができないことの証明です、形でしか判断がつかないのです。この状態は人間発達における機能不全と言っていいでしょう。西洋の文化がここ100年以上日本に流れ込んできて形あるモノへの関心がとてつもなく高くなってきました。これは同時に人間が人間として生きているとても苦しい状況なのです。

形が形に興味を持っている期間

人間という形あるものが形に興味を持つのは当然といば当然です。小さい子供は一日中オモチャで遊び倒すように形あるモノへの興味は尽きることがありません。ですが人間はある時この形あるモノの限界を知ります、それは自分自身の形への限界かもしれません、もしくは形あるモノをかき集めても満足できないという限界かもしれません。形あるモノの宿命とは形の限界に突き当たるということです。これが絶望であると同時に無への開眼なのです、無という広大無辺な存在への開眼が人間の絶望にあたります。

無は常にここにある、興味を示さないのは常に有(自分)

有(体)は常に有(物質)に興味を持ちます、有をかき集めれば幸福が続くと真剣に考えるのです。ですがその道中にあって何度も絶望的な体験を繰り返すことに、それは大失恋かもしれない、大失敗、倒産、投獄、大借金、裏切り、、、有を信じ切った有(体)の絶望体験です。もう有に頼る、依存するのは辞めよう、、、これをいかに早く気づけるかが無への入り口になります。形あるモノへの関心興味が壊滅的になくなった時に自分(有)の中にとてつもない偉大な無があることに気づくのです。有(自分)を常に観察し認識し続けてきた存在、、確実に私はいると言い切れる根拠こそが別次元の自分(無)です。全てはこの自分(無)の中でこの有としての自分ドラマが繰り広げられてきただけだったという驚異的な気づきが起こります。

限界(体)を所有することで無限を開く

この人間ゲームの醍醐味は限界(体)から無限を見つけること

なぜワザワザこんな小さな体の中に意識を植え付けたのか?真我はなぜこんな小さくひ弱で低脳な体の中に自我(独立意識)を育てたのでしょうか?それはそうでなければならない理由があったからです。人間というのがひ弱で弱小でなければ広大無辺な自身(真我)を見つけた時に感動がないからです。それと自身(自我)が弱小無能であるからこそ自身(真我)をいつか探し当てるからです。広大無辺の本当の自分への憧れがなくなることがないのは自身(自我)が弱小無能だからです。

12歳ぐらいで気付く、、自分はキムタクにはなれない

中学校に入る頃には自分はメッシにも、ロナウドにも、キムタクにも、大谷翔平にもなれないことを知っています。生まれて10年もしないうちにこの体ではスターになれないことをなんとなく分かります。これは一種の絶望ではありますが同時に内面開発のスタートでもあるのです。形でスターになれないのであれば内面で充実になるしかないということです。これがこの人間ゲーム、自我ゲームのセオリーです。形でスターになれないならば形でないモノでなるしかないということです。とは言え人間は諦めが悪く、、では学歴で、では偏差値で、ではお金で、では収入で、では安定で、ではファッションで、、、と形を変えて形にこだわっていくのです。ところがこれらを追い求めてもどこまで行っても心の穴、欠乏感、違和感は埋まらない、、、

限界(体)を自分自身と思うことからの脱却

この限界(体)がなんかしらのアイテム(限界)や何かしらの無形のアイテム(名誉や地位、社会的評価)を得てもどうやら満足は来ない、、、これが素晴らしい絶望なのです。キムタクにもなれずスタープレイヤーにもなれない、では無形アイテムで勝負だ、、地位名誉、社会的評価、安定、、、、、これでも真の満足は起こらない、、ということでこの自分は絶望の果てにこの自分というものを疑うようになるのです。悪いのは社会や才能、周囲の人間ではなく、、、この自分ではないか?そうです、この自分という存在こそが負の感情を湧き出し続ける原因であり、そこを見つめそこから無限に入り込む道具だったのです。有限という体を持ちながら無限に開いていく道具、これが実は体なのです。目に見えるものは全て幻、幻想でありこれを求めるうちは真の幸福は見つけることができません。そうではなくこの体を真我、大いなる一つ、神の通り道であることにいかに気付くかが鍵になります。

何かに集中して無我になり、感情を観察して無我になる

自我は常に忙しく常にあれやこれやと忙しい、、、これをやってあれをやってと思考フル回転、、これが自我全開状態です、苦しみの段階。無我全開状態とは、、、、全作業に集中してこれを行います、全作業を無我に入る入り口にするのです、、、掃除、料理、仕事、睡眠、、、全作業を無我に入る道具にします。茶道、花道、剣道、武道の所作はこれに当たります、思考を一切介在させません。そしてもしも負の感情が湧いてきたならばそれを集中して観察します、その感情によって思考をフル回転するのではなくその感情を観察することで無心、無我に入り込むのです。負の感情すらも悟りへの入り口にします。つまり起きている間中を無心、無我、真我にしてしまうということです、この状態は対象のいらない平和、歓喜、安堵、愛です。

負の感情と形あるものへのしがみつき

負の感情解消を思考は形に向ける

人間から負の感情が湧いてきた際に思考は形あるモノを求めます、例えば食事、、、食事を食べると負の感情を一掃できます、勿論一時的ですが。食事を食べて食べて負の感情、ストレスを解消します。この際に思考はなぜ食事がストレス発散になるかを考えません。なぜならばそこを突き詰めると自我の存続に関わるからです。実は負の感情の発生源は自我であることに気づかれてしまいます、そのためそこは考えない。食事などの形あるモノがなぜ負の感情を解消するか?それは大いなる一つの代替品の確保だからです。形あるモノは全て大いなる代替品になる可能性があります、これを手に入れた瞬間思考の回転が止まり自我が解消され負の感情が抹消されます。実はこれが起こっています。手に入れたその瞬間思考が抜け落ち自我が抜け落ち負の感情が解消されるのです。

思考に解決を求めればひたすらに形に依存する

思考が行うことは基本短期的解決です。とにかくショートスパン、その場が取り持てばそれでいいのです。だから負の感情が湧いたら思考は即座に何かしらの形を求めるのです、子供が泣いたら即座にオモチャを探し出し子供に与えます。これを大人になってもひたすらに行うのです。何か負の感情が湧いたら形を探すのが思考の定石です。ちょっと疲れたら即カフェに入る、ストレスが溜まったらお酒を手にする、退屈が湧いたらTVを見る、、、これを一日中やっているのです。思考をフル回転させればさせるほどに自我は強固になっていき負の感情発生量が徐々に増えていきます。このメカニズムが破綻する時まで来ると人は目覚めに興味を持つのです。

負の感情は目覚めるまでひたすらに続く

負の感情の根源は自我ですからこの自我が主導権を真我に明け渡すまで延々に続きます。人間はいかに恐ろしい存在をこの体の中に構築してしまったのか?です。ですがこの自我構築は真我の遊びです、大いなる一つの遊びです。ですから深刻なことは実は何もないということです。真我の中に自我という独立した存在を作り出しこの自我から負の感情が延々と湧き続けそれを解消し続けるというゲームです。自我が王座を真我に譲ればその瞬間に負の感情は湧かなくなるのです。徳川幕府が天皇に王政を戻したのと同じです、これを無血で行うのか流血で行うかです。

自身の事業が完成しても負の感情が湧いてきた時に諦めた

私がなぜこの分野の研究に打ち込んだかと言えば、、、20代に仕事でストレスが溜まり、好きな仕事について世の中の役に立てればストレスはなくなると決めていたからです。ところが実際にそれを成し遂げた時に喪失感が湧いてきました、もう人生で何かチャレンジすることはないのか?とです。自己実現さえすれば自分の人生は終わりと思っていました、だからこそ全てを捨ててこれに当たっていたのです。ところが違った、喪失感が無くならない、、、これは大変なことになった、、、悟りを開くしかない、、こういうことです。