偽りの自分

「今日これが出来なかった」プレイ

「本当はこれをやりたかったのに」プレイ

自己嫌悪は実は自我の巧妙な作戦です。今日本当はこれをしたかたんですが、、私って本当に駄目で。。今日本当はジムに行きたっかったんですが行けなくて、、、残念汗、、、、毎日これだけしようと決めてるんですが、、、本当私ダメ人間で。。。。全部これ自我の巧妙な自己嫌悪プレイです。作戦を立ててできなくて落ち込む、、、何が悪いのか?????今日自分が何が出来るかは今日今決まるのです、、湧き上がったその瞬間に行動が起こるのです。行動を起こせる自分など存在せず、、、存在しないのに行動をコントロールなどできようがないのです。自由行動など嘘です。

湧いたことをただ毎日やる

明日自分は何が出来るか????そんなことは明日にならないと誰にも分からないのです。なぜならば行動は湧くものであって自分で起こすものではないからです。何も出来ないならば、、それが湧いたのです。一日中ジムでスポーツしようが湧いたならばそれが起こったのです。本当は100やりたかったけれど今日は30しかできなかった、、、じゃないんです。湧いたことだけが毎日100%できるのです。つまり毎日100%やれるということです。

自分を責めるプレイを辞める

思ったことを全部今日はやれました、、、そんな日は一年に五回もないでしょう。。つまり成功確率は1%、、、そんな割りの合わない賭け事はしないことです。そうじゃなく今日はこれが湧いたからこれをやりました、、に変えます。いらないんです目標設定など、、無駄です。。。。それはプレイです、、自我の自虐プレイは余分です。ただしそれが起こったならばそれもそれで完璧です。そのプレイをワンネスが起こしたのですから。

この生き方はあの生き方よりも良い

エゴの策略

ああいう人生は送りたくないよね、あんな人生はごめんだ、、あんな人生を送れたら幸せだよね、、、エゴはあらゆる人生を比較し、、優劣をつけようとします。私の観念が映し出したあらゆる人生は私の観念によって優劣をつけられ、、そのように見せます。ですがこれこそが自我をこのストーリーに留めておく大きな力になります。自我はああなってはいけない、ああなるべきだ、、と一生懸命この人生に焦点を当てて生きていくのです。

あらゆる人生の外に

本当の私とはあらゆる人生の外にあります。あらゆる人生に気付く存在です、あらゆる人生をそのように見せる観念を構築する力そのものです。この世界にあらゆる人生があるように見せる観念そのものを作り出す存在です。そこに気づかせないがために自我は良い人生悪い人生を作り出し必死にその中でもがこうとするのです。ああなってはいけないと必死になればなるほど目の前の人生に焦点が当たり本当の自分を忘れていられるわけです。

私は人生ではない

私とはこの人生ではありません、この人生を作り出した全てです。この主人公、脇役、時間、空間、全てをひっくるめて本当の私です。この人生ドラマの脚本、プロデューサー、舞台、舞台監督、照明、音声、、全てです。本当は何一つ分離などせず分離しているように見えているだけです、その分離しているように見える仕掛けも私です。何から何まで私であり、、、全部が私であることからこれは空(絶対)の影なのです。

比較からの卒業

自我は比較が大好き

自我は比較が大好きです、この商品よりもこっちが好き、このブランドよりもあのブランド、あの地域よりもこの地域、、、思考とは比較検討するのが大得意であり、、自我もその思考の一つです。ですから我々人間社会は常に比較比較比較、、です。ですがこの比較精神は悟りには邪魔になります。私は悟って多くの人よりも上に立とう、称賛を浴びよう、人格者と呼ばれよう。。。となります。つまり悟りすらも比較対象の道具にされるのです。

つまり

つまり悟った暁には、、、この自我は、、人よりも優位に立てると、、自我所有の悟りに貶められるのです。これでは悟りはむしろ苦しみの原因にさえなります。自我が抜け落ち、、一瞥体験が起こった際にその経験を所有する自我が君臨し、また自我ストーリーに戻るということです。悟りとは解放とは目覚めとは自我の解放にも関わらずそれすらも自我に所有されるのです。

個体の錯覚

この世界は空(絶対)の影、投影、蜃気楼です。その中に個別存在など実在するわけがなくそれゆえにこの世界はたった一つのエネルギーです、、ですがこの世界は観念、価値観によって個別する存在が多種多様に現れる世界に見ることができます。なぜか????ここは無限の投影だからです、たった一つのエネルギー(空)無限の投影場所なのです。だから観念によって無限の姿を写すのです。その中で偽りの私は比較検討し無限の世界に判断を下しさらに観念を書き換えてまた異なった無限の投影をしていくのです。ですがそれをしている限りは分離緊張の世界から脱出できないのでそこを見抜く必要があるのです。

ブラックボックス

疑わしきは無視

もしかしたら私が女子会に参加しなければ私が居ないところで友人Aと友人Bが私の悪口を言っているかも、、なんとなく気になるラインが来ている。。。。そのような時どうすることが正解なのでしょうか????多くの場合は探りのラインを入れたりして、、、起こっているかいないかを探ったり、もしくは無理して女子会に参加したり、、、するでしょう。ですがこれらは逆に悪口を現象化させます。友人Aと友人Bが悪口を言っているような雰囲気があるのならばそれを私は絶対に感じているのですから、、そこは関心が行くことで逆に現象化するのです。

このような場合は先ず、、

全ての問題はそこに執着があるか否かが試されます。もしもその友人二人に対して執着があれば間違いなくドラマに引き摺り込まれます、なぜか???自我はドラマに入って存在を維持するからです。ですからこのような場合は、、悪口を言っていそう、、という時点で関係を消去します。つまり自分からは一切連絡を取らない、そして悪口を一切言っていないような雰囲気ならば関係を続けると決めてしまいます。関係を自ら切ってしまうことで執着の糸が先ずは切れました。すると自我はドラマに入れなくなるので、、悪い関係自体を消去するのです。

良い関係だけを続けると決めてしまう

悪い関係でも関係を続けようというのは執着です、、執着は自我の大好物ですからここからドラマがわんさか湧いてくるのです。良い関係ならば継続しようというのは執着ではないので自我はドラマをそこでは作らなくなるのです。こうして全ての問題は執着を手放すトレーニングであると気付くのです。自我にとって一番怖いことは、、全てのドラマが終了し自身がドラマから追い出されることです。そのためには関心を常にドラマの中に向けてもらいたいわけです。

悟ると決めてしまう

関心を悟りのみに向けますと、、最小限のドラマ勧誘で抑えることができます。無意識だった車への執着、無意識だったパートーナーへの執着、、それでも無意識の執着は次々に問題化し、、ドラマの中に自我を引きずり込もうとするでしょうが、、それらは全て執着の膿み出しと決めてしまうのです。そしてバッサバッサと執着を手放していきます。

悲劇から喜劇へ

悲劇は体になりきった状態

この体は絶対に私だ、そしてこの思考も間違いなく私だ、、、この緊張状態、密着状態が、、緊張感と分離感を激しく作るのですが、、、この時人は全てが悲劇になります。面白いことに密着すれば密着するほどにこの私はこの体の動きに完全に振り回されるのです。コントロールしようと思えば思うほどに暴れ馬感覚になるのです。それはそのはず右に行くぞ!!!と意気込んでもそれとは全く関係なく勝手に動くからです。自分自身が全くコントロール不可であることからストレスも激しく、、ゆえにこの状態は悲劇です。

体と距離を置く

この体のやることはもう分からん、体に任せちゃえ!!!やる気があるときはやる気に任せやる気が出ないならばそのやる気に任せる、、風任せ運任せだ!!この諦めがある程度ついてきますと、、、悲劇は喜劇になっていきます。こういう人生じゃなきゃ嫌だ、こういう人生以外は歩みたくない、、という理想は崩れ去り、、体に任せてしまうということです。要は馬(体)の動きに「私」が合わせるという感覚です。もう勝手にしてくれ!!です。

そのそも自由意志も自己も無いじゃないか!!!

そして最後は、、そもそもさー自分も自由意志も見せかけで、、本当はないじゃないか!!です。構造的にありよがないのです。この現象は全て空の影、幻、反映ですから、、独立した何かなんて存在するわけないしい、その何かに自由意志があるなんていうのも錯覚に決まっている、、、です。これが喜劇からの解放です。究極の諦め、、あとは馬の動きをただ観察し、、馬になりきり(あるがまま)生きていくが続きます。もうそここには馬(体)に乗る自分は居ないことが分かっています。

非二元を二元の言葉で説明する矛盾

言葉とは二元の世界

言葉は二元の世界を表すツールです、この言葉で非二元を表現するのは実は矛盾があります。二元の世界とはつまり分離の世界です。非二元とはその分離が嘘、間違い、勘違いであるという世界です。全くもって真逆の世界なのです。ですが言葉は分離世界のツールですからこのツールで非二元(非分離)を証明するという矛盾にぶち当たるのです。

言葉こそが二元を作り出した

二元性の世界にあるのが言葉ではなく言葉こそが二元の世界を作り出しました。もしも人類が言葉を使っていなければ今現在も非二元の世界に人類は住んでいます。つまり人類は言葉を覚え活用することで二元の世界(幻想)を作り出し、、その幻想に住うという荒技を生み出したのです。ところがこの二元の世界は分離緊張の世界でもあり、、、これが苦しいので、、、本当は非二元(非分離)だ!!!と言い出したのです。そしてそれは真実です。

一生懸命言葉(分離ツール)で非二元を説明する滑稽さ

わざわざ言葉で二元(分離)の世界を作り出し、、文明を進化させてきた人類が、、この世界に住っていれば真の幸福には至れないと気づき、、今言葉(分離ツール)を用いて本当はこの世界は非二元なんだ、分離していないんだと説いています。皮肉にも分離を作り出した道具を用いて今度は分離は錯覚だと説いているのです。ですがこれは退化ではなく進化です。人類は分離世界を一旦作り出し、、次はそれを超越しようとしているのです。分離が悪いということではなく、、分離を作り出した故の苦しみを、、、今終わらせようとする次のステージに人類が進もうとしてるわけです。

自由意志の否定は輪廻転生を崩壊させる

そもそも

輪廻転生とは、、人間が行った誤った行為を来世で解消するために何度も生まれ変わり霊的成長をしていくことが前提で起こった考え方です。ところが人間には自由意志がなく、、全ての行動言動は自動反応であるというのが真実です。つまり人間の全行動はワンネスから起こる現象に過ぎないことからそこに間違いなどあろうはずがないのです。自由意志を行使した結果時に過ちを犯し、それを改善するために生まれ変わるという概念は完全に勘違いであることが分かります。

解脱とは勘違いからの目覚め

つまり解脱とはそれらの勘違いからの目覚めであるということです、人間には自由意志もないし自我も存在しないという気づきが起こりまでこの自我ストーリーが続いていたというだけの話です。今世で犯した罪は来世で償います、、という考え方は、、真実ではなく大誤解です。輪廻転生とは大誤解をベースにした概念に過ぎないということです。そういった大誤解から目覚めて真実に目覚める時、、そこにはワンネスしかなく、、最初から悟っていたという気づきが起こります。

自我を前提にしたストーリーの消滅

解放、目覚め、解脱とは、、、自我を基本にしたストーリーの消滅です。本当は自我は現象幻でしかなくつまり現れて消える概念です。この概念が分離と緊張という「苦しみ」を起こし、それをこのストーリー上で解消しようとする動きが人生であり輪廻転生なのです。そもそも自我は幻であり実在はしていなかったという気づきは自我をベースにしたストーリー全てを崩壊しその後に残るのは自我が存在しない現象のみです。そこには分離と緊張は存在せず真の安らぎが残ります。

未来思考は決してポジティブではない

前だけを向いて

前だけを向いて行きましょう!!今は苦しくても。。。こういったスローガン多いですよね!!!実際私もこの手のスローガンに肖っていた時期もありました。前へ前へ前へ!!!ですが実はこれは自我の常套手段です。自我に依存している状態は基本今が苦しいのです、今は分離感全開です。今が苦しいので自我はとにかく先には幸福が待っているというスローガンを作るのです。今はとにかく苦しいだけどいつかこの苦しみからは解放される日がくるはずだ、、です。ですがどう考えてもいままでこのやり方が成功したことがない。

前に素敵なセルフイメージを作って

自我は前に素敵なセルフイメージを作ってこれを達成したらこんな幸福な自分に、これを叶えたらこんな素敵な自分に、これが成就したら最高の自分に、、、と人参を常に垂らしてきます。ですがなぜこれを垂らさないといけないのか????それは今は苦しいからです、今が不足だからです、今が孤独だからです。だから前に素敵な自我イメージを作りこの延長線上にはいつかは、、、という夢を置くのです。

叶える先にあるのは自分

この作戦の問題点はどれほど素敵な夢を叶えようとそれを享受するのが自分だということです。この自分がこのストーリーの主人公であることに変わりはないのです。ところがところが、、、この自分が分離感、不足感を生み出している張本人ですから、、、素敵な夢を分離感全開で叶えるだけなのです。つまりこの作戦の問題点とは、、絶対に至福になれない自分がこのドラマの主人公であるということです。

全く魅力のないメッセージ

絶望の終わり

自我とは分離感です、自我=分離感です。この枠からは絶対に絶対に自我は抜け出ることができません。自我が向かうところ分離感しかないのです。ですから自我は絶望的な存在なのです、そしてそのことを自我の向こうの何かは気づいています。ですから覚者は自我の終焉以外にこの苦しみを終わらせることはできないと断言するのです。ですがこのメッセージは自我を維持しようとする動きにとっては全くもって魅力のないメッセージなのです。何かを埋めれば何かを足せば、何かに気づけば、、いずれ私は幸福になれると信じて何十年間も走ってきた自我にとって、、、自我の消滅ほど不快なメッセージはないのです。

何かが幸福になるのではない

この世界にある何かは全部現象です、ですからその何かは幸福になるということは不可能なのです。今回の何かとはこの自分ですがこの自分もご多分に漏れず、、現象です、、つまり現れては消える幻想です、幻です。幻は幻ゆえに幸福になるということは不可能なのです。これが自我が絶望的な存在である理由です。自我という現象自体は完璧です、現象は完璧の表現であり自我は完璧なのです。ですが至福という観点から言えば自我は絶望的なのです。

絶望的な存在を終わらせるしかない

もしも出来ることがあるとすればそれは自我(絶望的存在)を終わらせることです、絶望的存在が終われば何が残るか、、、真の安心感、真の安らぎ、真の喜びです。自我とは引き換えにこれを手に入れるしか方法はないのです。自我とは引き換えに????誰が自我とは引き換えに真の安らぎを手に入れるのか????誰が自我とは引き換えに真の喜びを手に入れるのか????それは真の安らぎ、真の喜び、大いなる存在そのものです。

有名人に憧れる本当の理由

エゴの集大成

有名人になるというのはエゴにとっては最大限の安心です。誰もが自分(エゴ)を知っているという状況は自分がこの世界に確実に存在すると証明できるからです。ですがなぜそこまでして存在を証明したいのか????それは自我エゴとは非連続性の存在現れては消える儚い存在なのです。だからこそこれを常に意織したい、、という衝動が有名人への憧れになるのです。自我最強バージョンです。

実際は

エゴにとっては有名人になることは素晴らしいことでしょう、ですが実際にそうなってしまったら、、さあ大変、、常に常に自分、エゴが現れるのです、、、その瞬間「本当は誰だ????」という憤りが生まれます。安心するエゴの動きと常に苦しいが湧き上がるという二重構造の感情に支配され苦しみ続けることになるのです。

有名人とはエゴの大肯定

有名人とはエゴを大肯定する動きです、、本当は非連続の幻であるエゴが完全に存在すると周囲から認められることになります。ですからこれからも有名人ビジネスはなくなることは絶対にないでしょう。有名サッカー選手が子供たちの憧れになるのは既に子供の中に自我が芽生えてきている証拠なのです。何者でもない存在では心許ない、有名になって存在を証明したいというエゴの動きです。