悟り(非二元)解説

称賛評価

どうでもいい

私たちの本質はこの画像、視界を認識する存在です。この画像です、、今PCをやっている場合、、腕が映りますよね。この腕を認識する存在であり、このPC、この背景を認識する存在です。当たり前ですよね?????それはこの体が認識しているんですよね?????違います。この体は実は何もしていないんです。。。。??????えだって目があるじゃないですか??????ないです。目はあなたの人生で一回たりとも出現したことがないんです、、????????

耳は????

耳も残念ながらあなたの人生で一回たりとも出現したことがないんです。。。????????意味不明でよね。。意味不明でいいんです。あなたの耳があらゆる音を拾ってきたというのは誤解です。あなたの耳は一度も出現したことはないしこれからもないんです。でも音は感じますよね?????感じます100%。つまり耳という機関を使わずに今まで音を感じてきたんです。?????つまり我々は完璧に神です。完璧完全に神なんです。

味覚は????

味は私たちの舌が感じてきたと信じています。ところがその舌を実際問題見たことがないんです。勿論鏡で確認すれば現れるでしょう、、しかしそれは幻想、幻影、幻なんです。つまり我々は生まれて死ぬまで一度も舌で味を感じたことなどないんです。現れたことがない舌がどうして味を感じるというのでしょうか。つまり我々は舌などを使わずに空間が味覚を作ってきたのです。やはり我々は完全に神です。

空即是色

実は実はこの全認識は、、、空即是色です。。。これが起こった時に自動的に起こります。空という不変の自己から現れでた、、現象に「気づき」が起こるのです。神とは空即是色が作るのです。私は神だという認識は「空即是色」が起こすのです。視覚が起こり、味覚が起こり、聴覚が起こり、触覚が起こり、嗅覚が起こる、、これがまさに「空即是色」です。

画像の移動

一日中歩く

一日中歩いてみてください、、あらゆる場所に行ってください。実は画像の中身が変わり続けていきます。実はそれしか起きていません。たまにこの体が登場するでしょうがそれは幻想です。幻想としてこの体はたまに登場します。足が地面に触れる「感覚」は永続して起こるでしょうが、、それはその感覚がこの画像の中で起こるのです。全現象が気づかれ、気づかれない現象は存在しません。

この体を主語にした思考

分かってきますと、、この体を主語にした思考が湧かなくなります。この体はたまに現れる現象、幻想であって、、そのたまに現れる現象を主語にするって意味不明なんです。ただし勿論人間付き合いをする時間は、、やるでしょう。ですがそれも束の間の話、、、画像に戻ります。戻らざるをえないのです。目も耳も口も鼻も存在しないこの体に興味を持ち続けるって不可能なんです。

あなたの顔って素晴らしいね!

本当に有難いんです、、この体を褒めてくれることって、、、ですが、、、残念!!!!!それって100%幻想ですから!!!!あなたが見ているこの顔って100%幻想です。。。。だから騙されないでください。。。その褒め言葉、そのゴマスリ、その称賛、そのオベッカ、、、、全嘘です。真実ではないんです。これを幻想とまだ見抜けていない神々からの発言です。その嘘に騙されないでください。真実ではこの画像、この画像だけが真実です。

我が人生

高校一年生

私は高校一年生の時期に自身のペインボディを消去する方法を見つけました。運動です、運動すると自身の性格、欲求、人間、衝動の全てが変わるのです。それまでの鬱々とした状況が変わります、屁理屈抜きで変わるんです。だからとにかく私の人生の最上階は運動になりました。。。ところがこれによってあらゆる人間活動が容易になったことで次の問題が起こったんです。

エゴ

高校二年生時からまさかのエゴが発達していきました、、、この俺様を見ろ!!!lこの俺様をもっと評価しろ!!!!です。性格がエゴイスティックになっていきます。こんな俺ならばこの大学、この仲間、この就職先、この収入、この地位、この評価がふさわしい、、です。そのために全エネルギーが注がれます。エゴ拡大に人生の全てが使われていきます。

無理

このエゴの欲求は留まることはなく、、、、、本当に苦しい!!!!誰か止めてくれ!!!!です。釈迦登場、、、25歳の時に釈迦に関する書籍に出会った。。。。これだ!!!!!これしかない!!!!!人間は無知ゆえに苦しい、、、本当は真実を知りさえすれば、、、救われる!!!!!これしかない、、、これを20年間学んできた結果「分かった」が起きました。

目を怪我した

本題

本題に入りましょう、、、昨日花粉が目に入り腫れてしまって今日は物が見にくいみたいです。。。こう私が説明すれば100人が100人「確かに花子ちゃん目が腫れているね、それじゃ仕方ないね」となります。幻想上そうならばそう答えます。。。ですがここで花子は勘違いするんです、、幻想上の目の腫れを真実、、、そしてこの花子の視界上ではただ見にくい、、、を主観と捉えます。主観の方を情報不足、、客観を真実と捉えます。。大反対です。。。違うんです。客観とは幻想情報です、幻想上の情報です。真実とは、、この視界です。主観だけが真実です。客観情報は幻想情報しか取れないんです。

真実

真実では視界が変化した、、、ただこれだけです。目が腫れたという真実は全く起こっていないんです。どちらが正しいのか????「変化」だけです。いやいやじゃあ幻想上のその目が腫れた、、は一体何ですか????幻想です。幻想ではそうなったんですね!!!!!が名回答です。そして鏡を見れば100%目が腫れています、、だからその幻想情報は正しい、、、、で終わりです。

何が言いたいか?????

我々は真実ではこの体ではなく、、ただのこの「視界」です。この視界以外の存在はゼロです。にも関わらず、、、、周囲の情報、、、あなたには体がある、、、を100%信じているのが、、人間業界の現実です。だからそこに自我が宿り苦しんでいるのです。幻想上の情報を100%信じ、、、真実である、、我々はこの「視界」でしかない、、をすっかり忘れています。

自分とかなんとか

自身が本当にこの背景でしかないことが腹落ちしますと、、自我とかペインボディとか、、、忘れます、関心がなくなります。100パーセントの実感でこれが幻想であることに気づきますと、、、もうこの体の中に自分がいるって発想がギャグなんです。ギャグをギャグと分かって信じれますか????という話です。ただしこのギャグをギャグとい見抜くには自我、エゴ、ペインボディの認識が必要です、無理です、、この仕掛けをナチュラルに見破るのは。。。不可能です。

1万人

この体

コンサート会場、、、1万人の観客が、、、歌手を見ます、、観衆は歌手に全集中します。歌手は自身の存在を実感し、、観衆も歌手の存在を実感します。そして観衆はその歌手の歌声に痺れ、、痺れる自分を確信します。これ全部嘘です。1万の観衆が見入っている歌手は、、幻想です。その視覚に映る姿は本物です、、ですがそれは幻想として本物なのです。歌手というこの肉体は100%幻想です、、ですがそこから出る声は本物です。この声はどこから出るのか?????口からではないですよ、、ただ出るのです。それを観衆はこの歌手の口から出たと認識します、幻想上。

歌手は観衆の反応を見て

歌手は観衆の反応を見て自身の存在この体を大実感します、、ですが彼らが見ているのはこの体という幻想です。この幻想からである声は本物なので、、だからこそこの体から確実に出ていると勘違いが起こるのです。そして歌手は観客の反応が確実にあるのでやはり彼らの存在を本物と認識します、これが誤解です。本当は声だけがでる、ここから。だけです。

八百万の神

真実は、、この観衆の裏には八百万の神が居ます。この神が認識を起こします。その神の化身がただそこに観客としてあるのです。人として見えるのは全て化身です。そして歌手も化身ですからそこには何の力もないのです。その声はその化身ではなく裏にいる意識、神から起こっているのです。歌声はではどうやって起こすのか???起こし方を知っている神から起こるのです。

歌声を聞くのはどうやって????

歌声を観衆はどうやって聴いているのか????化身が幻想ならば耳も実在しないんですよね????そうです。全く実在しない、、簡単です彼ら一人ひとりの神がそのまま背景として空間から音を拾うのです。でも中には難聴の人も居て、、聞きづらい人が居るのはなぜですか?????化身上は難聴です、、ですが実際にはただ音を拾いにくい神が居るだけです。

重要なこと

神にも種類があり、、視覚からの情報を拾いやすい神、聴覚から、味覚から、、嗅覚から、、実は様々です。それがこの化身に反映され、、目が良い悪い、耳が良い悪い、舌が良い悪い、鼻が良い悪い、、と反映されます。我々はこの反映の方を真実と捉えますが、、違います。これは幻想です。幻想には一ミリも力がないのです。幻想上の優劣とは神の特徴の反映です。

100枚の鏡

目の前

目の前に100枚の鏡をおいてください。そして今からその鏡の中で食事をします。。その鏡には100パターンのこの体が現れ、、、食事を食べるでしょう。そこにはこの体が食事を食べる様子がありありと現れます。。ですがこれ嘘です、幻想です、フェイクです。この体が食事を食べるという映像は幻です。。だからこの体が食事を感じるというのは嘘です。

口の中に

口の中に梅干しを入れる、、鏡にはその様子がありありと起こります。ですがこれ全部嘘です。。。本当は梅干しという幻が、、この画像の中の中心らへんに入る、、そして味がする、、、これが真実です。ビジュアル通りの現実において口の中で梅干しを感じるは、、起こっていません。。。ただ、、味がして触覚があるという事実のみが起こっています。それを鏡で見れば幻想としてこの口の中の様子が写っているのです。

画像を信じた

人類はこの鏡の中の幻想を真実として、、、実際のただ味と硬さを感じるは、、、見えていないだけ、、、、と信じることにしたんです。本当は、、口も梅干しも画像から消えた瞬間消えています。そこからは味覚と触覚だけが起こっているのです。つまりこの味覚、触覚は、、空間、スペースが作ったのです。画像の外に居る気づきの意識が全部に気づくのです。。この体という幻想は実は何もしていません。

ただ起こる

体という幻想が何かを認識など全くしていないのです。この体という幻想はどこまでいっても幻想です。真実はただ味が起こり、食感が起こり、香りが起こっています。神はこの感覚だけを感じています。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、、これがただ起こっているのです。

時間

時間というのはこの体があってこの体がどこかに進むには時間が必要という概念で構成されています。ですが真実では、、この画像の中身が変わるだけです。この体という幻想は何もしていません。画像の内容が変わり続けるというだけです。

真実

幻想を信じた

我々はこの画像で起こる事実ではなく幻想の方をいつからか信じるようになりました。この画像、この視界では耳はなく目もなく口もなく鼻もありません。ですが鏡を見れば確実にある、、この幻想を真実と信じたんです。周囲は言います、、お前には100%目も鼻も、口もあると、、しかしそれは幻想として100%あるんです。幻想とは存在しないから幻想と呼ぶんです。実在しているならば幻想とは呼びません。つまり、、この顔には目、鼻、口、耳という例のビジュアルはないんです。あるのは、、感覚だけ、、感覚のみがあります。あのビジュアル風の感覚があります。よってあのビジュアルが実在して、、それらが、、、音、光、香、味を感じるというのは起こっていません。

つまり

つまり我々は生まれてこの方、、目、耳、口、鼻、舌というビジュアルのある実在で、、何かを感知したことはないんです。感知のみが起こったんです。ではその感知とはどこで起こったのか????この画像です、、この画面上で起こったんです。画像に気づく、、存在が、、この光、音、香、味に気づくのです。我々は顔なしお化けなんです、、この画像という顔なしお化けです。

顔なしお化けが全員

我々とはこの画像だけの顔なしお化けです。この画像だけが真実であって、、この画像以外は何も存在しないのです。そして80億人全員がそうです、、全員がこの画像しか、、知りません。この画像の中に、、目、口、鼻、耳、舌が現れ、、だからこの私にもこれがあるはずだと、、、80億人全員がそう勘違いしているのです。本当はこの画像あるだけであり、、、私の顔は、、、鏡の中か、、写真か、、、他人の人生の中にしか登場しないのです。

本当は

だから、、本当は光はその場所で認識され、音はその場所で認識され、、味はその場所で認識され、、香りはその場所で認識されるのです。その認識をこの体が起こしていると勘違いします。鏡、他人の情報で、、間違いなく、、この体が認識していると思っているのです。真実は、、この体と呼ばれる画像は、、何もしていません。

我々はこの画像を認識する主体

ですからあなたは誰ですか????と呼ばれれば、、この画像を認識する存在です。と答えます。この画像を認識する存在とは、、この意識です。この画像の認識者、意識です。そしてこの意識は、、空から色が生じる際に生まれます。つまり我々は空でありこの画像であり両方です。そしてそこから生まれる意識です。意識、空(不変の自己)、色(画像)これが本当の私です。

終わりなき戦い

ペインボディ

あまりに長い期間真実から離れ、、嘘を信じてきてしまった人類は、、真実を目の前に出されても真実に戻ることが不可能になりました。なぜならば、、心の中の声を自分の声であると勘違いしているからです。そしてこの心の声にはペインボディの声も含まれるために、、自我をエゴを解体しようとする動き自体を止めらえます。ペインボディはエゴを維持するための動きであり、大元を断たなければ不可能です。

全ては一つで全ては幻想です

こう説明したとて、、、心の中の動きは、、この真実に興味こそ示せど、、動きにはありません。それはエゴをペインボディがガッツリと絡み、、そのような方向には行かせないからです。よって真実は常に本屋の片隅に置かれ、、誰からも興味すら覚えてもらえないのです。そしてそこに興味が向いたとて、、心の声は拒否拒否拒否ですから、、到底真実には及ばないとなります。

不可能

真実を拒否する動きは巧妙狡猾であり、、、これを無理くり畳み込むのは不可能です。よって徐々に徐々にペインボディを落とし、、エゴを剥がし、、最終的には悟りにいくのです。本当は全部幻想であり、よってこの目も耳も口も鼻も幻想です、、すなわちこれらは何もしていない。。。これが真実ですがこの真実はシンプルであろうとエゴ、ペインボディの牙城を崩せないのです。

自我に意識を奪わせない

意識の強奪戦

自我はこれまで我々の「意識」を奪ってきたんです。。この空から放射する「意識」を完全に奪ってきました。「意識」をただの脳の回路であると騙し、、、この体の所有物とし、、そして私という存在をでっち上げたんです。その瞬間人間はhuman beingからhumanに成り下がったのです。beingの部分、、創造主の部分が消え去りました。

創造主を忘れさせる動き

創造主である我々は本来ルールは必要ありません。ところが学校ではルール作りばかり、、、これをやってはいけないのオンパレードです。つまりは学校とは創造主であることを忘れさせる場所なんです。重要なこと、、創造主といっても自我の都合の良いように創造されるのではありません、、、今この瞬間、、この現象こそが創造物です。

創造主の自覚

実は、、、創造主の自覚が真の平和、真の安らぎ、真の安堵です。おでこの辺りから意識が放射され、、今まさに空から色が現れ立ちます。この時意識が現れているのです。今もありありと立ち現れるこの意識こそが、、創造主の証なのです。ここに安らぎます、、すると今まで縛り付けてきたルールが剥がれていきます。常識やら、、自己管理やら、、あらゆる縛りが剥がれていくのです。

勘違い

エゴ

エゴというのは創造主である、、この我々の「意識」を人間の体の中に閉じ込め、、、これが私と宣言した存在です。思い込み、落とし込みです。「意識」を自分と呼ぶ活動のことです。「意識」が自分であることは間違いがない、、しかし、、この自分が体の置物という大勘違いなところがダメ、、、「意識」は創造主が創造を行った時に起こる産物です。とんでもない大勘違いです。

そして

この意識は体の中に閉じこもるような貧弱なものではなく、、視界の全てが意識です。。現象化=意識です。現象が及ぶ全ては意識なんです。だからこの体の中にある意識って嘘です。。意識はこの体から放射され全視界に広がります。意識はこの体の中の脳の回路???嘘です。。意識は「空から色」が起こった時に現れる永続の現象です。それがいまここに広がります。

全員が今勘違いしている

全員が全員勘違いしています。この意識を、、、自分と呼び、、この体の中のただの脳回路と思っています。だから、、周囲に合わせないといけないし、、常識に従わなくてはならない、、友達は多い方が良い、、世間体は良い方が良い、、となります。残念すぎる勘違い。。。