悟り(非二元)解説

悩み

一番遠い

非二元のメッセージは個人の悩み解決とは最も遠い内容です。個人はいつでも悩み解決のための情報を貪っていますから非二元のメッセージすらもその対象になります。ですが非二元のメッセージは悩む個人が居ないという内容ゆえに個人はこのメッセージをどう扱っていいか分からなくなるのです。ですから非二元を取り入れる準備が出来ている人(本当は居ない)は限られます。悩みとは、、もう個人が解決していくことでは解決しない、、この気づきが起こった状態で初めて非二元のメッセージの理解が起こります。

私とは何ですか??????

意織

なぜ大人のほぼ100%が騙され続けてきたのか?????これだけ科学が発展してきたにも関わらずなぜ??????この体が幻想、、、自由意志がない、、、、、、科学的には100%ないことは証明できます。でもなぜ???????意織です、、意織だけは100000%あることを誰もが感じているから、、、、だから騙されてきました。

どんな理屈を言われたって

どんな理屈を言われたってあるんですよ「意織」、、、、、これだけは100000%あるんです。だから科学的にこの体も自由意志も私も存在しないことが証明されたって「関係ない」わけです。いつでもどこでもこの意織は存在していますから。子供も大人も老人も動物も全員が感じていますから。100000%疑いようのない存在「意織」があるから「科学」も吹き飛ぶわけです。

目を瞑ると

体も消えます、、ということは私も消えます、、ということは自由意志も消えます、、、でもたった一つ、、残っているものがある「意織」です。「意織」だけは微動だにせず残っています。そしてこの意識から「私という感覚」「自由意志があるという感覚」が湧き起こっています。なんだって思考が起こります。この意識から1億通りの思考が湧くのです。

世界に一つだけの嘘

「世界に一つだけの花」という歌がかつて大ヒットしました。全員が全員世界に一つだけの花であるという歌です。その通りです。ですが同時にこうも言えます。世界にたった一つ真実ではないモノが存在します。それが思考の内容です。「思考の内容」これだけが真実ではないモノです。真実ではない思考はなぜ湧くのか?????勘違いしてはいけません、「思考」そのものは真実です。思考が指し示す「内容」これだけが真実ではないのです。

私は犬だ

あまりにも犬が大好きな子供がいて、、「僕は実は犬なんだ」という思考が湧いた時、、「真実ではない内容」が真実の世界に起こりました。人間業界で飛び交っている思考の中身は実はほとんどが「真実ではない内容」なのです。「私はこの世界から独立分離した個体である」この思考は「真実ではない内容」です。全てはこんな感じです。「真実ではない内容」の思考を信じた時「それが体に反映して」感情になります。

まさかの

私も完全に騙されていました。さすがに騙されました。まさか大人のほぼ100%が騙されていることがあるとは思っていなかった。それが「この体には自由意志を持った私という存在が居る」という嘘です。これが嘘とは見抜けなかった。そこは完全完璧に騙されました。私感も自由意思感も完全完璧に感じていたから、、、それが嘘とだけは見抜けなかったのです。

さすがに勘弁してよ

「私が居る」感も「自由意志がある」感もあまりに半端ないじゃないですか?????だから騙されます。でもようくようく考えたら在るわけないんです。この物理空間自体が嘘に決まっているのに、この体の中に私が居たらヤバいんです。そしてその私が自由意志を作り出す?????あるわけないのです。だけど圧倒的にリアリティを感じてしまうから騙されます。

ギャグ、ギャグ、ギャグ

至福

ここは至福です、、、どこまでも至福です。ですが今至福を感じていませんよね??????それはそうなんですよ。なぜならば嘘を指し示す思考が連続で起こり続けているからです。ただこれだけなんです。今不幸ならば嘘を意味する思考が連続で起こっているからです。至福に至りたければ「真実を指し示す思考」に切り替えるだけです。

この考え方は危ない

たまにありますよね?????こんな考え方ばかりしてたらこいつ幸せになれんぞ!!!!!って奴。そうです、、考え方がヤバければ、、、、幸せにはなれないことをみんなどこかで知っているんです。そしてそれはその通りなんです。間違いない事実です。というかそこから湧いてくる思考の内容で全部決まります。状況ではなく状況をどう認識するかで全部決まります。

真実

真実を知ることに関心を持てたならばもう少しです。真実は一切逃げも隠れもしません。逃げるのはいつも我々です。今不幸ならば「真実ではない思考」が今起こっているただそれだけです。真実を知ってもそれでもそういう思考は湧いてきます。そこには関心を持たずただ真実を理解していきます。嘘を指し示す内容の思考が湧かなくなるその時までただ真実を認識します。

今ここで幸せになる

今ここで幸せになれないから

多くの方は「今ここで幸せではないから」仕事に行こう、貯金をしよう、結婚しよう、マンションを買おう、家を買おう、資格を取ろう、、、、、という動きが起こります。この原動力は何か???????今よりもマシな何かに向かってです。今ここで大満足な時「何かをしなくちゃ」は絶対に絶対に起こりません。動機が変わります。

何が今を至福から奪ったのか??????

ここ最重要です。ここを見逃しているから走る続けることになります。結局のところここで至福に至ってしまえば、、、「しなきゃいけない何か」は消えます。「至福」の中では何でも起こります、、、ですが至福を追いかけての行動が消えるんです。では何が至福を至福では無くしているのか??????嘘の思考です。真実ではないことを指し示す思考です。これがそのままに認識された時「至福」が至福ではなくなるのです。

嘘の思考が消える

重要なことは「嘘の思考が立ち上がらない」これだけです。嘘の思考が立ち上がった時だけ「至福」が至福ではなくなるのです。だから大切なことは真実の認識です。本当にこれだけです。嘘の思考が立ち上がらないようにするために「思考」を起こしても無駄です。重要なことは嘘の思考が立ち上がらないことでありそのために重要なことは「真実の認識」ただこれです。

あなたのためでしょ!!!!

なんで学校に行かなくちゃいけないの?????あなたが将来困らないためよ!!!!なんで会社に行かなくちゃいけないの??????あなたが将来困らないためよ!!!!!!なんで結婚しなくちゃいけないの?????あなたが将来困らないためよ!!!!!!!!そうかそうかなるほど、、じゃあ今は苦しいけど我慢して頑張ることにしよう。

今が苦しい

『今は苦しいけど、、、もっと苦しくならないように今は我慢して頑張ろう!!!!!!』これが多くの人の今を生きる姿勢です。「今は苦しいけど、、今よりも苦しくなるのはゴメンだから、、我慢して頑張ろう!!!!!」です。ちょっと待った!!!!!!!!今が苦しいのはなぜですか????????今が苦しい理由分かってます?????もしも「今苦しくないならば」将来も苦しくなりませんよ。「今を苦しくない方法」を手に入れてしまったら「将来も当然苦しくない」のです。そこを掘り下げた方が良くないですか????

「今が困っていない」から将来も困らない

これです、、これが悟りです。全く新しい生き方の提案です。今苦しくない、、結果将来も当然苦しくない。ここ理解できたらゴールです。でも今苦しいですよね??????なぜ苦しいんですか??????簡単です、簡単です、、、、「今私という存在が体の中に居て、その私が自由意志で全言動をコントロールしている」と信じているからです。この重圧が苦しみの大元です。ここをぶった切って崩壊させない限り「今が苦しいのだから今より苦しくなっちゃったら大変よ!!!!!!!」という何千年間も使い古されたこの詐欺に引っかかり続けるのです。この手口を見抜きます。完全に見抜くのです。

本当は何もしていない

本当は本当は何もしていないのです。この体の中の私とやらは、、何も決めず何も決定していない。。だからこれまでも完全自動操縦でやってきたしこれからもやっていくのです。だから困ったからどうする??????という対応も自分は何もできません。つまり困るか困らないかの選択を行うことすらもできないのです。自分を周囲と比較するから「周囲よりも困った状況」が生まれ「周囲よりも良い状況」が生まれるのです。周囲も自分も完全な自動操縦であることに気づいたら「比較」ほどバカげた遊びはありません。その時すべての価値判断が崩壊します。

どっちが本当の自分?????

親の前????友人の前?????

小学生の頃には既に「親の前の自分」「友人の前の自分」を使い分けます。学校から帰った瞬間「親の前の自分」になり、、学校に着いた瞬間「友人の前の自分」になります。本当の自分はどっちですか??????どちらも本当の自分ではありません、、なぜならば本当の自分なんて居ないのですから。親の前に行った瞬間「親仕様の私」が現れ出て、、友人に会った瞬間「友人仕様の私」が現れ出るのです。

つまり

私とは記憶が作りだした記憶複合体(イメージ)です。このイメージを器用に浮かび上がらせれる人をコミュニケーション能力が高いと呼びます。記憶が鮮明に作り出すその人仕様の私を適宜起こせる人がコミュ力高しとなります。そしてそのイメージに沿った言動が起こります。そのイメージ合わせた言動が起こります。つまり役者と全く同じことを我々は普通にやっているのです。

台本読み

役者さんに最も重要なことはその役が通ってきた記憶の集積をイメージしてそのイメージ沿った言動が勝手に自然に起こるまで記憶を作り上げることです。なぜ?????アドリブが利くのか?????それは鮮明なイメージをありありと描くから、、そこから自然とその役に合った言葉が出てくるのです。これを我々も毎日やっています。毎日毎日これをやっています。その認識が起こった時、、全く新しい認識に沿った経験が生まれます。

100人

会う

100人にあなたが会えば「100人」のあなたが現れます。100種類のあなたが実はこの世界に現れるのです。え?????????100人???????そうです。100人です。なぜ???????100人に合わせた100人のあなたが現れでます、なぜならば本当は本当はあなたは存在しないからです。だから100人に会った瞬間にその100人に合わせた一時的な「あなた」が現れ出るのです。

本当は誰もいないから

「本当の自分が居て」その自分が100人に合わせるのではありません。100人に合わせた「あなた」が現れ出るのです。そこ大きな違いです。本当の「あなた」なんてこの世界には居ません。100人に合わせた「あなた」がその都度現れ出るだけです。どうやって現れ出るんですか?????相手に反射して勝手に自然に現れ出るのです。

本当の自分が分からない

色々な人に会っていると本当の自分が分からなくなるんです。いやいや本当の自分なんて居ないんです。ただその相手相手に反応する「あなた」が勝手に自然に現れ出るだけですから。だから何も心配しないでいいのです。最初から本当のあなたは存在しないのですから。

自分が現れ出るその瞬間に気づく

重要なことは相手に会った時に現れ出る「自分」という存在に気づくことです。ブワッと現れ、、その相手自様の「自分」をベースにした思考、言葉、行動が現れでますよ。だからそこにこそ気づくのです。何もないところから自然に現れ出る「自分」を観察します。記憶が作り出した「自分像」の現れに気づく時、、そこには「自分」という独立分離した存在など一切存在せず、、、記憶が作り出したイメージのみが起こることが分かります。

自分が居る?????

この動きを見切った時、自分は居るんだ!!!!!と大手を振って宣言できることがなくなります。なぜならば私というのが記憶が作り出したイメージに過ぎないことは十二分に分かっているからです。だから「自分が居るんだ」という認識から私とは記憶が作り出したイメージなんだという新しい認識のままに言動が起こるのです。その時全く異なった認識、経験が起こるのです。

イメージになり切って

社長の前では「社長前の私のイメージ」が記憶から勝手に自然に湧き上がり、、そのイメージをやるという動きが起こります。そこから思考、言葉、行動が現れ出ていきます。その動きを観察します。何もないところから記憶が作り出した「私イメージ」が起こりそれを前提とした言動が起こることを認識します。イメージをはっきりと認識することを認識した時、、、、イメージはありありとそこに浮かんだのだという新しい認識が始まるのです。「イメージが湧き上がることに無自覚でそのイメージに沿った言動が起こることに無自覚であった状態」から「私イメージの湧き上がりに気づきそのイメージに沿った言動が起こることに気づく」という状態にシフトします。

落ち込むことに落ち込むのも自然無為

全てが自然無為

「俺は絶対に這い上がってあれもこれも全部手に入れてやる」この思考が自然無為として現れたのです。「世界で一番豊かになるべきはこの私で私以外は絶対に認めない」この思考が自然無為としれ現れました。全現象が自然無為です。為される主体が存在しないということです。「居るじゃん!!!!俺だよ俺!!!!」この思考が自然無為として現れでたのです。

雑草

自然無為の理解が起こっても、、それでも「勘違いの思考」は次から次へと育ってきます。放っておけば直ぐに生えてきます。それに気づくたびに「勘違いの思考」が枯れていく。。。そうです、、「勘違いの思考」という現象は「気づく」ことで枯れます。ただただ起こる思考の内容が「自然無為」に則しているかを確認するだけでいいのです。

「自然無為」に則していない

これまでは湧いてくる現象である思考をチェックすることなど全くなく、、、ただ野放しでした。だから伸びたい放題、雑草だらけ、、だから苦しい。。。。ですが自然無為、無為自然を理解しますと、、、思考の内容が「則していない」ことに気づくという現象が起こるようになります。

いつの間にか

いつの間にか「自然無為に即さない思考」が湧かなくなっていきます。あれ?????最近湧いてくる思考の内容が変わったぞ!!!という気づきが起こります。次にもう昔は何を考えていたのかさえも忘れる、、という現象でもない現象が起こります。最後にもう「自然無為に即した思考」しか湧かなくなった時「自然無為」そのものになります。一点の曇りもない自然無為です。

落ち込むことに落ち込まない

反省したことを反省しない

また私落ち込んでる、、、、また私反省してる、、、、、真実の理解が進んだ時、、、「反省、落ち込み」をさらに「反省、落ち込む」という流れが生まれることがあります。分かってないなー私、、、本当は全部勝手に起こったんだから落ち込んじゃダメじゃん!!!!です。でもいいんです、、、反省、落ち込みもまた勝手に起こったのです。だからそこに気づけばいい、、、笑っちゃえばいいのです。「反省、落ち込み」が起こったこを認識し、、笑っちゃえばいいのです。

古い習慣が起こったことを

古い習慣が起こり続けます、、ですがこの古い習慣を古い習慣と見抜けていることが凄いのです。だから落ち込んでも反省しても、、気にしない、、、古い習慣が起こることが当たり前なのです。当たり前のことが当たり前に起こってそこに気づく、、、既にこれは進化です。古い習慣が崩れていく予兆です。「また手で触っちゃった」この気づきが起こっている時点で「サッカーが上手くなっている」のです。子供は手でボールを触ったことにも気づきません。