悟った「私」

画面の中で

画面の中にはこの世界、この体、この私が確実に存在しています。その私はいつか悟りたいと願うようになります。そして真実に触れていくことである時「悟り」が起こります。その瞬間、、、この私は、、、、完全な偽りであったことが分かります。この私は偽りではあるがこの偽りの私こそが真実の発見に至らせたとことも分かるのです。この「私」という思考、プログラムが発生しなかったら、、真実に目覚めることもありません。だから「私」とは真実発見用プログラムです。

苦しいのが当たり前

スクリーン(真我)上に私というプログラムが立ち上がり、、そこから自我OSが起動して世界が起こります。私というプログラムは、、この体を同一視し、、この全知覚も「私」のものにします。幸福も私の中に在る感覚と見なします。その瞬間、、苦しみが起こるのです。世界というリアルの中をこの小さい体で生き延びる私が生まれるからです。全て思考の産物です。その思考が苦しみという思考を生み出すのです。そこからはこの苦しみを拭い去って、、いつか幸福になるための旅に出ます。

全間違い

圧倒的に不幸なのは、、幸福はスクリーン自体のものであり、、画面上には幸福は落ちていません。だから画面上の体が何かを得ることでも、、幸福は何も達成されていないのです。快楽という心の動きを止める刺激に出会った時だけ、、「幸福として在る」瞬間を一瞥しているのです。ですが画面上の「私」が経験したのではなく、、私が不在になった瞬間にそう「在った」だけです。ですが幸福の一瞥を、、、、「私」こそが握りしめ、、幸福をゲットした「私」を思い描くのです。

そして

これだけの幸福をゲットした私なのだから、、悟りすらもゲットできると考えます。そしてこの思考こそが苦しみ1000キロを背負います。ですが最終的にわかることは、、、、「幸福、愛」はスクリーンのことであり、、、画面上には何一つ幸福も愛も落ちてはいなかったというオチです。だから画面上の私が幸福になることも、愛に満たされることも決してないのです。つまり画面上の私が至福に至ることは1000%ありません。私とは何も得ることができない画面上の「アイコン」に過ぎないという悟りこそが真の悟りです。