PC

上手くいくことでストーリー上の自分は勘違いする

自由意思万歳

ストーリー上私が上手くいくことは当然あります、、この時私は自身の自由意志に圧倒的な自信を持ちます、ストーリー上、、、私の自由意志に対しです。ですがなぜか苦しい、なぜか緊張感が走る、、、上手く行っているにも関わらず苦しいのです。上手くいけばいくほどに上手くいかせた「自分」に意識が向くわけです、自分に気づきの意識の意識が向くようになります、自分に焦点が合ってしまいます、、結果苦しみが湧き出します。

気づきの意識をどこに意識させるか

気づきの意識が気づきの意識そのものとして経験を意識しますと、、、至福に包まれます。気づきの意識が見かけ上の自分として経験を積むと、、苦しみが湧きます。。。自分の存在を忘れるぐらいに行為に意識が向くと至福が生まれます。幻想であるこの体の中の自分に意識が向けば行為に意識が向きませんから集中できません。何かに集中できるというのは自分を解脱してでこそです。気づきの意識そのものとして行為に意識が向くことを全集中、無我と呼びます。

苦しみのメカニズムを腹落ちさせる

後天的に発達した「自分」とは気づきの意識をこの名前に意識を向けさせるトレーニングの賜物です。何度も名前を呼ばれることで気づきの意識がここの意識します。するとこの自分としての視界が広がり、、そこには名前が付けられた独立分離した世界が広がります。花があり、コップがあり、PCがあり、TVがあります、、全部名前を覚えた物達です。ここに入ると苦しみが湧くのです。このメカニズムに気づく視点が湧いてきますともうここに取り込まれることができなくなります、、自分に取り込まれているに気づきの意識が気づくが起きるのです。

悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明

苦しいのはなぜか???それは苦しみのメカニズムに気づいていないからです、気づきの意識が。。。。悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明が起きることです、気づきの意識に。この自分が見て、触って、飲んで、歌っって、聞いて、味わっているという錯覚が起こることでこの苦しみが起こりました、、この事実をどこまで見破れるかです。気づきの意識がどこまでこのメカニズム解明に気づくかです。自分ではなく気づきの意識に気づきが起きるかですからどこまでいってもこの自分は無力なのです。

名前を付けない限り、、それは存在できない

独立分離した存在を作るためには名前をつける必要がある

人間は一度に二つの物をしっかりと認識することができません、、目の焦点をそこに集中しなければ、、しっかりとしれを認識できないのです。。これが「やかん」だという記憶を作らなければ視界に入ったやかんに焦点が合わないのです、焦点が合わないということはそれはこの視界に存在しないことになります。PCとTVを同時に焦点を合わせることができません、PCに焦点を合わせ、TVに焦点を合わせています。これがPCであるという認識がなければそこに焦点を合わせることができません。

これがエアフォースワンという認識

スニーカー好きはこれがエアフォースワンだと認識したことで、、街を歩くたびにエアフォースワンが登場します、そこに焦点が合います、、、これでこの世界にエアフォースワンが登場します。老人が一日中歩き回ってもエアフォースワンは登場しません、そこに焦点が定まらないからです。名前を覚えない限り実はそれはこの世界に登場できないのです。現象化しないということです。

老婆と若い娘は同時に登場できない

騙し絵で有名な老婆と若い娘の絵画、、、この二人は同時に登場できません、どちらに焦点を合わせるかだけです、、、我々は今全員が同じ景色を見てると思っていますが実は人によって全然違う景色を見ているのです。これがこの現象界の仕掛けです。本当はただ生命が揺れ動き、、そこに名前をつけることで独立区別された存在が登場しています。この仕掛けを見抜くことで生命の現れしかないことに気づくことが悟りです。

現象とは形が現れてること

現象ってつまり蜃気楼

この世界を現象界と表現しますが、、現象とは象(かたち)が現れたということ、、まさにこれは仏教用語で色のことです。かたちが現れた、、、我々は漢字で既に真実を表現していたのです。事実のことを現実と呼びます、、実が現れる、、と書きます。実とは何か物質が詰まったような存在、これが現れるのです。どこに、、空から色が現れたのです、蜃気楼として。3D映像として、、色即是空とは、3D映像是インターネット空間、、空即是色とは、、ネット空間即是3D映像です。我々が使っているこのネット空間はどこに在るのでしょうか、、これぞ空、、、そして目の前のPC、タブレット、スマホに現れる動画は、、3D映像、、これが色です。

この体が自由に動くことで勘違いを継続できる

この体だけは自由に動かすことが一見できます、この体だけは自由意思で動かすことができる、、一見そう見えます。だからこそ我々はこの自分ゲームに完全に騙されます。素晴らしい自分、守らなくてはいけない自分、ししてそれ以外の環境、他人、敵、味方、、、です。ですが実は全部蜃気楼、3D映像であり、、この自分の体も蜃気楼、3D映像です。そして自由のままに動くと信じ切っていたこの自分の体もマリオ同様に完全にマリオの外から操作が起こっていました。マリオの動きをマリオが操作しているという勘違いが起きていたのです。

3D映像が動くことで自分が動いているという錯覚が起こる

街を歩く時に感じてみてください、、実は景色が動いているということを、、景色が動いていることで自分が前に進んでいるということを、、歩くとは3D映像全体を動かす行為だったのです。走るとは3D映像を凄まじく早く動かす行為だったのです。地面を踏み込む足の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。吹き抜ける風の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。街ゆく人々との挨拶はこの錯覚をリアルなものにします。

自由意志の延長線上に悟りはない

なんとか頑張って悟りたい、、の罠

自由意志の延長線上に悟りはありません、自由意志がなかったという気づきこそが悟りです。自由意志で切り開く人生の先に悟りがあるのではありません、切り開く人生が幻想であったことに気づくことが悟りです。自分という存在とは何も関係がなくただその気づきが起こります、というよりも自分という存在が明らかに無いことの気づきが起こるのです。

見える世界は映像

見える世界は映像です、PCもカーテンも、TVもやかんも、そしてこの体も、、なぜ映像と言い切れるか、、逆に言えばなぜ見える物が実在していると言い切れるのでしょうか??恐らくそれができないはずです。では何なのか??映像であるならばそれを証明できます。なぜならばしっかりとそれが見えるからです。見えるというのは事実です。香るというのも事実です。触れるというのも事実です。この事実だけが証明できる世界こそがこの世界です。五感を使った経験だけを寄せ集めると経験が在ったという事実に集約されます。だからこの世は何もないに繋がるわけです。朝起きて寝るまで経験しかしていません、経験以外何もないのです。

今日も俺は物理空間で頑張って働いたなーは嘘

残念ながらそのような事実は全く起きていません、俺という物質は存在していませんし、会社という物質も存在していません、同僚という物質も存在していません、電車という物質も存在していません、PCという物質も存在していません、、、五感を通じて映像を見て、手の感触で何かを触り続け、足の感触で何かを感じ続け、聴覚で何かを聞き続け、味覚で何かを感じ続けただけです、、、経験だけが起き続けたのです、、、これが事実です。経験=事実=根元です。これだけが確実に在りました。この世界は経験という事実、根源だけが在る場所です。そこに自分という物体は居ません。経験(根源)だけがあります。

1日に何度静寂に触れるか

目を閉じると全ての音は静寂から湧いているのが実感として分かる

事実としてはこの世界は静寂から湧いています、目を閉じて音だけを注意深く聞いてみてください、、静寂から音が飛び出してくるのが分かります。これは実践しなくては絶対に分かりません、言葉で伝えるのは不可能です。静寂は言葉ではなく静寂であり、、静寂という言葉の中に静寂はないからです。ただ目を閉じる、そして全ての音に注目します、、冷蔵庫の電源の音、ヘリコプターの音、子供の泣き声、大人の笑い声、、、あらゆる音が聞こえてきます、、、事実はただ音だけがこの世界に広がります、、、音を発する何かは存在しません、存在してしまったら目の前の暗闇以外に何かが在ることになってしまいます。それでは目の前は完璧ではなく不完璧になってしまうのです。完璧な真っ暗な中から音が湧き出すことのみにしっかりと集中していくのです。すると全ての音は静寂から湧き出していることに気づきます。

ただ目を閉じるだけなのになぜ静寂が湧いてくるのか

目を開いてただ景色を眺めていても静寂はなかなか湧いてきません、我々は目を開き景色を見たら最後、これはTV、これはPC、これは観葉植物、と名前の世界に入っていってしまいます。そしてそれを見る自分を意識します。自分という感覚が湧き出してきます。視界を眺めながら自分を忘れるのはなかなか難しいのです。ところが目を閉じると名前がある世界が消えます、目の前には暗闇が広がります。その瞬間物が消えてなくなるのです、自分という感覚も消えやすくなります。音だけが静寂から湧き出してきます。静寂に触れれます。毎日静寂に積極的に触れることができます。すると目を開いても全ての物が静寂から湧いているのが体感できます。

その静けさは静寂に触れているから

エックハルトトールの動画を見た人は気付くと思います、彼はなんとも言えない静寂を醸し出しています、あれを誰もがやれると思ったら大間違い、、あれは静寂に触れ続け静寂そのものになってしまったから醸し出されるのです。彼の言葉は確実に静寂から湧き上がっています。静寂に触れ続け静寂そのものなってしまえば喧騒の中に居ても静寂を感じ、豪雨にあっても静寂を感じることができます。なぜならば全ては静寂から湧いてきているからです。

ポケモンGO、人間GO

ポケモンGOは絶賛ネタバラシ

ポケモンGO、5年ぐらい前に大ヒットした任天堂のゲームです。スマホ越しにこのアプリを起動しますと、、、一般道、一般通路、私道、部屋の中、建物の中、、、リアルな現実の世界の中に、、モンスターが出現します。そしてそのモンスターをアプリの中で倒すのです。ゲーム業界の革命です。リアルな世界をゲーム化してしました。このリアルな世界のゲーム化、、、これこそが人間様が今絶賛やっていることです。このゲームは人間様が脳内でやっていることをまさかゲームとしてやってしまったのです。

人間GO

人間GOはゲーム内に出てくるキャラ(両親)が、、、あらゆる言語を、、、子供の脳に呼びかけることでインストールさせていきます。これはコップ、これはスプーン、これはおもちゃ、これは犬、これは猫、これは鳥、、、これを延々と行っていきます。これによって脳内に言葉がインストールされていき、、この言葉が、、、見える世界の中にその物体を作り出すのです。全体からそれを切り抜きます。日本語というプログラム言語です。ポケモンGOもエンジニアがモンスターを言語で作り出していきます。人間がやっていることと全く同じことをエンジニアはPC内で行っているのです。

人間GOその2

両親からあらゆる言語をインストールされた子供は生きる世界に名前がついた生物、植物、物体が出現していきます。川を眺めればそこにフナやコイ、金魚が現れ出すのです、それまではただ動く何かがあっただけです。名前を記憶することでそれが子供の世界に現れたのです。クワガタという名前を覚えることでクワガタが世界から切り抜かれ存在を認識します。カブトムシという名前を覚えることでカブトムシが子供の世界に切り抜かれ出現します。あらゆる登場キャラが揃ったところで、、小学校に入学しそこからはプロの先生がこれを引き継ぎます。

人間GOその3

名前を覚えることで子供が生きる世界にあらゆるキャラクターが登場し始めます。そして次にはそのキャラに対する解釈をインストールしていきます。背が高い、低い、太っている、痩せている、性別、年齢、暑い、寒い、、、これが陰陽・二元の世界です。言葉を覚えることでこの世界を解釈の世界にしていきます。そしてその解釈がまたこの見える世界を変化させていくのです。化させていきます。

人間GOその4

この世界にあらゆるキャラが登場しその解釈まで始まった人間はですが自身の言語、思考がこの世界を変えているということには気づきません。なぜならば大人すらも気づいていないからです。ということでこの延長線をひたすらに辿っていきます。マズローの欲求五段階を登っていきます、生存の欲求、所属の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求、自己超越欲求、、、動物から人間に進化し、人間独自の進化を繰り返し、最終的には全体に戻るというゲームです。

視点が変わるだけ

PCとしてアプリ操作するかアプリとしてアプリを操作するか

我々はPC内のアプリとしてアプリを操作しているつもりになっている存在です。アプリがいきなりPC内で自由意志を持ち勝手に動き回りあらゆる体験をする(つもり)存在です。ですが実際にはアプリはアプリ単独で動けるわけがなくPCの機能に依存しているのは間違いありません、なぜならばアプリはPCの中のプログラム言語に過ぎないからです。アプリを紐解けば全部が全部プログマム言語でできています。そしてそのアプリに「私が全動作を行っている」という勘違い機能が付加されただけです。それが自分という意思を持ったアプリであり我々「人間」の真の姿です。

アプリは言語をインストールしていく

アプリはPC内で様々な経験をしていくわけですがその度に価値観が変わり、か情報も増えていきます。アプリ内のプログラム言語が増えかつ書き換わっていきます。これによりアプリから眺める全体(PC)の姿は確実に変化していきます。なぜならばアプリが見る世界とはプログラム言語で解釈された世界だからです。アプリとはプログラム言語のことでありそれが書き換わっているにも関わらず見える世界が同じということは絶対にありません。

自我=言語

つまり自我とはプログラム言語です。我々が覚える単語は全てプログラム言語なのです。そして我々が見ている世界はその言語、プログラム言語で形成された価値観(プログラムの集合)で眺められ解釈されています。真実を見ているつもりになっていますが実は全部が全部プログラム言語の解釈が加わっています。ポケモンGOというアプリがあります、、道を歩く際に スマホ越しに見ると、、、道の中にモンスターが出現します。実際は普通の道ですがそこにモンスターが登場します。これを我々はデフォルトでやっているのです。

アプリ独自からPCからのアプリへ

当たり前の話ですがPC内のアプリがPCの機能を使わずにアプリ単独で動けるわけがなくPCのOSから全ての機能でアプリは作動します。アプリを動かしているのはPCです。人間は悟りを開くと自身が実はPCだったという気づきが起こります。なぜならばアプリを起動させているのは事実としてPCだからです、何も不思議なことではありません。自分自身が独立分離した存在だという思い込みが(プログラム言語)そうさせていたことに気づきます。

最終的にはPCの中でアプリが起動していただけという気づき

アプリを動かしているのは機能的にはPCです。それは事実です。アプリはプログラム言語でしかなく機能のほとんどをPCに依存しています。人間も全く同じで人間独自で生きていると思い込まされています、本当はあらゆる機能を全体に依存しているのです。ですがその事実を気づかないようにプログラム言語が働いています。そして本当のことを言えばPCが自主的にアプリを起動させているのではなく操作するのが人間であるように、、、この人間を動かしているのは全体ですが(機能的には)全体が意思を持ってこの人間を操作しているのではなくただその動きが全体を通じて起こっているだけです。人間ー全体ー(操作する人)がいるわけではなく、、、、人間ー全体ー空という感じです。空からビッグバンが起こり、、その起こりを通じて人間はその中で起動しています。全てはビッグバンのごとく空からの爆発で起こっています。

空からの爆発=ビッグバン

ビッグバンとは宇宙の起源、爆発です。どこからこの爆発が起きたのか??空、THE ONE、絶対、無ということになります。ここからの爆発によってこの宇宙、色の世界、現象界、全体が起こりました、、、その延長線上で生命が生まれ、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれ、、、と進化は続いていきます。そしてその延長線上で人間は言語、記憶能力を身に付け、、人間が居る世界すらも作り出したのです。ポケモンGOの世界(現象界に独自の視点を加える)、人間GOの世界です。

PCの機能は全部プログラム言語で成り立つ

言語は言語ではない

人間は日常生活で使う言葉を無意識に使います、言語とは仕事やプライベートを円滑に進める道具だと思っています。ですが実際にはそんなモノではありません。言語とはこの世界を構築しているのです、この世界は実はあなたが使っている言語でできています、意味不明ですね。なぜならば、、、もしもあなたが言語を何も知らなかった場合、、、、全くの別世界に住んでいるからです。そんなはずはない、、、同じ人間が見る世界が、、異なるはずはない、、そう思っていますよね、、全然違うのです。実は我々はたった一つのエネルギーを言葉によってモノ化、者化しそれを見ているのです。例えば宇宙人が地球に降り立ち人間を見れば眼鏡は体から特出しているように見え、洋服は体の模様として移ります。そしてスマホは完全に体の一部、、、全く分離していないのです。靴を脱げば、、、足が取れたと驚くはずです。

価値観は、、、

それらの言語、そして自分としての積み重ねが、、、価値観として形成されるわけですが、、、これらは我々が世界を見る際に大きく影響します。例えばBMWを買いたいと思っていると街中にBMWが溢れてきます、ミニクーパーを買いたいと思うと街にミニクーパーが溢れます。ナイキの靴が欲しいと思うとナイキの靴が街で溢れます、、、つまり人間とは意識したモノしか視界には入っていないのです。価値観とはそのままその人の世界なのです。何に注目するかで視界に入る情報が全く変わってしまうのです。言語、そして言語で成り立つ価値観は、PCのプログラム言語と全く同じでPC内の環境を全く違うモノにします。

最後は言語を超える

悟りとはこの言語を超えた場所になります。言語は単純にこの大いなる一つ、まっさらなPC環境を独自の世界に変える力です。言語には半端ない力がありますがその言語を超えた場所こそが悟りです。見ている世界、構築されたシステムが言語、プログラミング言語で設計されていることを見抜くことが重要です。どの言語を選ぶか、どの言語で新しいシステムを構築するかに意識が向かっている間は人生ゲームのデザインに興味があるということです。これは悟りの本質ではありません。

「これが私だ」は強烈なプログラム

7年間近い歳月のインストール

PCの中に生まれたアプリAには「これが自分だ」という認識はありません、なぜならばそのようなプログラムがされていないからです。アプリはただ普通に起動し疲れたら休止します。ただこれだけです、自動でアプリが立ち上がそしてアプリAの機能を果たします。ただこれだけが延々に続きます、、、ある時に他のアプリBからそのアプリAに対してあなたは「Aちゃん」「Aちゃん』と呼ばれるようになります。最初はアプリAは何が起きているか全く分からないのですがこれを数万回継続されることで、、、アプリAは、、、「このアプリは私だ」という認識がインストールされます。アプリAは私はアプリAというこのPCとは全く関係なく独立した自由な存在であると認識するようになります。ですが実際にはアプリAを動かしているのはPCですからアプリに自由意志は一切ありません、アプリの機能にそのような機能は組み込まれていないのです。画面上のアプリに操作機能は一切ない。PCがアプリを常に機能化させているだけです。ですがアプリAは動くこと全てを自分がやっていると勘違いする機能がインストールされています。

もう自由意志を疑わない

思考、動きの全てを「自分がやっている」という錯覚機能がこのアプリにはインストールされていますからこのトリックを疑うアプリは存在しません。ですがアプリは常にPCによって操作されています。そしてアプリ自身も元々は「これが私だ」という認識はなくこの認識は後付けされたインストールによってです。アプリにはこのPC画面内を動く機能が(歩行)がインストールされたために画面内を自由に歩くことができるようになりました。歩くと行っても画面内で動くのは画面の背景であり、、アプリは常に画面の定位置に存在します。そしてアプリから眺める視界はインストールされる言語によって日々変わっていきます。新しい言語を覚えることでアプリからの視界は徐々に変わっていくだけでなくアプリがあらゆる経験を積むことで経験が価値観になりそれがプログラム化されていきます。

無くならない居心地の悪さ

アプリを作り出しているのは全部プログラム言語です。これによってPCが「私はアプリだ」を体験できています。ですがPCはPCでありそれ以外には本来なれません。ということでこのアプリ体験は疲れるのです。PCがアプリになり切るのはどんな感じかを味わうためにこのプログラムをPC自体が構築したはいいが、、非常に骨が折れる経験になってしまいます。ということでアプリ体験をするPCは徐々にこの居心地の悪さを根本的に解消したいと動き出します。そして、、どうやら「これが私だ」というプログラムのインストールこそがこの苦しさの原因ではないか??という気づきにまで届きます。しかしそこに気付いてもこのプログラムは自動反応のように起き続けるのでこれを止めることができません。

「これが私だ」が立ち上がっても無視することでこの機能が落ちていく

「これが私だ」の自動反応は、、、あらゆる思考(言語)と一緒に立ち上がることが分かってきました。そこであらゆる思考が立ち上がってもそれを気にしないという方法を覚えていきます、思考(言語)の無視です。この思考の立ち上がりに意識を向けると、、これが私だも同時に起き上がっていき苦しくなる、、、思考(言語)の起き上がりに囚われると延々にアプリの活動が続いてしまいます。

切り抜かれたこの体を分離したと錯覚するメカニズム

PC 画面の中の切り抜き

我々はPC画面上の切り抜き画像です。PCに突如現れ切り抜かれました、それまでもこの体は存在していますがそれは一つの画面の中でのこと、そこからこの体だけが切り抜かれ完全独立した存在ということになりました、この切り抜きが独立分離していると認識できるのは思考の影響です。思考というプログラム言語がそう意識させます。これによって湧いてくる思考、感情をこの切り抜き画像が自分のものと所有していきます。これも全部言語、プログラム言語の為せる技です。そしてこの切り抜き画像が経験したことも個人の経験としてデータ蓄積されていきます。

見ている世界は価値観というプログラムによって変わっていく

価値観というのは思考の集積です、この価値観はプログラム言語化されて脳内で見える世界が書き換えられていきます。見た目が重要という価値観が形成されると眺める世界を見た目という判断で見れるようになります。人間の見た目が特出してその人の脳内で顕現化するようになります。背の高さが重要という価値観があると見える世界に登場する人間の背の高さが特出して写るようになります。人種問題に敏感であれば見える世界に映る人間の肌の色が特出して見えるようになります。

PCの中を個人として動くのは大変

この仕掛けを理解していないと個人はPC上の中をただひたすらに動き回るようになります。なぜならばこのPC内に個人として居るのは決して居心地が良くないからです。なぜならば個人、私、自分が居るというのはプログラム言語の為せる技で事実ではないからです。あくまでこの私は作り物です、幻想です。PCゲームの中だけの存在であり本当の自分ではないからです。時間空間も幻想なのは、、、PCゲームの中に自分がプログラム化されたから誕生したからです。自分がプログラム化されなければ時間も空間も本当はありません。