錯覚

海であることを忘れた波はストレスフル

波=ストレスだから当然

最近ストレスがたまる、今の会社はストレスがたまる、結婚生活がストレスフル、、、、ストレスという言葉は我々の日常生活においても最多頻度で出てくる言葉の一つです。多くの方はストレスとは外的要因によって個人に引き起こされるものだと勘違いしています。本当はこういうことです、海であることを忘れた波は自分自身こそがストレスの元です。海であることを忘れ自身を波だと勘違いした瞬間から中からストレスが湧いているのです。ですからこの勘違いを腹落ちしさせて勘違いを解消しない限りこのセトレスがなくなることは一切ありません。人間とはほぼ全員が自身を全存在ではなく個別な個人と勘違いしていますから人間=ストレス発生器なのです。ですからこの人間の外的ストレスを必死になって取り除いても意味がないのです。

転職すれば一時的にはストレスがなくなるがやがてまた同じストレス生活になる

今いる会社がストレスが溜まるからと言って転職してみたが結局は同じストレス生活に。これは頻繁に聞く話です。人間関係はどこに行ってもあるわけだから転職しても無駄だ、というような簡単な話ではありません。人間こそがストレス発生器なんですからその人間が場所を変えても仕方がないということです。自身を全存在ではなく人間と勘違いしているこの事実こそがストレスを生み出しています。この勘違いを解くことなくストレスがなくなることはないのです。

釈迦は2500年前にこの事実を知った

王族出身の釈迦は贅沢三昧の生活に飽き飽きし、退屈しそこから山に入り悟りを開いたと言われています。その釈迦が見つけた真実とは「この世は苦』だということでした。そこから2500年経ちテクノロジーは進化の一途を続け、IT革命が起こり人々は一見自由で豊かな生活を続けています。人間はテクノロジーで苦を克服できると宣う輩もいます。ですが実際はどうでしょう、自殺者は増えることはあっても減ることはありません。先進国と呼ばれる国々で自殺者が多いというこの事実が人間が苦を克服していない証拠です。それもそのはず人間が苦を克服することはできないのです、自分は人間というこの錯覚こそが苦を作り出しているからです。

大人の思考は子供の思考よりも優れているのか

波であるという分離意識の究極が大人

人間社会での大人とは自分の心身をしっかりと認め、この心身を自分自身で面倒見れる者を言います。他人に頼らず、親を頼らずに生きていける状態を指します。独立した人間同士のルールをしっかりと覚え自分の面倒をみれる状態です。自分と他人の境界線をはっきりとさせ周囲に迷惑をかけずに自身が生きていくための金銭を取得していきます。自我が確立した状態とも言えます。この状態は子供に比べ生存能力に優れていますから生存能力という意味では大人の思考は子供の思考よりも優れていると言えるでしょう。ですがこれは同時に分離意識が究極の状態でもあります、つまり自分が海であることを完全に忘れた波の状態です。欠乏感、不足感も最大値になります。

子供は大人よりも生存能力は劣るが分離意識が低い分不足感、欠乏感も低い

子供は大人に比べて知識が少ない分生存能力は低くなります。狩の方法、栽培の方法を多く知っているのは大人です。ですが知識が多い分大人ははっきりと自身を他者とは別個の存在であることと錯覚しています。思考がなければ自他の分離は理解できません。子供は思考が少ない分、分離意識も低いため生存能力は低いがその代わり欠乏感、不足感も低いということになります。子供時代から宗教やスピに興味を持つ子供が少ないのは不足感、欠乏感が低いからです。大人になると分離意識が進み、根拠のない不安、渇望、欠乏を感じます。この苦しみをいかに解消すればいいか分からずスピ、宗教に傾倒するのです。

大人は不足感、欠乏感を知識、思考を使って埋め続けようとする

大人は不足感、欠乏感を知識、思考をフル活用してなんとか埋めようとします。家を買ったり、家族を増やしたり、買い物をしたり、町内会の会長をしたり、旅行に頻繁に行ったりです。ですがこのほとんどが表層の解決にしか至らずそのため次から次へとタスクが増えてくるのです。そしてもうこれ以上タスクを増やすことはできないと諦めたときに、実は何もしなくてもそれほど欠乏感は変わらないことに気づきます。タスクをこなし続けている時だけは一時的に欠乏感を忘れていただけなのです。

我ありは海のこと

全ての現象を認識しているのは全て海

波が波としてどのような経験を積み、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識しているのは海です。波は波として活動しますが波の動きを認識し観察する存在は海です。もちろん波の本質は海であり波は実はありませんからそれは当然ということになります。波が海の存在を忘れようが波が海であることは間違いなく結果全ての認識は海が行なっています。人間もこれと同じ、人間がどのような行動をし、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識し観察するのは全存在です。そもそも独立した人間は存在していませんからその認識は人間を包括した全存在が行なっています。

認識を全存在が行うがそれすらも人間は自我が行なったと勘違いし続ける

人間の全ての行為を認識し、観察するのは全存在です。ですがこのことを自我は絶対に認めません、それをしているのは自我であると錯覚します。全存在が行う認識が全て自我に奪い去られ自我の勘違いはまた継続されていきます。ですが本当は自我は錯覚ですから認識し観察できる自我はいません。全ては観察する海、全存在、気づきの存在がいます。究極をいえば自我の成分は全存在です。

波を自分と思い込むエネルギー(自我)は全存在(海)でできている

人間の体、思考を自分のものと思い込むエネルギー=自我は全存在が作り出したエネルギーです。ですから自我は全存在でできています。自我は錯覚だろうと全存在であることに間違いはありません。波は海の一部であり、さらに波を自分自身と思い込むエネルギーも海です。海以外の存在はいないのです。だからこそ波が崩壊した時にそこにあるのは海だけです。結局海しか存在しないのですからこの世は海が創作した海物語です。海と海物語の違いは海物語には不安や、恐れ、不足感という感情が存在します。これは海には存在しないものです。海物語には確実に存在します。ですから不安や恐れ、不足感も突き詰めれば海です。

海であることを忘れた波は何者かになりたがる

自我は何者かになりたがる

海であることを忘れた波は何者かになりたがります。波は自身を不完全なものであると感じますから自身よりも完璧に見える何かになりたがるのです。例えばサッカーをする少年はメッシになりたがります。もしもその少年がそのままで完璧だと感じていればメッシを目指すことはないでしょうが自分を分離した独立した人間であると錯覚すればそこには不足感、分離感、不完全感が湧いてきて何者かになろうとします。

完璧に見える何者かは実は完璧ではない

海であることを忘れた波が生きている世界において完璧な存在は一つもありません。それはその世界自体が幻想の世界、ストーリーの世界、分離の世界だからです。その世界の中に完璧性を見つけるのは不可能なのです。ですから何者かになろうとする努力は全て無駄に終わります。仮に何者かになれたと感じても虚無感、不足感、飢餓感が抜けることは絶対にありません。ですがその何者かを目指す道中において無心に入り、無我に入ることができるのならばそこで安堵、安心、平和そのものになることができます。何者かになる前に広大無辺の海、全存在、ワンネスになることができます。そこに準備、プロセスは不要です。

波物語、現象界は完璧に入るための舞台

このストーリー、波物語で完璧(海)になることはできません。これは幻想の世界、分離の世界、夢です。これが夢であることを見抜くことでしか実は完璧(海)になることはできないのです。ですが何かに没入する、無心になることで完璧を一瞥することはできます。自分が波であることを忘れるぐらいに何かに無心(海)になることで完璧に触れることができます。完璧はどこか遠くにあるものではなく今この瞬間にそこに至れることを知れます。そしてこの感覚を一度でも知った波はそこから後退することはありません。

既知(波物語)の中から未知(海)は発見できない

私たちが思考を使う時、それは波としての記憶からなる

なぜ思考で海を見つけることができないか、なぜマインドで全存在、ワンネスを発見することができなか、、それはその思考、マインドは海ではなく波として蓄積した記憶をベースに構築されるからです。そもそもが勘違いの初期設定の中で育まれた経験、記憶をベースに沸き起こった思考、マインドで真我を発見することはできません。自我は真我を発見できないのは自我そのものが勘違い、錯覚でありその存在が真我を発見できないのは当然です。既知の中から未知を発見できないとは自我が真我を発見できないと同意です。

心はなぜいつも間違えるのか

心が真我、真理、海、ワンネスを絶対に見つけることができないのは心とは波の記憶からなりその記憶は勘違いの集積だからです。勘違いの集積から生まれた感情、思考が真理を発見できるはずがありません。故に心は常に不安、不快、恐れ、不足に満ちそれゆえ常に新しい経験、安堵を探し続けることになりますが結果見つけることはできません。見つけようとするのは海で在ることを忘れた波であり分離した自我だからです。勘違いした存在(涙、自我)のままで真実を発見することはできないのです。故に人間は至福には至れないということになります。

思考はなぜいつも間違えるのか

思考は真理、真我、ワンネス、全存在を見つけることはできません。それは思考とは波であり、分離した自我であり、分離している勘違いしている人間の記憶をベースに沸き起こるからです。波物語、人間物語の中では真我は発見できません。真我とはこういうものだよ、ワンネスとはこういうものだよと聞いてもそれを思考は波物語人間物語の中で発見しようとしますがそこには真我はありません。真我とは夢から覚めた時に出現するものだからです。夢の外に存在するものを夢の中で探してもそこにはありません。

悟りに人格や準備が一切関係ない理由

悟りに人格や風貌、容姿が関係していると説くのは自我の策略

悟りとは自分がいないという絶対的感覚のみであって自分という存在の人格、風貌、年齢、能力は一切関係ありません。いなくなる存在の人格、タレント性、風貌が悟りと関係しているとしたら理論として破綻しています。海であることを忘れた波が消滅しそこに海だけが在る状態が覚醒、解脱ですから波の形状、質、温度は何も関係アありません。あまりに多くの誤った情報が氾濫しているのは悟りも準備が必要、選ばれし者だけが悟れるといういかにもこの人間社会に蔓延ったビジネスライクな香りがプンプンする世界ならではです。自我は人間は悟りすらも自我の向上、進化に使ってしまうのです。こういう条件が揃えば幸福、至福に至るという考え方は、こういうエクササイズをすれば体型が変わるという考え方に似ています。そしてそのような理論は自我に好かれます。

これは個人のことではない

世の中の多くの情報は個人の幸福の話です。最新のファッションを取り入れると個人が魅力的になる、、最新の髪型にすると個人がモテる、、この香水をつけると個人が人気者になる、、、全て個人がいかに今よりも良くなるかの情報で溢れています。ところが今回の覚醒、解脱、ノンディアリティーはその個人がいない、錯覚、誤解だという内容のメッセージです。個人を相手にしないのです、読んでいる個人に向かってあなたの存在は錯覚で本当はいないと断言する内容です。そしてその内容の本を個人が読んで腹落ちさせるという意味がわからない内容なのです。ですが個人と思い込んでいる存在は個人ではありませんからその内容を読んでも何も違和感はないのです。最初から読書する個人(波)は存在していなかったのです。個人に見える全体がその本を読んだというだけです。

それでも個人はいない

ガリレオはそれでも「地球は回っている」という言葉を残して裁判で負けたと言われています。これは今回の話と同じ、、この地球上で個人はいないんですよと大声で叫んでも賛同してくれる人はほぼいないでしょう。ですからこのことが議論になっても圧倒的多数決で負けるはずです。ですがやっぱり「それでも個人はいない」これが本当です。その証拠に個人がいるという証明は実質的にできないはずです。

海であることを忘れた波がどれほど苦しんでいようと海はその姿を見続けている

波が生死を彷徨うような苦しみの中にいても海はその姿をただ見守る

波が生死を彷徨うぐらいに悩み苦しんでいる時、海はその姿をただ見守っています。波にとっての地獄は海にとっては波物語最大のチャンス、クライマックス、自身が実は海であったことに気づく最重要ポイントです。波が意気揚々と波自体の物語を楽しんでいる時、その楽しいがどこから生まれているかに気づくチャンスです。なぜ目標を達成した瞬間安堵感に包まれるのか、絶体絶命の事故に巻き込まれたときに思考が鋭敏になるのはなぜか、、過去には楽しかったゲームは毎日のように楽しくなくなっていくのはなぜか?全てこれは波と海の関係で説明がつきます。波が繰り広げる波物語の中には自身が実は海であったことに気づくチャンスに溢れているのです。

苦しい時は自我は苦しみに執着しないから自我が弱まる

禅の修行などかなり厳しい修行が悟りに用意されている話などたまに聞きますが、苦しみは自我を弱めます。例えば禅の修行が金銭的な豊かさや精神的豊かさを与えるようなものであったら自我は肥大化し続けていくでしょうかこれは成り立ちません。ですが修行が厳しければそこで自我が肥大化することはありません、なぜなら自我はその苦しみにしがみ付くことはないからです。俗世間では自我が肥大化するチャンスに溢れています。評価されること、称賛されること、他人との競争、経済的に恵まれること、、これらは全て自我が自身を大きくなったと錯覚するパターンです。ところが厳しいこと、苦しいこと、、これらで自我が肥大化することはありません。むしろ苦しみは自我の存在を海が見つけ出し、波(自我)が海に吸収される可能性を秘めます。

無我夢中とは

そもそも苦しいという感覚は海であることを忘れ自身を波と捉えることからスタートします。突然自身がちっぽけな存在になってしまったことで苦しみが自然発生的に生まれるのです、自我ができることはこの苦しみをできる限り直視しないで日々の生活の中に楽しみを探しこれを忘れることぐらいです。無我夢中という言葉は自分を忘れ夢の中にいることを指しますが実際はこの世こそ夢の中ですから夢の中ら無我とは夢の外へ出る行為なのです。夢の外とはつまり海になっているということです。無我夢中はその瞬間悟っている、波から海になっている、人間から全存在に戻っていることです。

海であることを忘れた波は生にしがみつく

海は生そのものあり、波は幻想であるが故に生にしがみつく

海が海(生)にしがみつくことはありません、自らが生そのものであるのに生にしがみつくのはあり得ません。ところが波は生の一部であるのは間違いないのですが完結した個別の波という実態は全くないのでその存在にしがみつくわけです。勿論波も生の表現であることは間違いないのですがこれを個別の分離した存在であると言うのは間違っています。どこからが波でどこからが海なのかという線は本来引けないわけですから個別の波と断言するのは滑稽な話なのです。ところが人間は私とはこの体、であり思考であると断言しようとします。結果逆にこの身体、心にしがみつくという衝動が生まれるのです。

個人がしがみつくのは生ではなく自我

これが私だという思考、これが自我ですがこれは後付けのものでありゆえに実態はありません。一度この実態のない私が誕生するとその存在が危ういゆえにこの存在、錯覚を守ろうとする力が生まれます。人が人を殺したり、人が人の命に危害を加えることに対しどの国でも最も罪が重くなっている理由はそれだけこの自我は生に執着している証拠でもあります。死ぬということを圧倒的に恐れているのは自我であり、ゆえに輪廻転生や魂、オーバーソウル、過去生、来世などの存在は自我にとって魅力的に映ります。この思考そのものもエネルギーですからこれらの思考は体が死んだ後も海、存在、生に吸収され存続する場合も多いのです。

輪廻転生や過去生、来世はアイデアでありエネルギー

波がいずれかの段階で海に再吸収された後も自我のエネルギーが存続する場合、また違った波となって波物語を継続します。その際には過去生の記憶を持った波として波物語を続けていく場合もあるのです。ですが輪廻転生や過去生の大前提である時間というものは海ではなく波の世界でしか存在しません。海の世界には時間も空間も存在せず時間と空間があるのは波の世界だけの話です。よってこの幻想、波物語が自我が作り出した幻想であると腹落ちした瞬間に自我も欠落し、輪廻転生も欠落します。海と時間は共存できないのです。仏教ではこれを解脱と言い、禅では見性などと言ったりします。

海であることを忘れた波は他人を攻撃する

他人を攻撃することで自分が大きくなったように感じたい

海であることを忘れた波は自身が非常にちっぽけな存在に感じますから人を攻撃することで大きくなったような感覚を手に入れようとします。ネットなどで芸能人を誹謗中傷するのを日常にしている人々は他人を攻撃することで一時的に自分(自我)が大きくなったと喜んでいるのです。ですがそれは錯覚ですからいずれ元の大きさに戻ります。そうなりますとまた他人を攻撃して自分を大きくしたいという衝動に駆られていきます。

他人を攻撃して撃ちまかせた瞬間に自分が大きくなったように感じるメカニズム

他人を攻撃して相手をコテンパに打ちまかせた瞬間自身の自我は大きくなったような感覚を覚えます。相手の自我よりも自身の方が大きい、強いと錯覚をすることができます。ですがそもそもが広大無辺な海である存在が相手に勝ったぐらいでその大きさには到底及ばないですからその大きくなった感覚はやがて虚しさにとって変わるわけです。なぜこれまで戦争が世界中に溢れていたかと言えばこのような集団的自我の働きによるものです。

人間がギャンブルや勝負事が好きな理由は自我の衝動

ギャンブルがこれほどまでに人間から人気があるかと言えば人間の勝負欲求にはこのような自我の働きが隠れているからです。そしてギャンブルはさらに勝負に自然と熱中できることで無心になれるという特典があります。そのため人はより無心になれるようによりハイレートなギャンブルにハマっていくのです。より綺麗な女性に勝負を挑む、よりハイスペックな男性を落とそうとする、、、など人間の勝負欲求は自我の巧妙な仕掛けによって成り立っているのです。

海であることを忘れた波は常に忙しい

何もしていないと思考がグルグルと周りだす

思考とは波特有のエネルギーです。感情も波特有のエネルギーです。波が波であり続けるためには自分は海ではなく波だと勘違いし続ける必要がありますからこの思考と感情が常に頭の中でグルグル回ることになります。感情も思考も何も湧いてこなかったら自身を波だと勘違いし続けることができません。そのため思考は延々と湧いてきて思考する、ゆえに我ありと思い続けるのです。

その状態が苦しくなってくると人は何かをしたくなる

この思考がグルグル回っている状態が苦しいため、人は友人とのお喋りや、TV番組に耽ったり、読書、漫画、スポーツ、旅行とあらゆる娯楽に逃げるのです。娯楽に興じている時はこの思考のグルグルから逃げることができるからです。自身を波であると勘違いしている以上不足感、欠乏感が常に襲ってきますからいかにこの不足感、欠乏感から逃げるか、目を背けるかが重要になるのです。ですが思考を使って逃げ続けていても不足感、欠乏感の恐れから本当意味で逃げ切ることはできません。

波の欠乏感、不足感と向き合うことで無心になる

何かに集中すること、無心になることで海を思い出すことができる人は海の安堵、安心、歓喜を知っている人です。そのような人は波の欠乏感、不足感と向き合う準備ができています。波の欠乏感、不足感とは何かを見つけるためにこれと向き合う、そこと向き合うことに無心になることで波のカラクリ、波の誤解、波の錯覚を見抜くことができます。そこから生まれる安心感、安堵、歓喜を発見できます。書道、剣道、柔道など所作に入り込むことで無我に入れるならば次は欠乏感、孤独感、不足感と向き合うというチャレンジが楽しくなります。