観念

観念書き換えによって変化する神体験

この世界は小さな神体験場

観念書き換え、引き寄せの法則、創造の法則、苫米地式コーチング、、この幻想の世界が変幻自在に実は変わることを説く理論は数多あります。そして多くの場合は誤解されながらも言っていることは同じです。価値観、観念がこのたった一つのエネルギーを分離独立させ物理現象化させています。我々は生まれてこのかた脳内映像以外を見たことがありませんし、脳を抜きにした香り、食感、味、嗅りを感じたことがありません。つまり我々は脳が作り出した感覚の中でしか生きたことがないのです。脳がどう感じるかを決めています、事実はそうなっています。その脳内のプログラミング言語こそが価値観です。プログラミング言語が変化すれば感覚は全部か変わっていきます。

味噌汁を美味しいと感じるのは日本人だけ

信じられない話ですが味噌汁を美味しいと感じるのは日本人だけです。海外の方が味噌汁を飲むと塩っぱいお湯に感じるようです。日本人は味噌汁の香り、奥深さ、安心感を飲むことで感じますがそれは日本人の脳が作り出したものです。ですが日本人には非常に美味しく感じるという事実があります。いかに脳の価値観が全部を変えてしまうかの証明です。毎日飲む味噌汁に月1万円の価値を感じるか、、ただの塩っぱいお湯と感じるかの違いが、、、、全部に当てはまると思うと、、、この世に決まった確定事実は一切なく、、、価値観、観念がこの世界を構築していることが分かるはずです。

美人の定義が世界中で違う

男性ならば美人を目の前にすれば心拍数が上がり脳内ホルモンが噴出する、、、当然のことです。ですが世界中で美人の定義が全く違うことからも分かるようにこれは本能だけでは片付きません。先ず大前提に価値観、観念がありそれが「美人」を決めている、、そこから脳内ホルモン、心拍数の変化が起きる、、、究極の欲求の部分でも価値観、観念が確実に関係している証拠です。美人のために億単位の用意をして求婚する、、、しかしの美人とは観念によって全く異なってしまう、、、、人間は自身の生体反応を確信していますがそれも観念が作り出しているのです。これは神による小さな神体験です。

神が完璧ならばこの生命現象も完璧

神=生命現象

神は完璧です、神とは絶対、無、空の反映、影、意識を所有する全存在です。我ありです。この存在が完璧なのは予想がつくでしょう、となれば、、、神=生命現象、つまり我々の目の前の姿ですから、、、この目の前の生命現象は完璧であるということになります。いやそんなことはない、、ニュースを観ればあらゆる事件、犯罪、冤罪、戦争が今もどこかで起こっているではないか???家計は逼迫し、健康状態も悪い、、、何が一体完璧なのか???となります。ではどちらが正しいのか???答えは簡単、それでも目の前の生命現象は完璧です。つまり完璧ではないという我々の認識こそが何かがおかしいのです。何かを認識できていないのです、目の前の生命現象が歪んで見えているということになります。でなければ神は不完璧という結論になるからです。

目の前の生命現象が歪んで見えるという事実だけがある

今目の前の生命現象、現実が不完璧に見えるならばそれは紛れもない事実です。ですが事実はいつでも神ですから完璧なのです。事実、現実は神ですから完璧です。完璧に見えていないという事実も完璧なのです。そうなると今後の課題が見えてきます。完璧に見えないこの世界を完璧に見えるように認識を変えるということです。かと言って「私」の観念を変えてもそれは起きないでしょう、なぜならば観念とはこの世界をいかに分離するかという世界だからです。分離した世界に完璧はありません、完璧とは分離が完全に解消され統合された世界、たった一つのエネルギーがたった一つのエネルギーとして存在する世界です。

神はいつも完璧、完璧でないのは人間の観念

人間は太鼓の昔から、、自身の思考を進化させてきました、、科学技術、テクノロジー、歴史、言語学、、、あらゆるジャンルで学問を進化させてきたのが人類です。これによって人間は自身の思考に絶対的価値を見出し一見便利で快適な生活を享受しました。ですがこの思考偏重主義は危険な要素をはらんでいます。人間は自身が培った価値観が反映された世界に生きていることを知らないのです。当たり前ですが自身にとって最都合が良い価値観を採用し生きていますがこれがそのまま目の前の現実(神)に投影されているのです。そして映る世界に向かって不平不満を並べるのが事実です。神=不平不満に陥っています。

完全が不完全に見える世界

完全は不完全に完全に見せる

完全が完全な理由は我々にこの完全な世界を不完全に完全に見せることができるからです。しかもその不完全さは完璧なほどにその人の観念を映し出します。不完全さが完璧なのです。我々が思う完全とは自我にとって最も都合の良い完全ですが実は脳内の観念を完璧に映し出し人間に不完全で在ると完全に認識させます。つまり完全の意味がまるっきり違うということです。だから自分、自我は完璧を常に追い求めるという皮肉が起こるのです。

不完全であることが完璧に起きる完全さ

何が起きようとどんな悲惨な事件が起きようと、、、脳内の観念によって完璧に分離されているという意味においてこの宇宙は完璧です。完璧に脳内の観念が映し出されているからこそ「自分」は常に不足感を感じることができます。自分=不足感が完璧な方程式で形成されます。そういう意味では全くの例外がない完璧な世界です。それに対し自分が不平不満が起こりますがそれ自体が完璧な反応なのです。

不完全に見えることが完全であることに注目する

今目の前に見える世界の不完全さは完璧です。不完全だからこそ我々は今幻想の世界、分離の世界にいることを証明してくれます。今目の前の世界が完璧ならばもう分離幻想の世界には我々は存在せず解脱しています。自分というエネルギーが解消されています。幻想の世界に住む「自分」が居ないのです。今目の前の世界がどれほど居心地が良いか、違和感がないかは、、分離統合の世界で統合が進んでいる証拠です。世界に全体の気が充満してきているのです。

この世界に意味などない、意味をつけるのは常に思考

人生の意味

お相撲さんが横綱になる際にこれからの目標を書にしてマスコミに見せたりします。自分の横綱道を書にして覚悟を決めるわけです。ですが実際にはこの世界、本質の世界には意味など全くありません。そこには平和。歓喜、安堵がただある世界が広がっています。それが非二元、ワンネス、色即是空、大なる一つ、などと呼ばれます。それに気づいた人は仏陀、キリスト、覚者と呼ばれたりします。世界の本質には意味などなく、完璧だけがあります。

我々は完璧から生まれた突然変異

我々は宇宙の本質、完璧から生まれた突然変異です。ですがその突然変異ですら完璧の一表現です、ですからいかにこの人生が苦しいといってもあくまでも完璧という土俵の中で完璧を味わいにくい状況に入っただけです。ではどのように苦しい世界に入るのか?それが思考です、思考の世界に入り込むことで我々は一時的に苦しむことができます。酸欠状態に入れます。神が薄い、非二元が薄い、完璧が薄い世界に入り込むことができます。

思考はこの世界に独自の意味をつけその解釈でこの世を分断する

そもそもが完璧な世界ですからそこを不完全にするのは至難の技です、思考は価値観という観念を作り出しその観念でこの世界を分断していきます。我々が見る世界は思考の解釈抜きで見ることはできずそれゆえ思考がその思考によって独自の分断を可能にするのです。我々はこの視覚を通じた世界しか見ることができませんから独自の世界を生きることができるのです。こうして思考はこの完璧な世界を切り裂いてみてその中を生きる「自分」を作り出すのです。これが完璧な世界に苦しみの世界を作り出す思考のやり方です。

思考から抜ける

ではどうしたらこの苦しみの世界から抜けるか、、一つの方法は今にあることを強制してしまうことです。思考の世界は今にはありません。基本過去や未来です。今に強制的に居ることに慣れてしまえば思考の世界から抜け出ることができます。五感の感覚のみに集中します。雨の音を聞く、足が地面に触れる感覚を感じる、音楽が聞こえる感覚に入る、コーヒーを味わう、、視界に何かが入る、、、全ての感覚から思考へ入らないことです。思考が全五感から思考に入ろうとさせます、ですがそれをしない、、、これによって今という場所から出ない感覚を掴んでいきます。

非二元は徹底的に感じるもの

無我も無心も非二元も徹底的に感じ尽くす

エックハルトは思考を観察せよと説き、金森さんは思考を放置して日常生活を感じろと説く、私は何からでも無心に入りましょうと説きます。要は思考が抜け落ちな状態を体感しましょうです。思考が抜け落ち非二元の状態、無我の状態、無心の状態を経験しますとそこが余りにも恍惚感がありそこに居続けたくなるのです。もう思考の世界、二元の世界、幻想の世界に興味が無くなる。人から何を思われてもどうでもいいのはその恍惚感を知っているからです。例えが悪いですがドラッグ中毒の人が人間生活に興味が無くなるのはキマッた状態が快楽過ぎるからでしょう。無我無心非二元とはそのような状態なのです。

思考の世界は苦しいよ

思考の世界とはこの「自分」の世界です。自分とはこの体、思考、感情のことです、、、思考が湧き続けていないと心配になるのは自分ではなくなってしまうからです。ですが思考が抜け落ちた状態、自分が居ない状態こそが悟りの世界、無我の世界、非二元の世界です。ここが一番の場所です。なぜならば我々全員はここから生まれたからです。母親の子宮の中の感覚でしょう。

思考が湧いたら放置する

思考が湧いた、、、そこからそこに取り込まれない、、、感情が湧いた、、、そこからそこに取り込まれない、、どこから湧いたのか???なぜ湧いたのか??そこから自身の観念を観察する、、、これも一つです。どのような観念を持っているからこの思考が湧いたかを観察する、、、ですが多くの方にはこれは難しすぎる、、、ならば思考を放置せよ、、です。そして常に五感の世界を味わい尽くすのみ、そこは今、無我、無心、非二元の世界です。つまりそこには平和、歓喜、安堵が横たわっています。

極端な価値観は映画に没入している証拠

人は全員信用できない

主人公がとんでもない悲惨な事故に巻き込まれたとき、その人はとんでもない経験からのとんでもない価値観を構築します。人は絶対に信用できない、、という信念、観念です。この価値観が強固に構築されますとそれを通した映画が上映され、、その人の周りには確かに信用できない人が多くなっていきます、街を歩けば信用できなそうな人がやたらと目につくようになります。その人の価値観がそのような風貌な人を探し当て見つけるのです。こうしてその人の人生は必然的にそのような信用できないような人々に囲まれるようになり屈折した人生を生きるようになります。

価値観に優劣はないが没入具合は人それぞれ

そもそもその人は被害者にも関わらずなぜさらに歪んだ価値観を刻み込み、歪んだ人生を歩まなくてはならないのか?不公平だ、、、これを気持ちがよく理解できます。ですがこの映画の目的とは最終的にこれが映画であることを見抜くことだとすれば、、、ハッピー映画を延々と観るよりも悲惨な映画を観る方が気づきが早いのは事実です。そういう意味では全ては完璧に平等です。ハッピーほのぼの映画よりもミッションインポッシブルのような敵しか登場しないような映画の方が、、これは映画だと見抜けるかもしれません。

その人がどのような価値観でどのような映画を生きているかを観察する

人間関係すらも目覚めのチャンスです。出会う人がどのような価値観でどのような映画を観ているのかそれを観察します。全てを観察対象にしてしまうのです、そうすれば人間関係に集中しそこから無我に入れます、そこから悟りへの入り口になります。その人がどこまでこの映画を映画と見抜けずに生きているか、もしも見抜けるチャンスがあるとすればどんな言葉がいいか?全てが無心、無我へ入り込むチャンスです。映画に入り込みすぎて自分の映画のことしか話さない人、映画に飽き飽きし早くこの映画を卒業したい人、、あらゆる人がこの私の映画には登場します。

起動からアプリケーションが止まらなくなったPCの末路

作動が止まらなくなったPC=人間

人間は分かりやすくいうと動作が止まらないPCです。PCを起動したにも関わらずあらゆるアプリケーションが起動し続けて止まらなくなることがあります、最終的には強制終了をかけるのですが、、また起動すると同じことが繰り返されてしまう、、、これが人間の苦しみです。PCのアプリは相互に反応して起動が止まらなくなっています。例えばウイルス性のリスクがPCに起こるとウイルスバスターが起動しますがこれによってまたウイルスが起動する、これによってまたウイルスバスターが起動する、、みたいなことが延々と起こるようになります。これが思考と感情で起こるメカニズムです。負の感情が起こりそれを消し去ろうと思考が起動する、思考が起動すると負の感情が起動する、、、、パンク。

このメカニズムに気づけばアプリをオフにする

もしもこれがPCで起きた時PCに詳しい人間はアプリ(思考)の起動をオフにします。アプリ設定に戻って起動オフにするはずです。これによってもう一つのアプリ(感情)の起動も自動的に起こらなくなります。PCに関してはアプリ設定に画面に意識を向けることでこれを行います。人間であれば思考の起動に意識を向けることでこれをオフにすることができます。感情が起こった時に思考が立ち上がるのが定石ですがこの瞬間に意識を向けることでアプリ起動(思考)をオフにします。

起動が止まらなくなって苦しんでいるにも関わらずあらゆる思考をアップデートし続ける人間

感情が起き上がった時に思考が立ち上がり、それによってまた負の感情が湧いてくる、、また思考が起動される、、この負のメカニズムに気づかない人間は思考をアップデートしようと頑張ります。もっと優れた思考(価値観)に切り替えれば負の感情が起動しないはずだ、、、こう考えます。ですがどれほど優れた思考を手に入れようと思考が起動することでまた負の感情が起動するというメカニズムは変わることはなくこの作戦は徒労に終わるのです。

アプリ(思考)オフは絶望

いよいよ負の感情抑制に疲れ果てた人間は絶望的な気分になり始めて思考起動をオフにします、、、するとまさかの負の感情が湧かなくなる、、というジョーク。今までの努力は一体なんだったのか?というズッコケです。あなたの思考が幼稚だから、あなたの価値観が低いから、あなたの情報が古いから、、、このような固定観念で思考をアップデートしてきたにも関わらず実はこの思考の自動起動こそが負の感情を起動させていたのだという深い気づきが起こるとき負の感情の連続起動は終わります。重要なことは負の感情が起きた時に思考を起動させるのではなく思考アプリをオフにするということ、、労力は遥かに低いことです。

イチロー選手すら負の感情観察が苦手だった

インタビュー取材時の不機嫌

イチロー選手の取材嫌いは有名です。彼は取材時には意図的に不機嫌さを隠さないようにし記者からの無駄な質問を受けないようにしていました。彼は練習中常にそこに在り、無我夢中、集中のゾーンに入りこみ無我の境地に達していました。自分という存在との付き合い方においては完璧にいつでも無我に入る感覚を習得していたと感います。ですが対記者相手となるとそうはいきません、相手をコントロールするのは不可能だからです。ということでイチロー選手は取材時に湧き上がる負の感情の処理に困り果て意図的にピリピリさせるという方法をとったのです。

負の感情観察の絶好の機会

本当のことを言えば取材時の失礼な質問を受けた際の自身から湧いてくる負の感情、これを観察する絶好の機会だったのです。負の感情が湧いてきたならばそれを面白がって観察するのです、ムカつく、イラつく、誰もわかってくれない、、失礼な奴だ、、、これらの感情が湧いてきたらそれを楽しんでしまいます。こんな感情が自分から湧いてきたぞ、ここまで感情が湧くのか、、凄い感情だ、、、こう観察を続けることでそこに集中します。負の感情観察の驚くべきことはそれを集中して観察し始めると次第に感情が湧いてこなくなるということです。思考とは自我であり思考が湧いてこなければ自我が弱っていくのです。この自我こそが負の感情を湧かす張本人です。

負の感情は他人事のように楽しむ

人がイライラする姿を見てもそれほど深刻にならないのは他人だからです。なぜあんなにイライラしているのか?冷静にその人を観察できます。ですがなぜか自分ごとになると途端にそうならなくなります。イチロー選手のように自分に正直に向き合う人ほど自分から湧いてくるこの負の感情を無視できません、むしろしっかりとそれについて真剣に考えてきたはずです、ところが真剣に考えれば考えるほどに自我が強化されてさらに負の感情が湧き出すという恐ろしいメカニズムに飲まれてしまうのです。イチロー選手ほどの選手でも負の感情観察はできなかった証拠です。

相手の失礼な質問から湧いてくる負の感情を笑って観察する

すべらない話という人気番組がありますが、、あそこで繰り広げられていることこそ負の感情を笑って観察する行為の集大成です。自分から湧いてきた苛つき、むかつき、怒りを笑いに変えています。「お店で大変失礼な目に合い、、怒りで狂いそうになりました、、、」これを笑いながら解説しています。なぜ笑って話せるのか?負の感情を観察していたら面白くなってきた証拠です。そうです、これは誰でもできるのです。負の感情と真摯に向き合わなければならない、、、この強迫観念がそこからの思考フルスロットルに繋がっているのです。

ポジティブシンキングの危険な罠

自己啓発の定石

30代になって仕事で独立した際に売上げ、利益、収益、、、何でもが自己責任にシフトしました。そのため多くの自己啓発本を読み漁り成功を夢見て邁進しました。全部自分の責任ということは成功すれば全部自分の実績ということです。これほどに涎が出るチャレンジはありません。その時に読んだ本、ナポレオンヒル、本田宗一郎、中村天風、斎藤一人、松下幸之助、、、、事業家で成功した人間の多くが説くポジティブシンキング絶対肯定論に強く惹かれたのを覚えています。そしてこれらの考え方で事業に向かうと確かに成功に近づきます。ですがどれほど成功し利益を出し、あり得ないほどの自由を手に入れても一向になくならないのが不足感でした。おかしい、、これほど上手く行きすぎているのに何も変わらないこの焦燥感、、、絶望、、、とりあえず見ないようにしよう、、、

成功など何の穴埋めにもならない

ポジティブシンキングは確かに成功に近づく定石です、どれほどまでに失敗してもチャレンジを続ける、、、何度も立ち上がりチャレンジを永続すればどこかで結果は出る、、その通りです。確率的にもそうなります。全失敗を成功の種と捉え続けることで必ず結果はどこかで出るものです。それは間違いありません。ですが埋まらない不足感、焦燥感、、、、結果が出ているにも関わらず埋まらない不足感を味わった人はどれほどいるでしょうか?おそらくあまりいない、、、だからこそ誰にも相談できない。。募る焦り、孤独、、、反比例するように上がる自尊心、特別感。

ポジティブシンキングを所有するのは自分

ポジティブシンキングというぐらいですからこれは考え方の話です。思考ですね、この思考こそが自分自身から負の感情を湧き上がらせているのです、、、びっくりします。松下幸之助、ナポレオンヒル、中村天風がこんな引っ掛け問題にやられますかね、、人間の思考、観念、哲学こそが不足感を湧き起こしている、、、これでは人間は至福に至るわけがないのです。なぜならば人間とは考える葦ではないか、、、つまりこういうことです、この自分を自分と思い続ける限り真実の幸福は絶対に来ないのです。自分がポジティブシンキングを所有している限りそのシンキングこそが不足感、居心地の悪さを生み出すという仕掛けです。

負の感情が湧いてきたら、、、

負の感情が湧いてきたら、、それをポジティブに捉え直し、、、、これがポジティブシンキングですが、、、これをしている限り、、負の感情が湧き続けます。そうではなくその感情を観察する存在になる、その感情から逃げずにその感情をじっと観察する、、観察することに集中する、、観察することに無心になる、、、観察することに無我になる、、観察する大いなる一つになる、、、観察から歓喜、安堵、平和に入って行きます。人間活動としては当然湧いてくる負の感情を観察することから悟りに入ります。

負の感情から逃げるという生き方から負の感情を使って悟るという生き方へ

これはポジティブシンキングとは全く違う

私は基本快楽主義です、ですから嫌なことは大嫌い、やりたくないことはしなくていい、我慢など愚の骨頂、常識世間体糞食らえで生きてきました。これをしないために仕事に打ち込んで結果を出すことでこの生き方を継続してきました。仕事技術達成のための負の感情はルーティンという反復作業で無思考に持ち込みむしろ楽しんでこれを達成してきました。だからこそなおのこと「やりたくないことはしない」こう決めて生きてきました、エックハルトが説く感情観察から悟りに入る方法は知ってはいましたが自分には関係ないとタカを括っていました。ですがどうしても気になる、どうしても避けて通れない、、負の感情から逃げるという癖がついた自身のエゴがこれを強烈に避けているところに悟りのヒントがあることは分かっていました。感情観察はポジティブシンキングとは全く違います、ポジティブシンキングとは観念書き換えです、ですがこの観念こそが負の感情を生み出しているというのが悟りです。観念はポジティブだろうとネガティブだろうと負の感情を生み続けます。その観念を支える思考というエネルギーこそが偽りの自分を作り出しているからです。

負の感情は見なくていいと決めていた

私は究極の快楽主義です、ですから負の感情とは見なくていいものと決めていました。とはいえ一日2時間以上のエクササイズを自身に課し、1日2時間以上パソコン作業に向かい、さらに仕事もする、、、ネガティブな感情が湧かないわけがない、、、ところが作業に集中する、無心になる、無我になるという感覚を習得した私にとってこれらはネガティブな感情を沸かす要因にはならなかったのです。もしもあるとするならば対人関係で嫌なことを言われる、軽い態度を取られる、、恩を仇で返される、、、などでした。そしてこれらが起こった際には冷静なNOで対処してきました。ですから負の感情を味わうことがほぼほぼ無かったのです。

これからはしっかりと観察していく

1日のほとんどの時間を無心、無我の状態で過ごすことができる自分にとって嫌な感情と向き合う時間はほぼなくそしてそれを気にもしませんでした。ですがエックハルトトールの思考観察、感情観察を読み返していくうちにこれは今後積極的に自分の人生に取り入れていくことを決めました。自分自身から湧いてくる思考、感情を観察するということは難しいことではありません、なぜならば人とのコミュニケーションではこれを冷静にする自分がいるからです。なぜ自分の思考、感情を観察するのが難しいと感じているのか?これぞ自我の策略、自我の延命措置に間違いないでしょう。

負の感情観察から無我に入る

負の感情観察から無我に入る、、、これは矛盾を抱えた表現にも思えます。負の感情を生み出しているのは紛れもなく自分自身でありそれを観察することで無我に入るとはどういうことでしょうか。負の感情を生み出しているのは自分自身であるのですがそれが偽りの自分自身だということです。偽りの自分が居るからこそ負の感情が湧き起こっているのです、これを真我、無我で観察します。大いなる存在としてこの感情を観察することでそのまま歓喜、安堵、平和になります。負の感情が湧くということは偽りの自分がそこにはあり、だからこそそれを真我で眺めることで偽りの自我が消滅します。負の感情発生とはそこから悟りに入る大チャンスだったのです。