覚者

目の前の全体は本当に全体なのか???

九州で土砂災害が、、、

毎日ニュースを騒がす様々なニュースは本当に起きているのでしょうか????答えは起きていません。あなたの目の前以外で何かが起きるのは不可能なのです。事象というのはあなたの五感無くして起きようがないのです。ですから全てのネットニュースは見なくて大丈夫です。なぜならば何も起きていないからです、あなたの目の前以外では。これは物理学です、あなたの五感がなければ何かが起きる起きたということを証明できないのです。

九州で戦後最大の土砂災害が、、、

こんなニュースがあっても一切気にする必要がありません、なぜならばあなたの目の前で土砂災害が起きていないならば起きていないのです。いやそんなことはない、九州でそれを目撃をした人が何千人も居る、、、しかしそれは情報です。事実ではありません。目の前に全体があるにも関わらずあなたの目の前以外で何かが起きるならばもう目の前は全体ではないのです。非全体になってしまいます、非神、非ワンネス、非オールザットワンになってしまいます。

目の前は絶対に全体

覚者が話す内容は一致しています、目の前が全体だった、目の前が全てだった、いまここしかない、、、全会一致でこの意見です。先ずはそこを認めてしまうことからスタートしましょう、すると不思議にも全くニュースに興味がなくなります、そしてニュースを見ていないにも関わらず何も問題なく毎日が進んでいきます、それは当たり前のこと、、、目の前以外に世界(全体)は存在しえないのです。

人に関心が高いのは悟りが閉じている証拠

人に関心を持つのが難しくなる

あなたの目の前に映る人々は全自動で動いています。根源からの動きがそのままあなたの前で行われているだけです。その体の中に確実に居るであろう魂のような存在は目に見えないのですから絶対に居ないのです。もしもあなたが認識できない世界があるのならば目の前のそれは完璧では無くなってしまいます。ということで自分が認識できないことを色々想像するのは辞めましょう、やってもいいのですが全く意味がありません。なぜならば事実としては存在しないに決まっているからです。

この人は家ではこんな感じであんな感じで

TVで犯罪者が警官に連れられて車に行くのを見たことがある人は多いでしょう。多くの人はその光景を見てこの人はなぜやってしまったのか?どんな家庭環境で悲惨な目にあっていたのか、、、と推測したりします。ですが事実をお伝えするとそんなものはありません、あなたが見ている世界以外に世界は存在しえないからです。ですからその犯罪者の幼少期は絶対に存在しないのです、悲惨な家庭環境も皆無です。ですがもしもあなたが彼につて調べればあらゆる情報が手に入るでしょう、そうしたらその情報だけが浮かび上がったというだけです。それ以上も以下もありません。

今目の前で起きている事実以外に関心を持たない

今目の前に起きている事象だけが全てであってそれ以外は絶対にない、、、この事実を先ずは理解しましょう。病弱な両親も、子供も、今目の前に居ないのならばこの世には存在しないのです、もしもあなたの目の前以外に存在するならばこの根源は完璧ではなくなってしまいます。ということであなたの世界で心配しなくてはいけない人は居ません、もしも目の前で苦しいでいるように見えるならば救ってあげればいいのです。

地球の裏側の戦争難民は

地球の裏側では戦争難民が溢れ、、、という情報を見てこれは大変だ、、、寄付をしなくては、、、と心配する人が居ます。ですがもしもあなたの目の前にその難民が居ないのならば事実としてはこの世には居ません。もしも居るならば目の前の現実(完璧)は完璧ではなくってしまいます。目の前に全部あるから覚者は悟り全体に気づくのです。全体は目の前で全体だからこそ全体なのです。地球の裏側が存在するならば目の前の全体が全体では無くなってしまいます。

非二元では混乱する

主体客体

非二元という言葉は分かりやすいようで分かりにくい、、、主体客体の世界、、要は生命現象の中に別々の存在があると信じるか、ないと悟かの話なのです。そうです我々は生命現象に名前を付けるまでは主体客体、「私とあなた」「俺とお前」など一切ない世界に居たのです。これがノンデュアリティー、非二元、悟りです。恐ろしく単純な話です。悟りとはもともと名前がなかったたった一つの世界が広がっているだけ、、に気づくことなのです。

幼児はみんな知っている

名前を覚える前の子供は全員知っています、というか悟りの中にいます、というか悟りしかありません。なぜならば名前がない世界に居るのですから、そしてそこには自分が居るという発想もないのです。これが悟りです。こんな簡単なことなのか???そうです悟りとはこんな簡単なことなのです。悟りを難しく「考える」のは難しく考えないと簡単に見つかってしまうからです。

悟り、覚醒、一瞥体験、覚者

スピリチュアル用語では様々な言葉が使用されますがこれらは全部事実を逆に難しくするのです。こういった言葉を使うことで思考は悟りをどこか遠くの場所に押し込めようとするのです。幼児は全員が悟っていて全く難しいことではない、難しい言葉を覚えて悟りを奥深くに押し込んできただけです。そもそも名前のない世界に生まれた我々はいつでも元の世界に帰れるに決まっています、名前を思い出す前の一瞬は常に根元悟りが広がっておりその事実に触れるかだけです。思考が湧いてきたらそれによってドラマに入っていることを思い出すのです。この繰り返しで人は悟りに戻ります。

あらゆる生命現象に名前をつけてファンタジーにした

名前など何もない世界

この世の生命に名前など本来全くありません。草に名前を付けたのは人間で動物に名前をつけたのも人間です。人間は見える範囲の全てに名前をつけてさも独立した何かがあるかのうようにしました、事実では何もない、、ただ生命現象が移り変わるだけです、その中に居る人間にも名前などなく後付けで名前をつけその中に独立した何者かがいると勝手に想像しているだけです。この現象界に名前が最初から付いているものなど皆無です。

思考が紡ぐファンタジーの世界にようこそ

名前が一切ない全体、根源の現れに名前をつけて我々人間は進化していきました。生命現象に名前をつけてそれを記憶しそれを後進に伝えていったのです。そのようなことが起き続けていきました、その結果名前がつけられた独立した何かがこの世界には溢れまるで独立しあった存在同士の争い、共闘、和平、共存が繰り広げられているように見える世界が生まれたのです、人間の思考の中だけのファンタジーが誕生したのです。そもそも争うなど一切ない世界に名前を付けて独立した何者かが溢れたことによって争っているように見える世界が誕生したのです。

全ての生命現象から名前を取っ払えばあら不思議、、平和が鎮座する

試しに全ての生命現象から名前を取り除いてみてください、、、争いは無くなってしまいます。チーターがシマウマを襲ったという映像においてチーターが居なくなり、シマウマも居なくなれば何かが何かを取り込んでいるように見える映像に変わります、これが真実です。ここには争いが起きようがないのです。名前がない世界には争いが存在できないわけです。

勝手に名前を付けて恐ろしい世界になったと嘆く自分

体の中を観察すれば善玉菌が悪玉菌を殺す、悪玉菌が善玉菌を殺すなどの表現がありますが、、それもせ明現象に名前を付けただけんことであって変化が起きただけです、名前さえなければ争いは起きようがないのです。ただ変化が起きているのみ、、、これは人間社会も同じで名前がついたから争いと表現されますが名前がなければ変化がただ起こっているだけ、、、その変化に対し自分が居るという思考と感情という思考が湧き続けているだけです。全生命に名前を付けてファンタジーの世界にし自分も作って自分ストーリーを日々奏でているのです。自作自演にもほどがあります。

だから人は悟ると何もないと言う

覚者は全員こう言います、何も無かった、、、当たり前の話です。名前は人間が発明した技術であって名前が発明されるまではこの生命には何もなかったのです。そこには生命現象しかなくそして今もそうです。人間が発明した名前の技術が継承され続けているだけです。この世の苦しみとは名前を付けまくった人間が自分という存在(ファンタジー)を作り出しこの自分という檻の中に完全に閉じ込められてしまった錯覚を生きているからです。元々は何もなくそして今も何もないのです、独立した何者かが確実にあると信じ合う世界、独立した何かがあるという共有の中で生きる時のみ苦しみが湧いてきます。

今ここで悟りを開く

今この場所が爽快

爽快であるのに条件が必要ならばそれは私というストーリーの中にい住んでいます。幸福であるのに条件が必要ならば私というストーリーの中に住んでいます。我々の本質は爽快そのものですから爽快であるために条件など全くいらないのです。覚者と呼ばれる人々が穏やかそうに見えるのはそれは本質が穏やかそのものだからです。自分を手放した覚者とは穏やかそのものにシフトした状態、もはや人間ではありません。人間という器を通じて全体が語りかけているだけです。

開く自己がいない

悟りを開くという言葉は人間が覚醒するイメージがありますがこれは間違い、体に住んでいるはずの自分は実はいなかった、自分が居るという思考が湧いてこない状態を言います。人間の体を通じて自分が居るという思考が湧いていなのがその思考がもはや湧いてこない、、この状態が悟りです。悟りを開く自己はいなかったという気づきが湧くことです。

嬉しい、楽しい、幸せを掴む自己がいない

嬉しを感じるのに自分は必要ありません、楽しいを感じるのに自分は必要ありません、幸せを感じるのに自分は必要ありません。ただその感情が湧くだけで何も問題はない、、、ところが嬉しい、楽しい、幸せを感じる自分が居るという思考が湧いてくる、、、感情を所有する自分が居るという思考が湧き続けます。これが苦しみを湧かせます。この嬉しい、楽しい、幸せを永遠に感じたいという思考が湧くのです。これで苦しくなるのです。なぜならばそんな自分は居ないからです。自分とは事実ではなく空想だからです。空想に顔を埋めると苦しくなるのです。水に顔を埋めると苦しくなるように空想に顔を埋めると苦しくなるのです。苦しいという完璧な感情が湧いてくるのです。ではどうしたらいいか?空想という場所に顔を埋めるのを辞めることです。

インターネットの世界はこの世を露わにする

ネット上の情報はどこにある???

インターネットを我々は何気なしに使っています。今ではもう若者、大人の生活においてメインになったのは間違いないでしょう。特に子供など遊びのほとんどがネットを介しています。では我々が普段親しんでいるネット上の情報はどこにあるのか???という話です。答えはサーバーということになりますが、、サーバーの中をかっぽじって見れば一体何があるのか???恐らく無機質なチップしかないでしょう。間違いなく情報を閲覧できることはありません、物理的に。つまり我々が普段親しんでいるこの画面、ソフトは物理的には実在していないのです。

我々が見ているこの物理的世界も実在しない

覚者は悟り、、この物理的世界は実在していないことを理解します。インターネット情報と同じ画面上には間違いなく見えますが、、、実在していない、、あるように見えるだけ、、、、これが我々が普段接している世界そのものです。見えるし、触れれるし、香れるし、味わえる、、だけど実在はしていない、、、どこまで行ってもインターネットの世界と同じなのです。幻想だけど楽しめる、幻想だけど苦しめる、、これはネットもこの世も全く同じです。

ネットの中身は実在しないから無視???

ネットの中身は実在していない、、、だから無視でいい、、この意見はピントがズレています。誰もネットを強要されて遊んでいないはずです、皆好奇心、怖いもの見たさでネットを始めたはずです。今では携帯電話にデフォルトでネットがついており使い倒しています。それは便利だから。この人間世界も同じ、大きな神が人間体験をしたくてやっています、実在していないからヤらない、、という話はピントがずれています。

個別体験を積むための機能=エゴ

エゴ、自我は悪者ではない、、

自我、エゴとは個別体験、小さな神体験を積むための機能です。この機能を機能以上に負荷をかけていくとネガティブな反応を起こすようになります。これが人生を苦しめる要員です。とはいえこのエゴ、自我を敵対視すれば人間としての生活ができなくなります。そうではなくこの自我を機能以上に働かせない、これが大切になります。エゴとの調和、自我との調和が整った時にエゴ、自我はまるで無いのでは?という状態になります。これが覚者と呼ばれる人の境地です。今までの自我、エゴとは決別できている状態です。

自我、エゴに余計なことをさせない

自我、エゴが悟りの世界では絶対的に敵対視されてしまうのはこの自我、エゴにあまりに多くの仕事をさせているからです。思考がフル回転、常に作戦を立てる、、全部が全部思考重視、これによってアンバランスを生み出しそのアンバランス分が苦しみを生み出します。人間はエゴ、自我に対し無自覚であるため、、思考フル回転に陥りやすく結果自らバランスを失います。思考する回転は自我全開になりアンバランス全開です。

自我拡大、エゴ拡大に無抵抗

多くの人間は自我拡大、エゴ拡大に無意識です。思考すればするほどに苦しみが生まれますがそこを自覚していません。そのため何か問題があるとすぐに思考をフル回転させ自ら首を締めるのです。そうではなく思考フル回転は自我フル回転であり、、、これこそが苦しみを生み出すことを自覚すべきです。そうすればバランスの取れた自我活動にシフトします。

全ては神の鏡であると考えてみる

神は自身の鏡を沢山設置して小さな神体験を回収する

我々は大きな神の波としても表現できますが鏡としても表現できます。神はあらゆる場所に自身の鏡姿を設置してその鏡姿に独自の体験を経験させました、神が神のままでは経験できないことを鏡を使って行ったということです。全員が神の一側面ということになります。そしてこの鏡姿は独自の体験を積むことができるからこそ多岐に渡る経験を積むことができるのです。

小さな神は神の無限の投影

神は神のままではあらゆる体験、思考、感情を体験することが出来ません。そのため神は自身の鏡を無限に設置することであらゆる姿の神を投影していきました。神の分身を無限に作ったのです。これによって神は神自身を体験するという多岐に渡る経験を享受しました。絶対、無、空には体験したいという意志すらありません、そこから投影された神、ALL THAT IS、全体には自身を知りたいという意志があります。この意志に従って小さな神が出現し今我々のような体を持ってそれを体験しているのです。ですから全感情、全思考、全体験は全て神が望むことです。

自我は画期的なシステム

自我とはこの体、思考、感情を自分とするシステム、メカニズム、プログラムです。覚者はこれを苦の根源と呼びます、勿論その通りです。ですがこれがあるから神は小さな神体験ができるのです。もしも我々に自我が形成されていなければ小さな神体験ができなくなります。神がこの現象界を作り出した意味がなくなってしまいます。自我を残念な存在として敵視するのではなく肯定し受け入れていくことで自我との楽しい共存を意識できます。

絶対から生まれた「我在り」

絶対から「我在り」が出現した

宇宙が出現したその瞬間、「我在り」という感覚が生まれました。宇宙は絶対、無、空からビッグバンを起こして出現したわけですがその時に「我在り」という感覚が生まれました。私たちが今感じているこの「在る」という紛れもない感覚はこの時から永遠にあります。というよりも「自分」以外には時間は存在しないので「我あり」がただ在るだけです。その中に自分が誕生し、時間が生まれました。これは全部錯覚です。

「我あり」の中で神羅万象が動く

我ありの感覚の中で神羅万象が動いていきます。森羅万象は我ありの中で起こります、そして森羅万象は我ありそのものです。そしてそれを生み出したのが絶対、空、無ということになります。覚者とはこの絶対、空、無の存在に気づいてしまった人たちです。我ありの根源、色の根源、神羅万象の根源、ビッグバンの根源です。今私たちの目の前には宇宙現象が広がります、それを支えて居るのが我ありです。我ありの中であらゆる現象が起こり続けています。その中に「自分」が居るが起こり、自分と自分以外が在るという認識が後付けで起こります。

「我あり」は「我あり」に気づく

自分の解消、解脱、解放とは「我あり」がこの感覚は「自分」ではなかったという気づきです。夢の中で主人公は自分そのものではないという気づきが起こるのと同じです。主人公はあくまで夢の登場人物であり自分とは夢そのものであった、、これが「我あり」の「我あり」で在ることの気づきです。自分などそもそもなく「我あり」の中でそれが起こっていただけなのです。ですがそれを仕掛けたのは我ありです、見かけ上。

個人の次元、存在の次元

次元の垣根を越える

覚者はいいます、今ここに全体があると、、目の前に輝くダイアモンドのような全体があると、、ですが人間はそれを聞いても全く意味がわかりません、なぜならば生きている次元が違うからです。同じモノを見ているようで全く違うものを見ているのです。偉大な人のことを称する時に見ている次元が違うと表現したりしますがあれは本質を突いています。自分を生きている人と覚者では生きている次元が違うのです。

個人は全体を解釈した世界に生きている

個人はではどこに居るのか???それは全体の次元から分離錯覚し、価値観というフィルターで装飾した世界に居ます。存在から独立分離したと先ずは自身を切り抜いてみせさらにその切り抜かれた自分が存在を切り抜いたん分離世界に住んでいると錯覚した世界に居ます。全体とは別次元に住んでいる状態です。全体の中で夢を見ている状態です。全体の中で寝ている状態です。

熟睡後は存在の残滓が残る

個人の熟睡とは個人が一時的に解消した状態ですから存在の次元に戻ります、ここは平和、歓喜、安堵の世界です。だからこそ熟睡後には個人はなんとも言えない至福感にしばらくの時間過ごすことができるのです。そして意識がしっかりしてくるとまた存在とは違う次元に戻っていきます、空気が薄く、酸欠状態になる次元です。そこは時に楽しくエキサイティングですが安堵の至福感とは全く違う焦燥感が残る世界です。