蜃気楼

この体が蜃気楼ならば今この目で見ている景色はなんだ?

あなたは今何を見ているのか???

この体が蜃気楼で友人の体も蜃気楼、妻の体も蜃気楼だということは分かった、ではなぜこの蜃気楼であるこの私の体はしっかりとこの目で景色を見ることができるのか???蜃気楼ならば見ることが出来るのはおかしいではないか???答えをお伝えします、、この体が蜃気楼なのだからこの体が景色を見ることなど絶対にできません、そうではなくただ今目の前に広がる現象(蜃気楼)をこの蜃気楼(自分)が見ていると錯覚が起こっているのです。移り変わる蜃気楼をこの蜃気楼(自分)が見ているという錯覚が起こっています。自分が右を向いたから景色が変わったのではありません、景色が変わったから右を見ているという錯覚が起こっているのです。

歩いたから景色が変わったのではない

自分が歩いたから景色が変わったのではありません、景色が変わったから自分が歩いたと錯覚を起こしているのです。自分が走ったから景色が急速に変わったのではありません、急速に景色が変わったから走ったと勘違いが起きたのです。景色が変わるのは分かった、だがこの体の動きは確実に在るではないか???違います、この体という映像が動きているだけです。景色の映像変化とこの体の映像変化の合わせ技で歩いたり走ったりしているような錯覚が起きるのです。

これってグーグルグラスと同じでは?

そうですグーグルグラスの完全版こそがこの現実と呼ばれている世界です。グーグルグラスの中にこの自分の体、自分という存在が登場しているのがこの世界です。グーグルグラスの中にこの自分の体も自分も居ますから全部ファンタジーなのです。この体もファンタイジー、この自分というアイデンティティーもファンタジーです。悟りとはこのグーグルグラスを外して、、この体も自分も居なかったと気づくことです。では誰がこのグーグルグラスを外すのか??それは根源です。実際にはグーグルグラスを外すような行為はなく、、根源からこの体も自分も幻想だったいう気づきが起きるだけです。

全員が「その人にはその人の人生がある」と思っている

その人の人生はない

自分には自分の人生があり、AさんにはAさんの人生があって、BさんにはBさんの人生がある、、、人類80億人には80億通りの人生が在ると思い込んでいます。ですが少なくとも「自分」が見ている世界においては「自分」以外の人生は存在しません。「自分」が見ている世界においてはAさんはAという画像だけです、画像の人生など在るわけがないのです。「自分」が見ている世界においてはBさんは画像の一部であって、「自分」が見ていないところでBさんの人生が在ることはないのです。

そして自分も画像だった

ここから本番ですが、、そしてこの「自分」の体も映像です、五感を使って認識できる蜃気楼です。蜃気楼ですから中身は絶対にないのです。視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚を使って感じることができる蜃気楼です。蜃気楼ですからその中に「自分」も当然存在できないのです。いやそんなことはない今日も朝から晩まで思考が湧き続けている、、そうです思考が湧き続けているだけです、、この蜃気楼の中で。思考が湧き続けているだけであって「自分」という独立した何かは存在しえないわけです。在るとすれば自分が居るという思考、感覚です。

自分も心綺楼、相手も心綺楼ならば

この世界では視覚だけで認識できて実際に行ってみたら認識できないものを心綺楼と言いますが、私の体も友人の体も五感だけで認識できて実際には実在していない蜃気楼完全版なのです。目の前には蜃気楼完全版が次々に登場しこの人生を彩っているのです、そしてこの「私」も蜃気楼完全版だったわけですからもう「私」の人生を深刻に歩んでいくことはできないのです。これからも蜃気楼完全版としての「私」の体が在り続けますし思考も湧き続けます。ですが今までのように大深刻には生きることはできないのです。

神エネルギーがただ揺れ動く世界

神は動く神を作って見せた

動かない神いこれを空と呼びます。動く神それを色と呼びます。オーロラの光は確実にあるように見えるが実はない、、、これぞ色の世界、動く神の世界です。蜃気楼は確実に見えるが実はない、、これが動く神の正体です。この地球、日本、東京は確実にあるように見えます、ですが無い。これが動く神の正体です。全部が全部蜃気楼です、この蜃気楼は見えるだけでなく、触れて、匂え、聞こえる蜃気楼です。人間とはこの蜃気楼の中で「我が人生」を構築できる蜃気楼です。だから人間の体には月偏が付いてて、胃、胴、脳、腸、、、となります。人間が見ている月は惑星自体ではなくそこを照らす太陽の光です。要は蜃気楼です。この人間の体が蜃気楼であることを太古の人々は見抜いていたのです。

この世の真実を知った人間は活動を止める

この世は神エネルギーが揺れ動く世界です。本当はただそれだけ、今もこの世は揺れ動いています、だから朝が来て昼があり、夜がきます。この神エネルギーの揺れ動きの中で人間は独自の進化を遂げまさかの独立した自分が居るという意識を発明しました。この人間は神の揺れ動くエネルギーの中で自分と自分以外というアイデアも発明しました。そして人間目線での経験を記憶し「我が人生」すらも発明したのです。私の人生、あなたの人生、あの人の人生、、、奇跡の大発明です。そしてこの人間はこの人生が終わってからも次の転生があるという発明までしてのけ、この自分を永遠のモノにまでしていったのです。奇跡です。

人間社会は慌ただしく真実が隠れる

この人間社会はとにかく慌ただしいのが特徴です、蜃気楼である人間は何もしないで止まっていると途端に苦痛、退屈、孤独、不足が襲ってきます。この苦しみはこの蜃気楼が独立した別個の存在であるという意識、人間意識が発達ことから生まれました。なぜならばそれは幻想、錯覚だからです。この錯覚は錯覚ゆえにじっとしていると壊れてしまいます。常に対象を見つけ、対象があるから自分もあるという維持機能を発動させなくてはならないのです。自分が居ると錯覚し続けるには常に新たな対象が必要になります、何かを食べているから食べる自分が居る。友人と遊んでいるから自分が居る、称賛を浴びているから自分が居る、喧嘩しているから自分が居ると、、、この自分を維持し続けるには何か対象が必要になります。自転車に乗り続けるには漕ぎ続けなくてならない、、人間であり続けるには動き続ける必要があります。そして動き続ける限り真実が隠れます。

人間が見る夢と、ワンネスが見る夢の違い

人間が見る夢は毎回主人公が違う

私は多分毎晩のように夢を見ていますが毎回のように主人公が違ったりします。ある時は小学校時代の自分、社会人の時の自分、時には全く関係ない架空の人物が主人公だったり、突然芸能人の誰かになり切って主人公を務めたこともありました。毎回のように時代背景、環境、主人公が違うのです。一方ワンネスが見る夢ではいつも同じ主人公です、そう「私」です。朝起きるとしっかりと昨日の続きがスタートします。この夢はその点全くブレることがないのです。

人間が見る夢は突然時代背景がワープする

私が見る夢では、突然時代背景が変わっているなんてことは頻繁にあります。バックto THEヒューチャーではないですがビックリするぐらいに気付くと全く違う時代にワープしています。ところがこのワンネスが見る夢はそのような誤作動が起きません。突然江戸時代や、明治時代、戦国時代にシフトすることがないのです。だからこそ夢を夢と見破ることができないのです。こんな正確無比な夢は見破るのは基本不可能です。

光が鍵を握る

私が毎晩見ている夢の構成粒子は何なんでしょうか?夢の構成物質は何でできているのでしょうか。私はおそらく光ではないかと思っています。もしくは電気信号ですね。脳内の電気信号ということになります。物理学上は。ではこのワンネスが見ている夢の抗生物質は何でしょうか。素粒子、原子、物理学上はそうなります、量子、、私は光だと思っています。光があらゆる形状を作りこの幻想、緻密な蜃気楼を作り出していると考えます。人間の体の臓器を表す漢字は全て月偏、肉月でできています。胃、腸、胴体、脳、皮膚、肩、、、月という字が入るのです。月とは人間から見たらあれは太陽の光です、我々が見ている月とは土の部分ではなくその土に当たった太陽の光を見ています。これは人間の体も同じ、実在しているよでいて実は光を見ているというワンネスのヒントです。目の前にいる友人の体は何かしらの光です。これはあなたが見る夢の中の登場人物も同じです。

蜃気楼は確実に見える、だが実在はない

ハッキリと見えるのに実在しない

人間は視覚を誤解しています。蜃気楼はその良い例で確実に見えるにも関わらずその場所に行くと何もありません。蜃気楼は光と気温などが原因で発生するようですがこの事実を甘く見ています。今人間が見ている世界がもしも蜃気楼のようなものだったら、、確実に触れる、、だから実在するも間違い。確実に匂いがする、、だから実在するも間違い。確実に聞こえる、、、だから実在するも間違い。五感で確実に感じるものは実在すると言うのであれば蜃気楼の説明がつきません。我々が見ている世界、触っている世界、嗅いでいる世界、聞いている世界、、これらは五感が確実に認知しているから存在していると言うのは乱暴な考え方です。

見えるし、触れるし、聞こえるし、温度もある、、だから実在するはおかしい

五感が確実に感じることは実在すると言う考え方は乱暴な考え方です。視覚で感じても実在しないがあるわけですから五感全部で感じても実在しないはあり得るわけです。我々は五感で感じれるものは実在すると言う大前提で理論を組み立てていきますがこの理論は稚拙すぎるのです。マトリックスでも有名なセリフ「五感で感じることが本当だと思うならそれは嘘だ、脳の電気信号にすぎない」まあこれはその通りです。五感とは脳の電気信号ですからここを操作すれば人間は何でも実在していると錯覚できるのです。これが夢だということを否定できない事実です。全てがより緻密な蜃気楼だったら、、、あなたの友人も親もパートナーも会社の同僚も触って喋って、匂えるような蜃気楼だったら、、あなたはこれを実在すると必ず錯覚するはずです。

昨日見た夢を思い出してください

あなたが毎晩見る夢で、、もしも高級フレンチに行ったならばそこでは心地よい音楽、舌触りの良いステーキ、深みのあるスープ、香りの良いワイン、、全てを感じるはずです。夢の中なのに五感全部でフレンチを楽しむはずです。もしも夢の中で極寒のシベリア探検隊に派遣されたならば、そこでの猛吹雪、肌を凍らすような気温、空腹感、暗さ、、全ての五感を通じて厳しいさを味わうはずです。人間が見る夢ですらここまでリアルに味わうことができます。これがワンネス、大いなる一つが見る夢だったらそれ以上のリアリティーある夢を創造できないはずがありません。人間という登場人物が見破れるような夢であるはずがありません。