全員が「その人にはその人の人生がある」と思っている

その人の人生はない

自分には自分の人生があり、AさんにはAさんの人生があって、BさんにはBさんの人生がある、、、人類80億人には80億通りの人生が在ると思い込んでいます。ですが少なくとも「自分」が見ている世界においては「自分」以外の人生は存在しません。「自分」が見ている世界においてはAさんはAという画像だけです、画像の人生など在るわけがないのです。「自分」が見ている世界においてはBさんは画像の一部であって、「自分」が見ていないところでBさんの人生が在ることはないのです。

そして自分も画像だった

ここから本番ですが、、そしてこの「自分」の体も映像です、五感を使って認識できる蜃気楼です。蜃気楼ですから中身は絶対にないのです。視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚を使って感じることができる蜃気楼です。蜃気楼ですからその中に「自分」も当然存在できないのです。いやそんなことはない今日も朝から晩まで思考が湧き続けている、、そうです思考が湧き続けているだけです、、この蜃気楼の中で。思考が湧き続けているだけであって「自分」という独立した何かは存在しえないわけです。在るとすれば自分が居るという思考、感覚です。

自分も心綺楼、相手も心綺楼ならば

この世界では視覚だけで認識できて実際に行ってみたら認識できないものを心綺楼と言いますが、私の体も友人の体も五感だけで認識できて実際には実在していない蜃気楼完全版なのです。目の前には蜃気楼完全版が次々に登場しこの人生を彩っているのです、そしてこの「私」も蜃気楼完全版だったわけですからもう「私」の人生を深刻に歩んでいくことはできないのです。これからも蜃気楼完全版としての「私」の体が在り続けますし思考も湧き続けます。ですが今までのように大深刻には生きることはできないのです。

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