至福

生命の全記憶があるDNAが、思考の中で生きることに矛盾がある

細胞の一つ一つに全記憶がある

我々の細胞の中にあるDNAには生命の全記憶が蓄積されています。全部を知っているそのDNAを我々はこの体の中に所有しています。全記憶があるにも関わらず我々は完全なる無知として生きています。そしてこの体、思考、感情を自分自身であると錯覚して生きるという大いなる矛盾を抱えた生命なのです。全記憶を持った細胞を寄せ集めてこの体は出来ますが思考はこの体、思考、感情だけが自分自身であると錯覚しています。ダイアモンドで構築された宝石にも関わらず思考が私はガラスだと思い込んでいるような状態です。思考がいくら我輩はガラスであると信じてもダイアモンドであるという事実は変わらないので矛盾を抱えます。これが人間の苦しさです。

人間として生きる意味

では人間として生きる意味は何なのか??大きな神が居るならば、人間とは小さな神です。小さな神として我が人生を生きていきます、この人生では自身で決める(錯覚)という自由がありそれを行使していきます。この小さな体での小さな神体験です。神は人間を進化させることでここまで進化しました。この小さな体を使って独自の世界を作り出していきます。価値観がそのまま見える世界になります、そして経験がまたさらなる価値観を作りそれが見える世界に反映します。これを大きな神はやってみたかったということになります。そして本当は大きな神と小さな神には境目は一切なく、、全部が神です。

小さな神は至福には至れない

小さな神には問題点があります、それは小さな神は小さな神のままでは絶対に至福には至れないということです。永遠の幸福を得ることは出来ません、この体、思考、感情を自分と定義している間は、、ですから小さな神の大冒険は最終的に大きな神に吸収されることで決着を迎えるのです。小さな神としてあらゆる経験を積むと大きな神に再吸収されます、それは死ぬ時かもしれません、もしくは生きながらかもしれません。

個人の次元、存在の次元

次元の垣根を越える

覚者はいいます、今ここに全体があると、、目の前に輝くダイアモンドのような全体があると、、ですが人間はそれを聞いても全く意味がわかりません、なぜならば生きている次元が違うからです。同じモノを見ているようで全く違うものを見ているのです。偉大な人のことを称する時に見ている次元が違うと表現したりしますがあれは本質を突いています。自分を生きている人と覚者では生きている次元が違うのです。

個人は全体を解釈した世界に生きている

個人はではどこに居るのか???それは全体の次元から分離錯覚し、価値観というフィルターで装飾した世界に居ます。存在から独立分離したと先ずは自身を切り抜いてみせさらにその切り抜かれた自分が存在を切り抜いたん分離世界に住んでいると錯覚した世界に居ます。全体とは別次元に住んでいる状態です。全体の中で夢を見ている状態です。全体の中で寝ている状態です。

熟睡後は存在の残滓が残る

個人の熟睡とは個人が一時的に解消した状態ですから存在の次元に戻ります、ここは平和、歓喜、安堵の世界です。だからこそ熟睡後には個人はなんとも言えない至福感にしばらくの時間過ごすことができるのです。そして意識がしっかりしてくるとまた存在とは違う次元に戻っていきます、空気が薄く、酸欠状態になる次元です。そこは時に楽しくエキサイティングですが安堵の至福感とは全く違う焦燥感が残る世界です。

独立国家「指」は腕全体の中を彷徨う

指は腕全体の中にあって理由もわからず彷徨う

腕全体から完全独立(錯覚)した指はなぜか焦燥感、孤独感に襲われ動き回るようになります。それが時空間です。時空間とは腕全体なのですが腕全体には指は見えません、、、なぜか独立した指はそこに両眼がありその「両眼」を通じてこの世界(腕全体)を見ることになるのですが本質とは全く異なった世界に写っています、なぜならば指には価値観というものが発達しているのでその価値観を通じた世界しかもう見えないのです。だからこそ目の前にホーム、全体、腕全体があるにも関わらず全くの幻想の世界を歩き回ることになるのです。これが独立国家「指」の地獄のストーリーです。

「指」は朝起きるとなぜかやることが沢山

指は朝起きるとやるべきことが沢山あります、会社に行く、学校にいく、買い物にいく、地域の集会に行く、会合に行く、、、、、ととにかく忙しいのが指の特徴です。ですが冷静に考えるとやるべく事など一切なく、、、腕全体の中で指が動き回るのはおかしな事です。老後の心配、年金問題、就職問題、結婚問題となぜか独立した指には解決すべき問題が恐ろしい勢いで襲ってきます。そもそも独立などしなければこれらの問題は皆無にも関わらずなぜこんな問題を抱えてまで独立したのか?という話です。しかも独立は錯覚です。

腕全体が、、、指体験をしてみたかった

腕全体は腕全体では腕の偉大さ、大きさ、力強さを感じることができません。腕以外の存在があればそれも比較検討できるのですが腕は全体ゆえにそれができません。そこで腕全体は指を形式上完全独立させて指体験を積ませたのです。完全独立と言っても指は構造上指自体では何も動くことはできず、、、決定権も一切ない、、、そこで独立したと錯覚させてその感情を味わい尽くすことにしたのです。人間が最終的に全員が至福に戻るのは、、、人間には何一つ自由意志はなく至福に帰る以外の選択肢がないということです。指が最後には腕全体であったことに気づくように、人間も全体であったということに気づくことになります。

サーフィンをした後にこの世界が輝く

学生時代の不思議な体験

学生時代にサーフィンにハマった理由は、海から上がった後に世界が変わって見えるからです。これは大袈裟な話ではありません、本当に違う世界になっているのです。自分という性格が変わってしまったのかというぐらいに何かが変わっているのです。食事の味、ジュースの味、友人との会話、車から見る世界の輝き、ステレオから流れる音楽、、、全部が何か輝いているのです。学生時代はこの感覚がなぜ起こるのか理解できませんでした。

究極の五感体験

今はその理由が理解できます、サーフィンは海の中でのスポーツなので、、全五感が働きます、全五感を駆使しないとこのスポーツはできません、そのため五感の働きがフルスロットルになり、、、思考が入り込んでこないのです。ですから海から上がった後も五感がフル回転になり思考を抑えることができたのです。何もしていないのに幸福、この感覚は思考の湧き出しを抑えた結果だったのです。五感が研ぎ澄まされていると、、今に強制的に入れるので思考が湧いてこないということです。今とは非二元、至福の世界です。思考は幻想の世界です。

究極の五感体験を日常で作る

サーフィンで学んだこの究極の五感体験を日常生活で入れれば今日から非二元に入れます。ではどうするか??五感の感覚に集中するのです、コーヒーの味、香り、温度、、そこから思考に入りません。音楽の音色、リズム、パワー、そこから思考に入らない、、、全部が全部その調子、、、五感の感覚から思考に入らない、、、これを習慣化していきますと五感全開に。思考のトリック、思考トリップに入らなくて済みます。五感全開世界は、今全開世界、今全開世界は非二元全開世界、非二元全開世界は平和、歓喜、安堵全開世界です。

思考を放置するためには勝手に湧いたことを理解する

思考は勝手に湧く

もしも思考を自分が作り出したならばそれに注力しそこから思考を広げるのも一つでしょう。ですが実際には思考は勝手に湧いてきています、「私」の責任ではなく勝手に湧いてきている、、、ですからその湧いてきた思考に注力する必要はないのです。その思考を大切にしてそこから広げる必要はありません。ただ放置するだけで勝手に消えていきます。

思考は勝手に湧いて勝手に消える

思考は勝手に湧いて勝手に消えます、それにこの「自分」が注力するとそこから思考に取り込まれていきます。ですからここは意識的に放置です、思考を放置することで消えるのを待ちます。絶対的意識でこの思考を放置するのです、そこから思考に取り込まれないように意識します。すると五感に注力できます、見えるもの、聞こえる音、触った感触と体で感じる五感に神経を集中できるのです、そこが今です。そこが非二元です、そこがワンネスです。非二元とは遠いどこかにあるのではなく今ここにあります。

今ここで至福に至れるのに何を求めるか?

体の感覚、五感に意識を向ければ今ここで非二元、ワンネス、至福に入れます。にも関わらず何を求めるのでしょう、人間は今ここから悟りに入れます、思考の乗っ取りに邪魔されなければ人間は今にあるしかできません。今とは非二元、全存在、悟りのことです。こんな簡単に無心、無我に入れるのですからもう何かを貪る必要はありません。

思考を意識して放置する、思考は無意識だと取り込まれる

思考が湧いてきたら意識して放置してみる

ニュース番組を観ればあらゆる思考が湧いてきます、、、この瞬間に無意識にしているとそのまま思考に取り込まれていきます。今日友人と会うという約束をする、、、するとあらゆる思考が湧いてきます、服装をどうするか?時間は守れるか?どこで食事をしよう、、、、そこから思考に取り込まれていきます。これが思考に対し無意識の状態です。非常に苦しい状態です。なぜならば今こそが至福、歓喜、平和であって、、思考の場所はそこから離れた場所、過去、未来です。

思考に対し常に意識的であれ

思考というものを我々は無条件で受け入れています、思考が湧くことを悪いことだと思っていません。勿論思考=悪ではない、、、ですが思考に取り込まれると苦しいのは事実です。なぜならば今、非二元、全体から離れるから。そこで思考に対し意識的になってみます、思考が湧いたら意識的に放置します。これを何度も何度も行っていきます。もう思考の無意識取り込みには絶対に付き合わないと決めます。

今とは平和、歓喜、安堵

今にある時、、、平和、歓喜、安堵が襲ってきます。今とは無我、無心のこと、、、そこは神が住む場所、全体が全体である場所です。そこに意識的に入り込みます、、、無心、無我、神に意識的に入っていきます。思考を意識的に放置して無心、無我に意識的に入ります。五感の経験に意識することそこは今、無心、無我です。五感とは体の感覚であり、体は今にしか存在できません。

神はなぜ自殺者が出るような人間体験をするのか?

神は一体何をしたいのか??

人間というのは不思議な動物でこの体を生き伸ばすためだったらなんでもやります。他の動植物を乱獲してまで自らを生き伸ばせようとします。その一方で自殺者が世界中で年間何十万人とでます。何がなんでも生き延びようとする一方で自ら命を落とすこともします。この矛盾は一体どこからくるのでしょうか???答えは簡単で、、人間とは他の動植物を乱獲してしまうほどに苦しい生き物だということです。人間の飽くなき欲求とはその土台に圧倒的な苦しさがあるのです。この苦しさこそが動植物の乱獲や地球破壊、そして自らの破壊につながるのです。

なぜ人間はここまで苦しい生き物なのか??

人間だけが個別意識を持ちます、人間だけが分離した世界を生きているという錯覚を起こすことができるのです。結果頼れるのは自分自身だけという、、、このドライな生き方になってしまうということです。ではなぜ人間には個別意識があるかと言えば、、、それは神が人間に完全になり切ることができているからです、神は人間という高度に発達した体、脳を所有する存在に意識をフォーカスすることができます。これによって神は初めて不幸、苦しみ、孤独、焦燥感、居心地の悪さを経験することに成功したのです。人間ほど神の壮大さ、偉大さ、深さを感じることができる存在はいない、、一方で人間ほど自身の弱さ、小ささ、浅さを痛感する存在もいないのです。これを神は経験してみたかったということになります。

腹を決めて悟りを開く

人間とはここまで苦しい生き物ならば、、もう至福を求めて生きるのは辞めた方がいい、、、むしろ最初からそこは貪るのは辞めて、、、悟りを開く以外に至福には至れないことを腹落ちさせるべきです。神がコンフォートゾーンを人間にシフトして生きている以上、、この苦しみ、居心地の悪さは解消できないものだと、、、腹を括るのです。そしてこの苦しみを終わらせるならば解脱、神へのコンフォートゾーンのシフト、悟りしかありません。

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。

先ずは空を知る、次に色の素晴らしさに目覚める

空を知って驚き、色の素晴らしさを再認識する

人はこの世の真実を知ったときに驚きます、実はこの世は空の現れで見える世界は空が色として現れているだけ。本質は空である、、だから実は何もないということを知ります。この衝撃は凄まじくこれまで超現実と思っていたこの視界が実は空の現れであるということです。何もない、、、ただそれを在るように見えているだけ。ということになります。

実は何もない、、、からの

究極を言ってしまえばこの世は無です。何一つ実態のないものの現れです、ですから我々のこの経験も体も思考も感情も何もかもが実態のないものから生まれてきているのです。この事実を知ることは虚無感の創出につながります。ですがよく考えてみれば実態のない世界に我々はいるにも関わらずとんでもない喜怒哀楽のドラマが日々繰り広げられているのは事実でありこれは虚無とは全く違います。

改めて色の織りなす世界の脅威に驚く

この世界は空から創出さているとしてこの色はその創造物ということになります。この色の創造物は凄まじくとんでもなくリアリティーがあります。実際には何一つ分離しているものはないのですがこの色の世界では各々が自由に動き回るのでそう見えます、完全に分離しているようにハッキリと見えます。だからこそこの分離世界を堪能できるわけです、ですがこの分離世界に分離体としてどっぷり浸かっていますと中々疲れるということになります。なぜならば全く分離していないにも関わらず分離しているという大いなる勘違いをしながら生きるからです。この居心地の悪さは無我を知れば知るほどに無視できなくなるのです。だから人はどこかのタイミングで色の幻想に興味を失い本質を知ることに興味が湧きます。色の世界での分離体験では本当の至福、歓喜、安堵にはたどり着かないことを知っているからです。

無我を知れば知るほどに、、、自我に興味が無くなる

実はこの世界ではどこからでも無我に入れます、無我とは歓喜、平和そのものでありこの状態を知りますと人間関係、社会関係など色の世界に対する興味が失せていきます。なぜならばその世界の中を放浪しても本当の平和が存在しないことを知っているからです。ですがそうなってしまうとなぜこの色の世界があるのか?そもそも平和が無いならば色の存在理由は何なのか?ということになるのです。実はこの色の世界は空を知ることで逆に面白くなります、本当の自分として再びこの色の世界を遊び倒すことができるようになります。本当の自分がやりたいこと、情熱を傾けれることにこの体が使われるという主従関係の逆転が生まれるのです。

目的のために手段選ばずの末路

将来あの家が欲しい

将来あの家が欲しい、あの家を手に入れたらば幸福になれるはずだ、、多くの方は考えそのために10年間我慢して仕事を頑張ろうとします。その10年間はとにかく我慢、ストレスに耐えながらでも生きていこう、、こうなります。ですがこれは間違った考え方です。もしもそれでその家を手に入れても満足できるのは一瞬、次の瞬間からまた欠乏感が押し寄せてきます。

手段の中に既に目的がある

実はこの手段の中に目的が内包されています。手段から実は目的に入ることができます。例えば家のために仕事をするとしてその仕事に集中できるのであればそのまま幸福になれてしまいます。集中とは無心になって行えること、無心、無思考、無我になって行えるとき、、、そのまま平和、歓喜、幸福になってしまいます。そうです今瞬間に家を手に入れたら獲れるはずであったものが手に入ってしまうのです。感情、思考と大いなる存在、意識との同一化が解消され分離意識がなくなったとき、人はそのままで至福に入れるのです。

もう家を手に入れる必要がなくなる

多くの方が大きな家を手に入れたくなるのは、、その家を手に入れたならば幸福、歓喜、安堵が手に入ると思っているからです。それは間違いありません、手に入れた瞬間はそうでしょう。ですがその次の日から徐々に感動が薄れていき不足感が湧き出してきます。それはそれこそが思考と同一化した「自分」のメカニズムだからです。そうではなく思考、感情との同一化から離れ全き意識、全体、気づきの意識に今なることで至福、歓喜、安堵を感じれるようになります。全仕事、全作業、全日常行為に集中して入ることでその場で歓喜、平和、安堵を感じれるようになるのです。そのときもう手に入れるべき家のことを忘れます。